第82話 鎚の音
白い箱は、橋の上では開けなかった。
黒い根が伸びていた以上、中身が安全だという保証はなく、さらに箱の側面には技術部の三重輪まで刻まれている。許可の有無を巡って御者と押し問答を続けている間にも、割れた石橋の下では水が不自然な向きへ流れ、目には見えない脈が、東から都の中心へ向かって押し寄せていた。
「運搬先はどこですか」
エルザが御者へ尋ねた。
「答える義務はない」
「根脈異常が発生した物資です。観測部の緊急調査権を行使します」
「観測部に技術資材を開封する権限はない」
「ここで開けるとは言っていません」
エルザは箱を見る。
「隔離します」
「技術部の封印箱だぞ」
「だからです」
御者は動かなかった。
手綱を握る手には、橋を渡る前より力が入っている。単に荷物を運ばされていただけの男ではない。箱の価値を知っているか、失った時に自分がどうなるか知っている。
伊織は箱の前へ立った。
「中身は還しの鉄か」
「知らない」
「さっき音がした」
「聞き間違いだ」
「クロも聞いた」
足元でクロが低く唸る。
御者の目が一瞬だけ下がった。
その反応で十分だった。
「ハーゲンのところへ運びます」
アリアが言った。
「認められない」
「この箱から伸びたものが、都の橋を壊しました」
「箱が原因とは限らない」
「ならば、原因ではないことを確認します」
「技術部の立ち会いが必要だ」
「呼べば、来るのですか」
御者は答えなかった。
都の鐘は、既に鳴っている。
根脈異常を知らせる低い音が、白い建物の壁を伝い、閉ざされた窓の内側へ沈んでいた。それでも技術部から人は来ない。
来ないのではない。
別の場所で動いている。
伊織はそう考えた。
「箱は運ぶ」
「命令書を見せろ」
御者が言う。
「ない」
「なら渡せない」
「橋へ置いていくか」
伊織は割れた石畳を見る。
黒い線は消えている。
だが、白い箱の底では、何かがかすかに擦れていた。
「次の脈が来ても、ここで守れるなら残せ」
御者が箱を見る。
水路。
割れた橋。
逃げ込んだ住民たちの閉じた窓。
やがて手綱を持つ指から力が抜けた。
「運ぶだけだ」
「ああ」
「私は触らない」
「好きにしろ」
ガルドが荷車の前へ回る。
「車輪を見せろ。さっきので軸が曲がってる」
「修理の許可は」
「今度は荷車ごと落としたいのか」
ガルドがしゃがみ、歪んだ車輪へ鉄棒を差し込む。御者は何か言いかけたが、アリアに見られて口を閉じた。
箱は荷車ごと、職人区へ運ばれることになった。
◆
ハーゲンは白い箱を見るなり、鍛冶場の扉を閉めた。
「外へ出せ」
運び込んだ直後の言葉だった。
「中を見てから言え」
ガルドが返す。
「見なくても分かる」
「なら何だ」
「失敗作だ」
ハーゲンは箱へ近づかない。
炉にも火は入っていなかった。
前に槌を振るったあとも、再び炭を焼べることはなかったらしい。金床の布だけは外されたままで、表面に刻まれた細い溝が、窓から入る光を鈍く返していた。
白い箱は、鍛冶場の中央に置かれている。
側面の三重輪。
蓋には五つの留め具。
角には、黒い根が触れた跡が細く残っていた。
「何が失敗なんだ」
ガルドが聞く。
「箱じゃねえ」
ハーゲンは顎で中身を示す。
「入ってる鉄だ」
「開けてもいねえだろ」
「音が壁を通ってる」
トトが木片を胸元で握る。
「ぼくも聞こえる」
全員の視線が集まった。
「どんな音だ」
ハーゲンが尋ねる。
トトは箱へ耳を近づけなかった。
少し離れたまま、首から下げた木片へ指を当てる。
「箱の中で、ずっと叩いてる」
「速いか」
「ううん」
「同じ間か」
「同じじゃない。止まって、また鳴る」
「何回だ」
トトは目を閉じた。
鍛冶場が静かになる。
外の職人区では、いくつもの槌が鳴っている。それらの音は壁や屋根を越えて届き、近いものと遠いものが重なっていたが、トトは耳を澄ますというより、木片を握った指先へ意識を集めていた。
