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第89話  鳴らなかった音

 アリアが持ち帰った靴留めを、ハーゲンは一度見ただけでアルドの物だと認めた。


「左だけ厚くしてある。歩くと革が逃げたからな」


 半円形の金具を裏返すと、目立たない場所に三つの槌跡があった。アリアが幼い頃につけた傷とは別の、作り手の印だった。


「槌には、何とあった」


「聞こえているなら、打つな」


「他には」


「ありません」


「置いてきたのか」


「はい」


 ハーゲンは、アリアが握る靴留めと、その顔を順に見た。


「欲しかっただろ」


「欲しかったです」


「なら、なぜ持って帰らなかった」


「あの槌は、渡されていません」


 小さな六本指は靴留めを床へ置き、自分から退いた。


 槌には触れず、そのそばに残った。


 同じ物ではない。


「父の遺品だからといって、すべて私の物になるわけではありません」


「アルドが聞いたら、面倒な顔をするだろうな」


「褒めませんか」


「褒める奴じゃねえ」


 ハーゲンは靴留めを返し、金床へ向かった。


 その横には、白い箱から取り出した二本の地鉄が置かれている。


 一本は短く太い。


 もう一本は細く長い。


 どちらにも、心臓へ向かおうとする黒い筋が残っていた。


 鍛冶場の床が、僅かに震えた。


 壁に掛けられた火箸が触れ合い、細い音を立てる。


 誰も口を開かない。


 少し遅れて、炉の炎が東へ傾いた。


「まただ」


 ガルドが鞴から足を外す。


「朝から三度目だぞ」


 ハーゲンは太い地鉄を火箸で挟み、黒い筋の太さを確かめた。


「技術部が心臓へ近づいてる」


「固定鋲は、まだ打たれていないのでは」


 エルザが帳面から顔を上げる。


「起動前でも、外皮へ触れりゃ脈は揺れる」


「時間はどのくらいありますか」


「分かるなら苦労しねえ」


 ハーゲンは地鉄を炉へ差し込んだ。


 黒い筋だけが熱を拒み、赤く染まる鉄の中で濡れた墨のように残る。


「父の言葉は、楔の作り方なのですか」


 アリアが尋ねる。


「作り方の半分だ」


「残りは」


「打たねえ時を知ることだ」


 ハーゲンは炉の中で地鉄を回した。


「この鉄は、返ってきた音を道にする。向こうに返事をする奴がいる間に打てば、力はそいつへ走る」


「小さな六本指へ」


「今つながっているのが、あいつならな」


 トトが胸元の木片を押さえた。


 木片を囲む灰色の枠には、返事を送るための鉄片が結ばれている。


「打ったら、あの子が壊れる?」


「分からん」


 ハーゲンは即答した。


「傷つかねえ保証もない」


「だから、父は打つなと残した」


 アリアが言う。


「そう考えるのは自然だ。だが、アルドの考えを正解にするな」


 ハーゲンが地鉄を炉から出した。


 金床へ置く。


 かすかな振動を受け、黒い筋が東へ向こうと身を捩る。


「アルドが見た時と、今は違う。技術部もいなかった。都の脈も、ここまで傾いてなかったかもしれん」


 アリアは靴留めを握る。


「父と同じ判断をすればよいわけではない」


「ああ」


「今いる者が決める」


「そうしろ」


 ハーゲンは槌を持ち上げた。


 伊織が金床へ近づく。


 左腕は固定帯の中にあり、右手も自由には使えない。鉄を押さえることも、槌を取ることもできなかった。


 代わりに、作業台へ三本の白墨線を引く。


「中止の条件を決める」


「鍛冶に指図する気か」


「失敗した時に、誰が何をするかだけだ」


 一つ目の線を指す。


「トトが、あの小型と同じ音だと判断したら、槌を止める」


 二つ目。


「地鉄が金床から外れたら、ヴォルフが火箸を放す。無理に押さえない」


 三つ目。


「黒線が先端まで走ったら、ガルドが水桶へ落とす。楔は諦める」


「残りの地鉄は一本だぞ」


 ガルドが言う。


「人を焼くよりましだ」


「それで技術部に先を越されてもか」


「壊れた楔を持って追いついても意味がない」


 伊織はハーゲンを見る。


「それでいいか」


「槌を止めろと言われて、止められると思うなよ」


「止めろ」


「簡単に言いやがる」


「止めないなら、最初から打つな」


 ハーゲンは口の端を歪めた。


「アルドより、師匠面するな」


「してない」


