第84話 聞き合う
探り杭を失った報告を聞いても、ハーゲンは怒鳴らなかった。
鍛冶場の中央に立ち、トトの木片が三度鳴り終えるまで目を閉じていた。炉では残った地鉄が赤く熱せられ、ガルドが踏む鞴の風を受けるたび、黒い筋の周囲だけが呼吸するように明滅している。
「三回とも、同じ場所からか」
ハーゲンが尋ねた。
トトは灰色の鉄枠を指で押さえる。
「最初は遠かった。二回目は少し近くて、最後はもっと近かった」
「音の高さは」
「低くなった」
「間は」
「短くなった」
エルナが記録した言葉を読み返す。
「技術部は探り杭を打ちながら、こちらへ近い線を探していると考えられます」
「こっちへ来ようとしてるんじゃねえ」
ハーゲンは金床の上へ鉄を戻した。
「戻る場所を探してる。坊主の木片が返事をしたから、向こうの杭も、この鍛冶場を線の先として覚え始めた」
トトが木片から手を離す。
「ぼくが鳴らしたから?」
「違う」
伊織が答えた。
「向こうが打ったから、戻ってきただけだ」
「でも、ここに来るんでしょ」
「来させない」
伊織の声は低かった。
左肩には、門を支えた時の痛みが残っている。固定具の中の右手も、橋から戻る途中で何度か痺れた。
アリアは少し離れた場所に立っていた。
吊り布の内側で右腕を支え、伊織を見ないまま、金床に置かれた鉄を見ている。
中継所から戻って以来、二人の間に会話はほとんどなかった。
怒っているわけではない。
相手を責めてもいない。
だからこそ、言葉を挟む場所が見つからなかった。
「門は」
ハーゲンが聞く。
「閉じられた」
ガルドが答える。
「外から開く手段はねえ。破壊すれば岩壁ごと崩れる可能性がある」
「旧道は」
「エルザが探してる。残ってりゃ歩いて入れるが、車両は無理だ」
「探り杭は」
「取られた」
ガルドは短く答えた。
ハーゲンが伊織とアリアを見る。
「二人で同じ柱へ行ったそうだな」
「そうだ」
伊織が言う。
「はい」
アリアも答えた。
「何でだ」
「俺はアリアが右へ行くと思った」
「私は、東さんが右へ切り替えると思いました」
「声は」
「出していない」
「なぜ」
伊織はすぐに答えなかった。
アリアが先に口を開く。
「必要がないと思ったからです」
「合っていたからか」
「それまでは」
ハーゲンは槌を金床へ置いた。
硬い音。
「鉄でも、人でも、聞かずに打てば割れる」
「説教ならあとにしろ」
伊織が言う。
「説教じゃねえ。作業の話だ」
ハーゲンは地鉄を火箸で挟み、向きを変える。
「見れば分かると思って打つ奴が、一番よく鉄を壊す。火の色を見る。表面の汗を見る。軽く叩いて、返る音を聞く。それから次の場所を決める」
「戦っている時に、軽く叩いて確かめる暇はありません」
アリアが言う。
「なら一言で確かめろ」
「一言?」
「右。左。待て。行け。何でもいい」
ハーゲンは二人を見る。
「お前らは、相手を読みすぎた。次に何をするかだけじゃねえ。その次に、こっちの考えを読んでどう変えるかまで勝手に決めた」
否定できなかった。
橋の上で起きたことを、正確に言葉へするとそうなる。
アリアの一歩を見た。
伊織の銃口を見た。
互いに、それだけでは足りず、相手の頭の中まで決めた。
「読み合うな」
ハーゲンは言った。
「聞き合え」
ガルドが鞴から足を外す。
「言うのは簡単だ」
「だから、やれ」
「何を」
「動けるようになるまで、声を出せ」
◆
鍛冶場の裏には、使われなくなった資材置き場があった。
白い石壁に囲まれた細長い空間で、片側には古い水路、反対側には材木や割れた石板が積まれている。地面は平らではなく、炉から捨てられた炭と細かな鉄片が混じり、走れば靴底が滑る場所もあった。