「三回」
やがて言う。
「少し待って、二回。それから一回」
ハーゲンの表情が変わった。
「三、二、一か」
「知っているのですか」
アリアが聞く。
「冷ます順だ」
「何を」
「音をだ」
ハーゲンは白い箱へ近づいた。
耳を寄せず、拳の背で蓋を軽く叩く。
こん。
外へ広がるはずの音が、途中で消えた。
数息後。
箱の内側から三度、鈍い音が返る。
こん。こん。こん。
間。
二度。
最後に一度。
ガルドの顔から、いつもの軽口が消えた。
「誰かが中で打ってるみてえだな」
「打ってるんじゃねえ。覚えてる」
ハーゲンは留め具を見る。
「昔の鍛法を真似て、音を鉄へ仕込んでやがる。ただ、戻る先を決めずに閉じ込めた。だから箱の中で何度も打ち直してる」
「還しの鉄ではない?」
アリアが問う。
「還しの鉄になる前の地鉄だ。熱と打ち方次第で、どこへ力を返すか変わる」
「技術部は何を作ろうとしていた」
「聞かなくても分かるだろ」
ハーゲンの指が、黒い根の跡をなぞる寸前で止まる。
「心臓へ返す鉄だ」
黒い歯車から届いた力を、再び黒い歯車へ返す。
それだけを聞けば、防ぐための道具に思える。
だが、戻る先として心臓を覚えさせた鉄は、同時に心臓へ道をつなぐ。打つたびに存在を知らせ、離れた場所からでも黒い根を呼び寄せる。
還す。
呼ぶ。
違いは、鉄そのものにはない。
誰が、どこを戻る先に決めたか。
「開けられるか」
伊織が聞く。
「開けるだけならな」
「中身を使えるようにするのは」
「簡単じゃねえ」
「できないとは言ってねえな」
ハーゲンが伊織を睨む。
「右も左も壊れかけた奴が、職人を急かすな」
「急いでるのは俺たちだけじゃない」
伊織は外を見る。
遠くで大樹の鐘が、もう一度鳴った。
先ほどより短い。
だが、間隔は狭まっている。
「打ってくれ」
ハーゲンは答えなかった。
アリアが一歩前へ出る。
「最後の線は、まだ見つかっていません」
「なら打てん」
「でも、音具の枠は作れます」
ハーゲンの目がトトへ移る。
「その木片を使うのか」
「削りません。穴も開けない。取り外せる外枠だけを」
ガルドが言う。
「鉄に木片の震えを拾わせる。戻ってきた音を、持ってる本人へ伝える」
「図面は」
「頭にある」
「紙へ描け」
「先に箱を開けろ」
「順を決めるのは俺だ」
二人の視線がぶつかる。
職人同士の喧嘩は、怒鳴り声より沈黙の方が長かった。
先に視線を外したハーゲンが、壁から長い火箸を取る。
「坊主」
「なに?」
「お前が聞く」
トトが木片を握る。
「何を?」
「俺が打った音が、どこへ戻ったかだ」
「分かるかな」
「分からなきゃ、分からないと言え。聞こえたふりをするな」
「うん」
「怖ければ、やめろ」
トトは白い箱を見る。
中から、また三度、音がした。
「やる」
「ガルド」
「何だ」
「坊主の前に壁を作れ。鉄は使うな。厚い木で、腰より高く」
「箱を開ける前に?」
「先だ」
「最初からそう言え」
ガルドは鍛冶場の隅へ向かった。
積まれた板の厚みを確かめ、二枚を重ね、床へ固定するための脚を選ぶ。その動きには迷いがなく、さきほどまで言い争っていたハーゲンも、板の選び方には何も口を挟まなかった。
「リナ」
ハーゲンが続ける。
「坊主の耳を守れ。ただし、完全に塞ぐな」
「布を一枚だけ当てます」
「気分が悪くなったら止めろ」
「言われなくても止めます」
「エルナ」
「はい」
「回数を記録しろ。音の強さじゃねえ。どこへ返ったか、坊主が言った言葉をそのまま書け」
「解釈は加えません」
「アリア」
「はい」
「鉄の震えを読めるか」
「直接触れなければ」
「触るな。炉の火が入れば、読もうとしたものまで焼ける」
「風と煤の流れを見ます」
ハーゲンは最後に、伊織を見る。
「お前は何もするな」
「警戒はする」
