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第92話 最後の一歩

 最初に動いたのは、六本指ではなかった。


 石橋だった。


 低い軋みが足元を走り、中央に細い亀裂が開く。砕けた石片は音もなく落ち、白い鼓動の下へ吸い込まれていった。


「走るな」


 伊織が言う。


 ガルドは革袋を背負ったまま、片足を引いた。


「止まってても落ちるぞ」


「重さを散らせ」


 全員が橋の縁へ身体を寄せる。


 橋の幅は二人分もない。左には底の見えない闇。右には、白い塊から垂れ下がる黒い根が何千本も揺れている。


 橋の先では、六本指の群れが動かなかった。


 透明な玉のすべてが、ガルドの背へ向いている。


 人ではない。


 革袋の中にあるものを見ていた。


 還しの楔。


 背後では、技術部の兵が保守路から現れ始めている。


 白い外套。


 細身の鉄杖。


 杖の先には青白い光が集まっていた。


 前には六本指。


 後ろには技術部。


 その間に、崩れかけた一本の橋。


 伊織は警棒を下げたまま、両方を見た。


「トト」


「うん」


「音だけ言え。意味は決めるな」


 トトは木片へ手を添えた。


 叩かない。


 ただ、伝わってくる振動を指先で拾う。


「六本指は、揃ってない」


「何がだ」


「鳴る間が違う。前の子たちと、奥の子たちで」


 橋に近い六本指は、白い鼓動と同じ間隔で身体を震わせている。


 その奥にいる個体は、少し遅い。


 さらに遠い群れは、動きそのものが揃っていなかった。


「一つじゃないのか」


 ヴォルフが言う。


「分からない。でも、同じ音じゃない」


 伊織は橋の先を見る。


 群れに統一された意志があるとは限らない。


 楔へ反応している理由も、すべて同じとは限らなかった。


「撃て!」


 背後で声が上がる。


 青白い射線が通路から走った。


 狙いはガルドの背中。


 伊織は身体を割り込ませ、警棒で鉄杖の光を払う。


 金属同士が触れた瞬間、左肩の奥で何かが裂けた。


 腕が沈む。


 射線は逸れ、石橋の縁を削った。


 亀裂が一気に伸びる。


「橋を撃つな!」


 別の声が飛んだ。


 白い外套の男が兵を押し退けて前へ出る。


 痩せた顔。


 髪は短く刈り込まれ、左目に銀色の板を当てている。


 手には武器を持っていなかった。


「還しの楔を渡せ」


 声に焦りはない。


「それは心臓を壊す」


「固定鋲を打ったのはお前たちだな」


 伊織が問う。


「方向を正しただけだ」


「都へ引いている」


「都が必要としている」


 白い塊が脈打つ。


 二本の流れが側面を引き、表面が大きく歪んだ。


 戻るまでに、今までより長い時間がかかった。


「これを殺してか」


「物に生死はない」


 男は心臓を見ない。


 ガルドの革袋だけを見ている。


「地下の脈は人が使うためにある。都市を保たせるために配分する。それが管理だ」


「戻せなくなってもか」


「戻す必要はない」


 アリアの表情が変わった。


「固定鋲は脈を留める道具ではありません」


「知っている」


「では、なぜ」


「流れ続ければいい」


 男は平然と言った。


「心臓が保たなくても、都が次の器を作る時間は稼げる」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 白い塊がもう一度脈打つ。


