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第82話 鎚の音

 白い箱は、橋の上では開けなかった。


 黒い根が伸びていた以上、中身が安全だという保証はなく、さらに箱の側面には技術部の三重輪まで刻まれている。許可の有無を巡って御者と押し問答を続けている間にも、割れた石橋の下では水が不自然な向きへ流れ、目には見えない脈が、東から都の中心へ向かって押し寄せていた。


「運搬先はどこですか」


 エルザが御者へ尋ねた。


「答える義務はない」


「根脈異常が発生した物資です。観測部の緊急調査権を行使します」


「観測部に技術資材を開封する権限はない」


「ここで開けるとは言っていません」


 エルザは箱を見る。


「隔離します」


「技術部の封印箱だぞ」


「だからです」


 御者は動かなかった。


 手綱を握る手には、橋を渡る前より力が入っている。単に荷物を運ばされていただけの男ではない。箱の価値を知っているか、失った時に自分がどうなるか知っている。


 伊織は箱の前へ立った。


「中身は還しの鉄か」


「知らない」


「さっき音がした」


「聞き間違いだ」


「クロも聞いた」


 足元でクロが低く唸る。


 御者の目が一瞬だけ下がった。


 その反応で十分だった。


「ハーゲンのところへ運びます」


 アリアが言った。


「認められない」


「この箱から伸びたものが、都の橋を壊しました」


「箱が原因とは限らない」


「ならば、原因ではないことを確認します」


「技術部の立ち会いが必要だ」


「呼べば、来るのですか」


 御者は答えなかった。


 都の鐘は、既に鳴っている。


 根脈異常を知らせる低い音が、白い建物の壁を伝い、閉ざされた窓の内側へ沈んでいた。それでも技術部から人は来ない。


 来ないのではない。


 別の場所で動いている。


 伊織はそう考えた。


「箱は運ぶ」


「命令書を見せろ」


 御者が言う。


「ない」


「なら渡せない」


「橋へ置いていくか」


 伊織は割れた石畳を見る。


 黒い線は消えている。


 だが、白い箱の底では、何かがかすかに擦れていた。


「次の脈が来ても、ここで守れるなら残せ」


 御者が箱を見る。


 水路。


 割れた橋。


 逃げ込んだ住民たちの閉じた窓。


 やがて手綱を持つ指から力が抜けた。


「運ぶだけだ」


「ああ」


「私は触らない」


「好きにしろ」


 ガルドが荷車の前へ回る。


「車輪を見せろ。さっきので軸が曲がってる」


「修理の許可は」


「今度は荷車ごと落としたいのか」


 ガルドがしゃがみ、歪んだ車輪へ鉄棒を差し込む。御者は何か言いかけたが、アリアに見られて口を閉じた。


 箱は荷車ごと、職人区へ運ばれることになった。



 ハーゲンは白い箱を見るなり、鍛冶場の扉を閉めた。


「外へ出せ」


 運び込んだ直後の言葉だった。


「中を見てから言え」


 ガルドが返す。


「見なくても分かる」


「なら何だ」


「失敗作だ」


 ハーゲンは箱へ近づかない。


 炉にも火は入っていなかった。


 前に槌を振るったあとも、再び炭を焼べることはなかったらしい。金床の布だけは外されたままで、表面に刻まれた細い溝が、窓から入る光を鈍く返していた。


 白い箱は、鍛冶場の中央に置かれている。


 側面の三重輪。


 蓋には五つの留め具。


 角には、黒い根が触れた跡が細く残っていた。


「何が失敗なんだ」


 ガルドが聞く。


「箱じゃねえ」


 ハーゲンは顎で中身を示す。


「入ってる鉄だ」


「開けてもいねえだろ」


「音が壁を通ってる」


 トトが木片を胸元で握る。


「ぼくも聞こえる」


 全員の視線が集まった。


「どんな音だ」


 ハーゲンが尋ねる。


 トトは箱へ耳を近づけなかった。


 少し離れたまま、首から下げた木片へ指を当てる。


「箱の中で、ずっと叩いてる」


「速いか」


「ううん」


「同じ間か」


「同じじゃない。止まって、また鳴る」


「何回だ」


 トトは目を閉じた。


 鍛冶場が静かになる。


 外の職人区では、いくつもの槌が鳴っている。それらの音は壁や屋根を越えて届き、近いものと遠いものが重なっていたが、トトは耳を澄ますというより、木片を握った指先へ意識を集めていた。


