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第85話 枯れた水路

 新しい探り杭が金床を離れた時、空はまだ白んでいなかった。


 灰色の鉄肌には、前の杭より細い黒線が一本だけ残されている。線は先端から中央まで伸び、そこで途切れていた。心臓へ向かう癖を完全に消したのではなく、地中から返る音を拾えるぎりぎりまで残し、戻る先だけをトトの木片へ打ち直したのだと、ハーゲンは説明した。


「強く打つな」


 火箸で水桶から引き上げながら、ハーゲンが言う。


「岩を割る道具じゃねえ。中が空いてるか、線がどちらへ走ってるか確かめるための杭だ」


 ガルドが厚い布で受け取る。


「何回使える」


「知らん」


「作った奴が知らねえのか」


「打つ場所で変わる。一度で黒い線が戻ることもある。十度打っても何も起きねえこともある」


「壊れた時は」


「手を離せ」


「爆発するのか」


「心臓につながった鉄を握り続けたいなら、好きにしろ」


 ガルドは探り杭を革筒へ収めた。


 トトは木の防壁の後ろではなく、鍛冶場の入口に立っていた。首から下げた木片には、灰色の鉄枠が取りつけられている。


「ぼくも行く」


 また同じ言葉だった。


 今回はガルドも、すぐには否定しなかった。


 山水路へ降りれば、探り杭の音を確かめられるのはトトだけになる。誰かに預けることも、別の道具へ置き換えることもできない役割だった。


「俺の後ろから出るな」


 ガルドが言う。


「うん」


「勝手に杭へ近づくな」


「うん」


「聞こえなかったら、聞こえないと言え」


「それ、ハーゲンにも言われた」


「大事だからだ」


「何回でも言うんだね」


「嫌なら残れ」


「行く」


 トトは木片を握った。


 怖くないわけではない。


 唇はいつもより固く結ばれ、屋敷から持ってきた小さな鞄の紐を、何度も握り直している。それでも目を逸らさなかった。


 リナがトトの鞄を受け取る。


「薬は私が持ちます。あなたは木片だけを持ってください」


「リナも行くの?」


「怪我をしたまま降りようとする人が多すぎますから」


 視線が伊織へ向く。


「俺だけじゃない」


「人数を増やしても無茶が正当化されるわけではありません」


 アリアが吊り布の位置を直す。


「私は戦闘を避けます」


「昨日、同じ言葉を聞いた気がします」


「昨日は言っていません」


「言わずに戦いました」


 アリアは返す言葉を失った。


 クロが鍛冶場の外で待っている。


 左前足の包帯は、さらに薄くなっていた。走れる。飛べる。だが、長く続けば傷が開く可能性は残っている。


 ヴォルフは長槌を肩に担いだまま、ハーゲンへ手を出した。


「骨刃を返せ」


「俺が持ってると思うか」


「長老会へ言え」


「自分で言え」


「お前の顔の方が効く」


「殴られた顔か」


「殴られる前の顔だ」


 ハーゲンは炉へ向き直る。


「帰ってきたら考える」


「帰ってくる前提か」


「死んだ奴に道具は要らん」


「相変わらず口が悪いな」


「お前にだけは言われたくねえ」


 伊織は二人のやり取りを聞きながら、左手を開いた。


 黒い粒子は呼ばない。


 指の動きだけを確かめる。


 昨日より重い。


 門を支えた反動が、肩から手首へ残っている。


「拳銃は二回までです」


 リナが言った。


「一回増えたな」


「交渉ではありません。昨日の状態なら、本来は一回も認めたくありません」


「必要になれば」


「三回目を使う前に、私へ知らせてください」


「何のために」


「止めるためです」


「敵の前でも?」


「敵の前だからです」


 伊織は返事をしなかった。


 リナはそれを了承と受け取らず、伊織の左肩へ追加の固定帯を巻いた。



 枯れた水路は、東根中継所から北へ半刻ほど歩いた場所にあった。


 かつては都の大樹から余分な水を逃がすための流路だったらしいが、現在は底まで乾き、白い石とひび割れた泥だけが長く続いている。両岸には銀葉樹の根が露出し、水を失った地面へ指を食い込ませるように伸びていた。


