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第90話 第二固定鋲

 鍛冶場を出た時、東の空はまだ暗かった。


 夜が明けきらないのではない。


 白い都の上だけ、薄い灰色が沈んでいる。


 地面が一度、低く鳴った。


 足の裏から伝わった震えに、ガルドの背で革袋が軋む。


 中には還しの楔が入っていた。


 二重の布で包み、革紐を胸の前まで回してある。走っても外れない。転べば、背中より先に楔を庇う形だった。


「背負い方が逆だ」


 ハーゲンが言った。


「何がだ」


「命より大事そうに見える」


「作った奴が怖いからな」


「壊して戻ったら、命があっても無駄だぞ」


「ほらな」


 ガルドが鼻で笑った。


 ハーゲンは笑わない。


 革袋の結び目を自分で確かめる。


「熱は抜けた。だが、強く打てば欠ける」


「楔なのにか」


「打つ道具と、乱暴に扱っていい道具は違う」


「面倒な鉄だな」


「使う奴に似た」


 視線が伊織へ向く。


 伊織は何も返さなかった。


 左腕は固定帯の中にある。


 右手も、まだ長く握り込めない。


 警棒は腰へ差しているが、抜けても数度振れるかどうかだった。


 具現は使わない。


 少なくとも、楔を心臓へ届けるまでは。


「戻せ」


 ハーゲンが言った。


「楔をですか」


 アリアが聞く。


「使った後で抜けるならな」


「抜けなければ」


「置いてこい」


「では、何を戻せと」


 ハーゲンは答えるまで少し間を置いた。


「打った奴らだ」


 アリアが頷く。


「戻ります」


「言い切るな」


「言葉にしなければ、戻れない気がするので」


「アルドも同じことを言った」


 アリアの表情が僅かに止まる。


 だが、問い返さなかった。


 胸元の靴留めにも触れない。


「行きます」


 父の話を続けるためではなく、今いる者たちへ向けた声だった。



 旧排水路へ入ってすぐ、クロの頭上へ黒鋼灯が浮かんだ。


 昨日より光が弱い。


 黒い金属の輪郭も、時折ぼやける。


 クロは気にした様子を見せず、先頭を歩いた。


「灯り、薄くなってないか」


 ガルドが声を潜める。


「なってる」


 伊織は認めた。


「消える?」


 トトが聞く。


「分からない」


 黒鋼灯は伊織の具現ではない。


 命じてもいない。


 クロが止まれば止まり、進めばついてくる。それ以上の仕組みは、今も分かっていなかった。


「消える前に進む」


 伊織が言った。


 昨日、小さな六本指が通った壁際には、細い擦れ跡が残っていた。


 爪跡ではない。


 腹を石へ寄せ、横向きに抜けた痕だ。


 それを辿る。


 案内役の姿はない。


 トトが何度か木片へ手を伸ばしたが、鳴らさなかった。


「呼ばないのか」


 ヴォルフが尋ねる。


「呼んだら、返事を待たないといけないから」


「急いでいるからか」


「それもある」


 トトは暗い通路を見る。


「向こうにも、向こうのことがあるかもしれない」


 その言い方に、誰も答えなかった。


 小さな六本指が仲間なのか。


 地下を守っているのか。


 アルドの槌のそばにいただけなのか。


 まだ何一つ決まっていない。


 分かっているのは、襲わなかったことと、一度だけ危険な床を示したこと。


 それだけだった。


 擦れ跡が途中で消える。


 道は二つに分かれていた。


 右は広い。


 奥から白い光が漏れている。


 左は狭く、黒鋼灯の光も途中で飲まれた。


 床には、どちらにも小さな足跡があった。


「案内になってねえな」


 ガルドが言う。


「もともと案内じゃない」


 伊織はしゃがみ込む。


 右の床には、新しい泥。


 深い靴跡。


 車輪の溝。


 左には小型の足跡だけがあり、その上へ薄い石粉が積もっている。


「技術部は右だ」


 ヴォルフが言う。


「左は古い」


「先回りできる可能性はある」


 アリアが壁を確かめる。


「ただし、途中で閉じているかもしれません」


「右から行けば」


「正面でぶつかる」


 伊織は右の白い光を見る。


 音はしない。


 それが不自然だった。


 十人以上の部隊がいるなら、足音も器具の音もあるはずだった。


 伊織は指を立てる。


 止まれ。


 全員が壁へ寄る。


 数息後。


 遠くで、金属が石へ触れた。


 一度だけ。


 続いて、濡れたものを引きずる音。


「右を見る」


 伊織が囁く。


