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第91話 心臓へ続く道

 水門の向こうで、鉄を打つ音が続いていた。


 ごん。


 少し間を置いて、もう一度。


 石扉の縁から細かな砂が落ちる。


 技術部は止まっていない。


「どれくらい保つ」


 伊織が尋ねる。


 ヴォルフは歪んだ水門へ耳を当てた。


「扉だけなら、五分もない」


「向こう側の水圧は」


「もう抜けてる。壊れれば一気に来る」


「なら進む」


 誰も異論を挟まなかった。


 二本の脈が、足元を走っている。


 一つが先に打たれた固定鋲。


 もう一つが、いま背後で沈んだ鋲。


 鼓動に似ていた。


 だが、生き物のものとは違う。


 同じ間隔を繰り返しながら、ときおり片方だけが強く跳ねる。地面の下で、二本の綱が都へ向かって引かれているようだった。


 トトは胸元の木片を両手で押さえている。


「ずっと鳴ってる」


「木片が?」


「違う。下が」


 トトは床を見る。


「遠くへ行ってる。戻ってこない」


 伊織は立ち止まらなかった。


 何が失われているのかは分からない。


 だが、固定鋲が打たれる前とは明らかに違う。


 分からないことと、何も起きていないことは同じではなかった。



 保守路は、人が並んで歩ける幅ではなかった。


 ガルドが先頭に立ち、背の革袋を壁へ当てないよう身体を斜めにする。


 その後ろをクロ。


 トト。


 アリア。


 伊織。


 最後尾をヴォルフが守る。


 天井には黒い根が這っていた。


 人の腕ほどの太さがある。


 表面には節があり、足元の脈に合わせて僅かに膨らむ。


 縮む。


 また膨らむ。


 そのたびに、湿った石壁が軋んだ。


 クロが根へ鼻を近づける。


「触るな」


 伊織が言うより早く、クロは顔を背けた。


 低く唸る。


 頭上の黒鋼灯が細く揺れていた。


 光が一定しない。


 輪郭が薄れ、戻る。


 また薄れる。


「消えそうです」


 アリアが言った。


「まだ見える」


「見えなくなった後は」


「その時に決める」


 伊織は先へ進む。


 自分の左腕も同じだった。


 動くかどうかではない。


 どこまで保つかが分からない。


 だからといって、今ここで止まる理由にはならなかった。


 背後で石が砕ける。


 先ほどより大きい。


 ヴォルフが振り向く。


「表面が割れた」


「見えるのか」


「音で分かる」


「あと何打だ」


「三、四回」


 ガルドが歩調を上げた。


「道が終わってなきゃいいが」


「終わっていたら戻る」


 伊織が答える。


「その頃には水門が開いてるぞ」


「だから急ぐ」


「お前、便利なことしか言わねえな」


「楔を落とすな」


「それもだ」


 ガルドは前を向いたまま笑った。


 声は乾いていた。



 保守路が三つに分かれる。


 どの道も暗い。


 空気の流れもほとんどない。


 床には古い水垢が残り、黒い根が壁から壁へ渡っている。


 目印になるものは見当たらなかった。


 アリアが左の壁へ近づく。


 石の表面に、小さな窪みがあった。


 一つ。


 二つ。


 間を空けて、三つ。


「父の打ち方です」


 指先で石粉を払う。


 傷の縁は丸くなっている。


 新しく削られたものではない。


「いつ頃のものだ」


 ヴォルフが尋ねる。


「分かりません。ただ、最近つけられた傷ではありません」


「技術部が同じ印を使った可能性は」


「あります」


 アリアはすぐに認めた。


「父の記録を調べていたなら、真似もできます」


「では、使えないな」


「いいえ」


 アリアは三つの道を見比べる。


 右の根は太い。


 中央は濡れている。


 左だけ、根の表面に薄い削れ跡が続いている。


「この傷だけで決めるつもりはありません。左は、人か何かが繰り返し通っています」