 今度は片側が戻り切らない。


 黒い根の一本が裂け、黒い液体が空洞へ散った。触れた石の突起が輪郭を失い、砂となって落ちる。


「次の器?」


 アリアが聞く。


「人工脈炉だ」


「完成していない」


「完成させる」


「その前に、ここが崩れます」


「地下が失われるだけだ」


 アリアの右手が震えた。


 怒りではない。


 剣を握ろうとして、そこにないことを思い出した手だった。


 伊織は一歩前へ出る。


「名前は」


 白い外套の男が僅かに眉を動かした。


「何のために聞く」


「お前を止めた者が覚えておく」


「バルザック。技術局脈動管理部、第一監査官」


「長いな」


 ガルドが言った。


「バルザックで十分だ」


 伊織は警棒を握り直す。


 右手の指は最後まで閉じない。


 力を込めても、柄が僅かに滑る。


 バルザックはそれを見た。


 左肩の固定帯も。


 伊織が具現を使っていないことも。


「東伊織」


 名前を呼ばれた。


「記録では、もっと危険な男だった」


「記録は便利だな」


「今のお前が、そうでないことも分かる」


 バルザックが右手を上げる。


 背後の兵が鉄杖を構えた。


「楔を置け。抵抗しなければ、全員を地上へ戻す」


「六本指は」


「残す」


「心臓は」


「使い切る」


「なら話は終わりだ」


 伊織が答えた瞬間、三本の射線が走った。



 伊織は一発目だけを見た。


 残りは音で読む。


 正面の射線を警棒で逸らす。


 二発目は身体を沈めてかわす。


 三発目はガルドの足元へ向かっていた。


「右!」


 アリアの声。


 ガルドが革袋を抱えて伏せる。


 射線が橋を抉った。


 石が爆ぜる。


 橋の中央が大きく沈んだ。


「撃つなと言った!」


 バルザックが怒鳴る。


「楔が落ちるぞ!」


 兵たちの動きが止まる。


 その一瞬を、六本指は逃さなかった。


 橋の先にいた一体が腕を伸ばす。


 長い六本の指が石の縁を掴み、白い身体が一気に跳んだ。


 狙ったのは兵ではない。


 鉄杖だった。


 六本の指が杖の先端を包み込む。


 青白い光が暴発した。


 六本指の腕が吹き飛ぶ。


 同時に兵も壁へ叩きつけられた。


 群れが動く。


 橋の先から三体。


 空洞の壁から二体。


 黒い根を渡り、技術部へ向かう。


 だが、すべてではなかった。


 残りの個体は、その場に留まっている。


 透明な玉を革袋へ向けたまま。


「音が割れた!」


 トトが叫ぶ。


「近い子だけ動いてる!」


 六本指同士の足並みは揃っていない。


 技術部へ飛びかかる個体。


 楔を見続ける個体。


 白い心臓へ身体を向ける個体。


 異なる反応が、同時に起きていた。


「橋を渡る!」


 ガルドが叫ぶ。


「まだだ!」


 伊織が止める。


 橋の中央には亀裂が走っている。


 六本指が跳んだ振動で、さらに石が落ちていた。


「このままじゃ後ろから潰される!」


「全員では渡れない」


「なら楔だけでも――」


「一人で持っていける場所じゃない」


 橋の先。


 巨大な打点は、石橋からさらに下にある。


 途中で折れた階段。


 黒い根を束ねた足場。


 楔を運び、位置を定め、打ち込むには複数人が必要だった。


 その間も、白い心臓から二本の流れが引き出され続けている。


 脈打つたび、形が戻らなくなっていた。


「ヴォルフ!」


 伊織が呼ぶ。


「何だ!」


「兵を一歩下げろ!」


「どうやって!」


「橋を落とすと言え!」


 ヴォルフは一瞬だけ伊織を見た。


 すぐに理解する。


 警棒で石橋の縁を強く叩いた。


「下がれ!」


 技術部へ向かって怒鳴る。


「次に撃てば橋を落とす! 楔も一緒にな!」


 兵たちが止まる。


 バルザックの顔から、初めて余裕が消えた。


「できるものか」


「試すか?」


 ヴォルフがもう一度、縁を叩く。


 石が落ちた。