「三回」


 やがて言う。


「少し待って、二回。それから一回」


 ハーゲンの表情が変わった。


「三、二、一か」


「知っているのですか」


 アリアが聞く。


「冷ます順だ」


「何を」


「音をだ」


 ハーゲンは白い箱へ近づいた。


 耳を寄せず、拳の背で蓋を軽く叩く。


 こん。


 外へ広がるはずの音が、途中で消えた。


 数息後。


 箱の内側から三度、鈍い音が返る。


 こん。こん。こん。


 間。


 二度。


 最後に一度。


 ガルドの顔から、いつもの軽口が消えた。


「誰かが中で打ってるみてえだな」


「打ってるんじゃねえ。覚えてる」


 ハーゲンは留め具を見る。


「昔の鍛法を真似て、音を鉄へ仕込んでやがる。ただ、戻る先を決めずに閉じ込めた。だから箱の中で何度も打ち直してる」


「還しの鉄ではない?」


 アリアが問う。


「還しの鉄になる前の地鉄だ。熱と打ち方次第で、どこへ力を返すか変わる」


「技術部は何を作ろうとしていた」


「聞かなくても分かるだろ」


 ハーゲンの指が、黒い根の跡をなぞる寸前で止まる。


「心臓へ返す鉄だ」


 黒い歯車から届いた力を、再び黒い歯車へ返す。


 それだけを聞けば、防ぐための道具に思える。


 だが、戻る先として心臓を覚えさせた鉄は、同時に心臓へ道をつなぐ。打つたびに存在を知らせ、離れた場所からでも黒い根を呼び寄せる。


 還す。


 呼ぶ。


 違いは、鉄そのものにはない。


 誰が、どこを戻る先に決めたか。


「開けられるか」


 伊織が聞く。


「開けるだけならな」


「中身を使えるようにするのは」


「簡単じゃねえ」


「できないとは言ってねえな」


 ハーゲンが伊織を睨む。


「右も左も壊れかけた奴が、職人を急かすな」


「急いでるのは俺たちだけじゃない」


 伊織は外を見る。


 遠くで大樹の鐘が、もう一度鳴った。


 先ほどより短い。


 だが、間隔は狭まっている。


「打ってくれ」


 ハーゲンは答えなかった。


 アリアが一歩前へ出る。


「最後の線は、まだ見つかっていません」


「なら打てん」


「でも、音具の枠は作れます」


 ハーゲンの目がトトへ移る。


「その木片を使うのか」


「削りません。穴も開けない。取り外せる外枠だけを」


 ガルドが言う。


「鉄に木片の震えを拾わせる。戻ってきた音を、持ってる本人へ伝える」


「図面は」


「頭にある」


「紙へ描け」


「先に箱を開けろ」


「順を決めるのは俺だ」


 二人の視線がぶつかる。


 職人同士の喧嘩は、怒鳴り声より沈黙の方が長かった。


 先に視線を外したハーゲンが、壁から長い火箸を取る。


「坊主」


「なに?」


「お前が聞く」


 トトが木片を握る。


「何を?」


「俺が打った音が、どこへ戻ったかだ」


「分かるかな」


「分からなきゃ、分からないと言え。聞こえたふりをするな」


「うん」


「怖ければ、やめろ」


 トトは白い箱を見る。


 中から、また三度、音がした。


「やる」


「ガルド」


「何だ」


「坊主の前に壁を作れ。鉄は使うな。厚い木で、腰より高く」


「箱を開ける前に?」


「先だ」


「最初からそう言え」


 ガルドは鍛冶場の隅へ向かった。


 積まれた板の厚みを確かめ、二枚を重ね、床へ固定するための脚を選ぶ。その動きには迷いがなく、さきほどまで言い争っていたハーゲンも、板の選び方には何も口を挟まなかった。