「技術部かもしれない」


「車輪の跡はありません。靴底の鋲痕もない」


 伊織は左の通路へ黒鋼灯の光を向ける。


 奥で道が下っている。


「左だ」


「アルドの印だからか」


 ガルドが聞く。


「通れる可能性が一番高い」


 アリアは僅かに息を吐いた。


 それが安堵なのか、別の感情なのか、伊織には分からなかった。


「進みます」


 彼女が先に左へ入った。



 数十歩進んだところで、クロが止まった。


 黒鋼灯が前方を照らす。


 細長い白い影が、通路を塞いでいた。


 六本指。


 大型に属するものだったが、胴は薄く、四肢が異様に長い。


 透明な玉が一つ。


 顔の中央で、こちらを向いている。


 誰も武器を抜かなかった。


 ガルドの右手だけが、鉄棒へ触れる。


 六本指は動かない。


 透明な玉がゆっくりと横へ動いた。


 伊織。


 アリア。


 トト。


 そして、ガルドの背中で止まる。


「楔を見ています」


 アリアが囁く。


「そう見える」


 伊織は言い直す。


 革袋の中身が分かっているとは限らない。


 熱の残り。


 鉄の匂い。


 固定鋲とは異なる何か。


 反応している理由はいくつも考えられた。


 六本指が一歩近づく。


 長い指が床へ触れる。


 かち。


 硬い爪が石を打った。


 トトの木片が小さく震える。


「返す?」


「待て」


 伊織が止める。


 小型と同じ音なのか。


 合図なのか。


 威嚇なのか。


 判断できない。


 六本指がさらに一歩進んだ。


 ヴォルフが警棒を抜く。


 その時、後方で青白い光が弾けた。


 細い射線が、通路の壁を削る。


「いたぞ!」


 技術部の声。


 水門を破った。


 六本指の透明な玉が回る。


 伊織たちから、後方へ。


 二本目の射線が走った。


 六本指の肩を掠める。


 白い外殻が剝がれ、その下から黒い線の束が覗いた。


 六本指は伊織たちへ戻らない。


 四肢を折り畳み、狭い通路を後方へ滑るように走った。


 銃声。


 叫び。


 何かが壁へ叩きつけられる。


「行くぞ」


 ガルドが前へ出る。


 伊織は六本指が消えた方角を一度見た。


 楔へ反応した。


 だが、技術部が現れると、そちらへ向かった。


 人間を憎んでいるなら、近い伊織たちを襲えばいい。


 脈へ触れる物を持つ者を優先しているのかもしれない。


 それも、まだ推測だった。


 今は道が開いた。


 それだけでいい。



 坂は急になっていった。


 足元の石は濡れ、壁の黒い根も増えている。


 天井から垂れた根が肩へ触れそうになるたび、身体を横へずらす。


 脈は速くなっていた。


 一つ。


 二つ。


 短い間を置いて、もう一度。


 都へ引かれる二本の流れが、地下の鼓動を乱している。


 アリアが突然、片手を上げた。


「止まってください」


 全員が足を止める。


 彼女は床へ膝をついた。


 黒い根の隙間に、細い光がある。


 銀色。


 髪の毛よりも細い。


 一本を辿ると、壁へ入り込んでいる。


 そこから先は見えない。


「楔と同じ色だ」


 ガルドが言った。


「似ています」


 アリアは断定しない。


 黒い根の表面へ触れず、顔を近づける。


「鉄の中へ残った線と、光り方が近い」


 黒鋼灯を低くする。


 見える範囲だけでも、銀線は一本ではなかった。


 床。


 壁。


 根の間。


 細い光が幾重にも走っている。


 外側へ伸びる線もある。


 途中で切れている線もある。


 大きく弧を描き、再び中央へ戻るものもあった。


「全部、還しの跡か」


 ヴォルフが聞く。


「分かりません」


 アリアは一本の線を目で追う。


「ただ、外へ向かったまま消えていない線があります」


「どういうことだ」