 バルザックが手を上げる。


「射撃を止めろ」


 青白い光が消える。


 六本指との接近戦だけが続いた。


 技術部の兵は鉄杖を短く持ち替え、白い腕を弾いている。


 殺せない。


 橋を巻き込む攻撃もできない。


 伊織たちも渡れない。


 均衡は、長く保たない。



 アリアは橋ではなく、心臓を見ていた。


 正確には、その下にある打点を。


「何かあるのか」


 伊織が聞く。


「銀線が足りません」


「どういう意味だ」


「打点の周りには還しの線があります。でも、途中で切れている」


 白い鼓動が強くなった時だけ、銀線が浮かび上がる。


 打点を囲むように幾重にも走り、石橋の下へ続いていた。


 だが、一本だけ。


 空洞の縁へ向かう途中で途切れている。


「最後の線か」


「分かりません。ただ、空いています」


 アリアは目で線を辿る。


 切れた先は、伊織たちの足元近くまで来ている。


「ここから打点まで、繋がっていない」


「楔を打てば繋がるんじゃないのか」


 ガルドが言う。


「位置を合わせるための線です。これがないと、打つ方向が定まりません」


「作れるか」


「父の槌があれば」


 言った直後、アリアは口を閉じた。


 槌は地下の工房に残した。


 持ち出さなかった。


 選んだのは自分だった。


 後悔するためではない。


 父のやり方をそのままなぞらないために置いてきた。


「違う」


 アリアが言う。


「槌がなくても、線は引けます」


「どうやって」


「音を返す」


 トトが顔を上げる。


「木片で?」


「それだけでは足りない」


 アリアは伊織を見る。


「鋼鉄の具現なら、形ではなく振動を通せますか」


 伊織は答えなかった。


 できる。


 以前なら。


 左肩が動き、右手で支えられたなら。


 今は具現するだけで、左腕が使えなくなる可能性がある。


 それでも一度だけなら。


「どれくらい必要だ」


「線が打点へ届くまで」


「時間で言え」


「十秒」


「長いな」


「短くします」


「何秒だ」


「七秒」


「五秒にしろ」


「できます」


 アリアは迷わなかった。


 伊織も頷く。


「トト」


「うん」


「音は分かるか」


「正しいかは分からない」


「それでいい」


 トトは木片を握る。


「聞こえたものだけ叩く」


「ガルド」


「楔を渡せって言うなよ」


「渡さない。橋の中央まで運べ」


「その先は」


「俺が開ける」


 ガルドが伊織の左肩を見る。


「開くのか」


「必要な分だけだ」


「壊れるぞ」


「右も左も、もう新品じゃない」


「そういう話じゃねえ」


 伊織はガルドの目を見る。


「楔を落とすな」


 ガルドは何かを言いかけた。


 やめる。


「分かった」


 ヴォルフが後方から叫ぶ。


「話は終わったか! こっちは長くないぞ!」


 六本指の一体が兵を橋の縁へ押しつける。


 別の兵が鉄杖を突き刺し、白い胴を貫いた。


 六本指は崩れない。


 傷口から黒い線を伸ばし、杖へ絡みつく。


 青白い光が明滅する。


 バルザックが伊織たちを見た。


「何をする気だ」


「管理されないことをする」


 伊織が答える。


「止めろ!」


 バルザックの命令と同時に、兵たちが再び杖を向ける。


 ヴォルフが飛び込んだ。


 二本の射線を警棒で受ける。


 制服の袖が焼ける。


 膝をつく。


「行け!」


 伊織は橋へ踏み出した。



 一歩目で、石橋が沈んだ。


 二歩目。


 左肩に痛みが走る。


 三歩目。


 前方の六本指が動いた。


 一体。


 橋の中央へ入る。


 透明な玉は伊織ではなく、ガルドの革袋へ向いている。


「止まるな!」


 伊織が叫ぶ。


 ガルドが楔を抱えたまま走る。


 六本指が腕を伸ばす。


 伊織は警棒を振った。


 六本の指を打ち払う。


 硬い。


 反動が左肩まで突き抜ける。