「リナ」


 ハーゲンが続ける。


「坊主の耳を守れ。ただし、完全に塞ぐな」


「布を一枚だけ当てます」


「気分が悪くなったら止めろ」


「言われなくても止めます」


「エルナ」


「はい」


「回数を記録しろ。音の強さじゃねえ。どこへ返ったか、坊主が言った言葉をそのまま書け」


「解釈は加えません」


「アリア」


「はい」


「鉄の震えを読めるか」


「直接触れなければ」


「触るな。炉の火が入れば、読もうとしたものまで焼ける」


「風と煤の流れを見ます」


 ハーゲンは最後に、伊織を見る。


「お前は何もするな」


「警戒はする」


「鉄を出すな」


「必要になれば出す」


「必要にするな」


 伊織は答えなかった。


 ハーゲンは、それを了承とは受け取らなかっただろう。それでも言い直さず、白い箱の留め具へ火箸を掛けた。



 蓋が開いた瞬間、鍛冶場の空気が沈んだ。


 重さではない。


 音が落ちた。


 外で鳴っていた槌も、屋根を擦る風も、人の足音も、一瞬だけ遠ざかり、箱の中へ引かれたように小さくなる。


 中には、七本の鉄が並んでいた。


 長さは前腕ほど。


 太さは指三本分。


 表面は鈍い灰色だが、中央を黒い筋が走っている。一本ごとに筋の形が違い、根のように枝分かれしていた。


「触るな」


 ガルドが手を伸ばす前に、ハーゲンが言った。


「伸ばしてねえ」


「顔が伸びてる」


「材料を見ればこうなる」


 ハーゲンは火箸で一本を挟む。


 持ち上げる。


 黒い筋が脈打った。


 クロが吠える。


 鉄の先端が、東の方角へわずかに向いた。


 磁石ではない。


 ハーゲンが手首を返しても、鉄そのものが火箸の中で動き、同じ方向を示そうとする。


「もう覚えてやがる」


「心臓を?」


 アリアが尋ねる。


「ああ」


「消せますか」


「削って消えるもんじゃねえ。熱して、打って、別の戻り先を教える」


「何を戻り先にする」


 ハーゲンはトトの木片を見る。


「音だ」


 トトが首を傾げる。


「ぼく?」


「お前じゃねえ。お前が持ってる、帰ってきた音だ」


 ガルドが作った木の防壁が完成する。


 床へ固定され、正面には小さな横穴が開けられていた。トトはその後ろに座り、木片だけを穴の近くへ出せる。


 人を危険へ近づけるのではない。


 道具へ、必要な部分だけを差し出す。


 リナがトトの耳へ薄い布を当てる。


「痛かったら、すぐ言ってください」


「うん」


「怖くても」


「うん」


「我慢しなくて構いません」


「分かった」


 クロが防壁の横へ座ろうとする。


 リナが止めた。


「あなたも少し離れてください」


 クロは動かない。


「クロ」


 伊織が呼ぶ。


 クロは一度だけ伊織を見て、防壁から三歩下がった。


 それ以上は離れなかった。


 ハーゲンが炉の前へ立つ。


 炭を組む。


 長く消えていた火床へ、細い木片を入れる。火打ち石を一度。火花は消えた。二度目も炭へ届かない。


 三度目。


 小さな火が、乾いた木の端へ移った。


 赤い点は頼りなく揺れながらも消えず、息を吹き込まれるたびに隣の木へ渡り、やがて炭の隙間から薄い炎が立ち上がった。


 ハーゲンは黙って鞴を踏む。


 炎が深くなる。


 橙色から赤へ。


 赤から白へ。


 炉の内側で光が膨らむにつれ、鍛冶場の壁に掛けられた槌や火箸が、長い眠りから起こされたように輪郭を取り戻していった。


 ヴォルフは少し離れた壁際に立っていた。


 ハーゲンを見ている。


 槌ではなく、火を。


「何年ぶりだ」


 ガルドが聞く。


 ハーゲンは答えなかった。


 ヴォルフが代わりに言う。


「数えるな」


「聞いただけだ」


「数えたくねえ年もある」


 ハーゲンの足が、鞴を強く踏んだ。


 火が鳴る。


「喋るなら外へ出ろ」


「聞こえてたか」


「片耳は残ってる」


 ヴォルフは口を閉じた。


 鉄が炉へ入る。


 黒い筋が熱に晒され、赤くなるのではなく、いったん濃く沈んだ。周囲の地鉄だけが暗い橙へ変わり、筋の部分には火を拒むような黒さが残る。


 アリアが炉の横の空気を見る。


「熱が、中央を避けています」


「心臓へつながった線が熱を逃がしてる」


 ハーゲンが答える。


「切れますか」


「切らん。返す先をずらす」


 鉄を炉から出す。


 金床へ置く。


 表面から火の粉が散った。


「始めるぞ」


 ハーゲンが槌を握る。


 一打。


 こん。


 大きな音ではない。


 だが、トトが木片を握った指を震わせた。


「どこだ」


「床」


 エルナが書く。


 二打目。


「壁」


 三打目。


「遠いところ」


「東か」


「分からない」


「それでいい」


 ハーゲンは鉄を炉へ戻す。


 黒い筋はまだ残っている。


「失敗ですか」


 アリアが尋ねる。


「最初から成功すると思うな」


 火。


 鞴。


 熱。


 再び金床。


 今度は打つ位置を変える。


 端から中央へ。


 一打ずつ、鉄の中に閉じ込められた順番をほどくように、間を一定にせず槌を落としていく。


「どこだ」


「箱」


「次」


「大樹」


「次」


「水の下」


 ハーゲンの手が止まる。


「水の下?」


「暗い水」


 トトの顔色は変わっていない。


 怖がっているのではない。


 聞こえたものを、そのまま言っている。


 アリアが煤の流れを見る。


「東の山水路かもしれません」


「まだ切れてねえ」


 ハーゲンは鉄を火へ戻す。


 三度目。


 黒い筋の一部が、ようやく赤くなり始めた。


 ガルドが鞴を代わる。


 一定の速さで踏まず、ハーゲンの槌の間に合わせて空気を送る。強すぎれば鉄の表面だけが焼け、弱ければ黒い線へ熱が入らない。二人は相談しなかったが、火の色と槌を持つ腕の動きだけで、必要な呼吸を合わせていた。