「してる」


 それでも、白墨線は消さなかった。


「トト」


 伊織が呼ぶ。


「うん」


「分かることだけ言え」


「小さい子の音かどうか?」


「それも、確信がなければ分からないと言え」


「打っていいかは?」


「お前が決めるな」


 トトは木片を両手で握り直した。


「じゃあ、聞こえた音だけ言う」


「ああ」


「それならできる」


 伊織はアリアを見る。


「黒線の動きを見られるか」


「煤と熱の逃げ方なら」


「位置だけ伝えてくれ。意味はハーゲンが決める」


「分かりました」


 役割が決まる。


 ハーゲンが打つ。


 ガルドが火を送る。


 ヴォルフが地鉄を支える。


 トトが音を聞く。


 アリアが熱を見る。


 伊織が中止を決める。


 誰か一人の感覚へ、すべてを預けない。



 最初の一打は、浅かった。


 かん。


 音が鍛冶場の中へ広がらず、地鉄の奥へ吸い込まれる。


 数息後。


 トトの木片が震えた。


 かん。


「同じ音か」


 伊織が尋ねる。


 トトは目を閉じたまま、すぐには答えない。


「似てる」


「同じか」


「分からない」


 ハーゲンの槌が止まる。


「もう一度だ」


 二打目。


 かん。


 返り。


 かん。


 トトは首を傾げる。


「前に聞いた、小さい音に近い。でも、少し遠い」


「小型かどうかは」


「分からない」


「それでいい」


 伊織が言った。


 ハーゲンは地鉄を炉へ戻した。


「返事があるうちは打てねえ」


「止めてもらえないかな」


 トトが木片を見る。


「どうやって伝える」


 ガルドが尋ねる。


「分からない」


「昨日は真似していたのでしょう」


 アリアが言う。


「音の意味を理解したとは限りません。ですが、間を真似ることはできました」


 トトが鉄片を持ち上げる。


「鳴らした後、ぼくが返さなかったら、向こうも待つかもしれない」


「待たないかもしれない」


「うん」


「返事を止めたと決めつけるなよ」


「決めない」


 トトは一度鳴らした。


 かん。


 地下から一度返る。


 かん。


 次に二度。


 かん。かん。


 二度返る。


 かん。かん。


 トトはそこで手を止めた。


 何も鳴らさない。


 地下も静かになる。


 炉の中で炭が崩れた。


 遠い職人区から、別の槌音が届く。


 トトは反応しない。


 しばらくして、地下から一度鳴った。


 かん。


 トトは返さない。


 もう一度。


 かん。


 まだ返さない。


 三度目は来なかった。


「止まった?」


 ガルドが聞く。


「分からない」


 トトは木片を握ったまま答える。


「待ってるのか、もういないのか、聞こえなくなったのか」


「もう一度、最初から」


 伊織が言う。


 一度。


 返る。


 二度。


 返る。


 沈黙。


 地下から一度。


 トトは返さない。


 長い間。


 今度は、地下から二度鳴った。


 かん。かん。


 それきり、音は消えた。


「何が起きた」


 ハーゲンが聞く。


「向こうが一回と二回を鳴らした」


「意味は」


「分からない」


「小型の音か」


 トトは目を閉じたまま考える。


「たぶん、近い。でも、同じだとは言えない」


「使えねえ答えだな」


 ガルドが言う。


「使える答えに変えるな」


 伊織が返す。


 聞こえない。


 それだけが事実だった。


 小さな六本指が意図的に待っているのか、線から離れたのか、別の理由で音が途絶えたのかは分からない。


 安全になった保証はない。


「打つか」


 ハーゲンが伊織を見る。


 決めるのは鍛冶師ではない。


 トトでもない。


 アルドが残した言葉でもない。


 今ここにいる者が、分からないまま選ばなければならない。


「一打だけ」


 伊織が言った。


「返りがあれば止める。地鉄の黒線が増えても止める」


「一打で鉄が冷えるぞ」


「なら、また熱する」


「技術部は待たねえ」


「こっちも急いでる。だが、賭ける範囲は決める」


 アリアが金床の横へ立つ。


「私も賛成です」


 ハーゲンが見る。


「父は、聞こえているなら打つなと残しました。今は聞こえない。でも、それが許可だとは思いません」