「左へ逃げられる位置までだ」



 曲がり角の先は、掘り広げられていた。


 古い排水路の壁を削り、円形の空間へ変えている。


 白い照明柱が四本。


 掘削器が二台。


 中央には、黒い固定鋲が立てられていた。


 一本目より細い。


 代わりに長い。


 先端は床へ半ば沈み、その周囲を白い輪状器具が支えている。


 まだ打ち込まれてはいない。


 だが、準備だけの状態でもなかった。


 固定鋲の表面に、細い光が下から上へ流れている。


「起動前の通電です」


 アリアが言った。


「止められるか」


「輪状器具を外せば。ただし、触れた瞬間に作動する可能性があります」


 技術部員は十一人。


 床に倒れている者が三人。


 護衛六人。


 作業員五人。


 数字が合わない。


「ほかは」


 ヴォルフが囁く。


「上です」


 アリアが天井を見る。


 白い指が、石の裂け目から覗いていた。


 六本。


 一本ずつ、ゆっくりと広がる。


 大型六本指が落ちた。


 技術部員の中央ではない。


 掘削器の上へ。


 長い腕が器具の支柱を折る。


 白い火花。


 照明が一つ消える。


「防衛!」


 技術部の隊長が叫ぶ。


 護衛が槍状の発射器を構える。


 青白い線が走る。


 大型六本指の肩を貫いた。


 肉はない。


 白い外殻が砕け、その下から黒い線が束になって覗く。


 大型六本指は護衛へ向かわなかった。


 折れた腕で固定鋲の輪状器具を掴む。


 引き剥がそうとする。


「鋲を狙っています」


 アリアが言う。


 二体目が壁から出る。


 三体目は床下から腕だけを伸ばし、測定器を掴んで引きずり込んだ。


 技術部員が悲鳴を上げる。


 逃げた一人の横を、大型六本指が通り過ぎた。


 追わない。


 落ちた発射器にも触れない。


 掘削器。


 測定器。


 固定鋲。


 脈へ触れる物だけを壊している。


「心臓を守ってる」


 ガルドが言う。


「そう見えるだけだ」


 伊織は訂正した。


「守っているのか、近づく物を排除しているだけかは分からない」


 大型六本指の一体が輪状器具を引き上げる。


 固定鋲が僅かに傾く。


 黒い光が途切れた。


「外せる」


 ヴォルフが言う。


「今なら技術部が止まる」


「大型もこっちへ来る」


「それでも」


 隊長の声が響いた。


「予備輪を接続しろ! 第二鋲を落とす!」


 作業員二人が、箱から小型の輪状器具を運び出す。


 護衛が大型六本指の腕を撃ち抜く。


 固定鋲が再び起こされる。


「時間がない」


 ガルドが背の楔へ手を回した。


「今、出れば鋲を止められる」


「楔を見られる」


「見られなきゃ、心臓まで持っていけるのか」


「分からない」


「またそれか」


「分からないまま、どちらを失うか決める」


 伊織は左の細い通路を見る。


 小さな足跡。


 その一部が、壁の低い穴へ続いている。


 人間が通れる幅ではない。


 その横に、古い水門の溝があった。


「アリア」


「はい」


「左の壁。水門の跡か」


 アリアが目を凝らす。


「そう見えます。向こう側へ保守路があるかもしれません」


「開く?」


「機構が残っていれば」


「時間は」


「分かりません」


 中央で固定鋲が起こされる。


 予備輪が下へ噛む。


 白い光が点いた。


 床が低く震え始めた。


「選べ」


 ガルドが言う。


「ここで鋲を止めるか、左へ賭けるか」


 伊織は固定鋲を見る。


 第一鋲は既に作動している。


 第二鋲まで打たれれば、都へ向く脈はさらに強くなる。


 だが、ここで正面から出れば、還しの楔を持っていることが知られる。


 大型六本指にも敵と見なされる可能性がある。


 そして、伊織は戦えない。


 左腕だけではない。


 右手にも力が戻っていない。


 今、具現を使えば楔を運ぶ前に止まる。


「左を開ける」


 伊織が言った。


「鋲を見捨てるのか」


 ヴォルフの声が低くなる。


「見捨てない」


「ここから離れるだろ」


「正面から止めれば、楔を失う」


「なら、どうする」


「鋲が完全に沈む前に、向こう側へ回る」


「保守路がなければ」


「戻って正面から止める」


「間に合わない」


「それでも、今ここで楔を晒すより可能性がある」


 ヴォルフは一度だけ固定鋲を見た。


 反論を飲み込む。


「何をすればいい」


「水門を開ける」



 左の壁へ移る。