「お前、本当に野次馬か」


 ハーゲンが言う。


「今さら気づいたか」


「調子に乗るな」


「火を見ろ」


 ハーゲンは炉を見る。


 鉄を出す。


 打つ。


 こん。


 トトが木片を押さえた。


「近い」


「どこだ」


「ガルド」


 ガルドが鞴から足を離す。


「俺か?」


「お腹のところ」


 ガルドが腹へ手を当てる。


「何も感じねえぞ」


「音が戻ってるんだ。耳で聞こえるとは限らねえ」


 ハーゲンが鉄の向きを変える。


「次」


 こん。


「ヴォルフ」


 ヴォルフの片目が細くなる。


「俺へ返すな」


「鉄に言え」


「お前が打ってるだろ」


 こん。


「アリア」


 アリアの吊られた右手が、わずかに揺れた。


 火の粉が触れたわけではない。


 槌の力が、空気を通らず、何か別の線をたどって彼女へ返った。


「痛みは」


 リナが聞く。


「ありません。ただ、布の内側が一度だけ震えました」


「人へ戻ってる」


 伊織が言う。


「ああ」


 ハーゲンの顔が険しくなる。


「最悪の鉄だ。近くにいる奴を順に戻り先へ選んでやがる」


「選ばせない方法は」


「一つずつ違うと教える」


「それで木片へ?」


「最後にな」


 鍛造は続いた。


 鉄は何度も炉へ戻され、火の中で色を変え、金床の上で形を失っては作り直された。ハーゲンの槌は力任せではなく、黒い筋がどこへ伸びようとしたかを確かめてから、その向きと直角になる場所へ落ちる。打つたびに音の戻り先が変わり、床、壁、炉、ガルド、ヴォルフ、アリア、伊織、クロと移っていった。


