第81話 七日
長老会から戻るまで、誰も条件書に触れなかった。
白い紙はアリアの左手にあり、都の印が押された面だけが外へ向いていた。風が吹けば簡単に折れそうな薄さなのに、その一枚へ、アリアの身分、伊織たちの退去、アルドの記録、東の山水路に眠る心臓、そして七日という期限までが押し込められている。
大樹の枝が頭上を覆っていた。
淡く光る葉の隙間から日が差し、白い石畳へ細かな影を落としている。通りを歩く者たちは、長老会の議場から出てきた一行を見ても声をかけなかったが、知らないふりをするには視線が長すぎた。
「受けるのですか」
エルザが尋ねた。
アリアは歩みを止めない。
「まだ決めていません」
「返答は日没までです」
「分かっています」
「時間は多くありません」
アリアが振り返る。
「だから、一人で決めろと?」
エルザは答えなかった。
伊織は二人の間へ口を挟まず、街路の左右を見ていた。屋根には銀の鳥がいる。昨日までより距離を取っているが、数は減っていない。議場での言葉も、条件書の内容も、すでに複数の部署へ渡っていると考えた方がいい。
クロは伊織の左側を歩いている。
大樹から離れるにつれ、喉の唸りは消えた。それでも地面の匂いを追う動きは続いている。白い石畳の下を走る根は、目には見えなくても、クロには別の何かとして届いているらしい。
ガルドが前を歩きながら、吐き捨てるように言った。
「受ける必要はねえ」
「では、町を出ますか」
エルナが聞く。
「出りゃいい。こんな所に義理はねえ」
「東部の心臓は残ります」
「都の連中に止めさせろ」
「派遣しないと言っています」
「だから腹が立つんだ」
ガルドが足を止めた。
白い通りの中央で振り返り、条件書を睨む。
「あいつらは知ってた。数年前から異常があると分かってて、東へ何も言わなかった。根の色が変わる直前になって、たまたま来た俺たちへ押しつけた。それを受けるなら、向こうの思いどおりだ」
「断れば、東部の者が危険に晒されます」
エルナの声は平坦だった。
責めているのではない。
ただ、条件の外側にいる者を数えている。
「分かってる」
ガルドが低く言う。
「分かってるから、余計に気に入らねえ」
ヴォルフは骨刃を預けたまま、腰の空いた鞘へ片手を置いていた。
「受けるか断るかの二つに見せてる時点で、向こうの土俵だ」
「他の道があるのか」
伊織が尋ねる。
「作るしかねえ」
「七日で?」
「七日しかねえならな」
リナが伊織の左肩を見る。
「皆さん、歩きながら決める話ではありません。特に、既に怪我をしている方が、次の戦闘を前提に話しています」
「戻ってから話す」
「戻ってから、傷も見ます」
「ああ」
「今、迷いましたね」
「迷ってない」
「一拍ありました」
アリアの耳が、わずかに動いた。
伊織は見なかったことにした。
◆
屋敷へ戻ると、トトが玄関で待っていた。
木片を握っている。
クロを見つけると、すぐに鳴らした。
かん。
乾いた音が庭へ広がる。
クロが鼻を鳴らす。
「帰ってきた」
トトが言った。
「ああ」
ガルドの返事は短かった。
いつもなら何か一言つけるところだが、今日は続かなかった。
食堂の机へ条件書を広げる。
裂けた窓には板が打たれ、夜の襲撃で傷ついた床には、まだ銀線の擦れた跡が残っている。掃除は済んでいたが、屋敷は何事もなかった場所には戻っていなかった。
アリアが条件を読み上げる。
東の山水路深部に存在する心臓を停止させること。
期限は七日。
成功した場合、アリアの脱退手続きを再審査する。
同行者へ正式な退去許可を与える。
アルドに関する封鎖記録の一部を開示する。
失敗した場合、同行者を国外退去。
アリアは機構の監督下へ戻る。
読み終えた後も、誰もすぐには話さなかった。
トトだけが紙を覗き込む。
「これ、アリアが戻らないといけないってこと?」
「失敗した場合は」
アリアが答える。
「失敗って、何?」
「心臓を止められなかった時です」
「みんなで戻ってきても?」
アリアの声が止まった。
条件書には、生還について書かれていない。
心臓を停止できたかどうか。
それだけだ。
「みんなで帰ってきても、止められなかったら、アリアはここに残るの?」
「そう書いてあります」
「変だね」
トトはあっさり言った。
誰も反論できなかった。
「変だが、向こうには都合がいい」
ガルドが椅子へ座る。
「俺たちが死んでも、失敗。生きて戻っても、止められなきゃ失敗。止めたところで、脱退を認めるんじゃなく再審査だ」
「退去許可も同じです」
エルナが紙の一文を指す。
「正式な退去許可を与える、とありますが、いつ、どの門から、全員に対して有効なのかが記されていません」
「都を出た後に捕まえることもできる?」