「鉄を出すな」
「必要になれば出す」
「必要にするな」
伊織は答えなかった。
ハーゲンは、それを了承とは受け取らなかっただろう。それでも言い直さず、白い箱の留め具へ火箸を掛けた。
◆
蓋が開いた瞬間、鍛冶場の空気が沈んだ。
重さではない。
音が落ちた。
外で鳴っていた槌も、屋根を擦る風も、人の足音も、一瞬だけ遠ざかり、箱の中へ引かれたように小さくなる。
中には、七本の鉄が並んでいた。
長さは前腕ほど。
太さは指三本分。
表面は鈍い灰色だが、中央を黒い筋が走っている。一本ごとに筋の形が違い、根のように枝分かれしていた。
「触るな」
ガルドが手を伸ばす前に、ハーゲンが言った。
「伸ばしてねえ」
「顔が伸びてる」
「材料を見ればこうなる」
ハーゲンは火箸で一本を挟む。
持ち上げる。
黒い筋が脈打った。
クロが吠える。
鉄の先端が、東の方角へわずかに向いた。
磁石ではない。
ハーゲンが手首を返しても、鉄そのものが火箸の中で動き、同じ方向を示そうとする。
「もう覚えてやがる」
「心臓を?」
アリアが尋ねる。
「ああ」
「消せますか」
「削って消えるもんじゃねえ。熱して、打って、別の戻り先を教える」
「何を戻り先にする」
ハーゲンはトトの木片を見る。
「音だ」
トトが首を傾げる。
「ぼく?」
「お前じゃねえ。お前が持ってる、帰ってきた音だ」
ガルドが作った木の防壁が完成する。
床へ固定され、正面には小さな横穴が開けられていた。トトはその後ろに座り、木片だけを穴の近くへ出せる。
人を危険へ近づけるのではない。
道具へ、必要な部分だけを差し出す。
リナがトトの耳へ薄い布を当てる。
「痛かったら、すぐ言ってください」
「うん」
「怖くても」
「うん」
「我慢しなくて構いません」
「分かった」
クロが防壁の横へ座ろうとする。
リナが止めた。
「あなたも少し離れてください」
クロは動かない。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロは一度だけ伊織を見て、防壁から三歩下がった。
それ以上は離れなかった。
ハーゲンが炉の前へ立つ。
炭を組む。
長く消えていた火床へ、細い木片を入れる。火打ち石を一度。火花は消えた。二度目も炭へ届かない。
三度目。
小さな火が、乾いた木の端へ移った。
赤い点は頼りなく揺れながらも消えず、息を吹き込まれるたびに隣の木へ渡り、やがて炭の隙間から薄い炎が立ち上がった。
ハーゲンは黙って鞴を踏む。
炎が深くなる。
橙色から赤へ。
赤から白へ。
炉の内側で光が膨らむにつれ、鍛冶場の壁に掛けられた槌や火箸が、長い眠りから起こされたように輪郭を取り戻していった。
ヴォルフは少し離れた壁際に立っていた。
ハーゲンを見ている。
槌ではなく、火を。
「何年ぶりだ」
ガルドが聞く。
ハーゲンは答えなかった。
ヴォルフが代わりに言う。
「数えるな」
「聞いただけだ」
「数えたくねえ年もある」
ハーゲンの足が、鞴を強く踏んだ。
火が鳴る。
「喋るなら外へ出ろ」
「聞こえてたか」
「片耳は残ってる」
ヴォルフは口を閉じた。
鉄が炉へ入る。
黒い筋が熱に晒され、赤くなるのではなく、いったん濃く沈んだ。周囲の地鉄だけが暗い橙へ変わり、筋の部分には火を拒むような黒さが残る。
アリアが炉の横の空気を見る。
「熱が、中央を避けています」
「心臓へつながった線が熱を逃がしてる」
ハーゲンが答える。
「切れますか」
「切らん。返す先をずらす」
鉄を炉から出す。
金床へ置く。
表面から火の粉が散った。
「始めるぞ」
ハーゲンが槌を握る。
一打。
こん。
大きな音ではない。
だが、トトが木片を握った指を震わせた。
「どこだ」
「床」
エルナが書く。
二打目。
「壁」
三打目。
「遠いところ」
「東か」
「分からない」
「それでいい」
ハーゲンは鉄を炉へ戻す。