 伊織へ戻った時、固定具の中の右手が一度だけ痺れた。


 痛みではない。


 拳銃の反動を受けた直後に似た、骨の奥へ残る震えだった。


「何を感じた」


 ハーゲンが聞く。


「右手だ」


「使ってねえ方か」


「ああ」


「鉄は、欠けた場所へ戻りたがる」


「俺の手は戻り先じゃない」


「お前が決めることだ」


 ハーゲンは槌を上げる。


 次の一打。


 クロの背の鋼色の縞が光った。


 クロが低く唸る。


「どこだ」


 ハーゲンがトトへ聞く。


「クロ」


「もう一度」


 槌が落ちる。


 クロは今度、唸らなかった。


 頭上に小さな黒鋼灯が浮かぶ。


 伊織は呼んでいない。


 灯は一瞬だけ現れ、金床の上の鉄を照らして消えた。


 鍛冶場の全員が見た。


 伊織は左手を見る。


 何もない。


「今のは」


 アリアが言いかける。


「あとだ」


 伊織が止める。


 ハーゲンも槌を止めなかった。


「坊主」


「うん」


「木片を穴へ出せ」


 トトは防壁の小さな横穴から、首紐を外した木片を差し出した。


 手は防壁の内側に残す。


 ガルドが作った仮の木枠へ、木片だけを固定する。削らない。穴も開けない。上下から柔らかな革で挟み、震えだけが伝わる形にした。


 ハーゲンは七本あった地鉄のうち、打ち直した一本から、細い帯を切り出した。


 帯を曲げる。


 木片を囲む輪になる。


 まだ閉じない。


 両端を金床へ置く。


「次で音が木片へ返れば、線がつながる」


「返らなかったら?」


 トトが尋ねる。


「また打つ」


「何回?」


「返るまでだ」


「ハーゲンの手、痛くならない?」


 槌を持つ太い手には、古い傷が幾つもあった。


 今日できたものではない。


 それでもトトは、そこを見ていた。


「鍛人の手だ」


「痛くないの?」


「痛くても打てる」


「伊織と同じこと言うね」


 鍛冶場の空気が止まった。


 ガルドが顔を背ける。


 ヴォルフの口元が僅かに動く。


 ハーゲンは伊織を見る。


「一緒にするな」


「俺もだ」


「お前は黙れ」


 トトは首を傾げた。


「似てるよ」


「打つぞ」


 ハーゲンが槌を上げる。


 最初の一打。


 きん。


 高い音がした。


 木片は震えない。


「どこだ」


「炉」


 二打目。


「外」


 三打目。


「水路」


 ハーゲンは鉄帯を裏返す。


 ガルドが火を調整する。


 アリアが煤の流れを読み、黒い筋の残った場所を指す。


「右端に、熱が入っていません」


「分かってる」


「なら、なぜ打たないのですか」


「先に打てば割れる」


「何拍後なら」


「聞くな」


 ハーゲンの槌が落ちる。


 こん。


 トトが目を閉じる。


「近い」


「どこだ」


「ここ」


「木片か」


「ううん。ぼくの前」


 あと少し。


 鉄帯を再び熱する。


 ハーゲンの息は荒くなっていた。


 長く槌を置いていた身体は、技を忘れていなくても、昔と同じではない。肩が僅かに下がり、槌を握る指が一度開く。


 ヴォルフが壁から離れた。


「代わるか」


「お前に打たせるくらいなら腕を落とす」


「元気だな」


「火箸を持て」


 ヴォルフは何も言わず、火箸を取った。


 ハーゲンが槌を両手で握り直す。


