第86話 六本指
旧排水路の入口は、人が通るために作られたものではなかった。
丸く組まれた石壁は、大人が二人並べば肩が触れるほど狭く、天井も低い。かつて大量の水が通っていたらしく、壁の下半分には幾重もの水位線が残り、その上を黒い泥が血管のように這っていた。
水は流れていない。
それでも、奥から来る風は濡れていた。
伊織の腰には、地上へ続く縄が結ばれている。
後ろにアリア。
さらに先、崩れた入口の上では、ガルドたちが二人分の縄を握っていた。
「聞こえるか」
伊織が声を上げる。
「聞こえます」
アリアの返事が、狭い通路に小さく反響した。
「上は」
「聞こえてる!」
ガルドの声も届く。
「一回で止まれ! 二回で声が届かない! 三回で引き上げる!」
「了解した」
「勝手に縄を外すなよ!」
「分かってる」
「お前の分かってるは信用ならねえ!」
伊織は答えず、腰の結び目を引いた。
固い。
簡単には外れない。
クロは数歩先にいる。
その頭上には、伊織が呼んだ覚えのない黒鋼灯が浮かんでいた。小さな光はクロの歩調に合わせて動き、石壁に残った足跡を照らしている。
裸足に似た跡。
踵から前へ伸びる指は六本。
人間の足より幅が広く、指先だけが深く泥へ沈んでいた。歩いたというより、濡れた地面を掴みながら進んだ跡に見える。
「灯りを消せますか」
アリアが尋ねる。
「試してない」
「こちらの位置も分かります」
「足跡も見えなくなる」
伊織はクロを見る。
灯りは消えない。
自分の左手にも、具現の感覚はなかった。
「このまま行く」
「はい」
「後ろを頼む」
「後方を見ます」
短いやり取り。
互いの考えを先回りせず、役割だけを伝える。
伊織は足跡を追った。
十歩ほど進んだところで、跡が途切れた。
引き返した形跡はない。
右にも左にも続いていない。
「上です」
アリアが言った。
伊織が顔を上げる。
クロが一声吠えた。
止まれ。
全員の動きが止まる。
頭上の黒鋼灯が、僅かに揺れた。
天井の石の一部が、ゆっくりと剥がれた。
石ではなかった。
白い殻に覆われた、人のようなもの。
頭は小さく、腕は異様に長い。腹側には濡れた黒い繊維が束になって垂れ、脚の先から伸びた六本の指が、石の継ぎ目へ食い込んでいる。
顔に目はない。
額の中央に、透明な玉が一つ埋まっていた。
玉の内側で、黒い歯車が回る。
「下がるな」
伊織が言った。
「位置を維持します」
白いものが落ちた。
音はしない。
長い腕だけが先に伸び、鉤状の指が伊織の腰縄を狙う。
身体ではない。
退路を切るつもりだ。
伊織は左手を開く。
黒鋼警棒が掌へ落ちた。
「正面、受ける」
鉤と警棒がぶつかる。
乾いた音。
石でも金属でもない硬さが、左腕へ返ってきた。
伊織は鉤を外へ流す。
白い身体が床へ落ちる。
六本指が泥を掴み、ほとんど倒れた姿勢のまま突進してきた。
低い。
人間の膝の位置に胴がある。
「足元!」
アリアの声。
伊織は右へ避けようとした。
壁が近い。
肩が石へぶつかる。
傷口が裂けたように熱を持った。
一瞬、左手の力が抜ける。
白いものの鉤が、伊織の腰縄へ掛かった。
「縄を取られた!」
伊織が叫ぶ。
上から縄が強く張る。
「引くぞ!」
「まだだ!」
敵は、縄を伝って地上へ登ろうとしている。
白い身体が伊織の脇を抜け、後方へ向きを変えた。
アリアが左手の剣を抜く。
「右脚を止めます」
「頼む」
アリアは踏み込まず、壁を掴んでいた六本指の外側へ剣の峰を当てた。
一つ。
二つ。
指が外れる。
体勢が崩れた。
伊織は警棒を額の透明な玉へ叩き込む。
割れない。
玉の奥で黒い歯車だけが加速する。
白いものの腹が膨れた。
クロが一声吠える。
「離れろ!」
伊織とアリアが後ろへ下がる。
腹の黒い繊維から、水が噴き出した。
細い。
針のように細い水流が、石壁へ突き刺さる。
壁が削れ、白い粉が舞った。
伊織は警棒を消す。
左手を開き直す。
小型のアイギス・プレート。
黒い盾は、完全な形にならなかった。
左半分が欠けたまま、伊織の前へ浮かぶ。
「後ろへ!」
アリアが伊織の背へ入る。
水針が盾へ当たる。
一発ごとに左肩が揺れた。
骨の奥まで響く。
盾の表面に亀裂が走る。
長くは保たない。
「右へ移動!」
アリアが言う。
伊織は盾を僅かに右へ傾ける。
アリアが左から出た。
白いものの背後へ回り込み、黒い繊維へ刃を差し入れる。
「切ります!」
「やれ!」
繊維が半分ほど断たれた。
水針が乱れる。
一条がアリアの外套を裂き、石壁へ抜けた。
アリアは止まらない。
