第87話 帰らなかった男
鍛冶場へ戻った時、伊織の左手はまだ開いたままだった。
指を曲げようとすると、肘の内側から肩へ鋭い痺れが走り、力を込める前に感覚が抜ける。痛みだけなら耐えられる。だが、動かそうとしても動かないという事実は、痛みよりもはっきりと身体の限界を伝えていた。
「座ってください」
リナが言った。
「先に杭を」
「座ってください」
「技術部が」
「東さん」
声が低い。
伊織は木箱へ腰を下ろした。
リナは左肩の包帯を外し、血のにじんだ布を炉の明かりへかざした。傷そのものは深くない。問題は、同じ場所へ何度も衝撃を通したことだった。
「筋が腫れています。具現するたび、左肩から先へ負担が逃げていません」
「右手が使えないからな」
「だから左も壊すのですか」
「壊すつもりはない」
「壊す人は、大抵そう言います」
固定帯が追加される。
左腕まで完全に吊られれば、何もできない。
伊織が口を開く前に、リナが見た。
「今日は左手を使わせません」
「敵が来たら」
「ガルドさんとヴォルフさんがいます」
「足りなければ」
「その時は私が判断します」
「医者が戦うのか」
「あなたを止める方をです」
伊織は黙った。
少し離れた場所では、アリアも右肩を診られていた。
吊り布の下にある腫れは、旧排水路へ入る前より大きくなっている。六本指に引かれた時、傷そのものだけでなく、治りかけていた内部まで再び傷めたらしい。
「右腕は動かしていません」
アリアが言う。
「引かれた時点で同じです」
「自分から前へ出て、力を逃がしました」
「完全には逃がせていません」
「でも、腕は残っています」
「残っていれば使ってよい、とはなりません」
リナは伊織を見た。
「似た人が二人います」
「似ていません」
アリアの返答が速かった。
ガルドが探り杭を革筒から出しながら、鼻で笑う。
「そこだけは息が合うな」
「どういう意味ですか」
「今はそれどころじゃねえ」
ガルドは答えず、杭を金床の横へ置いた。
奪われた探り杭。
技術部に何度も打たれ、黒い筋が太くなっている。先端には旧排水路とは違う、黒く粘ついた泥が残っていた。
ハーゲンは触らない。
杭の周囲を一周し、火の入った炉と、金床と、トトの木片を順番に見た。
「坊主」
「うん」
「今も鳴ってるか」
トトは首から下げた木片を両手で包む。
「さっきから、小さく」
「何回だ」
「一回。少し待って、二回」
「同じ場所からか」
「分からない」
「分からないなら、それでいい」
ハーゲンは長い火箸で探り杭を挟んだ。
鉄が金床へ載る。
その瞬間、トトの木片が震えた。
かん。
全員が黙る。
間を置いて、二度。
かん。かん。
「今の?」
ガルドが尋ねる。
トトは頷いた。
「杭が呼んでる」
「どこを」
「遠いところ」
ハーゲンが杭の黒い筋を見た。
「三か所で打たれてる」
「分かるのか」
「跡が違う。一つは白い石。もう一つは濡れた岩。最後は、もっと柔らかい場所だ」
「土ですか」
エルナが帳面を開く。
「土じゃねえ。鉄が沈んでる」
「別の鉄?」
「大きいものだ」
ハーゲンは火箸で杭を回した。
黒い筋の一部だけが、金床の方向へ向こうとする。
「技術部は、何に打った」
問いは、鍛冶場の隅へ向けられた。
銀色の布で顔の下半分を覆っていた男が、柱へ縛られている。
水路で捕らえた者の中で、唯一、探り杭の使い方を知っていた男だ。
腕は背中へ回されている。
足首にも縄。
リナの治療を受けた後も、名を言わなかった。
「答えなくていい」
伊織が言った。
男が伊織を見る。
「何を打ったかは、杭が覚えてる」
「なら聞けばいい」
初めて声を出した。
掠れている。
「聞く」
ハーゲンが槌を取る。
「お前が喋らなくてもな」
槌は強く落とさなかった。
探り杭の先端へ、軽く一打。
こん。
音は鍛冶場へ広がらず、鉄の中へ沈んだ。
トトの木片が震える。
「白い石」
二打目。
こん。
「水の中」
三打目。
こん。
トトはすぐに答えなかった。
木片を強く握る。
「大きい音」
「場所は」
「下」
「水より深いか」
「うん」
「どんな音だ」
「ずっと鳴ってる」
銀布の男の肩が、僅かに動いた。
エルナが見逃さない。
「心臓ですか」
返事はない。