 先頭はクロ。


 その後ろに伊織とアリア。


 中央にガルドとトト、リナ、エルナ。


 最後尾をヴォルフとエルザが守る。


 装甲車は置いてきた。


 古い排水路は人が通れる幅しかなく、入口までの水路底も、途中から根と崩れた岩で狭くなっている。


「足跡があります」


 エルナが言った。


 乾いた泥に、複数の靴跡が残っている。


 新しい。


 同じ形の靴底。


 技術部の兵が使うものだ。


「何人だ」


 伊織が尋ねる。


「重なっています。少なくとも八人」


「車両の跡は」


「ありません」


「旧道へ回した斥候か」


 エルザが足跡の横へしゃがむ。


「二十四名全員ではありません。正規路を進んだ隊から、一部だけを分けたのでしょう」


「入口を押さえるには足りる」


 ヴォルフが水路の両岸を見る。


 静かだった。


 鳥の声もない。


 風が根の間を抜ける音だけが、乾いた水路へ低く残っている。


 クロが立ち止まった。


 一声。


 全員が動きを止める。


 停止の合図。


 クロは右岸の根を見ている。


 鼻を動かす。


 二声。


 右。


 低い唸り。


「右に敵」


 伊織が伝える。


「数は見えません」


 アリアが左手を剣の柄へ置く。


「右岸、俺が見る。アリアは左を維持」


「左を維持します」


「クロ、中央へ戻れ」


 クロが水路底へ下がる。


 命令が伝わってから動く。


 根の上で何かが揺れた。


 銀色の筒。


「伏せろ!」


 伊織の声と同時に、捕縛線が飛んだ。


 一本。


 二本。


 三本。


 右岸から水路底へ斜めに張られる。


 退路を断つ配置。


 伊織は左手を開く。


 拳銃。


 輪郭が固まる。


「右上、筒を撃つ!」


「射線、空けます!」


 アリアが左岸側へ寄る。


 クロは伏せる。


 発砲。


 右岸の根の間で火花が散る。


 捕縛筒が一つ砕けた。


 男が根から転げ落ちる。


 残る二本の銀線が水路の底へ刺さり、左右の根へ固定された。


「前からも来ます!」


 エルナが叫ぶ。


 枯れた流路の奥。


 白い外套の男が四人、横へ広がっていた。


 短槍が二人。


 捕縛筒が一人。


 最後の一人は、黒い板を胸の前へ構えている。


 盾ではない。


 表面に細かな穴がある。


「目を閉じろ!」


 エルザが声を上げる。


 黒い板から白い粉が噴き出した。


 匂いを消す粉。


 視界を奪い、クロの鼻も封じるつもりだ。


「トト、下がる!」


 ガルドが宣言し、トトを背後の岩陰へ押す。


「下がった!」


 トトが返す。


 リナがその前へ入る。


 白い粉が水路を満たす。


 クロがくしゃみをした。


 鼻を地面へ擦ろうとする。


「クロ、動くな!」


 一声。


 クロがその場で伏せる。


 前方から足音。


 四つ。


 左右からも降りてくる。


 敵は視界を奪った状態で囲むつもりだ。


「位置を言え」


 伊織が叫ぶ。


「左岸下、二人!」


 アリアの声。


「後方右、一人!」


 ヴォルフ。


「正面、四人接近!」


 エルザ。


「ガルド、トトを維持!」


「維持してる!」


 白い粉の中で、短槍が伸びる。


 伊織は見えない。


 足音を聞く。


 正面。


 低い。


 突きではなく、足を狙っている。


「正面、受ける!」


 黒鋼警棒を具現。


 槍の柄へ下から当てる。


 硬い音。


 軌道が上がる。


 伊織は前へ入る。


 相手の姿が粉の中へ浮く。


 肩。


 肘。


 腰。


 警棒を手首へ落とす。


 槍が地面へ落ちた。


 二人目が右から来る。


「右、一人!」


 アリアの声が届く。


「聞いた!」


 伊織は振り向かない。


 半歩左へずれる。


 短槍が背中の横を通る。


 警棒を脇へ挟み、柄を掴む。


 引かない。


 相手が戻そうとする力へ合わせて一歩入る。


 肩を使わず、腰で押す。


 男が水路の底へ倒れた。


 左側で剣と金属が擦れる。


「左、一人制圧!」


 アリア。


「もう一人、根の上!」


 エルナが位置を伝える。


「アリア、左を続けろ!」


「続けます!」


 伊織は正面を維持する。


 助けに行かない。


 アリアが任せろと言った場所を、勝手に奪わない。


 粉の向こうで、アリアの剣が短く鳴った。


 根の上から飛び降りた男の短剣を、刃の腹で流す。着地の瞬間を狙い、足首へ峰を当てる。男が膝をつく。


 アリアは追撃せず、剣先で手元だけを押さえた。


「左、二人目止めました」


「右は残り一!」


 ヴォルフの長槌が鳴る。


 重い打撃音。


 敵の身体ではない。