「なら反対しろ」


「何もしなければ、技術部が外縁の脈を奪います」


 アリアは父の靴留めを胸元へしまった。


「父の答えを再現するのではなく、私たちの責任で一度だけ打ちます」


 ハーゲンは鼻から息を吐いた。


「面倒な親子だ」


「よく言われましたか」


「今、初めて言った」


 炉から地鉄が出される。


 ヴォルフが火箸で押さえる。


 ガルドが鞴を止める。


 アリアは黒い筋と、鉄表面を流れる煤を見る。


「右端に熱が逃げています」


「黒線は」


「中央より少し東側。太さは変わっていません」


「トト」


「音はない」


「打つぞ」


 ハーゲンが槌を上げる。


 伊織は白墨線から目を離さない。


 一打。


 かん。


 地鉄が平たく延びる。


 黒い筋が僅かに内側へ寄った。


 トトの木片は鳴らない。


「もう一打」


 ハーゲンが言う。


「待て」


 伊織が止める。


 数息。


 木片は静かなまま。


「黒線は」


「増えていません」


 アリアが答える。


「続けろ」


 二打目。


 かん。


 三打目。


 かん。


 一打ごとに待つ。


 返事を急いで判断しない。


 鉄が冷えれば炉へ戻す。


 また熱する。


 その間にも、床の震えは少しずつ強くなっていた。


 火箸が鳴る。


 水桶の表面へ小さな波が立つ。


 炉の炎は、戻しても戻しても東へ傾く。


「固定鋲が近い」


 エルザが外の計測板を見て言う。


「まだ作動は確認できません。ただ、東根の流れが変わり始めています」


「次の熱で黒線を折る」


 ハーゲンが言った。


「失敗すれば」


「太い方は終わりだ」


 地鉄が再び炉へ入る。


 トトの木片は鳴らない。


 アリアは炎を見ていた。


 父も同じ火を見たのだろうか。


 同じ鉄を前にして、打たないことを選んだのか。


 それは分からない。


 分からないまま、父の選択だけを正しいとはしない。


「ハーゲン」


 アリアが言う。


「何だ」


「次の打点は、父ならどこを選びますか」


「聞いてどうする」


「避けます」


 ハーゲンの片方の眉が上がる。


「父の真似ではなく、今の鉄を見てください」


「言うようになったな」


「今いる者で決めると、あなたが言いました」


「お前が言ったんだろ」


「どちらでも構いません」


 ハーゲンは地鉄を炉から出した。


 金床へ置く。


 黒い筋は、中央より右へ寄っている。


「アルドなら中央を打つ」


「今は?」


 ハーゲンは煤の流れを見る。


 ヴォルフへ地鉄の角度を変えさせる。


「左だ」


「左端の熱が残っています」


 アリアが言う。


「そこから内へ返せます」


「なら左を打つ」


 槌が落ちる。


 ごん。


 黒い筋が大きく揺れ、中央へ折れた。


 床が強く震えた。


 工具が一斉に鳴る。


 炉の炎が横へ流れ、金床の地鉄が東へ引かれる。


「来たぞ!」


 ヴォルフが火箸へ体重を掛ける。


「押さえ込むな!」


 伊織が叫ぶ。


 白墨の二本目。


 ヴォルフは火箸を緩める。


 地鉄が金床の上で半回転し、端が浮く。


 ガルドが水桶へ手を掛ける。


 黒い筋が先端へ走る。


 三本目の白墨線。


「落とすか!」


「待て!」


 アリアが地鉄を見る。


「先端まで届いていません! 根元へ戻っています!」


 黒線は、外へ伸びたのではない。


 先端へ向かった後、折り返し、打点へ戻ろうとしている。


 その時、エルザが鍛冶場へ駆け込んだ。


「固定鋲が一本、作動しました!」


 遅れて報告が来たのではない。


 先ほどの揺れそのものが、起動の衝撃だった。


「東根の流れが都側へ変わり始めています!」


 トトの木片が震えた。


 かん。


「音!」


 ハーゲンの槌が止まる。


「小さい子か」


 伊織が尋ねる。


 トトは顔をしかめた。


「違うと思う」


「確かか」


「確かじゃない。でも、あの子の音より大きい。低い。近くない」


 もう一度。


 かん。


 鍛冶場の床も、同時に震えた。


「固定鋲だ」


 ガルドが言う。


「決めつけるな」


 伊織はトトを見る。


「小型と同じ音か」


「同じとは思わない」


「それ以上は」


「分からない」