「楔の黒線を折り返した時と似ています」


 銀色の線は、黒い根の内側へ入り、再び戻っている。


「誰かが、ここで同じことをした?」


 トトが尋ねる。


「似たことをした者はいたのかもしれません」


「父親か」


 ガルドが聞く。


 アリアは首を振った。


「父一人が残せる数ではありません」


 見える範囲だけでも数え切れない。


 線の太さも古さも違う。


 強く光るもの。


 消えかけたもの。


 何本も重なり、一つの帯になっている場所もあった。


「還しの楔は、アルドが初めて作った物ではない」


 ヴォルフが言う。


「同じ形だったとは限りません」


「だが、似た仕組みはあった」


「そう考える方が自然です」


 ハーゲンは、最後の線を図面に描けなかった。


 だが、この地下には、図面ではない線が残っている。


 誰かが何かを聞き。


 待ち。


 打った。


 それを何度も繰り返した痕。


 成功したのか。


 失敗したのか。


 何を守ったのか。


 そこまでは分からない。


 伊織は床から目を上げる。


「先へ進む」


「調べなくていいのか」


 ガルドが聞く。


「楔を打つ場所が先にある」


「この線が道になるかもしれねえぞ」


「線が多すぎる」


 銀線は一つの方向へ集まっていない。


 いくつもの場所へ伸び、折れ、重なっている。


 都合よく心臓まで導いてはくれない。


「アリア」


「はい」


「覚えておけるか」


「すべては無理です」


「目立つものだけでいい」


 アリアは太く重なった線の位置と、壁の割れ目を目に刻む。


「覚えました」


「行く」


 その時。


 足元の脈が大きく跳ねた。


 黒い根が一斉に膨らむ。


 通路の奥で、何かが裂ける音がした。



 黒い液体が、根の裂け目から噴き出した。


「下がれ!」


 伊織が叫ぶ。


 先頭のガルドが身体を反らす。


 液体は革袋の端を掠め、床へ落ちた。


 煙は出ない。


 臭いもない。


 石が音もなく崩れる。


 濡れた場所から輪郭を失い、細かな砂へ変わっていく。


「楔は!」


「当たってねえ!」


 ガルドが革袋を外しかける。


「今は開けるな」


「確かめねえと」


「液体が飛ぶ」


 アリアが布の外側を見る。


 黒い染みはない。


「袋には付着していません」


「本当か」


「見える範囲では」


「その言い方、嫌いだ」


「正しいことしか言えません」


 再び根が裂ける。


 今度は天井。


 ヴォルフがトトの襟を掴み、後ろへ引く。


 黒い液体が二人の間へ落ちた。


 床の鉄製格子に触れる。


 錆びるのではない。


 格子の輪郭がぼやけ、そのまま粉になった。


 アリアが息を呑む。


「鉄が保てていない」


「溶けたのか」


「違います。熱も反応もない」


「なら何だ」


 アリアはすぐに答えない。


 指先で空中の流れを追う。


 足元の脈が都へ向かうたび、裂け目から液体が滲む。


「固定鋲が打たれてから、脈の向きが変わりました」


「これも、そのせいか」


「同時に起きています。ただ、直接の原因かは分かりません」


「止めるには」


「楔を使うしかありません」


 黒い液体が銀線の一本へ落ちる。


 銀色が強く光った。


 液体は線の上で二つに分かれ、黒い根の内側へ吸い込まれる。


 石は崩れない。


「今のは」


 トトが言う。


「返した?」


 アリアは銀線を見つめる。


「そう見えます」


 古い線は、まだ働いている。


 完全ではない。


 届く範囲も狭い。


 それでも、外へ漏れたものを内側へ戻していた。


 誰が残したのか分からない線が、今も地下の崩壊を僅かに食い止めている。


 伊織はガルドの革袋を見る。


「楔を打つ場所がある」


「ああ」


 ガルドが背負い直す。


「ここまで来て、ただの思い出でしたじゃ困る」


「走れるか」