 六本指は倒れない。


 反対側の腕が伊織の胸へ来る。


 身体を捻る。


 避け切れない。


 爪が脇腹を裂いた。


 熱いものが流れる。


 伊織は止まらない。


 六本指の懐へ入り、警棒の柄を透明な玉の下へ押し込む。


 倒すためではない。


 身体の向きを変える。


 六本指の長い脚が橋の亀裂へ入った。


 石が崩れる。


 白い身体が傾く。


 伊織は肩で押した。


 六本指は橋の縁から落ち、黒い根へ片腕を絡めた。


 ぶら下がる。


 透明な玉は、なおも楔を見ている。


「まだ来る!」


 トトの声。


 橋の先から二体。


 左右に分かれる。


 逃げ場はない。


 伊織は左腕を上げた。


 肩の奥で、骨が擦れる。


 具現する。


 そう思った瞬間、黒い鋼は出なかった。


 僅かな火花だけが掌の前で散る。


 左腕が落ちる。


「伊織さん!」


 アリアが振り返る。


「前を見ろ!」


 六本指が迫る。


 一体目の指が伊織の首へ伸びる。


 警棒で受ける。


 右手から柄が滑る。


 落ちる。


 伊織は空いた右手で六本指の手首を掴んだ。


 握れない。


 それでも腕ごと抱え込み、身体を捻る。


 勢いを利用する。


 六本指の胴が横を向く。


 そこへ二体目が突っ込んだ。


 白い身体同士が衝突する。


 橋が大きく揺れた。


「行け!」


 ガルドとアリアが伊織の横を抜ける。


 トトも続く。


 伊織は最後に身体を滑り込ませた。


 石橋の中央が崩れる。


 背後の半分が闇へ落ちた。


 技術部との間が切れる。


「撃て!」


 バルザックが叫ぶ。


 青白い射線が空洞を横切る。


 伊織はアリアの背を押した。


 射線が左肩を貫いた。


 音が消えた。


 一瞬だけ、痛みもなかった。


 次に来たのは、腕が自分のものではなくなる感覚だった。


 左手が垂れる。


「伊織さん!」


「進め」


「でも」


「五秒だ」


 アリアの顔が歪む。


「五秒、俺が作る」



 石橋の先には、折れた階段があった。


 下へ続く三段。


 その先はない。


 打点までは、十数歩の空白。


 黒い根が何本も横切っているが、人の体重を支えられる太さではなかった。


 ガルドが立ち止まる。


「道がねえぞ!」


「作る」


 伊織は左腕を見る。


 動かない。


 右手は握れない。


 具現に必要なものが、どちらにも残っていない。


 背後では六本指が橋の残った部分を渡ってくる。


 技術部も対岸から射撃姿勢を取っている。


 白い心臓が脈打つ。


 二本の流れが強く引かれる。


 表面の一部が、戻らなかった。


 トトの木片が激しく震える。


「音が消える」


「どれがだ」


「大きいのが」


 心臓の鼓動が弱くなっている。


 一拍。


 長い沈黙。


 もう一拍。


 アリアが打点を見つめる。


「間に合わない」


 誰も否定しなかった。


 ガルドが革袋を下ろす。


「投げるか」


「落ちる」


「じゃあどうする」


 伊織は空白を見る。


 十数歩。


 身体一つなら跳べない距離ではない。


 楔を抱えては届かない。


 届いても、打つ者がいない。


 背後で六本指の爪が石を叩く。


 青白い光が対岸に集まる。


 ヴォルフは向こう側に残っている。


 兵を押さえながら、片膝をついていた。


 伊織は息を吐く。


 具現できない理由は分かっていた。


 左腕で形を作ろうとしている。


 右手で支えようとしている。


 今までと同じ方法を、壊れた身体で繰り返そうとしていた。


 必要なのは武器ではない。


 戦車でもない。


 引き金も、照準もいらない。


 道だけでいい。


 伊織は白い心臓を見る。


 地下を走る黒い根。


 壁に残る銀色の線。


 還すために何度も打たれた痕。


 形を作るのではない。


 すでにある鉄へ、命令を通す。


 右手を開いた。


