第91話 心臓へ続く道
水門の向こうで、鉄を打つ音が続いていた。
ごん。
少し間を置いて、もう一度。
石扉の縁から細かな砂が落ちる。
技術部は止まっていない。
「どれくらい保つ」
伊織が尋ねる。
ヴォルフは歪んだ水門へ耳を当てた。
「扉だけなら、五分もない」
「向こう側の水圧は」
「もう抜けてる。壊れれば一気に来る」
「なら進む」
誰も異論を挟まなかった。
二本の脈が、足元を走っている。
一つが先に打たれた固定鋲。
もう一つが、いま背後で沈んだ鋲。
鼓動に似ていた。
だが、生き物のものとは違う。
同じ間隔を繰り返しながら、ときおり片方だけが強く跳ねる。地面の下で、二本の綱が都へ向かって引かれているようだった。
トトは胸元の木片を両手で押さえている。
「ずっと鳴ってる」
「木片が?」
「違う。下が」
トトは床を見る。
「遠くへ行ってる。戻ってこない」
伊織は立ち止まらなかった。
何が失われているのかは分からない。
だが、固定鋲が打たれる前とは明らかに違う。
分からないことと、何も起きていないことは同じではなかった。
◆
保守路は、人が並んで歩ける幅ではなかった。
ガルドが先頭に立ち、背の革袋を壁へ当てないよう身体を斜めにする。
その後ろをクロ。
トト。
アリア。
伊織。
最後尾をヴォルフが守る。
天井には黒い根が這っていた。
人の腕ほどの太さがある。
表面には節があり、足元の脈に合わせて僅かに膨らむ。
縮む。
また膨らむ。
そのたびに、湿った石壁が軋んだ。
クロが根へ鼻を近づける。
「触るな」
伊織が言うより早く、クロは顔を背けた。
低く唸る。
頭上の黒鋼灯が細く揺れていた。
光が一定しない。
輪郭が薄れ、戻る。
また薄れる。
「消えそうです」
アリアが言った。
「まだ見える」
「見えなくなった後は」
「その時に決める」
伊織は先へ進む。
自分の左腕も同じだった。
動くかどうかではない。
どこまで保つかが分からない。
だからといって、今ここで止まる理由にはならなかった。
背後で石が砕ける。
先ほどより大きい。
ヴォルフが振り向く。
「表面が割れた」
「見えるのか」
「音で分かる」
「あと何打だ」
「三、四回」
ガルドが歩調を上げた。
「道が終わってなきゃいいが」
「終わっていたら戻る」
伊織が答える。
「その頃には水門が開いてるぞ」
「だから急ぐ」
「お前、便利なことしか言わねえな」
「楔を落とすな」
「それもだ」
ガルドは前を向いたまま笑った。
声は乾いていた。
◆
保守路が三つに分かれる。
どの道も暗い。
空気の流れもほとんどない。
床には古い水垢が残り、黒い根が壁から壁へ渡っている。
目印になるものは見当たらなかった。
アリアが左の壁へ近づく。
石の表面に、小さな窪みがあった。
一つ。
二つ。
間を空けて、三つ。
「父の打ち方です」
指先で石粉を払う。
傷の縁は丸くなっている。
新しく削られたものではない。
「いつ頃のものだ」
ヴォルフが尋ねる。
「分かりません。ただ、最近つけられた傷ではありません」
「技術部が同じ印を使った可能性は」
「あります」
アリアはすぐに認めた。
「父の記録を調べていたなら、真似もできます」
「では、使えないな」
「いいえ」
アリアは三つの道を見比べる。
右の根は太い。
中央は濡れている。
左だけ、根の表面に薄い削れ跡が続いている。
「この傷だけで決めるつもりはありません。左は、人か何かが繰り返し通っています」
「技術部かもしれない」
「車輪の跡はありません。靴底の鋲痕もない」
伊織は左の通路へ黒鋼灯の光を向ける。
奥で道が下っている。
「左だ」
「アルドの印だからか」
ガルドが聞く。
「通れる可能性が一番高い」
アリアは僅かに息を吐いた。
それが安堵なのか、別の感情なのか、伊織には分からなかった。
「進みます」
彼女が先に左へ入った。
◆
数十歩進んだところで、クロが止まった。
黒鋼灯が前方を照らす。
細長い白い影が、通路を塞いでいた。
六本指。
大型に属するものだったが、胴は薄く、四肢が異様に長い。
透明な玉が一つ。
顔の中央で、こちらを向いている。
誰も武器を抜かなかった。
ガルドの右手だけが、鉄棒へ触れる。
六本指は動かない。
透明な玉がゆっくりと横へ動いた。
伊織。
アリア。
トト。
そして、ガルドの背中で止まる。
「楔を見ています」
アリアが囁く。
「そう見える」
伊織は言い直す。
革袋の中身が分かっているとは限らない。
熱の残り。
鉄の匂い。
固定鋲とは異なる何か。
反応している理由はいくつも考えられた。
六本指が一歩近づく。