 根を打った。


 右岸から降りようとした男の足場が崩れ、乾いた泥へ転がる。


「右、落とした。生きてる」


「正面、板持ちが残っています!」


 エルザの声。


 白い粉の奥。


 黒い板が再び開く。


 今度は粉ではない。


 細い針が無数に並んでいる。


「散開!」


 伊織が叫ぶ。


「左へ出ます!」


 アリア。


「後方へ下がる!」


 ヴォルフ。


「トト、伏せろ!」


 ガルド。


 全員の声が重なる。


 誰がどこへ動くかが分かる。


 伊織は右へ出た。


 針が放たれる。


 白い粉の中を、銀色の線が走る。


 左からアリアの声。


「右の足元、根があります!」


「見えてる!」


 伊織は根を踏み台にして跳ぶ。


 左肩を振らない。


 身体を横へ流す。


 針が外套を裂く。


 黒い板を持つ男との距離が縮まる。


 板は近距離では使いにくい。


 男が下がる。


 伊織は拳銃を呼ぼうとした。


 二回目。


 粒子が集まる。


 その前にクロが三声吠えた。


 左。


 低い唸り。


「左に別の敵!」


 アリアが叫ぶ。


 伊織は黒い板の男を追わない。


「板持ちはエルザ!」


「引き受けます!」


「アリア、左の敵を止めろ!」


「左へ移ります!」


 声を聞いてから、伊織は右へ残る。


 エルザが銀札を投げた。


 武器ではない。


 黒い板の表面にある穴へ、札の角を差し込む。


 噴射口が一部塞がる。


 男が板を振る。


 エルザは手を離した。


 同時にヴォルフの長槌が横から入る。


 板の縁を打つ。


 金具が外れ、黒い板が地面へ落ちた。


 左側では、白い粉の中から新たな男が現れていた。


 他の兵と違う。


 銀色の布で顔の下半分を覆っている。


 門の向こうで探り杭を受け取った男だった。


 腰に、革筒がある。


 奪われた杭。


「取り戻します!」


 アリアが男へ向かう。


 伊織は一瞬、同じ方向へ動きかけた。


 止める。


「アリア、杭を取れ!」


「取ります!」


「俺は退路を塞ぐ!」


「お願いします!」


 銀布の男は短剣を抜く。


 アリアの右側へ回る。


 吊られた腕を狙う動き。


 アリアは剣を左手で低く持つ。


 踏み込まない。


 相手が来るのを待つ。


 短剣が右肩へ伸びる。


 アリアは半歩だけ前へ出た。


 距離を潰す。


 剣の柄で手首を上へ押し、刃を空へ向ける。


 左足で男の前足を踏む。


 身体を回す。


 男の腰から革筒が離れる。


 地面へ落ちた。


 銀布の男はアリアを押し退け、筒へ手を伸ばす。


 伊織がその前へ入る。


「退路、塞いだ」


 警棒を男の肘へ当てる。


 骨を折らない。


 腕を曲げた状態で固定し、地面へ押す。


 アリアが革筒を拾う。


「杭を確保しました!」


「ガルドへ渡せ!」


「渡します!」


 アリアは振り返って投げない。


 白い粉で位置を誤る可能性がある。


 声を出しながら、ガルドのところまで運ぶ。


「ガルド、杭を渡します!」


「位置は」


「トトの右!」


「見えた!」


 ガルドが革筒を受け取る。


 その瞬間、地面が鳴った。


 ごん。


 水路の底。


 もっと深い場所から。


 トトの木片が震える。


「待って!」


 トトが叫んだ。


 戦闘が終わったわけではない。


 それでも声の調子が違った。


「杭じゃない!」


「何が」


 ガルドが尋ねる。


「下から打ってる!」


 枯れた水路の底に、黒い線が浮かぶ。


 一本。


 技術部の男たちが仕込んだものではない。


 地中から染み出すように、ひび割れた泥を走っていく。


「全員、岸へ!」


 伊織が叫ぶ。


「右岸へ上がります!」


 アリア。


「トトを運ぶ!」


 ガルド。


「後方確認!」


 ヴォルフ。


「捕虜は」


 エルナが聞く。


「動ける奴は自分で走らせろ!」


 白い粉の中で、倒れていた技術部の兵たちも地面の異変に気づく。


 伊織は銀布の男の襟を掴む。


 左肩が痛む。


 引きずらない。


 足を立たせ、前へ押す。


「走れ」


「放せ」


「ここで沈みたいなら座ってろ」


 男は足を動かした。


 黒い線が膨らむ。


 乾いた水路の底が、中央から割れた。


 土と白い石が内側へ崩れる。


 深い穴。


 その中から、冷たい風が噴き上がった。


 ガルドがトトを抱え、右岸の根へ手を掛ける。


 リナが下から押す。


 アリアが先に上がり、左手だけでトトの服を掴んだ。


「引きます!」


「頼む!」


 三人でトトを岸へ上げる。


 クロは自力で根を駆け上がった。


