表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
89/105

第87話 帰らなかった男

 鍛冶場へ戻った時、伊織の左手はまだ開いたままだった。


 指を曲げようとすると、肘の内側から肩へ鋭い痺れが走り、力を込める前に感覚が抜ける。痛みだけなら耐えられる。だが、動かそうとしても動かないという事実は、痛みよりもはっきりと身体の限界を伝えていた。


「座ってください」


 リナが言った。


「先に杭を」


「座ってください」


「技術部が」


「東さん」


 声が低い。


 伊織は木箱へ腰を下ろした。


 リナは左肩の包帯を外し、血のにじんだ布を炉の明かりへかざした。傷そのものは深くない。問題は、同じ場所へ何度も衝撃を通したことだった。


「筋が腫れています。具現するたび、左肩から先へ負担が逃げていません」


「右手が使えないからな」


「だから左も壊すのですか」


「壊すつもりはない」


「壊す人は、大抵そう言います」


 固定帯が追加される。


 左腕まで完全に吊られれば、何もできない。


 伊織が口を開く前に、リナが見た。


「今日は左手を使わせません」


「敵が来たら」


「ガルドさんとヴォルフさんがいます」


「足りなければ」


「その時は私が判断します」


「医者が戦うのか」


「あなたを止める方をです」


 伊織は黙った。


 少し離れた場所では、アリアも右肩を診られていた。


 吊り布の下にある腫れは、旧排水路へ入る前より大きくなっている。六本指に引かれた時、傷そのものだけでなく、治りかけていた内部まで再び傷めたらしい。


「右腕は動かしていません」


 アリアが言う。


「引かれた時点で同じです」


「自分から前へ出て、力を逃がしました」


「完全には逃がせていません」


「でも、腕は残っています」


「残っていれば使ってよい、とはなりません」


 リナは伊織を見た。


「似た人が二人います」


「似ていません」


 アリアの返答が速かった。


 ガルドが探り杭を革筒から出しながら、鼻で笑う。


「そこだけは息が合うな」


「どういう意味ですか」


「今はそれどころじゃねえ」


 ガルドは答えず、杭を金床の横へ置いた。


 奪われた探り杭。


 技術部に何度も打たれ、黒い筋が太くなっている。先端には旧排水路とは違う、黒く粘ついた泥が残っていた。


 ハーゲンは触らない。


 杭の周囲を一周し、火の入った炉と、金床と、トトの木片を順番に見た。


「坊主」


「うん」


「今も鳴ってるか」


 トトは首から下げた木片を両手で包む。


「さっきから、小さく」


「何回だ」


「一回。少し待って、二回」


「同じ場所からか」


「分からない」


「分からないなら、それでいい」


 ハーゲンは長い火箸で探り杭を挟んだ。


 鉄が金床へ載る。


 その瞬間、トトの木片が震えた。


 かん。


 全員が黙る。


 間を置いて、二度。


 かん。かん。


「今の?」


 ガルドが尋ねる。


 トトは頷いた。


「杭が呼んでる」


「どこを」


「遠いところ」


 ハーゲンが杭の黒い筋を見た。


「三か所で打たれてる」


「分かるのか」


「跡が違う。一つは白い石。もう一つは濡れた岩。最後は、もっと柔らかい場所だ」


「土ですか」


 エルナが帳面を開く。


「土じゃねえ。鉄が沈んでる」


「別の鉄?」


「大きいものだ」


 ハーゲンは火箸で杭を回した。


 黒い筋の一部だけが、金床の方向へ向こうとする。


「技術部は、何に打った」


 問いは、鍛冶場の隅へ向けられた。


 銀色の布で顔の下半分を覆っていた男が、柱へ縛られている。


 水路で捕らえた者の中で、唯一、探り杭の使い方を知っていた男だ。


 腕は背中へ回されている。


 足首にも縄。


 リナの治療を受けた後も、名を言わなかった。


「答えなくていい」


 伊織が言った。


 男が伊織を見る。


「何を打ったかは、杭が覚えてる」


「なら聞けばいい」


 初めて声を出した。


 掠れている。


「聞く」


 ハーゲンが槌を取る。


「お前が喋らなくてもな」


 槌は強く落とさなかった。


 探り杭の先端へ、軽く一打。


 こん。


 音は鍛冶場へ広がらず、鉄の中へ沈んだ。


 トトの木片が震える。


「白い石」


 二打目。


 こん。


「水の中」


 三打目。


 こん。


 トトはすぐに答えなかった。


 木片を強く握る。


「大きい音」


「場所は」


「下」


「水より深いか」


「うん」


「どんな音だ」


「ずっと鳴ってる」


 銀布の男の肩が、僅かに動いた。


 エルナが見逃さない。


「心臓ですか」


 返事はない。