リナが聞く。
「文面上は、否定できません」
「観測任務の期限は」
伊織が聞く。
「今日を含め、残り二日です」
エルナが答える。
「延長されなければ、任務の途中でも俺たちは入国資格を失う」
「はい」
「山水路へ向かう前に、追い出せるな」
「制度上は可能です」
ガルドが机を叩いた。
「穴だらけじゃねえか」
「穴ではありません」
アリアは条件書を見ていた。
「逃げ道です。向こうの」
伊織は椅子へ座らない。
机の端に左手を置き、条件を上から追う。
受ける。
断る。
その二つだけを考える必要はない。
「書き直させる」
伊織が言った。
全員が見る。
「応じると思いますか」
エルナが尋ねる。
「応じさせる材料がある」
「何を使う」
「心臓だ」
ガルドが眉を寄せる。
「止めてほしいのは向こうだろ」
「ああ。だから、こっちにも条件を出す権利がある」
「七日を人質にするのですか」
アリアの声には、僅かな警戒があった。
「違う。七日で行けと言うなら、行ける条件を用意させる」
伊織は紙の余白を指した。
「地図。過去の調査記録。心臓までの推定経路。都の根から観測した脈動の時刻。使える装備。出入口の確保。退却の判断は現場に任せる」
「技術部は同行させないと言っています」
「同行させないだけじゃ足りない。勝手に入るなと書かせる」
「監視具もです」
エルナが加える。
「観測部を含め、無断追跡を禁止。記録は私たちと外縁管理局にも残す」
「負傷者への治療物資」
リナが言う。
「都の治癒所から提供させます。ただし、薬の中身は私が確認します」
「材料だ」
ガルドが条件書の横へ指を置く。
「還しの鉄。鍛造に必要な炉、炭、道具。全部、勝手に差し押さえられねえようにしろ」
「ハーゲンが打つとは言っていません」
アリアが言う。
「打たせるんじゃねえ。打てるようにする」
「最後の線も見つかっていません」
「だから探す。だが、見つけてから材料を寄越せじゃ遅い」
ヴォルフが椅子の背へ寄りかかる。
「もう一つある」
「何だ」
伊織が見る。
「アリアの身柄を条件から外せ」
食堂が静まる。
アリアがヴォルフを見る。
「失敗したら戻す、なんて条件を残したまま行けば、こいつは心臓を止めることより、誰かを逃がすことを優先する」
「私は」
「するだろ」
ヴォルフは言い切った。
「伊織たちが追い出されるだけなら、自分が残ればいいと考える。そういう奴を連れて深部へ降りれば、判断が半拍遅れる」
アリアは否定しなかった。
伊織にも、否定できなかった。
「外させる」
伊織が言う。
「長老会は認めません」
アリアの声は静かだった。
「認めさせる」
「そのために何を差し出すのですか」
「何も」
「交渉になりません」
「心臓を止められる可能性を持ってるのは、今のところ俺たちだけだ」
「だからといって」
「お前を担保にしなきゃ動かないと思われたまま、行く気はない」
アリアは伊織を見る。
薄紫の瞳に、迷いが浮かぶ。
「私は、ここに残ることを恐れているわけではありません」
「知ってる」
「なら」
「恐れてないから条件に使っていい、とはならない」
アリアの左手が、机の下で閉じた。
右手はまだ布で吊られている。
「東さんは」
言葉が途中で止まる。
「何だ」
「いえ」
「聞け」
「あなた自身が条件に使われた場合も、同じことを言えますか」
伊織は答えようとした。
すぐには出なかった。
自分一人なら。
自分だけで済むなら。
それで他が助かるなら。
考えるまでもない。
その考えをアリアもしている。
「言えない顔です」
「今はお前の話だ」
「同じです」
「同じじゃない」
「なぜですか」
伊織は口を閉じる。
トトが二人を交互に見る。
「二人とも残らなかったらいいんじゃないの?」
簡単な言葉だった。
だが、その場にいる誰よりも正確だった。
ガルドが大きく息を吐く。
「それでいこう」
「何がですか」
アリアが聞く。
「誰も担保にしねえ。行く。止める。帰る。条件はそれだけだ」
「簡単にまとめましたね」
エルナが言う。
「難しく書くのはお前の仕事だ」
「承知しました」
エルナは白紙を取り出す。
長老会の条件書の横へ置き、全員が挙げた項目を書き始めた。
短い文では足りない箇所は、例外の範囲や責任の所在まで細かく記す。誰が読んでも同じ意味になるように言葉を選び、相手に都合のよい解釈を許さないため、似た表現が続く場所では一度筆を止め、別の言い回しへ置き換えていった。
書き上がった時、日没まで残り一刻を切っていた。
◆
長老会へ向かう途中、最初の揺れが来た。
足元の石畳が、持ち上がったのではない。
その下を、巨大な何かが通り抜けたように波打った。
白い街路が一本の線に沿って沈み、次の瞬間、元へ戻る。