「楔が無事ならな」


 再び後方から銃声が響いた。


 六本指との戦闘が続いている。


 だが、音は近づいていた。


 技術部も進んでいる。


「急ぐぞ」



 保守路の先から、風が吹いてきた。


 温かい。


 湿った空気の中に、鉄の匂いがある。


 クロが足を止める。


 黒鋼灯が弱く明滅した。


 その先で、道が途切れている。


 崩落ではない。


 壁がなくなり、広い空間へ開いていた。


 ガルドが最初に縁へ出る。


 何も言わない。


 続いてアリア。


 トト。


 伊織。


 誰も、すぐには足を進められなかった。


 空洞の底は見えない。


 黒い根が天井から幾千本も垂れ下がり、暗闇の中へ消えている。


 太いものは塔ほどある。


 細いものは糸のように絡み合っている。


 すべてが同じ間隔で膨らみ、縮んでいた。


 中央に、白いものが浮かんでいる。


 球体ではなかった。


 見る角度によって形が変わる。


 丸く見えた直後に、縦に裂ける。


 裂け目が閉じると、今度は巨大な袋のように歪む。


 表面には無数の窪みがあり、その一つ一つから黒い根が伸びていた。


 白い光を放っているのではない。


 脈打つたび、周囲の暗闇が押し退けられている。


 鼓動が光として見えていた。


 一度。


 空洞全体が白くなる。


 縮む。


 闇が戻る。


 二度。


 今度は弱い。


 片側だけが歪む。


 足元を走る二本の脈が、白い塊から何かを引き抜く。


 都の方角へ。


 鼓動が一拍、遅れた。


「固定鋲が」


 アリアの声が掠れる。


「これを引いている」


 断定ではなかった。


 目の前で、二本の流れが白い塊の側面から伸びている。


 そのたびに表面が薄く凹み、戻るまでの時間が長くなる。


 トトが木片を握る。


「苦しい音がする」


「分かるのか」


 ヴォルフが聞く。


「分からない」


 トトは首を振る。


「でも、同じ音を出そうとして、出せてない」


 黒鋼灯が一度だけ強く光った。


 白い塊の下。


 根が集まる場所に、黒い窪みが見えた。


 穴ではない。


 槌を受けるために平らに削られた、巨大な打点だった。


 その周囲には、銀色の線が幾重にも残っている。


「楔を打つ場所です」


 アリアが言う。


「そう見える」


 伊織は訂正しながら、打点を見る。


 すぐに降りられる位置ではない。


 空洞の縁から、細い石橋が一本だけ伸びている。


 途中で半分崩れている。


 橋の先には六本指がいた。


 一体ではない。


 十。


 二十。


 さらに奥にも白い影が動いている。


 すべての透明な玉が、こちらを向いていた。


 ガルドの背中。


 革袋。


 還しの楔へ。


 クロが低く唸る。


 黒鋼灯が小さく縮んだ。


 消える。


 完全な暗闇にはならなかった。


 中央の白い鼓動が、伊織たちを照らしている。


 ごん。


 背後で、大きな音がした。


 技術部が保守路へ入った。


 前には六本指の群れ。


 後ろには固定鋲を打った者たち。


 空洞の中央では、二本の脈が都へ向けて白い塊を引き続けている。


 伊織は左腕の固定帯を外さない。


 右手を握る。


 指が最後まで閉じない。


 それでも警棒を抜いた。


「ガルド」


「おう」


「楔を下ろすな」


「言われなくても」


「アリア」


「打点を見ます」


「トト」


「音だけ言う」


「ヴォルフ」


「後ろを止める」


 役割を口にした直後。


 白い塊が大きく脈打った。


 空洞に垂れていた黒い根が、一斉に持ち上がる。


 風ではない。


 意思でもない。


 ただ、何かを探すように。


 何千本もの先端が、ゆっくりと伊織たちのいる縁へ向いた。


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