「心臓へ杭を打ったのですか」


 アリアが男を見る。


 薄紫の瞳には、怒りより先に冷たさがあった。


「答えてください」


「まだ届いていない」


 男は言った。


「何が」


「本体には」


「では、何へ打った」


「外皮だ」


 ガルドの眉が寄る。


「心臓に皮があるのか」


「呼び名だ。俺たちも中身は見ていない」


「止めるために打ったのですか」


 アリアが尋ねる。


 男はしばらく黙っていた。


「固定するためだ」


 鍛冶場の音が消える。


「何を固定する」


 伊織が聞く。


「脈の向き」


「止めるんじゃないのか」


「止めれば、都の東根も死ぬ」


 エルザが顔を上げた。


「その可能性を、長老会は知っているのですか」


「知らない者もいる」


「知っている者は」


「いる」


「誰ですか」


「言っても変わらない」


「変わるかどうかを決めるのは、あなたではありません」


 エルザの声は静かだった。


 銀布の男は彼女を見た。


「技術部は、心臓を止める気なんてない」


 男が言う。


「東へ流れている脈を都へ向け直す。大樹が失った力を戻す。そのために、三本の杭で外皮を固定する」


「三本」


 ガルドが探り杭を見る。


「こいつを三本使うのか」


「それは位置を探る杭だ。固定鋲は車両に積んである」


 先行した機構車両。


 封鎖具。


 固定鋲。


 掘削器具。


 すべて、心臓を止めるためではなかった。


 心臓の向きを変え、白い都へつなぎ直すための装備だった。


「外縁へ流れているものを奪う?」


 アリアの問いに、男は答えない。


「東の集落がどうなるか、分かっているのですか」


「命令には含まれていない」


「聞いているのは命令ではありません」


 アリアが一歩近づく。


「人が住んでいます。水を使い、根の上で暮らしている。その人たちがどうなるかを、あなたは考えましたか」


「俺は技術兵だ」


「答えになっていません」


「考えても、任務は変わらない」


「それでも、考えたのですか」


 男の目が一度だけ逸れた。


 それが答えだった。


 アリアはそれ以上聞かなかった。


 怒鳴ることも、責める言葉を重ねることもしない。ただ、男の顔を覚えるように見てから、探り杭へ視線を戻した。


「父は、この計画を知っていたのでしょうか」


 誰へ向けた問いか分からなかった。


 ハーゲンが槌を置く。


「知ったから、戻らなかった可能性はある」


 アリアが振り返る。


「どういう意味ですか」


「お前が見た靴跡」


「断定はできません」


「踵の外側が減っていたんだろ」


「はい」


「アルドは左脚を庇って歩いた」


 ハーゲンは火を見る。


「若い頃、足場から落ちた。骨はつながったが、長く歩くと左の膝が外へ逃げた。靴の踵も、いつも同じ場所から減った」


 アリアは口を開かない。


 知らなかったのではない。


 知っていたことを、他人の口から確かめられた。


「父です」


 ようやく言う。


「おそらく」


 エルナが訂正しようとする前に、アリアは首を振った。


「父です」


 今度は迷いがなかった。


「小さい頃、遠くへ歩いた日の夜だけ、左脚を揉んでいました。私が見ると、何でもないと言って隠していました」


 書斎。


 出されなかった手紙。


 東へ向かった足跡。


 六本指の小さな足跡。


 それらが、一人の男へつながっていく。


「父は心臓へ行った」


 アリアが言う。


「そして、都へ戻らなかった」


「戻れなかったかもしれない」


 エルナが慎重に言う。


「いいえ」


 アリアは探り杭を見る。


「戻らなかったのだと思います」


「なぜ」


 伊織が尋ねる。


 アリアはすぐには答えなかった。


 炉の火が揺れる。


 槌を置いたハーゲン。


 柱へ縛られた技術兵。


 首から木片を下げたトト。


 全員を見てから、言葉を選ぶ。


「戻れば、知ったことを奪われるからです」


「記録を隠すためか」


「それだけではありません」


 アリアの視線が、銀布の男へ向く。


「父が心臓の位置を知っていたなら、機構は父に案内させようとしたはずです。拒めば、記憶を照合する。書斎の手紙を読んだ者がいたように、父が隠したものも探す」


「だから中へ残った」


「父自身を、道にさせないために」


 伊織は旧排水路の靴跡を思い出す。


 引き返した跡はなかった。


 小さな六本指と並び、奥へ向かっていた。


 逃げた男の足跡ではない。


 追い詰められた男の足跡とも違う。


 自分で行き先を決めた歩き方だった。


「小さい足跡は何だ」


 ガルドが尋ねる。


 銀布の男は首を振る。


「知らない」


「六本指の機構体だ」


「小型は確認されていない」