 握れないなら、握らない。


 左腕を下げる。


 上がらないなら、上げない。


 両足で石を踏む。


 身体の重さを、床へ通す。


 伊織は初めて、武器を思い浮かべなかった。


「クロ」


 黒い犬が隣へ来る。


 頭上の黒鋼灯は、ほとんど消えかけている。


「借りるぞ」


 クロが一度だけ鳴いた。


 黒鋼灯が落ちた。


 光ではない。


 溶けた鋼のように、伊織の足元へ広がる。


 石の隙間。


 黒い根の表面。


 途切れた銀線。


 そこへ、黒が走った。


 アリアが目を見開く。


「伊織さん、それは」


「線を繋ぐ」


 黒い鋼が、空白へ伸びた。


 橋ではない。


 細い一本の軌道。


 人が歩ける幅すらない。


 だが、ガルドの足元から打点まで、真っ直ぐに届いた。


 銀色の線が黒鋼の縁へ入り込む。


 消えかけていた光が戻る。


 一本。


 また一本。


 空洞に残る古い線が、次々と黒鋼へ重なった。


 ガルドが息を呑む。


「道になったぞ」


「まだ乗るな」


 伊織の声は低かった。


 黒鋼は震えている。


 身体の内側から何かを引き抜かれる。


 左肩だけではない。


 右手でもない。


 もっと深い場所。


 それでも、今までの具現とは違った。


 痛みが一か所に集まらない。


 足元から地下へ流れていく。


 六本指が迫る。


 先頭の一体が伊織へ腕を伸ばす。


 伊織は振り返らない。


 黒い軌道の上へ、一本の柱が立ち上がった。


 六本指の腕を下から打ち上げる。


 白い身体が宙を舞った。


 二体目。


 三体目。


 黒鋼が地面から連続して突き出す。


 殴るための拳ではない。


 斬るための刃でもない。


 ただ、進行方向へ現れる鋼。


 六本指は一体も伊織へ届かなかった。


 対岸から射線が走る。


 黒鋼の壁が立つ。


 青白い光が直撃する。


 壁は砕けない。


 光だけを左右へ流し、空洞の闇へ捨てた。


 バルザックの銀板が大きく開く。


「出力が違う」


 伊織は初めて対岸を見た。


「記録を直しておけ」


 黒鋼の壁が前へ倒れる。


 橋の残骸へ叩きつけられた。


 衝撃で兵たちが吹き飛ぶ。


 バルザックだけが床へ鉄杭を打ち込み、辛うじて立っていた。


 伊織は追わない。


 敵を倒すために力を使う場面ではない。


「ガルド」


「おう!」


「行け」


 ガルドが楔を抱え、黒い軌道へ足を乗せる。


 細いはずの道が沈まない。


 アリアが続く。


 トトも走る。


 六本指が左右から飛びかかる。


 そのたびに黒鋼が伸び、身体を弾き、根へ縫い留める。


 殺さない。


 壊さない。


 ただ、道から退ける。


 何十体いても同じだった。


 伊織が一歩進むたび、鋼が先に現れる。


 白い群れが押し返される。


 青白い射線が遮られる。


 崩れた足場が繋がる。


 先ほどまで一歩も進めなかった空洞を、四人と一匹が真っ直ぐに渡っていく。


 伊織の鼻から血が落ちた。


 視界の端が暗くなる。


 それでも黒鋼は止まらない。


 長く封じていた力が戻ったのではない。


 壊れた身体に合わせて、形を変えただけだ。


 握れなくても。


 上がらなくても。


 撃てなくても。


 鋼は、まだ伊織の言うことを聞いた。



 打点へ着く。


 ガルドが革袋を開く。


 還しの楔が現れた。


 黒い鉄の中に、一本だけ銀色の線が走っている。


 アリアが楔を持ち上げる。


 右腕が震える。


 傷が開き、袖へ血が滲んだ。


「持てるか」


 伊織が聞く。


「持ちます」


「打つのは」


「私が」


 ガルドが楔の根元を支える。


「一人で格好つけるな。俺もいる」


 トトが木片を構える。


「音を言う」


 クロが打点の脇へ立つ。


 黒鋼灯はもうない。


 それでも、黒い毛の輪郭だけは白い鼓動の中で見えた。


 アリアが楔の先を打点へ合わせる。