長い指が床へ触れる。
かち。
硬い爪が石を打った。
トトの木片が小さく震える。
「返す?」
「待て」
伊織が止める。
小型と同じ音なのか。
合図なのか。
威嚇なのか。
判断できない。
六本指がさらに一歩進んだ。
ヴォルフが警棒を抜く。
その時、後方で青白い光が弾けた。
細い射線が、通路の壁を削る。
「いたぞ!」
技術部の声。
水門を破った。
六本指の透明な玉が回る。
伊織たちから、後方へ。
二本目の射線が走った。
六本指の肩を掠める。
白い外殻が剝がれ、その下から黒い線の束が覗いた。
六本指は伊織たちへ戻らない。
四肢を折り畳み、狭い通路を後方へ滑るように走った。
銃声。
叫び。
何かが壁へ叩きつけられる。
「行くぞ」
ガルドが前へ出る。
伊織は六本指が消えた方角を一度見た。
楔へ反応した。
だが、技術部が現れると、そちらへ向かった。
人間を憎んでいるなら、近い伊織たちを襲えばいい。
脈へ触れる物を持つ者を優先しているのかもしれない。
それも、まだ推測だった。
今は道が開いた。
それだけでいい。
◆
坂は急になっていった。
足元の石は濡れ、壁の黒い根も増えている。
天井から垂れた根が肩へ触れそうになるたび、身体を横へずらす。
脈は速くなっていた。
一つ。
二つ。
短い間を置いて、もう一度。
都へ引かれる二本の流れが、地下の鼓動を乱している。
アリアが突然、片手を上げた。
「止まってください」
全員が足を止める。
彼女は床へ膝をついた。
黒い根の隙間に、細い光がある。
銀色。
髪の毛よりも細い。
一本を辿ると、壁へ入り込んでいる。
そこから先は見えない。
「楔と同じ色だ」
ガルドが言った。
「似ています」
アリアは断定しない。
黒い根の表面へ触れず、顔を近づける。
「鉄の中へ残った線と、光り方が近い」
黒鋼灯を低くする。
見える範囲だけでも、銀線は一本ではなかった。
床。
壁。
根の間。
細い光が幾重にも走っている。
外側へ伸びる線もある。
途中で切れている線もある。
大きく弧を描き、再び中央へ戻るものもあった。
「全部、還しの跡か」
ヴォルフが聞く。
「分かりません」
アリアは一本の線を目で追う。
「ただ、外へ向かったまま消えていない線があります」
「どういうことだ」
「楔の黒線を折り返した時と似ています」
銀色の線は、黒い根の内側へ入り、再び戻っている。
「誰かが、ここで同じことをした?」
トトが尋ねる。
「似たことをした者はいたのかもしれません」
「父親か」
ガルドが聞く。
アリアは首を振った。
「父一人が残せる数ではありません」
見える範囲だけでも数え切れない。
線の太さも古さも違う。
強く光るもの。
消えかけたもの。
何本も重なり、一つの帯になっている場所もあった。
「還しの楔は、アルドが初めて作った物ではない」
ヴォルフが言う。
「同じ形だったとは限りません」
「だが、似た仕組みはあった」
「そう考える方が自然です」
ハーゲンは、最後の線を図面に描けなかった。
だが、この地下には、図面ではない線が残っている。
誰かが何かを聞き。
待ち。
打った。
それを何度も繰り返した痕。
成功したのか。
失敗したのか。
何を守ったのか。
そこまでは分からない。
伊織は床から目を上げる。
「先へ進む」
「調べなくていいのか」
ガルドが聞く。
「楔を打つ場所が先にある」
「この線が道になるかもしれねえぞ」
「線が多すぎる」
銀線は一つの方向へ集まっていない。
いくつもの場所へ伸び、折れ、重なっている。
都合よく心臓まで導いてはくれない。
「アリア」
「はい」
「覚えておけるか」
「すべては無理です」
「目立つものだけでいい」
アリアは太く重なった線の位置と、壁の割れ目を目に刻む。
「覚えました」
「行く」
その時。
足元の脈が大きく跳ねた。
黒い根が一斉に膨らむ。
通路の奥で、何かが裂ける音がした。
◆
黒い液体が、根の裂け目から噴き出した。
「下がれ!」
伊織が叫ぶ。
先頭のガルドが身体を反らす。
液体は革袋の端を掠め、床へ落ちた。
煙は出ない。
臭いもない。
石が音もなく崩れる。
濡れた場所から輪郭を失い、細かな砂へ変わっていく。
「楔は!」
「当たってねえ!」
ガルドが革袋を外しかける。
「今は開けるな」
「確かめねえと」
「液体が飛ぶ」
アリアが布の外側を見る。
黒い染みはない。
「袋には付着していません」
「本当か」
「見える範囲では」
「その言い方、嫌いだ」
「正しいことしか言えません」
再び根が裂ける。
今度は天井。
ヴォルフがトトの襟を掴み、後ろへ引く。
