第83話 半拍
ハーゲンが差し出した鉄杭は、完成品ではなかった。
長さは肘から指先ほど。先端は刃物のように尖っておらず、岩や壁へ浅く打ち込み、内部を伝わって戻る音を測るためのものだという。
灰色の鉄肌には、細い黒線が一本だけ残っていた。
「心臓へつながっていた線は切った」
ハーゲンが言う。
「だが、全部は消えてねえ。強く打つな。地面の下に何があるか確かめるだけに使え」
ガルドが鉄杭を受け取る。
「名前は」
「いらん」
「道具には呼び名が要る」
「探り杭でいい」
「そのままだな」
「名前を考えてる間に、先を越されるぞ」
トトは防壁の後ろに座り、灰色の枠で囲まれた木片を握っていた。
探り杭と木片は、ハーゲンの打った線でつながっている。杭へ返った音が正しければ、木片が同じ高さで鳴り、別の場所へ流れれば、違う音か、違う間で戻る。
少なくとも、鍛冶場での試験ではそうなった。
「ぼくも行く」
トトが言った。
「駄目だ」
ガルドが即答する。
「聞く係なんでしょ」
「ここで聞け」
「遠くても?」
ハーゲンが炉へ炭を加える。
「遠いから聞くんだ」
「聞こえなかったら?」
「聞こえないと言え」
「またそれだ」
「大事なことは何度でも言う」
トトは不満そうに木片を握る。
「みんな、帰ってくる?」
「帰る」
伊織が答えた。
考えてから言ったのではない。
その言葉以外を、最初から残していなかった。
アリアが伊織を見る。
何も言わない。
ただ、吊られた右腕を左手で一度支え直した。
「リナも残れ」
伊織が言う。
「負傷者を置いて?」
「トトとハーゲンがいる」
「だから、あなたを放置していいことにはなりません」
「追いつくだけだ。山水路へは入らない」
「その言葉を信じた結果を、何度も見ています」
「今回は入れない。楔がない」
ハーゲンが槌を置く。
「そのとおりだ。探り杭を持って深部へ入ったら、俺が追いかけて頭へ打つ」
「聞いたな」
伊織がリナを見る。
「ハーゲンさんの方を少しだけ信用します」
リナは薬と包帯を小さな袋へ分け、ガルドへ押しつけた。
「止血帯。痛み止め。裂傷用の薬。誰かが無茶をした場合は、無理に連れて帰ってください」
「誰を見て言ってる」
「全員です」
クロが鼻を鳴らした。
「あなたもです」
クロは顔を逸らした。
◆
東根中継所へ続く保守路は、都の外壁に沿って北へ回り、その先で白い森へ入っていた。
技術部の重い機構車両は街道を使わなければならないが、装甲車なら、木の根を避けて作られた古い保守路を通れる。エルザの記憶が正しければ、先遣隊より距離を縮められるはずだった。
「中継所には何がある」
装甲車を走らせながら、ガルドが聞く。
「東へ伸びる根脈と、水路への資材路を管理する施設です」
エルザは荷台の前方に座り、揺れる地図を片手で押さえていた。
「山水路へ大型車両を入れるには、中継所の昇降門を通る必要があります。門の先は下り坂になっていて、途中から地下水路へ合流します」
「門を閉められたら」
「正面からは入れません」
「迂回路は」
「歩行用の旧道があります。ただし、崩落が多く、現在の状態は不明です」
「間に合わせるなら門を取るしかねえな」
ヴォルフが言った。
骨刃はまだ長老会に預けられたままだ。
代わりに、鍛冶場から借りた長い鉄槌を持っている。本人は不満そうだったが、ハーゲンから「刃より似合う」と言われ、それ以上何も返さなかった。
伊織は装甲車の右側へ座っていた。
左肩は熱を持っている。
固定具の中の右手には、時折痺れが走る。
具現できる回数は多くない。
それでも、追いつける場所が今しかないなら、使わないという選択肢はなかった。
アリアは向かいにいる。
左腰へ一本の剣。
右腕を吊る布は、新しく巻き直されていた。
昨日の訓練では、互いに声を出す前に動けた。
速かった。
撃つ場所も、外れる方向も、クロが取る位置も重なった。
エルナはそれを危険だと言った。
伊織も理解していた。
だが、実戦で敵より早く動くには、言葉を待てない場面がある。言葉にする前に分かるなら、その方がいい。
少なくとも、今までは。
「見えた!」
ガルドが叫ぶ。
森が途切れた。
前方に、巨大な石造りの橋がある。
深い水路を跨ぎ、その先の岩壁へ向かって真っ直ぐ延びている。岩壁の中央には銀色の昇降門が開いており、その奥へ下る道が見えた。