「なら、技術部より先にいた」


 ハーゲンが探り杭を見下ろす。


「心臓を守ってる連中が、最初から全部同じ形だったとは限らねえ」


「子供ですか」


 トトが聞いた。


「機構体に子供がいるかは知らん」


「でも、小さかったんでしょ」


「足跡はな」


「アルドと一緒に歩いてた」


「ああ」


「じゃあ、敵じゃなかったのかな」


 誰も答えられなかった。


 伊織たちを襲った六本指は、明確な敵だった。


 縄を狙い、水を撃ち、地上へ出ようとした。


 だが、小さな足跡はアルドの靴と並んでいた。


 同じ六本指でも、同じ役割とは限らない。


「音をもう一度聞く」


 ハーゲンが言った。


「杭を打つのですか」


 エルナが尋ねる。


「この杭には、技術部が打った線と、その前から残っていた線が重なってる」


「前から?」


「ああ」


 ハーゲンは黒い筋の根元を指す。


「新しく打たれた場所は黒い。だが、その下に細い灰色の線がある。何年も前、一度だけ、同じ地鉄へ力を通した跡だ」


「父が使った?」


 アリアが尋ねる。


「可能性はある」


「どうすれば分かりますか」


「新しい音を返す」


 ハーゲンはトトを見る。


「坊主。木片を外すな」


「うん」


「今から打つ音が、杭から返るか、別の場所から返るか聞け」


「違いは分かる?」


「分からなければ、そう言え」


「そればっかり」


「嘘よりましだ」


 トトは木片を両手で持つ。


 ハーゲンが槌を上げた。


 最初の一打。


 かん。


 弱い。


 地鉄の表面だけを確かめる音。


 トトの木片は震えない。


 二打目。


 かん。


 黒い筋の中央。


 木片が小さく鳴った。


「杭から」


「次だ」


 三打目。


 ハーゲンは黒い筋ではなく、その下に残る灰色の線へ槌を落とした。


 こん。


 低い音。


 探り杭の中へ消える。


 長い沈黙。


 炉の火が鳴る。


 外から風が入る。


 誰も動かない。


 やがて、トトの木片が震えた。


 かん。


 一度。


 間を置いて、二度。


 かん。かん。


 トトが目を閉じる。


「杭じゃない」


「どこだ」


「下」


「心臓か」


「違う」


「何が違う」


「小さい」


 木片がもう一度震える。


 今度は四回。


 一定ではない。


 一度。


 間。


 二度続けて。


 さらに少し待って、一度。


 ハーゲンの槌を握る手が止まった。


「知ってる音か」


 伊織が尋ねる。


 ハーゲンは答えない。


 同じ順で、金床を叩く。


 一度。


 二度。


 一度。


 トトの木片が返す。


 同じ間。


 同じ強さ。


「アルドの打ち方だ」


 ハーゲンが言った。


 アリアが息を止める。


「父が?」


「本人とは限らねえ」


「でも」


「この返し方を教えたのは、俺とアルドしかいない」


「何の合図ですか」


 ハーゲンは暗い炉の奥を見るような目をした。


「打つな、という合図だ」


「なぜ」


「音の向こうに、聞いてる奴がいる時に使う」


 木片が再び鳴る。


 一度。


 二度。


 一度。


 誰かが返している。


 何年も前にアルドから音を教わり、今も地下で聞いている何かが。


「父ではないのですか」


 アリアの声は小さかった。


「分からん」


 ハーゲンは、断定しなかった。


「アルド本人かもしれねえ。アルドの打ち方を覚えた誰かかもしれねえ。だが、心臓の脈じゃない」


「六本指の小さいもの?」


 トトが聞く。


 木片が鳴る。


 一度。


 二度。


 一度。


 答えているようにも聞こえる。


 ただ同じ音を返しているだけかもしれない。


「次は、心臓へ行かない」


 伊織が言った。


 ガルドが見る。


「どこへ行く」


「この音の元だ」


「技術部は先へ進んでるぞ」


「だからだ」


 伊織は探り杭を見る。


「先に心臓へ着いても、止め方が分からない。固定鋲を壊しても、六本指に囲まれれば終わる」


「聞いてる奴なら、道を知っているかもしれない」


 エルナが言う。


「敵である可能性もあります」


 エルザが付け加える。


「その時は戻る」


 伊織はアリアを見る。


「声が届く範囲で」


「はい」


 アリアは頷いた。


「聞きに行きます」


 木片が、また同じ音を返した。


 打つな。


 聞いている。


 その二つの意味を持つ古い合図が、炉の明かりの中で何度も繰り返される。


 アルドは帰らなかった。


 だが、彼が地下へ残した音は、まだ誰かに届いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