実戦に近い。
ガルドはそう言って、木の板と縄で障害物を作った。
中央に胸の高さの壁。
右に細い通路。
左には倒れた梁。
奥へ三つの木製標的を置き、その手前へ銀線を模した細い縄を張る。
ヴォルフは長槌を肩へ担ぎ、障害物の向こうへ回った。
「俺とガルドが敵役だ」
「怪我人相手に本気で振るな」
伊織が言う。
「努力する」
「努力じゃ足りない」
「前にも聞いたな」
ヴォルフは笑った。
リナは資材置き場の入口に薬箱を置く。
「具現は拳銃一回、警棒一回までです」
「盾は」
「使わないでください」
「必要になれば」
「必要になるような訓練をしないでください」
ガルドが縄を張り終える。
「俺たちが投げる木球を止めるだけだ。盾はいらねえ」
「木球の中に鉄を入れてないだろうな」
「入れてねえ」
ヴォルフが一つ拾い、掌で重さを確かめる。
「軽いな」
「お前は強く投げるな」
「分かってる」
クロが中央に立つ。
伊織は左。
アリアは右。
前の訓練と同じ配置だった。
「違う」
ガルドが言う。
「何が」
「最初から位置を決めるな」
「決めなければぶつかる」
「だから声を出せ」
ガルドは木球を三つ持つ。
「最初に担当を言え。途中で変えるなら、変えると伝えろ。クロも勝手に走らせるな」
クロが不満そうに鼻を鳴らす。
「お前が一番勝手に動くから言ってる」
伊織は周囲を見る。
左の梁。
右の通路。
中央の壁。
「俺は左と中央を見る」
アリアがすぐに答える。
「私は右。中央へ入る時は言います」
「クロは中央待機」
クロの耳が動く。
「緊急時だけ、一声で停止を知らせろ」
クロが一度吠えた。
「今じゃない」
鼻を鳴らす。
「始めるぞ」
ガルドが最初の木球を投げる。
右。
「右、取ります」
アリアが声を出し、踏み込む。
左手の木剣で打ち落とす。
二つ目は左の梁の裏。
「左、見えない」
伊織が言う。
「クロ、確認」
クロが走る。
梁の手前で止まり、鼻を動かす。
一度吠えた。
「停止?」
アリアが確認する。
「違う。敵一つだ」
伊織が答えかける。
ガルドが木球を持ったまま止まった。
「今の一声に、意味を二つ乗せるな」
「さっき決めたのは停止だ」
伊織が言う。
「なら停止だ。敵の数は別にしろ」
「クロに言葉は話せない」
「吠える回数を決めろ。だが、途中で勝手に意味を変えるな」
伊織はクロを見る。
「一声は停止。二声は右。三声は左」
クロの耳が動く。
「敵を見つけた時は」
アリアが尋ねる。
「向きを示した後、唸る」
「複雑すぎませんか」
「試す」
最初からやり直す。
ガルドが木球を投げる。
中央。
「中央、撃つ」
伊織が宣言する。
アリアが右へ離れる。
「射線、空けました」
クロは伏せる。
伊織は左手を開いた。
拳銃。
輪郭が形になる。
照準。
発砲。
木球が空中で砕けた。
「具現、一回です」
リナの声が飛ぶ。
「ああ」
拳銃を消す。
次の球は右。
「右、取ります」
アリアが動く。
ヴォルフが同時に左の梁の陰から長槌を突き出した。
伊織の脇腹を狙う。
見えている。
アリアも気づいている。
彼女の足が一瞬、左へ向きかける。
「右を続けろ!」
伊織が言う。
「続けます!」
アリアは右へ進む。
伊織は警棒を具現し、長槌の柄を下から打つ。
ヴォルフの腕が上がる。
伊織は追わない。
「左、止めた」
「右、処理しました」
木球が地面へ落ちる。
クロが二度吠えた。
右。
直後、右の細道からガルドが飛び出す。
アリアは既に右側にいる。
剣を上げる。
だが、ガルドは彼女ではなく、中央の伊織へ石灰袋を投げた。
「中央へ移ります!」
アリアが声を出す。
「待て、粉だ!」