もう一度、剣を引く。
白いものが身体を捻った。
長い腕がアリアの右腕へ伸びる。
吊り布を掴む。
「アリア!」
伊織は盾を消した。
黒い粒子が崩れる。
同時に左手の感覚も薄れた。
警棒を呼ぼうとする。
来ない。
指先に冷たさだけが残る。
白いものが吊り布を引く。
アリアの顔が歪んだ。
右肩が前へ引かれる。
「剣を離せ!」
「まだ切れます!」
「腕が持たない!」
アリアは一度だけ歯を食いしばり、剣を離した。
刃が泥へ落ちる。
空いた左手で吊り布を掴み、自分から前へ出る。
引かれる力を消す。
白いものの腕が縮む。
クロが右から飛び込んだ。
噛みつかない。
六本指の一つへ前足を載せ、体重を掛ける。
白いものが動きを止めた。
「クロ、そのまま!」
伊織は具現を諦めた。
落ちた剣を拾う。
左肩が悲鳴を上げる。
両手では持てない。
左手だけで柄を握り、黒い繊維へ刃を押し込む。
斬るのではない。
傷口を広げる。
「アリア、核を!」
「はい!」
アリアが左手で透明な玉を掴んだ。
熱いのか、顔が強張る。
引く。
抜けない。
黒い繊維が、玉の裏へ束になってつながっている。
「もう一度、繊維を!」
伊織が剣を押す。
刃が繊維の奥へ沈む。
白い身体が激しく暴れた。
クロの前足が外れる。
鉤が伊織の脇腹を掠める。
服が裂けた。
皮膚が熱を持つ。
それでも剣を離さない。
「今だ!」
アリアが核を引き抜いた。
透明な玉が、濡れた音を立てて外れる。
白いものの身体から、一斉に力が抜けた。
六本指が開く。
床へ崩れた。
黒鋼灯が、その上へゆっくり降りる。
伊織は剣を手放した。
左手が震えている。
アリアも透明な玉を泥へ置き、吊り布を押さえていた。
呼吸が浅い。
「腕は」
「動かしてはいません」
「引かれた」
「はい」
「戻るか」
アリアはすぐには答えなかった。
倒れた機構体を見る。
入口までの距離は、まだ声が届く範囲にある。
「あと少しだけ、確認します」
「無理はするな」
「東さんも」
「ああ」
互いに、相手が無理をすることを知っている。
だからこそ、返事を言葉にした。
伊織は上へ声を上げる。
「一体止めた!」
「怪我は!」
リナの声。
「あとで見る!」
「今見せてください!」
「敵がいる!」
「それを先に言ってください!」
ガルドが割り込む。
「何体だ!」
「一体だけ確認した。まだ奥にいる!」
「分かった! 入口は守る!」
クロが通路の奥を見る。
低く唸る。
今度は一声ではない。
唸りが途切れない。
石を引っ掻く音が聞こえた。
一つ。
二つ。
三つ。
左右だけではない。
天井。
壁。
奥の暗がり全体から、無数の六本指が石を掴む音が近づいてくる。
黒鋼灯が奥を照らした。
透明な玉が、幾つも光を返す。
五体。
その後ろにもいる。
最初の一体を止めるだけで、伊織は盾と警棒を失い、左手は震えている。アリアは剣を手放し、右肩を引かれた。
同じ戦いを繰り返せば、次は戻れない。
「撤退する」
伊織が言った。
アリアは敵を見たまま頷く。
「はい」
「クロ、戻れ」
クロが伊織のところまで下がる。
伊織は腰縄を三度引いた。
地上から、すぐに強い力が返ってきた。
「引くぞ!」
ガルドの声。
「まだ待て!」
伊織は倒れた機構体の核を拾おうとする。
左手が動かない。
指先が透明な玉へ触れただけで、鋭い痺れが腕を走った。
「置いていきます」
アリアが言う。
「記録が必要だ」
「私が見ました。形も、中の歯車も覚えています」
「現物があれば」
「持てません」
事実だった。
伊織は核を諦める。
代わりに、落ちた剣をアリアへ渡そうとする。
アリアは受け取らなかった。
「持てないのか」
「持てます」
「なら」
「今は、あなたの手を空けてください」
伊織は剣を見た。
敵の音が近づく。
透明な玉の光が、暗がりから次々に浮かぶ。
武器を持って戻るか。
仲間を引き上げるために手を空けるか。
剣を床へ置いた。
「戻る」
「はい」
二人は入口へ向かう。
クロが先頭。
アリアが中央。
伊織が最後尾。
走れない。
縄に引かれながら、石床を踏む。
背後で、白いものが動いた。
一体が先に来る。
壁を走る。
音が速い。
「右上!」
アリアの声。
「聞いた!」
伊織は振り返らない。
具現もできない。
「クロ、三声!」
クロが三度吠えた。
左。
アリアは即座に左壁へ寄る。
「左へ移動!」
「俺は右!」
伊織は右へ身体を寄せる。
二人の間を、白い腕が突き抜けた。
鉤が空を切る。
クロが振り返り、長い腕へ飛びつく。
噛みつかない。
肩からぶつかり、軌道だけを変える。