技術部の機構車両が四台。
二台は既に門の向こう。
三台目が橋の中央。
最後の一台が入口へ差しかかっている。
白い外套の兵が、橋の両側へ展開していた。
「間に合ったな」
ガルドが速度を上げる。
「止まれ!」
エルザが立ち上がり、銀札を掲げる。
「観測部の緊急照会です! 中継所の使用を停止してください!」
返事はなかった。
橋の手前にいた兵が、短い棒を上げる。
横一列に並んだ捕縛筒がこちらへ向いた。
「伏せろ!」
銀線が飛ぶ。
ガルドが装甲車を急旋回させる。
線の束が車体の横を掠め、白い木の幹へ食い込んだ。
装甲車が橋の手前で横向きに止まる。
伊織たちは荷台から降りた。
クロが先頭へ出る。
敵は十二人。
橋の上に六人。
門の左右に二人ずつ。
残り二人は制御柱の前にいる。
柱は左右に一本ずつ。
左の柱には赤い輪。
右には白い輪。
「左が橋の固定具です」
エルザが言った。
「右は昇降門。どちらかを取られれば、追えません」
「二つとも止める」
伊織は左手を開く。
黒鋼の拳銃。
銃把。
引き金。
銃身。
形が固まる。
敵の捕縛筒が開く。
アリアが伊織の前へ出た。
左手の剣で最初の銀線を受け流し、橋の欄干へ巻きつける。二本目は身体を沈めて避け、三本目の射手へ距離を詰める。
伊織は撃つ。
射手の筒、その根元。
弾丸が固定具を砕く。
クロが右側へ走る。
敵へ飛びつかない。
足元の石と、張られた銀線の位置を嗅ぎ分けながら、橋の端を低く進む。
「殺すな!」
エルザが叫ぶ。
「言われなくても分かってる!」
ガルドが鉄棒を振る。
短槍を持つ男の手首を打ち、槍を橋の外へ落とす。そのまま肩を入れて男を欄干へ押しつけ、探り杭を入れた革鞄を背中側へ回した。
ヴォルフは長槌の柄で二人の間を払い、足を止める。
刃がない。
それでも、打撃を受けた者は立っていられない。
橋の中央を走っていた三台目の車両が、門の中へ入った。
残り一台。
橋の入口側にいる。
「車輪を止めろ!」
伊織が叫ぶ。
ガルドが敵を押し退け、最後の車両へ走る。
アリアも同じ方向へ進みかける。
その時、クロが右の制御柱へ向かって二度吠えた。
右。
門。
白い輪の前にいた男が、操作棒へ手を伸ばしている。
伊織は拳銃を向ける。
アリアの左足が、右へ踏み出した。
彼女が行く。
伊織はそう判断した。
自分は左を止める。
赤い輪の前でも、別の男が腕を上げている。橋の固定を解かれれば、ガルドも車両も水路へ落ちる。
伊織は銃口を左へ向ける。
アリアが視界の端で動いた。
右ではない。
左へ。
伊織と同じ方向へ。
何をしている。
考えるより先に、アリアの剣が赤い柱の操作棒を切った。
ほぼ同時に、伊織の弾丸が左の男の手元を撃ち抜く。
二人とも、左へ動いていた。
右の柱が白く光る。
「門が!」
エルザの声。
銀色の昇降門が落ち始めた。
伊織は銃口を右へ戻す。
遅い。
白い輪の男が、もう一つの操作具を引いた。
門の内側から、黒い捕縛索が発射される。
狙いはガルド。
正確には、背中の革鞄。
黒い先端が金具へ吸いつき、鞄ごとガルドを門へ引いた。
「ガルド!」
ガルドの身体が浮く。
探り杭を入れた鞄が、背中から強く引かれる。
橋の石へ靴を擦り、踏みとどまろうとするが、機構の巻き上げる力の方が強い。
クロが走った。
索へ噛みつかない。
ガルドの腰帯を咥え、反対方向へ身体を倒す。
それでも止まらない。
ガルドの足が橋から離れる。
「切れ!」
伊織が叫ぶ。
「杭が入ってる!」
「お前が落ちる!」
ガルドは歯を食いしばる。
腰の短剣を抜き、肩紐へ刃を当てる。
切れない。
革が厚い。
アリアが戻る。
門は半分まで下がっている。
右腕は使えない。
左手の剣を、ガルドの肩紐へ振る。
一閃。
革が切れた。
ガルドとクロが橋の上へ転がる。
鞄だけが、黒い索に引かれて門の向こうへ飛んだ。
「探り杭が!」
ガルドが立ち上がろうとする。
右の制御柱を操作した男が、鞄を受け取った。
門の下から、こちらを見る。
顔の下半分を銀の布で覆っている。
目だけが笑っていなかった。
「閉めろ」
門が落ちる。
伊織は拳銃を消す。
小型のアイギス・プレートを呼ぶ。
黒い盾を落下する門の下へ差し込む。
金属同士がぶつかる。