伊織が言う。
アリアの足が止まった。
袋が地面へ落ち、白い粉が広がる。
視界が消える。
前なら、アリアは伊織の位置を読んで中央へ入った。
伊織も、彼女が来ると考えて外へ動いた。
今回は違う。
「伊織、位置!」
アリアの声。
「中央壁の左!」
「私は右通路前!」
「クロ、止まれ!」
一声。
クロが吠える。
その場で伏せた。
粉の中からガルドの足音。
右から左へ。
伊織には聞こえる。
だが、アリアがどう動くかは決めない。
「アリア、ガルドが左へ行く!」
「聞こえています。右を維持します!」
伊織は中央壁の左から出る。
警棒はもう消している。
素手でガルドへ向かう。
ガルドの鉄棒が振られる。
伊織は受けない。
身体を沈め、鉄棒の内側へ入る。
左肩は使わず、前腕で相手の手首を押す。
足を掛ける。
ガルドが体勢を崩す。
「終わりだ!」
ガルドが地面へ手をつく。
白い粉が落ち着く。
アリアは右側を維持していた。
クロも中央で伏せている。
誰も、相手の役割へ勝手に入らなかった。
「今のは悪くない」
ガルドが立ち上がる。
「悪くない、では困ります」
アリアが言う。
「何が」
「私は中央へ移ると宣言しました。東さんの制止がなければ、そのまま入っていました」
「止まった」
「はい」
「聞こえたからな」
伊織が答える。
アリアは少し黙った。
「聞こえました」
その一言は、失敗を否定するためではなかった。
互いの声が、届いたことを確認していた。
「もう一度」
伊織が言う。
リナがすぐに口を開く。
「具現は終わりです」
「具現なしでやる」
「肩を使わなければ」
「使わない」
「今の投げ技で使いました」
「腰だ」
「あとで確認します」
「先にやる」
「交渉が成立していません」
ガルドが木球を拾う。
「具現なし、打撃は軽く。あと一回だけだ」
リナは不満そうだったが、止めなかった。
◆
次の訓練では、最初から配置を変えた。
アリアが左。
伊織が右。
クロは後方。
得意な位置を固定しない。
敵が同じ形で来るとは限らないからだ。
「左、見ます」
「右と中央」
伊織が答える。
「クロ、後方。合図まで動くな」
クロが鼻を鳴らす。
ガルドとヴォルフが障害物の向こうへ消える。
静寂。
材木の隙間を風が抜ける。
炉から届く煤の匂い。
遠くで、職人区の槌が鳴っている。
ガルドが中央へ木球を投げる。
「中央、取る」
伊織が走る。
具現は使わない。
掌で落とす。
同時にヴォルフが左へ出る。
「左、接触!」
アリアが声を出す。
「援護は」
「不要です!」
アリアは木剣で長槌を流す。
右手は使えない。
だが、相手の力を受けず、軌道を外すだけなら左手一本でもできる。
伊織は彼女を見ない。
右側を確認する。
ガルドがいない。
「クロ、右確認」
クロが走る。
二声。
右。
低い唸り。
「右に敵」
伊織が言う。
材木の陰からガルドが出る。
手には二本の縄。
一つを伊織へ。
もう一つをアリアへ投げる。
「右、縄二本!」
伊織が叫ぶ。
「左を維持します!」
アリアはヴォルフから離れない。
自分へ飛んだ縄だけを木剣で払う。
伊織はもう一本を腕で受けず、地面へ伏せて避ける。
クロがガルドへ近づく。
「待て!」
クロは止まる。
ガルドがその隙に伊織へ向かう。
クロを避けたのではない。
クロが命令を待つことを利用した。
「クロ、右から回れ!」
二声。
クロは右へ走る。
ガルドの背後へ回り、腰の布帯を咥える。
引き倒さない。
動きを止める。
伊織が立ち上がり、ガルドの前へ入る。
「確保」
「俺は敵役だぞ」
「だからだ」
左では、アリアがヴォルフの長槌を木壁へ誘導していた。
柄が板の隙間へ挟まる。