「心臓へ杭を打ったのですか」
アリアが男を見る。
薄紫の瞳には、怒りより先に冷たさがあった。
「答えてください」
「まだ届いていない」
男は言った。
「何が」
「本体には」
「では、何へ打った」
「外皮だ」
ガルドの眉が寄る。
「心臓に皮があるのか」
「呼び名だ。俺たちも中身は見ていない」
「止めるために打ったのですか」
アリアが尋ねる。
男はしばらく黙っていた。
「固定するためだ」
鍛冶場の音が消える。
「何を固定する」
伊織が聞く。
「脈の向き」
「止めるんじゃないのか」
「止めれば、都の東根も死ぬ」
エルザが顔を上げた。
「その可能性を、長老会は知っているのですか」
「知らない者もいる」
「知っている者は」
「いる」
「誰ですか」
「言っても変わらない」
「変わるかどうかを決めるのは、あなたではありません」
エルザの声は静かだった。
銀布の男は彼女を見た。
「技術部は、心臓を止める気なんてない」
男が言う。
「東へ流れている脈を都へ向け直す。大樹が失った力を戻す。そのために、三本の杭で外皮を固定する」
「三本」
ガルドが探り杭を見る。
「こいつを三本使うのか」
「それは位置を探る杭だ。固定鋲は車両に積んである」
先行した機構車両。
封鎖具。
固定鋲。
掘削器具。
すべて、心臓を止めるためではなかった。
心臓の向きを変え、白い都へつなぎ直すための装備だった。
「外縁へ流れているものを奪う?」
アリアの問いに、男は答えない。
「東の集落がどうなるか、分かっているのですか」
「命令には含まれていない」
「聞いているのは命令ではありません」
アリアが一歩近づく。
「人が住んでいます。水を使い、根の上で暮らしている。その人たちがどうなるかを、あなたは考えましたか」
「俺は技術兵だ」
「答えになっていません」
「考えても、任務は変わらない」
「それでも、考えたのですか」
男の目が一度だけ逸れた。
それが答えだった。
アリアはそれ以上聞かなかった。
怒鳴ることも、責める言葉を重ねることもしない。ただ、男の顔を覚えるように見てから、探り杭へ視線を戻した。
「父は、この計画を知っていたのでしょうか」
誰へ向けた問いか分からなかった。
ハーゲンが槌を置く。
「知ったから、戻らなかった可能性はある」
アリアが振り返る。
「どういう意味ですか」
「お前が見た靴跡」
「断定はできません」
「踵の外側が減っていたんだろ」
「はい」
「アルドは左脚を庇って歩いた」
ハーゲンは火を見る。
「若い頃、足場から落ちた。骨はつながったが、長く歩くと左の膝が外へ逃げた。靴の踵も、いつも同じ場所から減った」
アリアは口を開かない。
知らなかったのではない。
知っていたことを、他人の口から確かめられた。
「父です」
ようやく言う。
「おそらく」
エルナが訂正しようとする前に、アリアは首を振った。
「父です」
今度は迷いがなかった。
「小さい頃、遠くへ歩いた日の夜だけ、左脚を揉んでいました。私が見ると、何でもないと言って隠していました」
書斎。
出されなかった手紙。
東へ向かった足跡。
六本指の小さな足跡。
それらが、一人の男へつながっていく。
「父は心臓へ行った」
アリアが言う。
「そして、都へ戻らなかった」
「戻れなかったかもしれない」
エルナが慎重に言う。
「いいえ」
アリアは探り杭を見る。
「戻らなかったのだと思います」
「なぜ」
伊織が尋ねる。
アリアはすぐには答えなかった。
炉の火が揺れる。
槌を置いたハーゲン。
柱へ縛られた技術兵。
首から木片を下げたトト。
全員を見てから、言葉を選ぶ。
「戻れば、知ったことを奪われるからです」
「記録を隠すためか」
「それだけではありません」
アリアの視線が、銀布の男へ向く。
「父が心臓の位置を知っていたなら、機構は父に案内させようとしたはずです。拒めば、記憶を照合する。書斎の手紙を読んだ者がいたように、父が隠したものも探す」
「だから中へ残った」
「父自身を、道にさせないために」
伊織は旧排水路の靴跡を思い出す。
引き返した跡はなかった。
小さな六本指と並び、奥へ向かっていた。
逃げた男の足跡ではない。
追い詰められた男の足跡とも違う。
自分で行き先を決めた歩き方だった。