黒い筋はまだ残っている。
「失敗ですか」
アリアが尋ねる。
「最初から成功すると思うな」
火。
鞴。
熱。
再び金床。
今度は打つ位置を変える。
端から中央へ。
一打ずつ、鉄の中に閉じ込められた順番をほどくように、間を一定にせず槌を落としていく。
「どこだ」
「箱」
「次」
「大樹」
「次」
「水の下」
ハーゲンの手が止まる。
「水の下?」
「暗い水」
トトの顔色は変わっていない。
怖がっているのではない。
聞こえたものを、そのまま言っている。
アリアが煤の流れを見る。
「東の山水路かもしれません」
「まだ切れてねえ」
ハーゲンは鉄を火へ戻す。
三度目。
黒い筋の一部が、ようやく赤くなり始めた。
ガルドが鞴を代わる。
一定の速さで踏まず、ハーゲンの槌の間に合わせて空気を送る。強すぎれば鉄の表面だけが焼け、弱ければ黒い線へ熱が入らない。二人は相談しなかったが、火の色と槌を持つ腕の動きだけで、必要な呼吸を合わせていた。
「お前、本当に野次馬か」
ハーゲンが言う。
「今さら気づいたか」
「調子に乗るな」
「火を見ろ」
ハーゲンは炉を見る。
鉄を出す。
打つ。
こん。
トトが木片を押さえた。
「近い」
「どこだ」
「ガルド」
ガルドが鞴から足を離す。
「俺か?」
「お腹のところ」
ガルドが腹へ手を当てる。
「何も感じねえぞ」
「音が戻ってるんだ。耳で聞こえるとは限らねえ」
ハーゲンが鉄の向きを変える。
「次」
こん。
「ヴォルフ」
ヴォルフの片目が細くなる。
「俺へ返すな」
「鉄に言え」
「お前が打ってるだろ」
こん。
「アリア」
アリアの吊られた右手が、わずかに揺れた。
火の粉が触れたわけではない。
槌の力が、空気を通らず、何か別の線をたどって彼女へ返った。
「痛みは」
リナが聞く。
「ありません。ただ、布の内側が一度だけ震えました」
「人へ戻ってる」
伊織が言う。
「ああ」
ハーゲンの顔が険しくなる。
「最悪の鉄だ。近くにいる奴を順に戻り先へ選んでやがる」
「選ばせない方法は」
「一つずつ違うと教える」
「それで木片へ?」
「最後にな」
鍛造は続いた。
鉄は何度も炉へ戻され、火の中で色を変え、金床の上で形を失っては作り直された。ハーゲンの槌は力任せではなく、黒い筋がどこへ伸びようとしたかを確かめてから、その向きと直角になる場所へ落ちる。打つたびに音の戻り先が変わり、床、壁、炉、ガルド、ヴォルフ、アリア、伊織、クロと移っていった。
伊織へ戻った時、固定具の中の右手が一度だけ痺れた。
痛みではない。
拳銃の反動を受けた直後に似た、骨の奥へ残る震えだった。
「何を感じた」
ハーゲンが聞く。
「右手だ」
「使ってねえ方か」
「ああ」
「鉄は、欠けた場所へ戻りたがる」
「俺の手は戻り先じゃない」
「お前が決めることだ」
ハーゲンは槌を上げる。
次の一打。
クロの背の鋼色の縞が光った。
クロが低く唸る。
「どこだ」
ハーゲンがトトへ聞く。
「クロ」
「もう一度」
槌が落ちる。
クロは今度、唸らなかった。
頭上に小さな黒鋼灯が浮かぶ。
伊織は呼んでいない。
灯は一瞬だけ現れ、金床の上の鉄を照らして消えた。
鍛冶場の全員が見た。
伊織は左手を見る。
何もない。
「今のは」
アリアが言いかける。
「あとだ」
伊織が止める。
ハーゲンも槌を止めなかった。
「坊主」
「うん」
「木片を穴へ出せ」
トトは防壁の小さな横穴から、首紐を外した木片を差し出した。
手は防壁の内側に残す。
ガルドが作った仮の木枠へ、木片だけを固定する。削らない。穴も開けない。上下から柔らかな革で挟み、震えだけが伝わる形にした。
ハーゲンは七本あった地鉄のうち、打ち直した一本から、細い帯を切り出した。
帯を曲げる。
木片を囲む輪になる。
まだ閉じない。
両端を金床へ置く。
「次で音が木片へ返れば、線がつながる」
「返らなかったら?」