 十分だった。


 何の音かは断定できない。


 ただ、小さな六本指との返事とは違う可能性が高い。


 地鉄の黒線は、打点へ戻り続けている。


 固定鋲が脈を引けば引くほど、こちらの鉄も東へ奪われる。


 迷える時間は短い。


「アリア」


 伊織が呼ぶ。


「黒線は」


「中央へ戻っています。ただ、次の揺れでまた外へ走ります」


「打てる場所は」


「左から中央へ。父が選ばなかった場所です」


「ハーゲン」


「聞こえてる」


「一打で閉じろ」


「簡単に言う」


「失敗したら水へ落とす」


「分かってる」


「分かってる奴の顔じゃない」


「お前にだけは言われたくねえ」


 ハーゲンが槌を上げる。


 アリアは靴留めへ触れなかった。


 父へ答えを求めない。


 今の鉄を見る。


「左、少し内側」


 彼女が言う。


「煤が中央へ巻いています」


「トト」


 伊織が確認する。


「音は」


「今はない」


「次に鳴っても、小型と同じでなければ声を出せ」


「同じか分からなかったら?」


「分からないと言え」


「うん」


 ハーゲンが槌を落とす。


 ごん。


 地鉄の黒い筋が、打点へ折れた。


 銀色の細い線が、その上を走る。


 まだ閉じない。


「次!」


 アリアが叫ぶ。


「中央より左!」


 二打目。


 かん。


 トトの木片は鳴らない。


「次!」


 三打目。


 かん。


 銀色の線が根元へ伸びる。


 黒い筋が髪の毛ほどに細くなる。


 床が再び揺れた。


 木片が一度鳴る。


「違う音!」


 トトが叫ぶ。


「小さい子とは同じじゃない!」


 ハーゲンは止めない。


 最後の一打。


 澄んだ音が、鍛冶場へ広がった。


 かん。


 黒い筋が消える。


 地鉄の先端から根元へ、銀色の線だけが残った。


 外へ向かわない。


 打たれた場所へ戻り、そこで閉じている。


「細い方を」


 ハーゲンが言う。


 ガルドが二本目の地鉄を炉から出す。


 ヴォルフが太い地鉄へ重ねる。


 槌が続く。


 一打ごとに、アリアが熱を読む。


 トトが音を聞く。


 伊織が白墨線を見る。


 黒い筋は戻らない。


 二本の地鉄が一つになり、先端は鋭くしすぎず、胴は太く、根元には槌を受ける広い面が残された。


 貫くための形ではない。


 流れを受け、打点へ折り返すための形。


 ハーゲンが水桶へ入れる。


 蒸気が鍛冶場を覆った。


 誰も声を出さない。


 白い湯気の中で、トトの木片が一度震える。


 かん。


「どの音だ」


 ハーゲンが尋ねる。


 トトは目を閉じる。


「分からない」


「小さい奴か」


「近い気はする。でも、同じとは言えない」


「なら、それでいい」


 ハーゲンは水桶から楔を引き上げた。


 銀色の線が、濡れた鉄肌に残っている。


「最後の線ですか」


 アリアが尋ねる。


「図面に引く線じゃねえ」


 ハーゲンは完成した楔を布の上へ置いた。


「返事を待ち、打つ場所を決めた時にだけ残る線だ」


 アルドが持ち出したものは、形ではなかった。


 誰かの沈黙を都合のよい許可に変えず、それでも打たなければならない時に、責任を引き受けるための間だった。


 伊織は楔を見る。


「一本、作動した」


「ああ」


 エルザが頷く。


「残る固定鋲は、少なくとも二本です」


「次は地下だ」


 ガルドが革袋を広げる。


「運べる温度まで待て」


 ハーゲンが言う。


「今回は分かってる」


「信用できねえ」


 楔の銀色の線は、外へ伸びなかった。


 トトは一度、二度と木片を鳴らした。


 地下から返事は来ない。


 小さな六本指が待っているのか、音の届かない場所へ移ったのかは分からなかった。


 トトはもう一度鳴らそうとしたが、手を止めた。


「どうした」


 アリアが聞く。


「呼びすぎたら、また返さないといけなくなるから」


 木片を胸元へ戻す。


「今は、ぼくたちが行く番だと思う」


 誰も、それを小さな六本指の答えだとは言わなかった。


 伊織たち自身の答えだった。


 白い蒸気が薄れていく。


 その向こうで、還しの楔が静かに冷えていた。


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