衝撃が左腕から肩へ突き抜けた。
視界が白くなる。
門は止まらない。
盾の縁が砕け始める。
「東さん!」
アリアが伊織の横へ入る。
剣を門の隙間へ差し込み、押し上げようとする。
右腕は使えない。
左肩だけで耐える。
「下がれ」
「二人なら」
「無理だ!」
門の向こうで、最後の機構車両が動き始める。
鞄を持った男が荷台へ乗る。
伊織は盾を維持する。
拳銃を出せない。
アリアも剣を抜けば、門は落ちる。
クロが門の下へ頭を入れようとする。
「来るな!」
伊織の声に、クロが止まった。
その一瞬。
アイギス・プレートが崩れた。
黒い粒子が砕ける。
伊織は左腕を引く。
アリアの剣が弾かれる。
銀色の門が石床へ落ちた。
轟音。
空気が震える。
門の向こうの車両音が、急速に遠ざかっていった。
誰も追えない。
橋は残った。
だが、入口は閉じた。
探り杭も奪われた。
伊織は門の前に立ったまま、左手を握ろうとする。
指が動かない。
アリアが右腕を庇い、浅い呼吸を繰り返している。
ガルドは橋へ膝をついていた。
クロがその横で腰帯を離し、荒く息をしている。
エルザが制御柱を調べる。
「外側からは開きません」
「壊せるか」
ガルドが聞く。
「門だけなら可能です。ただし、岩壁の内側にも固定具があります。破壊に何日かかるか」
「何日もねえ」
ヴォルフが落ちた捕縛筒を橋の外へ蹴る。
残った技術部の兵は、逃げたか倒れている。
中継所を守る者はいない。
それでも、追跡には失敗した。
伊織は左の制御柱を見る。
赤い操作棒。
アリアが切った場所。
自分が撃った場所。
二人の攻撃が、同じ一点へ重なっている。
「なぜ左へ来た」
伊織が聞いた。
責める声ではなかった。
低く。
自分でも確かめるように。
アリアは門を見たまま答える。
「東さんの銃口が左を向いていました」
「ああ」
「だから、クロの合図に合わせて右へ切り替えると思いました」
「俺は、お前が右へ行くと思った」
「右へ踏み出しました」
「見た」
「左の男が私を見ていなかったので、先に左を止めれば、東さんが右を撃てると」
「俺は逆に考えた」
互いの動きを見た。
相手が次に何をするか考えた。
さらに、その判断を相手も分かっていると考えた。
結果、二人とも同じ場所へ動いた。
「声を出さなかった」
エルナが言う。
責める調子ではない。
事実だけだった。
「右と一言あれば、変わりました」
「言う前に動けると思った」
伊織が答える。
「私もです」
アリアの声は小さかった。
ガルドが立ち上がる。
肩紐を切られた跡が服に残っている。
「分かったつもりで動いた結果が、これだ」
怒鳴らなかった。
その方が重かった。
「杭は奪われた。入口も取られた。向こうは、俺たちより先に心臓へ着く」
「取り返す」
伊織が言う。
「どうやって」
「旧道を探す」
「見つからなかったら」
「門を壊す」
「それで間に合わなかったら」
伊織は答えなかった。
ガルドも、それ以上は言わなかった。
クロが門の下を嗅いでいる。
匂いは残っている。
だが、追えない。
銀色の門の向こうから、遠く、小さな音が返った。
こん。
探り杭を打った音。
一度。
間を置いて、もう一度。
技術部は、使い方を知っている。
あるいは、試しながら覚えようとしている。
「戻るぞ」
伊織が言った。
「どこへ」
アリアが尋ねる。
「ハーゲンのところだ」
「杭を作り直す?」
「ああ」
「時間が」
「分かってる」
伊織は門から離れる。
足が重い。
負傷のせいだけではない。
撃てなかったからでも、敵を逃がしたからでもない。
アリアの動きを見ていた。
見えていた。
それでも、間違えた。
◆
鍛冶場で、トトの木片が鳴った。
かん。
トトは驚いて、両手で押さえる。
誰も触れていない。
ハーゲンも槌を止めた。
「東から?」
トトが聞く。
ハーゲンは答えず、木片の音を待つ。
かん。
二度目。
最初より低い。
戻ってきた音ではなかった。
何かを探る音でもない。
鉄の向こう側から、こちらの位置を確かめるような打ち方だった。
「もう一回、来る?」
トトが尋ねる。
「来る」
ハーゲンは炉の火を強くする。
残った地鉄を火箸で掴み、金床へ置いた。
三度目の音が木片から鳴る。
かん。
ハーゲンの槌が上がる。
「向こうも、線を見つけた」