トトが尋ねる。
「また打つ」
「何回?」
「返るまでだ」
「ハーゲンの手、痛くならない?」
槌を持つ太い手には、古い傷が幾つもあった。
今日できたものではない。
それでもトトは、そこを見ていた。
「鍛人の手だ」
「痛くないの?」
「痛くても打てる」
「伊織と同じこと言うね」
鍛冶場の空気が止まった。
ガルドが顔を背ける。
ヴォルフの口元が僅かに動く。
ハーゲンは伊織を見る。
「一緒にするな」
「俺もだ」
「お前は黙れ」
トトは首を傾げた。
「似てるよ」
「打つぞ」
ハーゲンが槌を上げる。
最初の一打。
きん。
高い音がした。
木片は震えない。
「どこだ」
「炉」
二打目。
「外」
三打目。
「水路」
ハーゲンは鉄帯を裏返す。
ガルドが火を調整する。
アリアが煤の流れを読み、黒い筋の残った場所を指す。
「右端に、熱が入っていません」
「分かってる」
「なら、なぜ打たないのですか」
「先に打てば割れる」
「何拍後なら」
「聞くな」
ハーゲンの槌が落ちる。
こん。
トトが目を閉じる。
「近い」
「どこだ」
「ここ」
「木片か」
「ううん。ぼくの前」
あと少し。
鉄帯を再び熱する。
ハーゲンの息は荒くなっていた。
長く槌を置いていた身体は、技を忘れていなくても、昔と同じではない。肩が僅かに下がり、槌を握る指が一度開く。
ヴォルフが壁から離れた。
「代わるか」
「お前に打たせるくらいなら腕を落とす」
「元気だな」
「火箸を持て」
ヴォルフは何も言わず、火箸を取った。
ハーゲンが槌を両手で握り直す。
「坊主」
「うん」
「最後だ」
「失敗したら?」
「最後じゃなくなる」
トトが笑った。
緊張が少しだけ緩む。
鉄帯が金床へ置かれる。
両端。
中央。
木片へつながる輪。
ハーゲンはすぐには打たなかった。
火の色が落ち着くのを待つ。
ガルドの鞴が止まる。
アリアが煤の動きを追う。
エルナの筆が紙の上で待つ。
リナはトトの肩へ手を置いている。
クロは防壁の横で伏せ、伊織はその後ろに立っていた。
鍛冶場の外から届く無数の槌音が、遠くへ退いていく。
ハーゲンの槌が上がった。
一打。
かん。
音は広がらなかった。
壁にも。
炉にも。
床にも返らない。
鍛冶場の中央から消えた音が、僅かに遅れて、トトの指先にある木片を震わせた。
かん。
小さな音。
だが、はっきり聞こえた。
トトが目を開く。
「帰ってきた」
ハーゲンは槌を下ろした。
鉄帯の輪は、木片へ触れていない。
僅かな隙間を保って囲んでいる。
それでも、金床で打たれた音は、ほかの誰でもない木片へ戻った。
「もう一度」
トトが言う。
「確認は一度で足りる」
「ぼくが聞く係でしょ」
ハーゲンは少し黙った。
槌を持ち直す。
今度は弱く、鉄帯の端を打った。
かん。
木片が返す。
かん。
同じ間。
同じ高さ。
トトが頷いた。
「聞こえる」
ガルドが防壁の向こうへ回る。
革の固定具を外し、木片と鉄帯の枠を持ち上げる。
「重さは」
「前より少し重い」
「首から下げられるか」
「うん」
「嫌なら鞄へ入れろ」
「下げる」
トトは木片を首へ戻した。
灰色の細い鉄枠が、その周囲を囲んでいる。黒くもなく、飾り気もない。木片に傷は一つも増えていなかった。
「これで何が聞ける」
伊織が尋ねる。
ハーゲンは残った六本の地鉄を見る。
「打ち込んだ先から返る音だ。壁の向こう、地面の下、水の奥。正しい場所へ楔を打てば、坊主の木片へ戻る」
「間違えれば」
「別の場所へ返る」
「心臓を呼ぶ可能性も」
「ああ」
ハーゲンは槌を金床へ置いた。
「だから、坊主が聞く」
トトは木片を握る。
その役目の重さを、全部理解しているわけではない。
それでも、自分だけができることとして受け取っている。
「怖いか」
伊織が聞いた。
「ちょっと」
「嫌になったら言え」
「でも、みんなも聞くんでしょ」
