第93話 ここから来た
還しの楔が、沈んだ。
黒い鉄を打った音が、足元へ落ちていく。
深く。
さらに深く。
やがて聞こえなくなった。
誰も動かなかった。
ガルドは鉄棒を握ったまま、楔を見ている。
トトは木片を胸元へ引き寄せていた。
アリアの右手から落ちた血が、黒い鉄の上を伝っている。
クロも息を潜めていた。
白い心臓は、止まっている。
都へ伸びていた二本の脈も、引き絞られた形のまま動かない。
根の先にいた六本指たちは、一斉に顔を上げていた。
地下から、すべての音が消えている。
長い静寂だった。
ほんの数秒だったのかもしれない。
それでも伊織には、一つの街が滅びるには十分な時間に思えた。
「……外したか」
ガルドが言った。
誰も答えなかった。
アリアが楔へ触れる。
指先が震えている。
黒い鉄は、半分ほどしか沈んでいなかった。
「まだです」
声が掠れた。
「届いていません」
その直後だった。
どん。
心臓が脈打った。
空洞全体が沈む。
伊織の膝が揺れた。
白い表面から光が走り、楔の周囲へ刻まれた銀線を満たしていく。
一本。
また一本。
砕けた床を越え、壁を這い、天井へ昇る。
途切れていた古い線が、暗闇の中で次々と目を覚ました。
都へ向かっていた二本の脈が止まる。
黒い流れが、苦しむように膨らんだ。
どこか遠くで鉄が軋む。
次の瞬間、一本目の脈が引き戻された。
黒い波が床を走り、白い心臓へ吸い込まれていく。
遅れて二本目も戻った。
保守路の奥から、何かが裂ける音が届く。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
固定鋲だ。
都へ脈を縫い留めていた鉄が、折れた。
心臓が再び鳴る。
どん。
先ほどより弱い。
長い間を置き、もう一度。
どん。
白い表面の歪みは戻らない。
銀線の光も、楔の手前でいくつか途切れていた。
「足りない」
アリアが言った。
声は小さかったが、迷いはなかった。
「もう一度、打たなければ」
ガルドが鉄棒を持ち上げようとする。
腕が震えた。
柄が床へ落ちる。
「くそ……」
右手首が腫れていた。
先ほどの一撃で、指もまともに動かない。
「貸せ」
伊織が言った。
ガルドが顔を上げる。
「お前、自分の腕を見ろ」
左腕は垂れたままだった。
右手も血に濡れ、指が閉じ切らない。
「見えてる」
「なら分かるだろ」
「分かった上で言ってる」
「握れねえぞ」
伊織は答えず、鉄棒へ手を伸ばした。
柄を掴む。
指に力を入れる。
鉄棒は数寸浮き、すぐに滑った。
床へ落ちる前に、横から手が添えられた。
アリアだった。
「私が持ちます」
右腕の傷が開き、袖へ赤い色が広がっている。
「お前も握れてない」
「伊織さんよりは」
「比べる相手が悪い」
「同感です」
アリアは鉄棒を離さなかった。
ガルドが息を吐き、柄の下へ手を入れる。
「三人でやるぞ」
伊織は頷いた。
鉄棒を持ち上げる。
一人では上がらない。
二人でも足りない。
三人の力が重なり、ようやく肩の高さまで上がった。
「待って」
トトが木片を取り出した。
指の背で軽く打つ。
こん。
返ってくる。
どん。
遅い。
もう一度。
こん。
どん。
僅かに近づく。
トトは目を閉じた。
空洞を満たす音へ耳を澄ませる。
心臓が膨らむ。
縮む。
また膨らむ。
その途中で、木片を打った。
こん。
返る音が重なる直前。
「今」
三人で鉄棒を振り下ろした。
力任せではない。
トトが拾った鼓動へ合わせる。
黒い鉄の一点へ、三人分の重さが落ちた。
ごん。
楔が沈む。
残っていた頭が、白い表面と同じ高さになる。
銀線が繋がった。
楔を中心に幾重もの光が広がり、空洞の隅々へ走っていく。
六本指たちが一斉に膝をついた。
服従ではない。
押し寄せた音へ、身体を支えられなくなっただけだった。
白い心臓が大きく膨らむ。
どん。
これまでとは違う鼓動だった。
歪んだ圧力が消えている。
都へ奪われる音でもない。
誰かへ命令する音でもない。
ただ、生きているものの音だった。
どん。
一定の間を置く。
どん。
黒い根が、同じ間隔で脈打ち始める。
「戻った……」
ガルドが鉄棒から手を離した。
伊織も手を放す。
鉄棒が床へ落ちた。
その音を追うように、白い心臓へ細い亀裂が走った。
アリアが息を止める。
亀裂は縦に伸び、ゆっくりと左右へ開いていく。
中に血はなかった。
