第98話 回収対象
朝の食堂で、ニコが数字を一つ減らした。
還り火まで、百七夜。
乾いた墨が、紙へ染みていく。
伊織はその文字を見てから、木の器へ視線を戻した。昨夜の残りを温め直した豆のスープは、表面に薄い膜を作っている。
食べる気になれず、匙で端を崩した。
「冷めますよ」
向かいのアリアが言った。
「もう冷めてる」
「温め直しますか」
「いい」
「なら食べてください」
「食欲がない」
「体調が悪いんですか」
「そうじゃない」
「昨日、具現が乱れました」
「今は問題ない」
「それを確認するのは私です」
アリアは自分の器を置いた。
立ち上がろうとする。
「食事中だ」
「東さんのせいです」
「俺は何もしてない」
「食べていません」
「それが何をしたことになる」
「心配を増やしました」
言ったあと、アリアの動きが止まった。
耳の先が赤くなる。
「研究上の確認事項を増やした、という意味です」
「そうか」
「そうです」
「なら、あとでいい」
「本当に問題ありませんか」
「ああ」
伊織は匙を口へ運んだ。
豆は柔らかい。
焦げていない。
ガルドが鍋の底を削った成果だろう。
味は分かる。
飲み込める。
それでも、食べたという実感が薄かった。
百七夜。
数字が一つ減っただけで、昨日より近くなった。
何に近づいたのかは、まだ決めていない。
帰る日か。
残ると決める日か。
あるいは、何も起きない日か。
考え始めたところで、外の鐘が鳴った。
二度。
間を置いて、もう一度。
救護を求める合図だった。
伊織は匙を置いた。
アリアが先に立つ。
「食事中じゃなかったのか」
「状況が変わりました」
「便利だな」
「禁止したはずです」
食堂の扉が開いた。
衛兵が一人、肩で息をしている。
「岩棚で、生存者を見つけました」
伊織は立ち上がった。
「昨日の連中か」
「装備が一致します」
「状態は」
「生きています。ただ、話せるかどうかは」
「どこへ運んだ」
「ギルドの治療室です」
ヴォルフが壁際から杖を取る。
「行くぞ」
「お前もか」
「うちの治療室だ」
「昨日は町へ来た客だった」
「今日は襲撃者の生き残りだ」
ヴォルフは眼帯の下を指で掻いた。
「扱いを間違えると、面倒が増える」
「最初から増えてる」
「だから減らす」
クロが床から立ち上がる。
伊織の右へ並んだ。
アリアは食べかけの器へ布を掛ける。
「戻ったら食べます」
「俺のも頼む」
「自分でしてください」
「冷める」
「もう冷めているんでしょう」
伊織は答えなかった。
アリアがわずかに口元を上げる。
クロが先に扉を出た。
◆
ギルドの治療室は、血と薬草の匂いがした。
寝台は四つ。
奥の一つに、女が横たわっている。
年齢は三十前後。
短く切った褐色の髪。
右の頬から首へ、石片で裂いた傷が続いている。左腕は添え木で固定され、胸元の革鎧は切り開かれていた。
呼吸は浅い。
意識はある。
寝台の横には、エルナが立っている。
止血を終えた手袋へ、まだ赤い染みが残っていた。
「三ヶ所、骨折しています」
エルナが言った。
「肋骨が二本。左腕。それと右足首です。内臓の損傷は、今のところ確認できません」
「ヴェルナーがやったのか」
「岩棚の崩落です」
女の目が動く。
伊織を捉えた。
次にアリア。
クロ。
クロのところで、瞳孔が開いた。
「……黒い獣」
共通語だった。
半拍遅れて、意味が届く。
伊織はもう、その遅れを意識せずにはいられなかった。
「名前はクロだ」
女の唇が動く。
「記録と……一致する」
アリアの表情が硬くなる。
「何の記録ですか」
女は答えなかった。
ヴォルフが寝台の横へ立つ。
「名前を言え」
「リゼル」
「所属は」
「オルドレイン技術部、外域回収班」
「階級」
「第三技術士」
「昨日、何をしていた」
リゼルの視線が伊織へ戻る。
「回収任務」
「ヴェルナーをか」
「違う」
返事は早かった。
ヴォルフが杖の先を床へ置く。
「では何だ」
「観測杭」
アリアが眉を寄せる。
「門前で回収した金属棒のことですか」
「三本のうち、一本」
「どれです」
「中央に切れ目のあるもの」
伊織は昨日の光景を思い出す。