 ヴォルフが最後尾から倒れた兵を一人担ぎ、長槌を支えに斜面を登る。


 伊織も銀布の男を岸へ押し上げる。


 直後、水路底が大きく陥没した。


 轟音。


 白い粉も、捕縛線も、落とされた武器も、すべて暗い穴へ呑まれていく。


 静かになった時、枯れた水路の中央には、斜め下へ続く石造りの通路が現れていた。


 丸い天井。


 壁に残る古い水位線。


 奥は暗い。


 旧排水路。


「入口か」


 ガルドが息を整える。


「向こうが開けたのではありません」


 エルザが穴の縁を見る。


「技術部は位置を探っていただけです。下からの脈動が、天井を崩した」


「心臓が開けた?」


 トトが尋ねる。


 アリアは暗い通路を見る。


「私たちを招いているとは限りません」


「出口を作っただけかもしれねえな」


 ヴォルフが言う。


「何の出口だ」


 伊織が聞く。


 答えはなかった。


 クロが穴の縁へ近づく。


 鼻を暗がりへ向ける。


 低い唸り。


 背の鋼色の縞が、肩から腰まで淡く光る。


「探り杭を」


 伊織が言った。


 ガルドが革筒を開ける。


 奪われた杭は中にあった。


 表面の黒線が、以前より太くなっている。


 何度も打たれた跡。


 先端には黒い泥が付着していた。


「このまま使えるか」


 ガルドが聞く。


「先に聞く」


 トトが木片を持つ。


 ガルドは穴から離れた地面へ、探り杭の先端だけを当てた。


「軽く打つぞ」


「うん」


 鉄棒で一度。


 こん。


 音は地面へ沈む。


 数息後、トトの木片が震えた。


 かん。


「戻った?」


 エルナが尋ねる。


 トトは首を振る。


「違う」


「どこからだ」


「下じゃない」


 トトが枯れた水路の奥を指す。


 技術部の兵が現れた方向。


 さらにその向こう。


 正規の昇降門へ続く地下道の側。


「向こうから返ってきた」


 探り杭は、技術部が通った道を覚えている。


 心臓へ進む隊。


 奪った杭を打ちながら、こちらの位置を探っていた者たち。


 その線が、今もつながっている。


「追える」


 ガルドが言った。


「相手にも分かる」


 エルナが返す。


「こちらが杭を取り戻したことも、次に打てば伝わる可能性があります」


「一回で足りる」


 伊織は暗い旧排水路を見る。


「位置は分かった」


「降りるのですか」


 リナが尋ねる。


「入口を確保するだけ、と言っていました」


「ああ」


「ここから先は」


「山水路だ」


「約束と違います」


「状況が変わった」


「その言葉も何度も聞いています」


 伊織は穴の下を見る。


 石造りの通路。


 技術部は先にいる。


 黒い心臓も、同じ先にある。


 楔はまだ完成していない。


 深部へ進むべきではない。


「入口を守る」


 伊織が言った。


 リナが意外そうに見る。


「降りないのですか」


「先に中を確認する。戻れる範囲だけだ」


「誰が」


「俺とクロ」


「私も行きます」


 アリアが言った。


 伊織は彼女を見る。


「入口に残れ」


「なぜですか」


「右腕が使えない」


「東さんの左肩も使えません」


「二人で降りれば、上に判断できる奴が減る」


「ガルドさんとエルナがいます」


「技術部の捕虜もいる」


「それなら、なおさら護衛が必要です」


 二人の言葉がぶつかる。


 以前なら、互いの考えを途中で決めていた。


 伊織は一度、息を置く。


「俺は通路の幅と、最初の分岐だけを見る」


「私は入口の直下を確保します」


「深追いしない」


「しません」


「声が届かなくなったら戻る」


「東さんも」


「ああ」


 アリアは頷いた。


「聞きました」


「俺もだ」


 ガルドが縄を取り出す。


「なら、俺が上からつなぐ。二人とも腰へ結べ。勝手に外すな」


「クロは」


 トトが聞く。


「こいつは自分で戻る」


 伊織が答える。


 クロが鼻を鳴らす。


 穴へ降りる縄が固定される。


 アリアが左手で結び目を確かめる。


 伊織も腰へ回す。


 クロは先に斜面を下りた。


 黒鋼灯が、その頭上へ浮かぶ。


 伊織は呼んでいない。


 小さな黒い光が、旧排水路の入口を淡く照らした。


 壁に、足跡があった。


 新しい泥。


 技術部の靴跡ではない。


 裸足。


 人のものに近い。


 だが、指が六本ある。


 足跡は通路の奥から来ていた。


 そして、崩れた入口の手前で途切れていた。


 外へ出る場所が開くのを、内側で待っていたように。


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