「お前が聞いた音をな」
「じゃあ、大丈夫」
簡単な答えだった。
一人で聞くのではない。
聞こえたものを伝え、全員で確かめる。
木片はそのための道具になった。
◆
地鉄が冷えるまでの間、鍛冶場の裏庭で連携を確かめることになった。
水路へ降りるなら、伊織の右手も、アリアの右腕も、クロの左前足も、完全に治るまで待てない。だからといって負傷を無視して以前と同じ動きをすれば、次は誰かが戻らない。
ガルドが木の杭を六本立てた。
高さも太さも違う。
杭の上には、丸い板、四角い板、細長い板をそれぞれ載せる。
「撃つのは一回だけだ」
リナが伊織へ言った。
「ああ」
「盾も一回」
「ああ」
「警棒は」
「必要なら」
「必要にしないでください」
「訓練にならない」
リナはアリアを見る。
「止めてください」
「私も剣を使います」
「怪我人が増えました」
ガルドが杭の後ろから言う。
「口で止まるなら苦労しねえ。始めるぞ」
アリアは左手に木剣を持つ。
クロが二人の中央。
伊織は左手を開かず、杭の配置を読む。
正面に三本。
右に二本。
左後方に一本。
ガルドが石を投げる。
一つ目。
右の丸板。
「右」
アリアが声を出す前に、伊織は半歩動いていた。
射線を空ける。
アリアが踏み込み、木剣で丸板を落とす。
二つ目。
左後方。
伊織が振り返る。
クロは既に移動している。
アリアの背後を守る位置。
三つ目。
正面の細長い板。
伊織は左手を開く。
拳銃の輪郭が出る。
銃身が固まる前に、アリアが左へずれた。
伊織の射線から外れる。
発砲。
黒鋼の弾丸が板の中央を撃ち抜いた。
「終わりです」
リナが言った。
「まだ三つある」
「拳銃は一回です」
伊織は銃を消す。
ガルドが四つ目を投げる。
今度は二枚同時。
アリアが右。
伊織が左。
声はない。
クロは中央へ残り、どちらにも入らない。
木剣が一枚を落とす。
伊織は黒鋼警棒を具現し、もう一枚を打つ。
「止めてください」
リナの声が強くなる。
伊織は警棒を消した。
ガルドも残りの石を下ろす。
「動きは合ってる」
「合いすぎています」
エルナが帳面を見ながら言った。
「どういう意味だ」
伊織が尋ねる。
「声がありませんでした」
「必要なかった」
「今回は」
アリアが木剣を下ろす。
「東さんは、私が右へ出る前に動きました」
「右へ行くと思った」
「正解でした」
「なら問題ない」
「私も、東さんが撃つ前に射線を外れました」
「それも合ってる」
「はい」
アリアは少し間を置いた。
「合っていました」
伊織は彼女を見る。
薄紫の瞳に、明確な不安はない。
だが、言葉の最後に引っかかりが残っている。
「次も同じとは限りません」
エルナが言った。
「声を出しても遅くない形を作るべきです」
「実戦で待てるか」
「待つのではありません。確認するのです」
「一拍増える」
「誤った一歩より短いです」
クロが二人の間で鼻を鳴らす。
アリアがクロを見る。
「クロも、私たちが動く前に位置を選んでいました」
「匂いで分かるんだろ」
「何が起こるかではなく、私たちがどう動くかを」
ガルドが落ちた板を拾う。
「仲が良すぎるのも考えもんだな」
「そういう話ではありません」
アリアの返事が速かった。
「まだ何も言ってねえ」
「言う顔でした」
「顔まで読むな」
アリアの耳が僅かに赤くなる。
伊織は杭を見る。
連携は良くなっている。
互いの重心、呼吸、視線、武器を出すまでの間。それらを読めるから、声を出す前に動ける。
速い。
無駄がない。
だが、相手が想定どおりに動くことを前提にすれば、一つの読み違いが全員の位置を崩す。伊織はそれを理解していたが、動きが合った直後には、危険より手応えの方が強く残った。
「もう一度やる」
伊織が言う。
「駄目です」
リナが答える。
「今度は声を出す」
「それでも駄目です」
「確認が必要だ」