「坊主」


「うん」


「最後だ」


「失敗したら?」


「最後じゃなくなる」


 トトが笑った。


 緊張が少しだけ緩む。


 鉄帯が金床へ置かれる。


 両端。


 中央。


 木片へつながる輪。


 ハーゲンはすぐには打たなかった。


 火の色が落ち着くのを待つ。


 ガルドの鞴が止まる。


 アリアが煤の動きを追う。


 エルナの筆が紙の上で待つ。


 リナはトトの肩へ手を置いている。


 クロは防壁の横で伏せ、伊織はその後ろに立っていた。


 鍛冶場の外から届く無数の槌音が、遠くへ退いていく。


 ハーゲンの槌が上がった。


 一打。


 かん。


 音は広がらなかった。


 壁にも。


 炉にも。


 床にも返らない。


 鍛冶場の中央から消えた音が、僅かに遅れて、トトの指先にある木片を震わせた。


 かん。


 小さな音。


 だが、はっきり聞こえた。


 トトが目を開く。


「帰ってきた」


 ハーゲンは槌を下ろした。


 鉄帯の輪は、木片へ触れていない。


 僅かな隙間を保って囲んでいる。


 それでも、金床で打たれた音は、ほかの誰でもない木片へ戻った。


「もう一度」


 トトが言う。


「確認は一度で足りる」


「ぼくが聞く係でしょ」


 ハーゲンは少し黙った。


 槌を持ち直す。


 今度は弱く、鉄帯の端を打った。


 かん。


 木片が返す。


 かん。


 同じ間。


 同じ高さ。


 トトが頷いた。


「聞こえる」


 ガルドが防壁の向こうへ回る。


 革の固定具を外し、木片と鉄帯の枠を持ち上げる。


「重さは」


「前より少し重い」


「首から下げられるか」


「うん」


「嫌なら鞄へ入れろ」


「下げる」


 トトは木片を首へ戻した。


 灰色の細い鉄枠が、その周囲を囲んでいる。黒くもなく、飾り気もない。木片に傷は一つも増えていなかった。


「これで何が聞ける」


 伊織が尋ねる。


 ハーゲンは残った六本の地鉄を見る。


「打ち込んだ先から返る音だ。壁の向こう、地面の下、水の奥。正しい場所へ楔を打てば、坊主の木片へ戻る」


「間違えれば」


「別の場所へ返る」


「心臓を呼ぶ可能性も」


「ああ」


 ハーゲンは槌を金床へ置いた。


「だから、坊主が聞く」


 トトは木片を握る。


 その役目の重さを、全部理解しているわけではない。


 それでも、自分だけができることとして受け取っている。


「怖いか」


 伊織が聞いた。


「ちょっと」


「嫌になったら言え」


「でも、みんなも聞くんでしょ」


「お前が聞いた音をな」


「じゃあ、大丈夫」


 簡単な答えだった。


 一人で聞くのではない。


 聞こえたものを伝え、全員で確かめる。


 木片はそのための道具になった。



 地鉄が冷えるまでの間、鍛冶場の裏庭で連携を確かめることになった。


 水路へ降りるなら、伊織の右手も、アリアの右腕も、クロの左前足も、完全に治るまで待てない。だからといって負傷を無視して以前と同じ動きをすれば、次は誰かが戻らない。


 ガルドが木の杭を六本立てた。


 高さも太さも違う。


 杭の上には、丸い板、四角い板、細長い板をそれぞれ載せる。


「撃つのは一回だけだ」


 リナが伊織へ言った。


「ああ」


「盾も一回」


「ああ」


「警棒は」


「必要なら」