肉もない。
暗闇だけがあった。
その奥から、音が聞こえた。
こん。
槌の音だった。
アリアの肩が揺れる。
もう一度。
こん。
「……父さん」
返事はない。
裂け目の奥へ、淡い光が浮かぶ。
地下の工房。
煤けた壁。
使い込まれた炉。
床に置かれた槌。
その前へ、一人の男が座っている。
背中しか見えない。
片方の袖が焼け、立ち上がる時に右足を僅かに引きずった。
アリアが一歩踏み出す。
男は振り返らない。
石壁へ槌を当てる。
こん。
待つ。
遠くから、小さな音が返る。
かち。
工房の隅に、白い影が立っていた。
子供ほどの六本指。
透明な玉が男を見つめている。
男が壁を打つ。
こん。
六本指が床を打つ。
かち。
言葉はない。
それでも、二つの音は交互に続いた。
男は槌を置いた。
掌を開く。
その上に、小さな金具があった。
アリアが首元を押さえる。
同じ形の留め具。
父の靴に使われていたもの。
男は金具を見つめた。
胸元へしまいかけ、やめる。
小さな六本指へ差し出した。
六本の指が、それを受け取る。
映像が揺れた。
「待って」
アリアの声が漏れる。
男が槌を拾う。
工房の奥へ向かう。
「父さん」
振り返らない。
「待ってください」
右足を引きずりながら、暗い通路へ入っていく。
アリアが裂け目へ手を伸ばす。
「どうして」
指先は光を掴めない。
「どうして、帰ってこなかったのですか」
背中が遠ざかる。
「私が待っていると、知っていたでしょう」
男は止まらない。
「何年待ったと思っているのですか」
声が震えた。
「帰ってくると、ずっと……」
言葉が続かなかった。
アリアは歯を食いしばる。
それでも目を逸らさない。
「一度くらい、振り返ってください」
男の背中が、暗闇へ溶けていく。
「私を見てください」
返事はない。
槌が一度だけ鳴った。
こん。
それきりだった。
工房も、白い影も、光の中へ崩れていく。
最後に石壁だけが残った。
そこへ、細い文字が刻まれている。
――聞こえているなら、打つな。
次の鼓動で、その文字も消えた。
裂け目が閉じ始める。
「待って」
アリアが手を伸ばす。
細くなった光が、指先を照らす。
「まだ、何も聞いていません」
光は閉じていく。
「私は、まだ――」
言葉が止まる。
違う。
聞きたいことが残っているのではない。
父から聞きたかった言葉は、最初から一つだった。
帰ってきた。
ただいま。
それだけでよかった。
だが、男は最後まで戻らなかった。
裂け目が閉じた。
白い心臓だけが残る。
どん。
どん。
規則正しい鼓動が、地下へ広がっていく。
アリアは閉じた表面を見ていた。
頬を伝った涙が顎から落ちる。
「……分かりません」
誰へ向けるでもなく言った。
「父が何を守ろうとしたのか」
首元の留め具を握る。
「なぜ帰らなかったのか」
指が白くなる。
「帰れなかったのか。帰らなかったのか。それさえ分からない」
伊織は隣に立っていた。
慰めなかった。
理由を作らなかった。
あの男はお前を愛していた。
帰ろうとしていた。
仕方がなかった。
どの言葉も、今ここにいる人間が決めていいことではない。
「私を捨てたのでしょうか」
アリアが尋ねた。
伊織は閉じた裂け目を見る。
「分からない」
アリアの顔が歪む。
「そう、ですよね」
「ただ」
伊織は首元の金具へ目を向けた。
「忘れた奴が、最後まで持って歩く物じゃない」
アリアの指が止まる。
「それだけだ」
理由にはならない。
許す根拠にもならない。
それでも、何も残っていなかったわけではない。
アリアは目を閉じた。
長く息を吐く。
「父を、許せる日は来ないかもしれません」
声はまだ震えていた。
「私より、この場所を選んだことを」
再び目を開く。
「帰らなかったことを」
白い心臓を見上げる。
「でも」
涙を手の甲で拭った。
「父がここで残したものまで、憎みたくありません」
伊織は何も言わない。
「正しかったとは思いません」
アリアは続ける。
「仕方がなかったとも思いません」
一つずつ、自分の言葉で選び取っていく。
「ただ、父がいたことも。私が待っていたことも。どちらも、なかったことにはしません」
留め具を胸元へ戻す。
「分からないまま、覚えていきます」
白い心臓が脈打つ。
どん。
アリアは目を閉じなかった。
「そして」
小さく息を吸う。
「もう、待ちません」
その言葉だけが、地下のどこまでも届いた。