窓が鳴る。
水路の水が逆流する。
銀葉樹の葉が一斉に裏返った。
「止まれ!」
伊織が叫ぶ。
前を歩いていた役人たちが振り返る。
クロは既に地面へ鼻を向けていた。
低く唸る。
街路の右側。
水路へ架かる細い橋。
その中央に、荷車が一台いる。
車輪の片側が石畳の継ぎ目へ落ち、動かなくなっていた。
御者が馬を引く。
荷台には白い箱が積まれている。
その下から、黒い線が浮かび始めた。
「離れろ!」
伊織が走る。
左肩が痛む。
無視する。
ガルドが後ろから追う。
「何がある!」
「分からない!」
クロが先に橋へ入る。
荷車ではなく、水路の縁を嗅ぐ。
一度、左。
二度、右。
最後に荷台の下へ向かって吠えた。
白い箱の底から、細い根が伸びている。
木の根ではない。
黒い金属。
荷車の車軸へ巻きつき、橋の石へ潜り込もうとしている。
「箱を降ろせ!」
ガルドが御者へ叫ぶ。
「保全物資だ! 許可なく触れられない!」
「橋ごと落ちるぞ!」
黒い根が車軸を締める。
木材が軋む。
馬が暴れた。
御者が手綱を引かれ、橋の欄干へ身体をぶつける。
アリアが馬の正面へ回る。
剣はない。
左手で手綱を掴み、馬の顔を水路から外へ向ける。
「目を覆ってください!」
御者が動けない。
アリアは自分の外套を外し、馬の目へ掛けた。
右手を使えないまま、左腕と身体全体で頭を押さえる。
馬の蹄が石を叩く。
アリアの靴が滑る。
「東さん、早く!」
伊織は左手を開く。
黒鋼警棒。
短い形が掌へ落ちる。
根を打たない。
車軸へ巻きついた部分の隙間へ差し込み、捻る。
硬い。
警棒の表面が軋む。
ガルドが反対側から鉄棒を入れる。
「同時だ!」
「ああ」
「一、二――」
二人で押す。
数え終わる前に、黒い根が動いた。
伊織の警棒へ巻きつく。
具現した鋼鉄を探っている。
黒い粒子が根へ吸われ始める。
「消せ!」
ガルドが叫ぶ。
伊織は警棒を消す。
根が掴むものを失い、僅かに跳ねた。
クロが車軸の下へ飛び込む。
黒い根の奥。
白い箱へつながる細い節へ前足を置く。
一度吠える。
「そこか!」
ガルドが鉄棒を振り下ろす。
節が潰れる。
黒い根の力が抜けた。
伊織が車輪の下へ肩を入れようとする。
リナの声が飛ぶ。
「左肩を使わないでください!」
「聞こえてる!」
「なら使わないで!」
伊織は姿勢を変える。
背を車輪へ向け、腰と脚で持ち上げる。
ガルドが車軸を押す。
車輪が継ぎ目から外れた。
「馬を引け!」
アリアが御者へ叫ぶ。
男がようやく手綱を取る。
荷車が橋を渡り切る。
直後、橋の中央を黒い線が走った。
白い石が割れる。
欄干の一部が水路へ落ちた。
逆流した水が、黒い根を呑み込む。
水面が一瞬だけ赤く光り、すぐに消えた。
クロが水路へ牙を見せる。
背の鋼色の縞が淡く光っている。
「今のが、心臓の脈動?」
エルナが割れた橋を見る。
アリアは馬を落ち着かせながら、大樹の方向へ顔を向けた。
「東から伝わってきた可能性があります」
「三日後からじゃなかったのか」
ガルドが言う。
「予測が外れたのか」
伊織は白い箱を見る。
側面に技術部の三重輪が刻まれている。
「何が入ってる」
御者が箱の前へ立つ。
「保全物資だ」
「開けろ」
「許可がない」
「今、そこから根が出た」
「私は運搬を命じられただけだ」
「誰に」
御者は答えない。
クロが箱へ近づく。
低く唸る。
中で、かすかに金属が鳴った。
こん。
一度だけ。
ハーゲンの返し打ちに似た、外へ広がらず、箱の内側へ戻る音。
ガルドの顔が変わる。
「還しの鉄だ」
「分かるのか」
「同じ音じゃねえ。だが、戻ってる」
白い箱は、都が隠していた材料を運んでいる。
誰のために。
どこへ。
問いただす前に、中央の大樹から鐘が鳴った。
低く、重い音。
一度。
都の者たちが、同時に足を止める。
次に二度。
窓が閉まる。
店の扉が閉ざされる。
通りを歩いていた者たちが、最寄りの建物へ入っていく。
「何の鐘ですか」
リナが聞く。
エルザの顔が強張っていた。
「根脈異常です」
「いつ以来だ」
ヴォルフが尋ねる。
「私が知る限り」
エルザは大樹を見る。
「一度もありません」
アリアは条件書を開いた。
七日。
紙にはそう書かれている。
だが、黒い脈動はすでに白い都の橋を割り、隠された箱へ根を伸ばした。
「長老会へ行きます」
アリアが言う。
「条件を受けるのか」
エルザが聞く。
「いいえ」
アリアはエルナが作った新しい条件書を左手で持ち上げた。
「こちらの条件を、受けさせます」
伊織は割れた橋を見る。
戻る道が壊れる前に、準備を終えなければならない。
七日は期限ではなかった。
都が、まだ七日あると思い込んでいただけだった。