白いものが壁へ衝突した。
「クロ、戻れ!」
クロが離れる。
地上から縄が引かれる。
入口が近い。
石壁の継ぎ目から、別の六本指が伸びた。
アリアの腰縄を掴む。
「止まりました!」
アリアが声を上げる。
伊織が振り返る。
鉤ではない。
六本の指すべてで縄を掴み、壁の中から引いている。
アリアの身体が後ろへ引かれる。
「縄を切ります!」
「切るな!」
「このままでは全員が止まります!」
「位置を言え!」
「左壁、腰の高さ!」
伊織は手を伸ばす。
具現は出ない。
落とした剣も、もう遠い。
クロが左壁へ向かう。
二声。
右ではない。
クロ自身が、指の根元へ回る方向を知らせている。
「行け!」
クロはアリアの足元を潜り、壁へ飛びついた。
六本指のうち、外側の一本へ噛みつく。
初めて牙を使った。
石のような表面が欠ける。
指の力が僅かに緩む。
アリアが左手で腰縄を掴み、自分から前へ踏み込む。
「今です!」
伊織は縄を両腕で抱える。
左肩が痛む。
固定された右手も使う。
引く。
アリアの腰が壁から離れた。
クロも牙を離す。
白い指が暗がりへ引っ込んだ。
「引け!」
伊織が叫ぶ。
地上の全員が縄を引く。
最初にクロ。
次にアリア。
最後に伊織。
三人が崩れた水路底へ引き上げられた直後、暗い入口から長い腕が幾本も伸びた。
ガルドが厚い板を穴へ倒す。
ヴォルフが長槌で板の端を打ち、崩れた石の隙間へ食い込ませる。
白い指が板の下から出る。
六本。
さらに六本。
「下がれ!」
ヴォルフが長槌を振る。
指そのものではなく、板の上を叩く。
衝撃で指が引っ込む。
ガルドが石を積む。
「これで長くは持たねえ!」
「長く持たせる必要はない」
伊織は地面へ膝をついた。
呼吸が乱れている。
左手は開いたまま動かない。
「入口を確認できた。戻る」
「その前に傷を見せてください」
リナが伊織の外套を開く。
脇腹に細い裂傷。
深くはない。
だが、左肩の包帯には赤い色が広がっていた。
「具現は」
リナが尋ねる。
「警棒と盾」
「それだけですか」
「ああ」
「拳銃は」
「出してない」
「もう一度、左手を握ってください」
伊織は指を曲げようとする。
動かない。
痺れだけが腕の内側を走る。
リナの表情が変わった。
「今日は、もう使えません」
「戻るだけだ」
「明日もです」
「決めるのは」
「私です」
いつもより強い声だった。
伊織は反論しなかった。
アリアも右腕を診られている。
吊り布の下で、肩の腫れが増していた。
「剣は?」
ガルドが尋ねた。
「置いてきました」
アリアが答える。
「拾いに戻るなよ」
「戻りません」
即答だった。
だが、視線は塞がれた入口へ向いている。
惜しくないわけではない。
それでも、持ち帰るものより、戻ることを選んだ。
トトが近づく。
灰色の枠に囲まれた木片を握っていた。
「下で、何か鳴ってた」
「俺たちの戦う音か」
伊織が聞く。
「違う」
トトは首を振る。
「もっと奥。小さい音」
「何回だ」
「一回だけ」
ハーゲンから教えられたように、トトは聞こえたものだけを答える。
「戻ってきた音じゃなかった。誰かが、叩いた」
エルナが塞いだ入口を見る。
「技術部でしょうか」
「正規路は別方向です」
エルザが答える。
「旧排水路の奥で合流している可能性はあります」
「六本指かもしれねえ」
ヴォルフが言う。
「槌を持っているようには見えなかった」
伊織は立ち上がろうとした。
リナに肩を押さえられる。
「座ってください」
「入口を見るだけだ」
「座ったまま見られます」
伊織は諦め、塞がれた穴へ目を向けた。
板の隙間から、黒鋼灯の光が漏れている。
クロは地上へ戻っている。
それでも灯りだけが、まだ中に残っていた。
淡い光が泥の表面を照らす。
六本指の足跡。
その横に、別の跡があった。
普通の靴底。
古い。
水に削られながらも、踵の外側だけが深く減っている。
アリアが立ち上がった。
「どうした」
伊織が聞く。
「いえ」
答えながら、彼女の視線は靴跡から離れなかった。
見覚えがある。
そう言いかけて、飲み込んだ顔だった。
その隣には、小さな六本指の足跡がある。
追う者と、追われる者の並びではない。
同じ方向へ向かい、互いの歩幅を合わせたように残っている。
黒鋼灯が消えた。
暗闇が入口の奥を覆う。
伊織たちは六本指を一体止めただけだった。
攻略法を見つけたわけではない。
入口を奪ったわけでもない。
ただ、全員で戻り、奥に何がいるかを知った。
そして、そこを歩いた人間がいたことも。