「左、止めました」
「右も終わり」
伊織が返す。
クロが布帯を離す。
ガルドが周囲を見る。
「今度は、重ならなかったな」
「声があった」
伊織が答える。
「遅くなったか」
ヴォルフがアリアへ聞く。
「一部は」
「危なかったか」
「いいえ」
アリアは木剣を下ろす。
「東さんが右へいると分かっていたので、左だけを見られました」
伊織も同じだった。
アリアが左を守っている。
そう聞いたから、確認のために何度も振り返る必要がなかった。相手の判断を予測するより、伝えられた事実へ自分の動きを重ねる方が、むしろ視界は広くなっていた。
「読み合わない」
アリアが言う。
「聞き合う」
伊織が続ける。
クロが一度吠えた。
停止の合図。
全員がクロを見る。
クロは鍛冶場の方角を向いている。
トトの木片が鳴っていた。
遠くからでも分かる。
かん。
低い音。
続けて、もう一度。
かん。
間が短い。
「戻るぞ」
伊織が言う。
◆
鍛冶場では、金床の上に細い鉄棒が置かれていた。
ハーゲンは槌を持ったまま、トトの木片を見ている。
「向こうがまた打ったのか」
ガルドが尋ねる。
「ああ」
「近くなった?」
トトは首を振る。
「違う」
「何が」
「今度は、二つある」
ハーゲンが槌を置く。
「二本の杭か」
「ううん」
トトは木片を持ち上げた。
一度目の震え。
木片の上側。
二度目。
下側。
「一つは水の奥。もう一つは、土の下」
「別の道を探してる」
エルナが言った。
「技術部も旧道を知っている可能性があります」
鍛冶場の扉が開く。
エルザが入ってきた。
手には古い地図。
白い紙ではない。
薄い木板を何枚もつなぎ、黒い線と赤い印を刻んだものだった。
「東根中継所の保全庫に、旧道の記録が残っていました」
「入れたのか」
伊織が聞く。
「門の外側にある記録庫です」
エルザは地図を金床の横へ広げる。
「現在の昇降門が作られる前、水路へ入るために使われていた排水路があります。入口は中継所の北、枯れた水路の底です」
「崩れてる可能性は」
「高いです」
「技術部は」
「この記録を閲覧しています」
地図の一か所に、新しい傷があった。
指で強く押さえた跡。
枯れた水路から地下へ入り、現在の資材路と合流する線。
「先に旧道へ回られたら」
アリアが言う。
「入口を二つとも押さえられる」
「今から出る」
伊織が言った。
「楔は完成していません」
ハーゲンが答える。
「旧道の入口を確保するだけだ」
「探り杭もねえ」
「新しいのは」
金床の細い鉄棒を見る。
「まだ打ってる途中だ」
「どれくらいかかる」
「急がせるな」
遠くで木片が三度目の音を返した。
かん。
先ほどより高い。
トトが顔を上げる。
「土の下の音が、近づいた」
ハーゲンは地図を見る。
枯れた水路。
旧道。
技術部の先遣隊。
槌を強く握る。
「半刻だ」
「完成するのか」
「使える形にはする」
「十分だ」
「十分かどうかは、使った後に決まる」
ハーゲンは鉄棒を炉へ戻した。
ガルドが鞴の前に立つ。
ヴォルフが火箸を取る。
トトは木片を握り、音を待つ。
アリアが伊織の横へ立った。
「旧道では」
「ああ」
「声を出します」
「俺もだ」
「聞こえなかった場合は」
「勝手に決めない。止まる」
「敵の前でも?」
「一拍だけな」
アリアは頷く。
「一拍あれば、聞けます」
前は、その半拍を惜しんだ。
結果として、入口も杭も失った。
次は違う。
相手の考えを先に決めない。
聞く。
答える。
その声が届く位置で戦う。
炉の火が強くなる。
槌が落ちた。
鍛冶場へ広がった音は、今度は誰かの内側へ閉じ込められず、全員の耳へ同じように届いた。