 戦闘音に紛れ、技術部からは見えない。


 古い水門は石壁と一体になっていた。


 中央に鉄の輪。


 錆びている。


 ガルドが掴む。


「回らん」


「下へ押してから」


 アリアが溝を指した。


「古い排水機構は、圧を逃がしてから開きます」


「圧なんか残ってるのか」


「残っていなければ動きません」


 ガルドが輪を押し下げる。


 壁の奥で、何かが沈む。


 同時に、床下から水音がした。


「来るぞ」


 伊織が言う。


「何が」


「水だ」


 黒い水が溝から噴き出した。


 足首。


 脛。


 一気に水位が上がる。


 ガルドが鉄輪を回す。


「動く!」


 ヴォルフも加わる。


 二人で押す。


 水門が指一本分だけ開く。


 黒い水が向こう側へ吸い込まれた。


「続けろ」


 伊織は背後を見る。


 固定鋲の予備輪が完全に閉じる。


 技術部隊長が長柄の槌を受け取った。


 大型六本指が二体、同時に突進する。


 護衛の青い射線が交差した。


 一体が倒れる。


 もう一体が輪状器具へ手を伸ばす。


 槌が振り上げられた。


「間に合わない!」


 トトが叫ぶ。


 木片が胸元で震えた。


 かん。


 低い音。


 昨日、鍛冶場で聞いたものと近い。


「鋲の音か」


 伊織が尋ねる。


「分からない。でも、小さい子の音とは違うと思う」


「続いてる?」


「一回だけ」


 水門がさらに開く。


 人一人が横向きで通れる。


「トト、クロ、先へ」


 クロが先に潜る。


 黒鋼灯が壁をすり抜け、向こう側を照らした。


 空間がある。


「道です!」


 トトの声。


「ガルド、楔を先に」


「俺ごと行く」


 ガルドが身体をねじ込む。


 革袋が石へ当たりそうになる。


 アリアが支える。


「右を下げて」


「分かってる」


「今、上げています」


「どっちだ!」


「私から見て右です!」


 革袋が通る。


 ヴォルフ。


 アリア。


 伊織が最後に残る。


 固定鋲の前で、技術部隊長の槌が止まっていた。


 大型六本指の腕が、槌の柄へ絡んでいる。


 護衛二人がその腕を撃つ。


 白い指が砕ける。


 隊長の槌が自由になる。


 伊織は水門へ身体を入れる。


 その時、隊長がこちらを見た。


 暗がりの中。


 目が合う。


 伊織の左腕。


 開いた水門。


 最後に、ガルドの背の革袋。


 何が入っているかまでは見えない。


 だが、隊長の表情が変わった。


「東の男だ!」


 声が飛ぶ。


 護衛の一人が振り向く。


 伊織は水門の向こうへ身体を滑らせた。


「閉めろ!」


 ヴォルフとガルドが内側の輪を回す。


 石扉が戻る。


 隙間が狭くなる。


 向こうで隊長が叫ぶ。


「そいつらを追え! 楔を持っている!」


 見えていた。


 革袋ではない。


 目的を。


 伊織たちがこの地下へ戻ってきた理由を、技術部は初めから想定していた。


 水門が閉じる寸前。


 長柄の槌が振り下ろされた。


 ごん。


 石壁の向こうで、第二固定鋲が沈む。


 地面が跳ねた。


 水門が内側へ歪む。


 トトが倒れ、アリアが受け止める。


 ガルドの背で革袋が強く鳴った。


「楔は!」


「無事だ!」


 黒鋼灯が一瞬、消える。


 完全な闇。


 その中で、地の底を太い脈が走った。


 一つ。


 続いて二つ。


 都へ向かう。


 トトの木片が震え続ける。


「止まらない」


 声が暗闇に浮く。


「音が、ずっと向こうへ行ってる」


 黒鋼灯が再び点いた。


 弱い光の先に、保守路が伸びている。


 道の壁には、古い槌跡があった。


 一つ。


 二つ。


 途中で間を置き、三つ。


 ハーゲンが認めた、アルドの打ち方。


 アリアは足を止めなかった。


「父の道です」


 そう言ってから、首を振る。


「違います」


 先にある暗闇を見る。


「父が通った道です。ここから先は、私たちが決めます」


 後方で、石水門を叩く音がした。


 技術部が追ってくる。


 前方では、都へ向かう二本の脈が、地面の下を走り続けていた。


 伊織は腰の警棒に触れる。


 握る力が残っていることだけを確かめ、手を離した。


「進む」


 楔を届ける。


 まだ、それだけでいい。


 黒鋼灯が、クロの頭上で細く揺れた。


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