黒い液体が二人の間へ落ちた。
床の鉄製格子に触れる。
錆びるのではない。
格子の輪郭がぼやけ、そのまま粉になった。
アリアが息を呑む。
「鉄が保てていない」
「溶けたのか」
「違います。熱も反応もない」
「なら何だ」
アリアはすぐに答えない。
指先で空中の流れを追う。
足元の脈が都へ向かうたび、裂け目から液体が滲む。
「固定鋲が打たれてから、脈の向きが変わりました」
「これも、そのせいか」
「同時に起きています。ただ、直接の原因かは分かりません」
「止めるには」
「楔を使うしかありません」
黒い液体が銀線の一本へ落ちる。
銀色が強く光った。
液体は線の上で二つに分かれ、黒い根の内側へ吸い込まれる。
石は崩れない。
「今のは」
トトが言う。
「返した?」
アリアは銀線を見つめる。
「そう見えます」
古い線は、まだ働いている。
完全ではない。
届く範囲も狭い。
それでも、外へ漏れたものを内側へ戻していた。
誰が残したのか分からない線が、今も地下の崩壊を僅かに食い止めている。
伊織はガルドの革袋を見る。
「楔を打つ場所がある」
「ああ」
ガルドが背負い直す。
「ここまで来て、ただの思い出でしたじゃ困る」
「走れるか」
「楔が無事ならな」
再び後方から銃声が響いた。
六本指との戦闘が続いている。
だが、音は近づいていた。
技術部も進んでいる。
「急ぐぞ」
◆
保守路の先から、風が吹いてきた。
温かい。
湿った空気の中に、鉄の匂いがある。
クロが足を止める。
黒鋼灯が弱く明滅した。
その先で、道が途切れている。
崩落ではない。
壁がなくなり、広い空間へ開いていた。
ガルドが最初に縁へ出る。
何も言わない。
続いてアリア。
トト。
伊織。
誰も、すぐには足を進められなかった。
空洞の底は見えない。
黒い根が天井から幾千本も垂れ下がり、暗闇の中へ消えている。
太いものは塔ほどある。
細いものは糸のように絡み合っている。
すべてが同じ間隔で膨らみ、縮んでいた。
中央に、白いものが浮かんでいる。
球体ではなかった。
見る角度によって形が変わる。
丸く見えた直後に、縦に裂ける。
裂け目が閉じると、今度は巨大な袋のように歪む。
表面には無数の窪みがあり、その一つ一つから黒い根が伸びていた。
白い光を放っているのではない。
脈打つたび、周囲の暗闇が押し退けられている。
鼓動が光として見えていた。
一度。
空洞全体が白くなる。
縮む。
闇が戻る。
二度。
今度は弱い。
片側だけが歪む。
足元を走る二本の脈が、白い塊から何かを引き抜く。
都の方角へ。
鼓動が一拍、遅れた。
「固定鋲が」
アリアの声が掠れる。
「これを引いている」
断定ではなかった。
目の前で、二本の流れが白い塊の側面から伸びている。
そのたびに表面が薄く凹み、戻るまでの時間が長くなる。
トトが木片を握る。
「苦しい音がする」
「分かるのか」
ヴォルフが聞く。
「分からない」
トトは首を振る。
「でも、同じ音を出そうとして、出せてない」
黒鋼灯が一度だけ強く光った。
白い塊の下。
根が集まる場所に、黒い窪みが見えた。
穴ではない。
槌を受けるために平らに削られた、巨大な打点だった。
その周囲には、銀色の線が幾重にも残っている。
「楔を打つ場所です」
アリアが言う。
「そう見える」
伊織は訂正しながら、打点を見る。
すぐに降りられる位置ではない。
空洞の縁から、細い石橋が一本だけ伸びている。
途中で半分崩れている。
橋の先には六本指がいた。
一体ではない。
十。
二十。
さらに奥にも白い影が動いている。
すべての透明な玉が、こちらを向いていた。
ガルドの背中。
革袋。
還しの楔へ。
クロが低く唸る。
黒鋼灯が小さく縮んだ。
消える。
完全な暗闇にはならなかった。
中央の白い鼓動が、伊織たちを照らしている。
ごん。
背後で、大きな音がした。
技術部が保守路へ入った。
前には六本指の群れ。
後ろには固定鋲を打った者たち。
空洞の中央では、二本の脈が都へ向けて白い塊を引き続けている。
伊織は左腕の固定帯を外さない。
右手を握る。
指が最後まで閉じない。
それでも警棒を抜いた。
「ガルド」
「おう」
「楔を下ろすな」
「言われなくても」
「アリア」
「打点を見ます」
「トト」
「音だけ言う」
「ヴォルフ」
「後ろを止める」
役割を口にした直後。
白い塊が大きく脈打った。
空洞に垂れていた黒い根が、一斉に持ち上がる。
風ではない。
意思でもない。
ただ、何かを探すように。
何千本もの先端が、ゆっくりと伊織たちのいる縁へ向いた。