ヴェルナーが地面へ置いた三本の金属棒。
長さは掌ほど。
見た目はほとんど同じだった。
「ヴェルナーの武器じゃないのか」
「二本は武装。一本は観測機」
「何を観測する」
リゼルは目を閉じた。
呼吸が少し乱れる。
エルナが水を含ませた布を唇へ当てた。
「無理に話させないでください」
「急ぐ」
リゼル自身が言った。
「杭は、起動していないか」
「今は保管庫だ」
「近くに、異邦人がいるなら」
リゼルの目が伊織へ向く。
「起動する」
「俺に反応する?」
「接続に反応する」
クロが低く唸った。
リゼルの顔が強張る。
「それを、近づけるな」
「クロをか」
「杭を」
寝台の上で身体を起こそうとする。
折れた肋骨が動いたのか、息が詰まる。
エルナが肩を押さえた。
「動かないでください」
「観測杭は、探す」
「何を」
「起点を」
「起点とは何ですか」
アリアが聞く。
リゼルの額に汗が浮く。
「世界の境界を、固定した場所」
伊織とアリアが視線を交わす。
還り火。
扉。
接続。
昨日まで別々だった言葉が、一つの場所へ集まり始める。
「起点はどこにある」
伊織が聞いた。
「鋼鉄塔の下」
「ここにはない?」
「あるはずがない」
リゼルは息を整える。
「観測杭は、ヴェルナーが塔から持ち出した。部長命令で回収するはずだった」
「部長の名前は」
「エーベルト」
ヴォルフが目を細める。
「ヴェルナーの部下か」
「以前は」
「今は」
「技術部は、ヴェルナーを管理対象と判断している」
「作った人間をか」
「組織へ損害を与える可能性がある」
「自分の組織だろ」
「今は違う」
リゼルの声に、わずかな硬さが混じる。
ヴェルナーへの敵意ではない。
命令を説明する時の硬さだった。
「昨日、撃った理由は」
伊織が聞く。
「観測杭を持ったまま、町へ入ろうとした」
「殺すつもりだったか」
「脚を止める予定だった」
「九百メートルから金属杭を撃って?」
「ヴェルナーなら死なない」
「周りに当たる」
「町へ入る前に止める命令だった」
「それで町へ撃った」
リゼルが黙った。
伊織は女を見た。
ヴェルナーは人間を部品として扱った。
その組織も、同じものを残している。
命令。
対象。
損害。
言葉の中に、名前がない。
「残った六人は」
「私以外は、分からない」
「撤退した連中は」
「命令へ従った」
「お前たちは従わなかった」
「回収班だから」
「命令より任務を優先した?」
「任務が命令だった」
ヴォルフが鼻で息を吐く。
「面倒な組織だ」
「ギルドも似たようなものだろ」
伊織が言う。
「うちは、もう少し雑だ」
「褒めてない」
「分かっている」
リゼルの目が再びクロへ向く。
「黒い獣を、杭へ近づけるな」
「理由は」
「記録にある」
「どんな」
「起点を開く」
治療室の空気が冷えた。
「クロが?」
アリアが聞く。
「同種なら」
「同種とは限りません」
「灰の筋。金色の目。異邦人との接続」
リゼルは一つずつ言った。
「一致する」
クロの灰色の縞が、毛の奥でわずかに浮いた。
「記録はどこにある」
伊織が聞く。
「塔」
「誰が書いた」
「不明」
「何年前だ」
「原本は、千年以上前」
ヴェルナーの話と一致する。
夜渡り。
転移者が死ぬまで、翻訳を維持した黒い獣。
「観測杭をどう止める」
アリアが聞く。
「起動前なら、核を外す」
「起動後は」
リゼルは答える前に、視線を逸らした。
「壊す」
「方法は」
「観測が終わる前に、中心核を固定して――」
治療室の外で、金属音が鳴った。
一度。
小さい。
だが、全員が聞いた。
クロが扉を見る。
次の音は、少し大きかった。
硬いものが、木箱の内側を叩いている。
ヴォルフの顔が変わる。
「保管庫だ」
リゼルが目を見開いた。
「遅い」
伊織は扉を開けた。
◆
ギルドの保管庫は、中庭を挟んだ反対側にある。
石壁。
鉄の扉。
窓はない。
武器や押収品を置く場所だった。
扉の前には、衛兵が二人いる。
一人が鍵を持ち、もう一人が槍を構えていた。
「中で動いています」
「開けろ」
「危険です」
「だから開ける」
伊織が言うと、アリアが前へ出た。
