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第88話 聞く子

 再び旧排水路へ降りると決まった時、ハーゲンは反対しなかった。


 ただし、探り杭は持たせなかった。


「音を追うだけなら、こいつで足りる」


 金床の上に置かれたのは、指ほどの長さの灰色の鉄片だった。片側は平らに潰され、反対側には革紐を通す小さな輪がある。武器にも工具にも見えない。


 ハーゲンはそれを、トトの木片を囲む鉄枠へ結びつけた。


「向こうから音が来たら、同じ間で返せ」


「一回、二回、一回?」


「ああ」


「違う音だったら?」


「聞いたとおりに返す。意味を勝手に作るな」


 トトは鉄片を木片へ軽く当てた。


 かん。


 小さく澄んだ音が、鍛冶場の奥まで届く。


「これなら聞こえるかな」


「線が切れてなければな」


「線は見えないね」


「見えない方が多い」


 ハーゲンは短く答え、炉の方を向いた。


 今回、地下へ降りるのは伊織、アリア、ガルド、ヴォルフ、リナ、トト、そしてクロだった。エルナとエルザは地上へ残り、崩れた入口と技術部の捕虜を管理する。


 伊織の左腕は、固定帯で身体へ寄せられていた。


 指は少し動く。


 だが、強く握ろうとすれば、肩から肘へ鋭い痺れが走る。具現を禁じたのはリナではなく、伊織自身だった。


「本当に使いませんね」


 リナが確認する。


「ああ」


「黒鋼灯も?」


「あれは俺が出してない」


 クロの頭上には、既に小さな黒い光が浮かんでいた。


 伊織が意識して呼んだものではない。クロが眠れば薄れ、目を覚ますと再び現れる。便利ではあるが、何とつながっているのかは分からなかった。


「分からない力を頼りすぎるな」


 伊織が言う。


「東さんが言うのですか」


 アリアが黒鋼灯を見る。


「俺だから言う」


 アリアの耳が僅かに動いた。


 右腕はまだ布で吊られている。腰に剣はない。地下へ置いてきたままだ。


 代わりに、ガルドから渡された短い木棒を左手に持っていた。敵と戦うためではなく、足元や壁を確かめるためのものだ。


「今日は戦わない」


 伊織が言った。


「敵が出ても?」


「ガルドとヴォルフが止める。足りなければ戻る」


「東さんも?」


「ああ」


 アリアは伊織の左腕を見た。


「聞きました」


「俺もだ」



 塞いでいた板を外すと、旧排水路の奥から冷たい空気が流れ出た。


 板の裏側には、六本指が引っ掻いた傷が幾つも残っている。深いものは木の半分近くまで達していたが、破られてはいなかった。


 先頭はガルド。


 その後ろをヴォルフが守り、伊織とアリア、トト、リナが続く。クロは隊列の前後を行き来し、頭上の黒鋼灯が丸い石壁を淡く照らしていた。


 全員の腰には縄が結ばれている。


「声は届いています!」


 入口の上から、エルナの声が降ってきた。


「一回で停止、二回で声が届かない、三回で引き上げます!」


「聞こえてる!」


 ガルドが返す。


 中へ入る。


 前に倒した機構体があった場所には、白い殻だけが残されていた。


 透明な核も、黒い繊維もない。泥の上には、複数の六本指が集まり、何かを持ち上げて奥へ運んだ跡が残っている。


「回収したのですね」


 アリアが言った。


「壊れた道具を片づけただけかもしれねえ」


 ガルドは鉄棒を構えたまま答える。


「それでも、置き去りにはしなかった」


 アリアは白い殻を見た。


 言葉に意味を足しすぎてはいない。事実として、仲間らしき個体を運び去った痕跡がある。


 クロが一声吠えた。


 全員が止まる。


 奥から音が来た。


 かん。


 一度。


 少し間を置いて、二度。


 かん。かん。


 さらに一度。


 かん。


 ハーゲンが知る、古い合図。


 打つな。


 聞いている。


 伊織は壁と天井を見回した。


 六本指の姿はない。


 クロも唸っていない。


「返せ」


 トトが鉄片を木片へ当てる。


 一度。


 二度。


 一度。


 音が狭い排水路を奥へ流れた。


 返事はすぐには来なかった。


 風が黒い泥の表面を撫で、黒鋼灯の光が僅かに揺れる。