父へではない。
自分へ向けた言葉だった。
返事はなかった。
それでよかった。
◇
六本指たちが立ち上がる。
一体ずつ、心臓から離れていく。
透明な玉の奥に、白い光が映っていた。
こちらへ襲いかかる者はいない。
礼を示す者もいない。
味方になったわけではなかった。
ただ、楔へ伸ばしていた腕を下ろした。
トトは木片へ指を添える。
叩かなかった。
「聞かないのか」
ガルドが尋ねた。
「今は、向こうも話したくない」
「分かるのか」
「分からない」
トトは木片を懐へしまう。
「でも、今は打たない方がいい」
空洞の奥で、黒い根が動いた。
壁から離れ、ゆっくりと位置を変えていく。
橋の残骸へ何本もの根が絡み、崩れた箇所を支えた。
道を作ったようにも見える。
戻った脈が、本来の場所へ戻ろうとしているだけにも見えた。
六本指たちはこちらを見ない。
伊織は理由を考えるのをやめた。
「渡れるな」
ガルドが言った。
「たぶんな」
「落ちたら」
「その時考えろ」
「お前、本当にそればっかりだな」
「生きてるだろ」
「今のところはな」
伊織が歩き出す。
左腕は動かない。
右手もまともに使えない。
一歩ごとに膝が揺れた。
アリアが横へ並ぶ。
支えようとした手を、伊織は一度避ける。
二歩目で身体が傾いた。
アリアが無言で肩を入れる。
「何も言うな」
「言っていません」
「顔が言ってる」
「伊織さんほどではありません」
「今日はそればかりだな」
「事実ですから」
クロが先を歩く。
消えかけた黒鋼灯が、足元だけを照らしている。
小さな光だった。
だが、帰り道を見るには十分だった。
◇
対岸の保守路には、技術局の兵たちが倒れていた。
呻き声が聞こえる。
誰も立ち上がれない。
砕けた鉄杖や銀板が床へ散らばっている。
ヴォルフは壁際へ座り、自分の袖を裂いて腕へ巻いていた。
伊織を見るなり、眉を寄せる。
「遅い」
「帰ってたのか」
「誰のせいで残ってると思ってる」
「自分の判断だろ」
「そういうところだぞ、お前は」
ヴォルフは立ち上がろうとして、顔を歪めた。
ガルドが肩を貸す。
「借り一つだ」
「お前まで言うのか」
「返済先が増えてよかったな」
保守路の奥に、白い外套が見えた。
バルザックだった。
銀板は中央から割れ、片側が焼け落ちている。
壁へ背を預けて座っていた。
伊織たちが近づくと、片目を開く。
「心臓を還したか」
「ああ」
「その代わり、都の脈炉が止まる」
「全部は止まらない」
アリアが答えた。
「固定鋲で奪っていた分だけです」
「不足すれば同じことだ」
バルザックは笑った。
疲れ切った、乾いた笑いだった。
「灯りが消える。炉が冷える。水が止まる。最初に死ぬのは、ここを見たこともない者たちだ」
「だから奪っていいのか」
アリアが尋ねる。
「救える方を救う」
「救われる側に、何を使っているか知らせずに?」
「知れば何が変わる」
「選べます」
「選ばせれば、国は止まる」
バルザックはアリアを見上げる。
「人は、自分が使う熱の下に何が埋まっているかなど知りたくない」
「あなたが決めることではありません」
「決める者が必要だ」
「それがあなたですか」
「他に誰がいる」
アリアは答えなかった。
伊織が一歩前へ出る。
「自分で国を背負ったつもりになるのは勝手だ」
バルザックの目が向く。
「だが、下にいる奴を数から消すな」
「理想論だ」
「そうかもな」
「今日、心臓を救ったことで、地上の誰かが死ぬ」
「なら、死なせない方法を探せ」
「できなければ」
「それでも探せ」
「答えになっていない」
「現場の答えは、いつも後から作る」
バルザックは黙った。
伊織も、それ以上は言わない。
男の言う危機が嘘ではないことは分かっている。
心臓を還せば、都の供給は減る。
この先、何も起きないはずがない。
「終わっていない」
バルザックが言った。
「ああ」
「私は、国を止めない」
「好きにしろ」
「次も私を止めるか」
伊織は男を見る。
「同じことをするならな」
バルザックの口元が僅かに動く。
「お前たちは、心臓を救った」
立ち上がろうとし、壁へ手をつく。
「私は国を救う」
伊織は肩をすくめた。
「なら次は、どっちも壊さずにやれ」
バルザックの表情から笑みが消える。
返事はなかった。
伊織は背を向ける。
アリアが振り返る。
「歩けますか」
「敵を助けるのか」