「必要にしないでください」


「訓練にならない」


 リナはアリアを見る。


「止めてください」


「私も剣を使います」


「怪我人が増えました」


 ガルドが杭の後ろから言う。


「口で止まるなら苦労しねえ。始めるぞ」


 アリアは左手に木剣を持つ。


 クロが二人の中央。


 伊織は左手を開かず、杭の配置を読む。


 正面に三本。


 右に二本。


 左後方に一本。


 ガルドが石を投げる。


 一つ目。


 右の丸板。


「右」


 アリアが声を出す前に、伊織は半歩動いていた。


 射線を空ける。


 アリアが踏み込み、木剣で丸板を落とす。


 二つ目。


 左後方。


 伊織が振り返る。


 クロは既に移動している。


 アリアの背後を守る位置。


 三つ目。


 正面の細長い板。


 伊織は左手を開く。


 拳銃の輪郭が出る。


 銃身が固まる前に、アリアが左へずれた。


 伊織の射線から外れる。


 発砲。


 黒鋼の弾丸が板の中央を撃ち抜いた。


「終わりです」


 リナが言った。


「まだ三つある」


「拳銃は一回です」


 伊織は銃を消す。


 ガルドが四つ目を投げる。


 今度は二枚同時。


 アリアが右。


 伊織が左。


 声はない。


 クロは中央へ残り、どちらにも入らない。


 木剣が一枚を落とす。


 伊織は黒鋼警棒を具現し、もう一枚を打つ。


「止めてください」


 リナの声が強くなる。


 伊織は警棒を消した。


 ガルドも残りの石を下ろす。


「動きは合ってる」


「合いすぎています」


 エルナが帳面を見ながら言った。


「どういう意味だ」


 伊織が尋ねる。


「声がありませんでした」


「必要なかった」


「今回は」


 アリアが木剣を下ろす。


「東さんは、私が右へ出る前に動きました」


「右へ行くと思った」


「正解でした」


「なら問題ない」


「私も、東さんが撃つ前に射線を外れました」


「それも合ってる」


「はい」


 アリアは少し間を置いた。


「合っていました」


 伊織は彼女を見る。


 薄紫の瞳に、明確な不安はない。


 だが、言葉の最後に引っかかりが残っている。


「次も同じとは限りません」


 エルナが言った。


「声を出しても遅くない形を作るべきです」


「実戦で待てるか」


「待つのではありません。確認するのです」


「一拍増える」


「誤った一歩より短いです」


 クロが二人の間で鼻を鳴らす。


 アリアがクロを見る。


「クロも、私たちが動く前に位置を選んでいました」


「匂いで分かるんだろ」


「何が起こるかではなく、私たちがどう動くかを」


 ガルドが落ちた板を拾う。


「仲が良すぎるのも考えもんだな」


「そういう話ではありません」


 アリアの返事が速かった。


「まだ何も言ってねえ」


「言う顔でした」


「顔まで読むな」


 アリアの耳が僅かに赤くなる。


 伊織は杭を見る。


 連携は良くなっている。


 互いの重心、呼吸、視線、武器を出すまでの間。それらを読めるから、声を出す前に動ける。


 速い。


 無駄がない。


 だが、相手が想定どおりに動くことを前提にすれば、一つの読み違いが全員の位置を崩す。伊織はそれを理解していたが、動きが合った直後には、危険より手応えの方が強く残った。