 銀線が僅かに光る。


「ずれています」


「どっちだ」


「左へ少し」


 ガルドが動かす。


「止めて」


 トトが木片を一度叩く。


 こん。


 心臓から、遅れて振動が返る。


 どん。


「まだ遠い」


 もう一度。


 こん。


 返りが早くなる。


「右」


 楔を僅かに動かす。


 こん。


 どん。


 今度はほぼ重なった。


「ここ」


 トトが言う。


「たぶん、ここ」


 アリアは頷く。


「十分です」


 対岸でバルザックが立ち上がる。


 銀色の板が赤く光っている。


 兵たちの鉄杖から光が消え、バルザックの周囲へ集まり始めた。


 一人で固定鋲の流れを操作している。


 二本の脈がさらに強く引かれた。


 白い心臓が大きく歪む。


 打点の銀線が消えかける。


「止めろ!」


 バルザックの声が空洞を震わせた。


「それを打てば、都が死ぬ!」


 アリアの手が止まる。


 一瞬だけ。


 都には人がいる。


 何も知らずに暮らす者たちが。


 固定鋲の流れを切れば、どこまで影響が出るか分からない。


 バルザックはそこだけ嘘をついていないのかもしれない。


「アリア」


 伊織が呼ぶ。


 彼女は振り返らない。


「都が止まるかもしれません」


「ああ」


「多くの人が困ります」


「ああ」


「それでも、打てと言えますか」


 伊織は白い心臓を見る。


 形を失いかけながら、それでも脈打っている。


 都へ奪われる流れ。


 地下に残る古い銀線。


 ここまで楔を運んだ者たち。


「俺が決めることじゃない」


 アリアが目を閉じる。


「父なら、どうしたでしょう」


「知らない」


「……そうですね」


「お前はどうする」


 アリアは楔を握り直した。


 右腕が震える。


 血が指先を伝い、黒い鉄へ落ちる。


「戻します」


 声は小さかった。


 だが、迷いはなかった。


「都が壊れるなら、壊れない方法をその後で探します。これを殺して保つ方法は、選びません」


「それでいい」


「父がそうしたからではありません」


「ああ」


「私が決めました」


 アリアは楔を立てる。


 ガルドが根元を支える。


 トトが木片を掲げる。


 伊織は振り返る。


 バルザックの周囲に集まった光が、一本の巨大な射線へ変わっていた。


 これまでの壁では受け切れない。


 黒鋼の軌道も限界に近い。


 伊織の膝が沈む。


 それでも立つ。


 射線と楔の間へ。


 バルザックが腕を振り下ろした。


「消えろ!」


 光が放たれる。


 伊織は右手を前へ出した。


 握らない。


 左腕も上げない。


 足元を踏む。


 地下に残る鋼へ、ただ一つだけ命じる。


 戻せ。


 黒鋼の壁は作られなかった。


 代わりに、空洞中の銀線が光った。


 何百。


 何千。


 過去に残された還しの痕が、伊織の黒鋼を通じて一本へ繋がる。


 青白い射線が伊織へ届く。


 触れる寸前で、光の向きが変わった。


 黒鋼の縁を走り。


 銀線へ入り。


 空洞を一周し。


 白い心臓へ還る。


 鼓動が爆発した。


 白い光が地下を満たす。


 六本指が一斉に伏せる。


 兵たちが目を覆う。


 バルザックだけが、反射した光を正面から受けた。


 銀板が砕ける。


 白い外套が焼ける。


 男の身体が保守路の奥へ吹き飛んだ。


 伊織は倒れない。


 右手を下ろす。


 目の前に、敵はもう立っていなかった。


「今だ」


 アリアが楔を打点へ当てる。


 槌はない。


 ガルドが鉄棒を両手で握る。


 右腕を上げる。


「トト!」


 木片が鳴る。


 こん。


 心臓が返す。


 どん。


 音が重なる。


「打て!」


 鉄棒が振り下ろされた。


 還しの楔が、心臓の下へ沈んだ。


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