「ここへ置いていく理由がありません」
「私が再びあなたたちの敵になっても?」
「その時は、その時です」
アリアは先ほど伊織が言ったのと同じ言葉を使った。
伊織は何も言わない。
バルザックはしばらく彼女を見ていた。
やがて、砕けた銀板を捨てた。
自分の足で立ち上がる。
◇
保守路を戻る。
地下の揺れは収まっていた。
黒い液体の流出も止まっている。
砂へ変わった床。
溶けた鉄格子。
崩れた壁。
失われたものは戻らない。
その中を、銀線だけが静かに光っていた。
三叉路で、アリアが足を止める。
壁に槌跡が残っていた。
一つ。
二つ。
少し離れて、三つ。
父が残した音。
アリアは指先で触れる。
「槌を持って帰るか」
伊織が尋ねた。
工房へ戻れば、まだ残っているかもしれない。
アリアは槌跡を見た。
それから、首元の留め具へ触れる。
「置いていきます」
「いいのか」
「はい」
「父親の物だろ」
「だからです」
アリアは壁から手を離した。
「あの槌は、父がここで使った物です」
暗い通路の奥を見る。
「持ち帰れば、また私は答えを探します」
「それじゃ駄目か」
「駄目ではありません」
僅かに笑う。
「でも、もう十分です」
槌跡へ背を向ける。
「私が持って帰るのは、これだけにします」
胸元の金具を指先で押さえる。
「それに」
前を向く。
「槌を持たなくても、音は覚えています」
伊織は頷いた。
「そうか」
アリアは歩き出す。
今度は、自分から先へ進んだ。
◇
坑道の出口を抜けると、夜の匂いがした。
冷たい風が傷へ触れる。
東の空が白み始めていた。
地面へ座っていたハーゲンが、槌を杖に立ち上がる。
最初にクロを見る。
次にトト。
ガルド。
ヴォルフ。
伊織。
最後にアリアへ目を止めた。
首元の留め具を見て、何かを察したようだった。
「会えたか」
アリアは坑道を振り返る。
少しだけ考え、首を横へ振った。
「いいえ」
ハーゲンの目が伏せられる。
「そうか」
「でも」
アリアは続けた。
「父がいた場所へは、行けました」
ハーゲンは顔を上げる。
「何か残っていたか」
「音が」
「音?」
「槌の音です」
ハーゲンはしばらく黙っていた。
手にした自分の槌を見る。
それから、小さく頷いた。
「あいつらしい」
アリアは笑わなかった。
「そうでしょうか」
「ああ」
ハーゲンの声は掠れていた。
「言葉にすると、いつも間違える男だった」
山の向こうから光が差す。
朝日が坑道の入口を照らした。
暗闇が少しずつ後ろへ退いていく。
「戻るぞ」
ハーゲンが言った。
アリアは答えようとして、止まった。
「戻る」
その言葉を、口の中で確かめる。
坑道を見る。
父が消えた場所。
ずっと自分を縛っていた場所。
そして、自分の意思で訪れ、自分の手で楔を打った場所。
アリアは首を振った。
「いいえ」
全員が彼女を見る。
「戻ったのではありません」
朝の道へ目を向ける。
赤猫亭のある方角。
守ると決めた食堂。
待っている者たち。
自分が帰ると選んだ場所。
「私は、ここから来ました」
風が吹いた。
薄紫の瞳には、まだ涙の跡が残っている。
それでも、その目は前を向いていた。
伊織はアリアを見る。
何かを言いかけ、やめる。
代わりに、短く頷いた。
「そうか」
クロが一足先に歩き出した。
黒鋼灯は小さい。
朝の光の中では、もう必要のない灯りだった。
トトが続く。
ガルドが腹を押さえる。
「帰ったら、何か食わせてもらえるよな」
「その前に治療だ」
ヴォルフが言う。
「治療は腹に入らねえ」
「お前はそれで一度死にかけろ」
「一度で済むか?」
「済ませろ」
二人の声が、朝の道へ流れていく。
アリアが伊織の隣へ並ぶ。
「歩けますか」
「誰に聞いてる」
「歩けない人です」
「なら聞くな」
数歩進んだところで、伊織の膝が揺れた。
アリアが肩を貸す。
今度は避けなかった。
「腹が減った」
伊織が言った。
アリアが少しだけ目を見開く。
それから、泣いた後の顔で笑った。
「帰りましょう」
「ああ」
朝日が山を越える。
長い影が、帰る場所へ向かって伸びていく。
地下では、白い心臓が変わらず鼓動を刻んでいた。
どん。
どん。
もう誰かを縛る音ではない。
誰かへ帰れと命じる音でもない。
ただ、ここに生きているものの音だった。
アリアは一度も振り返らなかった。
伊織も振り返らない。
誰も、もう振り返らなかった。