「もう一度やる」


 伊織が言う。


「駄目です」


 リナが答える。


「今度は声を出す」


「それでも駄目です」


「確認が必要だ」


「左肩も確認します」


 リナは伊織の前へ立つ。


「座ってください」


「ここでか」


「ここでです」


 ガルドが笑いながら木箱を持ってくる。


「観念しろ」


 伊織は箱へ座った。


 アリアも右腕の布を巻き直される。


 クロは自分だけ関係がない顔で伏せたが、リナに左前足を持ち上げられ、逃げるのを諦めた。



 日が傾く頃、残りの地鉄も箱から出された。


 六本。


 楔。


 音具の予備部品。


 打ち直しに失敗した場合の代替。


 必要量を考えれば、決して多くない。


「全部使えるか」


 ガルドが尋ねる。


「二本は黒い線が深すぎる」


 ハーゲンが答える。


「使えば心臓へ戻る」


「溶かせない?」


「溶かして混ぜれば、全部が同じになる。隔離する」


「残り四本」


「楔に二本。木片の枠は一本の一部で足りた。残りは音を拾う棒と、失敗した時の打ち直しに回す」


「今日中に終わるか」


「終わらせるとは言ってねえ」


「七日もねえぞ」


「急いで歪んだ鉄は、急いだ奴の骨を折る」


 ガルドは言い返さなかった。


 炉には火が残っている。


 ハーゲンが消さなかった火。


 長く打たなかった男が、明日も使うつもりで残した火だった。


 屋外から速い足音が聞こえた。


 クロが顔を上げる。


 敵へ向ける唸りではない。


 門の前で、エルザが息を整えていた。


 普段なら服の皺一つ気にする女の外套が乱れ、裾には白い石粉が付いている。走ってきたのだと、見れば分かった。


「何があった」


 伊織が尋ねる。


「長老会は、あなた方の修正条件を審議に回しました」


「返事は」


「まだです」


「それだけを言いに来た顔じゃねえな」


 ガルドが言う。


 エルザは鍛冶場の中を見る。


 開かれた白い箱。


 炉の火。


 木片を囲む灰色の鉄枠。


 ハーゲンの手に戻った槌。


「箱を開けたのですね」


「橋から根が出た」


 アリアが答える。


「中身は、技術部が秘匿していた還しの地鉄でした」


 エルザの唇が僅かに閉じる。


 驚いている。


 だが、それを後回しにした。


「東門から、技術部の先遣隊が出ました」


「人数は」


 伊織が聞く。


「確認できただけで二十四名。機構車両が四台。封鎖具、固定鋲、掘削器具を積んでいます」


「行き先は」


「東の山水路です」


 アリアの顔が硬くなる。


「目的は心臓の停止?」


「提出された名目は、外部節の保全です」


「嘘だな」


 ヴォルフが言った。


「はい」


 エルザは否定しなかった。


「彼らは山水路の入口を封鎖し、長老会の決定前に中へ入るつもりです」


「止められないのですか」


 アリアが尋ねる。


「都の門までは命令を出せます。しかし、彼らは技術部長名義の外縁特別行動権を使用しました」


「そんな権限は」


「古い規定に残っています。大崩壊以前の設備を保全する場合、観測部および現地管理局の許可を省略できる」


「書斎を開けた者と、同じ側ですか」


「断定できません」


 エルザは一度だけ、目を伏せた。


「ただ、昨夜の命令書にあった装備と、同じ型の捕縛具が積まれていました」


 伊織は炉の横に並ぶ地鉄を見る。


 まだ楔は完成していない。


 音具の枠が一つできただけ。


 退路も、長老会との条件も確定していない。


 それでも相手は動いた。


 こちらの準備が整う前に、入口を奪い、心臓へ先に触れるために。


「出発は」


 伊織が聞く。


「半刻前です」


「追いつけるな」


 ガルドが言う。


「装甲車なら」


 リナが伊織を見る。


「具現するつもりですか」


「必要になる」


「今の身体では」


「分かってる」


「分かっている人は、先に相談してください」


「今、してる」


 リナは何か言い返そうとしたが、エルザが続けた。


「もう一つあります」


「何だ」


「先遣隊の指揮官は、観測部の照会を拒否しました。記録の共有も、帰還時刻の提出もありません」


「好きに動けるってことか」


「少なくとも、都の外へ出た後は」


 エルザはアリアを見る。


 次に伊織。


「技術部が動きました。──私の管轄外です」

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