 やがて、奥から一度。


 間を置き、三度。


 かん。


 かん。かん。かん。


「同じように返すよ」


 トトが鳴らす。


 一度。


 三度。


 今度は、石を掴む音が近づいてきた。


 ガルドが鉄棒を上げる。


 ヴォルフも長槌を両手で持つ。


「打つなって言ったのに」


 トトが呟く。


「向こうが同じ意味で使ってるとは限らねえ」


 ガルドの声は低い。


 黒鋼灯の端へ、白い指が一本現れた。


 二本。


 三本。


 最後に六本すべてが、壁の継ぎ目を掴む。


 姿を見せたものは、前に襲ってきた機構体より小さかった。


 トトより頭一つほど低く、白い殻も薄い。腕と脚は細く、腹側に垂れる黒い繊維は乾いていた。額には透明な玉が埋め込まれているが、中の黒い歯車は一枚しかない。


 小さな六本指は、壁へ張りついたまま動かなかった。


 目はない。


 それでも、トトの胸元にある木片を見ているように思えた。


「打たないで」


 トトが言う。


「まだ打ってねえ」


 ガルドの鉄棒は下がらない。


 小さな六本指が、一本の指で壁を叩いた。


 一度。


 三度。


 トトが同じ音を返す。


 透明な玉が淡く光った。


 小さな六本指は、一歩だけ近づいた。


 ガルドの鉄棒が僅かに動く。


「待て」


 伊織が止めた。


「縄を狙うかもしれねえ」


「手を見ろ」


 六本の指は壁を掴んだまま。


 鉤を開いていない。


 腹も膨らんでいない。


 水針を放つ兆候はなかった。


 小さな六本指は胸元の黒い繊維へ手を差し入れた。


 ヴォルフの長槌が上がる。


 出てきたのは、古びた革紐だった。


 先には、半円形の金属片が結ばれている。


 縁に三つの傷。


 アリアの呼吸が止まった。


「知っているのか」


 伊織が尋ねる。


「あれは、父の靴留めです」


「間違いない?」


「傷をつけたのは私です」


 幼い頃、父の靴を磨こうとして石床へ落とした。アルドは叱らず、これなら自分の物だと分かる、と笑った。


 アリアは一歩進む前に声を出す。


「近づきます」


「一歩だけ」


「はい」


 左足を前へ出す。


 小さな六本指は逃げなかった。


 金属片を石床へ置き、後ろへ下がる。


 アリアはすぐには拾わない。


「取っても?」


 返事はない。


 トトが一度だけ木片を鳴らした。


 小さな六本指も、壁を一度叩く。


 肯定とは限らない。


 ただ真似ているだけかもしれない。


 それでも、金属片を置いた後に自ら距離を取ったことは、受け取らせようとしている行動に見えた。


 アリアは膝をつく。


 左手で靴留めを拾い、掌の上で裏返す。


 三つの傷。


 中央だけ深い。


 彼女の記憶にあるものと同じだった。


「父を知っていますか」


 小さな六本指は、同じ音を返した。


 一度。


 二度。


 一度。


 アリアはそれ以上、答えを求めなかった。


 分からないものへ、望んだ意味を押しつけない。


 靴留めを握り、立ち上がる。


 小さな六本指は奥へ向きを変えた。


 数歩進む。


 そこで止まる。


 振り返る。


 また数歩。


 再び止まる。


「ついて来い、か?」


 ヴォルフが言う。


「まだ分かりません」


 アリアが答える。


 小さな六本指は、その先へ進まなかった。


 床へ指を伸ばし、黒い泥の一部を二度叩く。


 泥の下で細い線が光った。


 次の瞬間、床から水針が一本だけ噴き出す。


 何も知らずに踏み込んでいれば、先頭の足を貫いていた。


 小さな六本指は水針が収まるまで待ち、安全な壁際へ六本の指を並べて置く。


 道を示している。


 少なくとも、こちらを罠へ誘おうとしてはいない。


「追う」


 伊織が言った。


「声が届く範囲までです」


 リナが確認する。


「ああ」


「具現は」


「しない」


「戦闘になれば」


「戻る」


 小さな六本指は、全員が動き始めるまで待っていた。



 旧排水路の先は、二つに分かれていた。


 右は水位線が高く、泥も新しい。


 正規の山水路へ続く方向だ。