「小さい足跡は何だ」
ガルドが尋ねる。
銀布の男は首を振る。
「知らない」
「六本指の機構体だ」
「小型は確認されていない」
「なら、技術部より先にいた」
ハーゲンが探り杭を見下ろす。
「心臓を守ってる連中が、最初から全部同じ形だったとは限らねえ」
「子供ですか」
トトが聞いた。
「機構体に子供がいるかは知らん」
「でも、小さかったんでしょ」
「足跡はな」
「アルドと一緒に歩いてた」
「ああ」
「じゃあ、敵じゃなかったのかな」
誰も答えられなかった。
伊織たちを襲った六本指は、明確な敵だった。
縄を狙い、水を撃ち、地上へ出ようとした。
だが、小さな足跡はアルドの靴と並んでいた。
同じ六本指でも、同じ役割とは限らない。
「音をもう一度聞く」
ハーゲンが言った。
「杭を打つのですか」
エルナが尋ねる。
「この杭には、技術部が打った線と、その前から残っていた線が重なってる」
「前から?」
「ああ」
ハーゲンは黒い筋の根元を指す。
「新しく打たれた場所は黒い。だが、その下に細い灰色の線がある。何年も前、一度だけ、同じ地鉄へ力を通した跡だ」
「父が使った?」
アリアが尋ねる。
「可能性はある」
「どうすれば分かりますか」
「新しい音を返す」
ハーゲンはトトを見る。
「坊主。木片を外すな」
「うん」
「今から打つ音が、杭から返るか、別の場所から返るか聞け」
「違いは分かる?」
「分からなければ、そう言え」
「そればっかり」
「嘘よりましだ」
トトは木片を両手で持つ。
ハーゲンが槌を上げた。
最初の一打。
かん。
弱い。
地鉄の表面だけを確かめる音。
トトの木片は震えない。
二打目。
かん。
黒い筋の中央。
木片が小さく鳴った。
「杭から」
「次だ」
三打目。
ハーゲンは黒い筋ではなく、その下に残る灰色の線へ槌を落とした。
こん。
低い音。
探り杭の中へ消える。
長い沈黙。
炉の火が鳴る。
外から風が入る。
誰も動かない。
やがて、トトの木片が震えた。
かん。
一度。
間を置いて、二度。
かん。かん。
トトが目を閉じる。
「杭じゃない」
「どこだ」
「下」
「心臓か」
「違う」
「何が違う」
「小さい」
木片がもう一度震える。
今度は四回。
一定ではない。
一度。
間。
二度続けて。
さらに少し待って、一度。
ハーゲンの槌を握る手が止まった。
「知ってる音か」
伊織が尋ねる。
ハーゲンは答えない。
同じ順で、金床を叩く。
一度。
二度。
一度。
トトの木片が返す。
同じ間。
同じ強さ。
「アルドの打ち方だ」
ハーゲンが言った。
アリアが息を止める。
「父が?」
「本人とは限らねえ」
「でも」
「この返し方を教えたのは、俺とアルドしかいない」
「何の合図ですか」
ハーゲンは暗い炉の奥を見るような目をした。
「打つな、という合図だ」
「なぜ」
「音の向こうに、聞いてる奴がいる時に使う」
木片が再び鳴る。
一度。
二度。
一度。
誰かが返している。
何年も前にアルドから音を教わり、今も地下で聞いている何かが。
「父ではないのですか」
アリアの声は小さかった。
「分からん」
ハーゲンは、断定しなかった。
「アルド本人かもしれねえ。アルドの打ち方を覚えた誰かかもしれねえ。だが、心臓の脈じゃない」
「六本指の小さいもの?」
トトが聞く。
木片が鳴る。
一度。
二度。
一度。
答えているようにも聞こえる。
ただ同じ音を返しているだけかもしれない。
「次は、心臓へ行かない」
伊織が言った。
ガルドが見る。
「どこへ行く」
「この音の元だ」
「技術部は先へ進んでるぞ」
「だからだ」
伊織は探り杭を見る。
「先に心臓へ着いても、止め方が分からない。固定鋲を壊しても、六本指に囲まれれば終わる」
「聞いてる奴なら、道を知っているかもしれない」
エルナが言う。
「敵である可能性もあります」
エルザが付け加える。
「その時は戻る」
伊織はアリアを見る。
「声が届く範囲で」
「はい」
アリアは頷いた。
「聞きに行きます」
木片が、また同じ音を返した。
打つな。
聞いている。
その二つの意味を持つ古い合図が、炉の明かりの中で何度も繰り返される。
アルドは帰らなかった。
だが、彼が地下へ残した音は、まだ誰かに届いていた。