「左肩も確認します」
リナは伊織の前へ立つ。
「座ってください」
「ここでか」
「ここでです」
ガルドが笑いながら木箱を持ってくる。
「観念しろ」
伊織は箱へ座った。
アリアも右腕の布を巻き直される。
クロは自分だけ関係がない顔で伏せたが、リナに左前足を持ち上げられ、逃げるのを諦めた。
◆
日が傾く頃、残りの地鉄も箱から出された。
六本。
楔。
音具の予備部品。
打ち直しに失敗した場合の代替。
必要量を考えれば、決して多くない。
「全部使えるか」
ガルドが尋ねる。
「二本は黒い線が深すぎる」
ハーゲンが答える。
「使えば心臓へ戻る」
「溶かせない?」
「溶かして混ぜれば、全部が同じになる。隔離する」
「残り四本」
「楔に二本。木片の枠は一本の一部で足りた。残りは音を拾う棒と、失敗した時の打ち直しに回す」
「今日中に終わるか」
「終わらせるとは言ってねえ」
「七日もねえぞ」
「急いで歪んだ鉄は、急いだ奴の骨を折る」
ガルドは言い返さなかった。
炉には火が残っている。
ハーゲンが消さなかった火。
長く打たなかった男が、明日も使うつもりで残した火だった。
屋外から速い足音が聞こえた。
クロが顔を上げる。
敵へ向ける唸りではない。
門の前で、エルザが息を整えていた。
普段なら服の皺一つ気にする女の外套が乱れ、裾には白い石粉が付いている。走ってきたのだと、見れば分かった。
「何があった」
伊織が尋ねる。
「長老会は、あなた方の修正条件を審議に回しました」
「返事は」
「まだです」
「それだけを言いに来た顔じゃねえな」
ガルドが言う。
エルザは鍛冶場の中を見る。
開かれた白い箱。
炉の火。
木片を囲む灰色の鉄枠。
ハーゲンの手に戻った槌。
「箱を開けたのですね」
「橋から根が出た」
アリアが答える。
「中身は、技術部が秘匿していた還しの地鉄でした」
エルザの唇が僅かに閉じる。
驚いている。
だが、それを後回しにした。
「東門から、技術部の先遣隊が出ました」
「人数は」
伊織が聞く。
「確認できただけで二十四名。機構車両が四台。封鎖具、固定鋲、掘削器具を積んでいます」
「行き先は」
「東の山水路です」
アリアの顔が硬くなる。
「目的は心臓の停止?」
「提出された名目は、外部節の保全です」
「嘘だな」
ヴォルフが言った。
「はい」
エルザは否定しなかった。
「彼らは山水路の入口を封鎖し、長老会の決定前に中へ入るつもりです」
「止められないのですか」
アリアが尋ねる。
「都の門までは命令を出せます。しかし、彼らは技術部長名義の外縁特別行動権を使用しました」
「そんな権限は」
「古い規定に残っています。大崩壊以前の設備を保全する場合、観測部および現地管理局の許可を省略できる」
「書斎を開けた者と、同じ側ですか」
「断定できません」
エルザは一度だけ、目を伏せた。
「ただ、昨夜の命令書にあった装備と、同じ型の捕縛具が積まれていました」
伊織は炉の横に並ぶ地鉄を見る。
まだ楔は完成していない。
音具の枠が一つできただけ。
退路も、長老会との条件も確定していない。
それでも相手は動いた。
こちらの準備が整う前に、入口を奪い、心臓へ先に触れるために。
「出発は」
伊織が聞く。
「半刻前です」
「追いつけるな」
ガルドが言う。
「装甲車なら」
リナが伊織を見る。
「具現するつもりですか」
「必要になる」
「今の身体では」
「分かってる」
「分かっている人は、先に相談してください」
「今、してる」
リナは何か言い返そうとしたが、エルザが続けた。
「もう一つあります」
「何だ」
「先遣隊の指揮官は、観測部の照会を拒否しました。記録の共有も、帰還時刻の提出もありません」
「好きに動けるってことか」
「少なくとも、都の外へ出た後は」
エルザはアリアを見る。
次に伊織。
「技術部が動きました。──私の管轄外です」