 左は狭く、壁には六本指が掴むための穴が並んでいる。小さな個体は左へ入ったが、人間が横向きで進める程度の幅は残されていた。


 何度か、小さな六本指が足を止めた。


 そのたびに壁や床を叩く。


 黒い筋が走る場所。


 触れれば沈む石。


 天井から水針が落ちる位置。


 こちらが危険を確認し、避けて進むまで待つ。


 偶然、同じ方向へ移動しているわけではなかった。


 案内している。


 そう判断できるだけの行動が積み重なっていた。


 やがて、小さな六本指は壁の前で止まった。


 何もない石壁。


 六本の指を異なる継ぎ目へ入れ、順番に捻る。


 内部で重い石が動いた。


 人一人が通れる隙間が開く。


 小さな部屋だった。


 壁には小型の槌や火箸、細い鋸が掛けられている。人間用より小さく、六本の指で握れるよう、柄には複数の窪みが刻まれていた。


 床の中央には、古い作業台がある。


 その上に、灰色の布で包まれたものが置かれていた。


 小さな六本指は部屋へ入らない。


 入口の横へ座り、透明な玉の光を弱めた。


「見せたいものがあるらしい」


 ガルドが言う。


「そう見えます」


 アリアはすぐに入らない。


 床。


 天井。


 作業台の下。


 クロも唸っていない。


「入ります」


 伊織が頷く。


「俺は入口を見る」


 アリアは左手を壁へ添え、部屋へ入った。


 作業台の前に立つ。


 布を開く。


 中から現れたのは、小型の鍛造槌だった。


 柄は黒く擦れ、長く握られていた場所だけ色が薄い。槌頭の片側には白い線が刻まれ、もう片側には細い文字が彫られている。


 アリアが指でなぞる。


「何と書いてある」


 伊織が聞く。


「聞こえているなら、打つな」


 それだけだった。


 続きはない。


 扉の場所も、心臓への道も、アルドがどうなったのかも書かれていない。


 ただ、ハーゲンとアルドだけが使っていた合図と同じ言葉が、その槌へ残されている。


 父はここにいた。


 小さな六本指と音を交わし、何かを打ち、そして槌を置いていった。


 アリアは左手を柄へ伸ばした。


 触れる寸前で、止まる。


 小さな六本指を見る。


 透明な玉は弱く光っている。


 威嚇してはいない。


 止めてもいない。


 それでも、槌のそばで長い時間を過ごし、アルドの靴留めを守り、同じ合図を返し続けていたのは、この小さな存在だった。


「持ち帰らないのか」


 伊織が尋ねる。


「持って帰りたいです」


 アリアは正直に答えた。


 声は静かだったが、左手の指は僅かに震えている。


「父が使ったものです。父が何を考えていたのか、この槌を見れば分かる気がします」


「なら」


「でも、それは私が欲しい答えです」


 アリアは手を引いた。


「父がここへ置いた理由は、まだ分かりません。この子が守っていた理由も」


 灰色の布を元へ戻す。


 槌が見えなくなる。


「分からないまま、娘だからという理由だけで持っていくことはできません」


 小さな六本指が、壁を一度叩いた。


 かん。


 トトが同じ音を返す。


 かん。


 アリアは作業台から離れた。


 靴留めだけは、左手の中に残している。


 渡されたもの。


 置かれたままのもの。


 その違いを、彼女は自分の望みで曖昧にしなかった。


「戻ります」


 アリアが部屋を出る。


「もういいの?」


 トトが尋ねる。


「聞けたことがあります」


「何を?」


 アリアは小さな六本指を見る。


「父が、一人ではなかったことを」


 小さな六本指は答えない。


 ただ、透明な玉の光を僅かに強めた。


 伊織たちは元来た道を戻る。


 小さな六本指は作業部屋の前から動かなかった。


 トトが最後に、一度だけ木片を鳴らす。


 かん。


 石壁の奥から、同じ音が返った。


 かん。


 アリアは振り返らなかった。


 左手の中には父の靴留め。


 父の槌は、守り続けた小さな六本指のそばへ残したままだった。


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