「扉を開ける前に、遮断します」
床へ指を触れる。
淡い風の膜が、保管庫の壁へ沿って広がった。
「魔力が外へ漏れないようにします。ただし、内部で何が起きるかは分かりません」
「十分だ」
「十分ではありません」
「今はそれでやる」
アリアは何か言いかけた。
クロが扉の前へ立つ。
鼻先を鉄板へ近づけた。
灰色の縞が濃くなる。
「クロを下げてください」
アリアが言う。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロは動かない。
「聞いてるな」
耳だけが動く。
「従いませんね」
「似てるらしい」
「今は笑えません」
保管庫の中で、木が割れた。
ばきり。
何かが床へ落ちる。
金属の先端が石を擦る音。
衛兵が鍵を回す。
扉が内側から押された。
錠が半分しか動かない。
伊織は右手を開いた。
骨の奥が冷える。
黒い粒子が集まり、短い一本の棒になる。
黒鋼警棒。
近接戦闘で何度も握った、簡素な形。
伸縮機構は使わない。
握りを両手で持ち、扉と枠の隙間へ先端を差し込む。
「警棒で開けるんですか」
アリアが聞く。
「梃子にする」
「折れませんか」
「俺が知ってる使い方じゃないが、構造は単純だ」
「本来の用途ではありません」
「扉を殴るよりましだ」
衛兵が錠を回す。
伊織は警棒へ体重を掛けた。
黒鋼が軋む。
クロが伊織の足へ前脚を触れた。
輪郭の揺れが止まる。
アリアが風を細い楔にし、反対側の隙間へ流し込んだ。
二人分の力が蝶番へ集中する。
金具が一つ外れた。
扉が外側へ倒れる。
同時に、黒いものが飛び出した。
細い金属線。
三本。
生き物の脚のように床を叩く。
伊織は黒鋼警棒を横へ振った。
一線を弾く。
手首へ重い衝撃。
警棒の表面に火花が散る。
アリアの双剣が抜ける。
白刃が二本目を斜めに受け、軌道を壁へ逸らした。
三本目がクロへ伸びる。
クロが身を沈めた。
前脚を踏み込む。
灰色の縞が、肩から足先へ走った。
金属線の動きが一瞬だけ鈍る。
「中心核!」
伊織が叫ぶ。
木箱の中に、中央へ切れ目のある金属棒が立っている。
棒の周囲から三本の線が伸び、床と壁を探るように暴れていた。
中心には白い光。
その周囲を、薄い環が高速で回転している。
「外殻を壊すな!」
治療室から運ばれてきたリゼルの声ではない。
記憶だった。
中心核を固定する。
伊織は黒鋼警棒を消した。
黒い粒子が右手へ戻る。
次に現れたのは、すでに使ったことのある装備だった。
鋼線拘束具。
VRの作戦で、暴走する古代兵器の中継核を固定するために何度も使った。
標的を捕らえるためだけの線ではない。
回転する核へ食い込み、動きを奪い、出力が逃げる方向を限定するための装備。
伊織の右腕から、数本の黒鋼線が射出される。
木箱の内側へ走る。
一本目が観測杭の上部へ巻きつく。
二本目が下部。
三本目が中央の切れ目へ食い込んだ。
「締める!」
伊織は拳を握った。
鋼線拘束具が収縮する。
観測杭の回転環が黒鋼線へ当たり、火花を散らす。
一本が弾かれた。
右手に痛みが走る。
残る二本が外殻へ食い込む。
金属線が床を激しく叩く。
一本がアリアの足首へ巻きつこうとする。
アリアは右足を引き、双剣を交差させた。
線を挟む。
捻る。
金属が切れず、刃の間で火花を散らす。
「硬い!」
「壊さなくていい! 押さえろ!」
伊織は鋼線を引く。
観測杭の中心を木箱の底へ押しつける。
回転環の速度が落ちる。
クロの前脚から灰色の光が床へ走り、伊織の影へ重なった。
具現の輪郭が安定する。
弾かれた一本が再び形を取り、中央の切れ目へ巻きついた。
鋼線が三方向から杭を締める。
「アリア、核はどこだ!」
「中央の白い光です!」
「外せるか」
「このままでは無理です!」
「回転を止める!」
伊織は右腕を引いた。
鋼線拘束具が、杭の回転と逆方向へ締まる。
右肩へ負荷が返る。
冷えが肘まで上がる。
クロの縞が強く光った。
金色の瞳が開く。
回転環が一度跳ねる。
鋼線が軋む。
それでも切れない。
回転が止まった。
「今だ!」
アリアが踏み込む。
左の剣で暴れる金属線を押さえ、右の剣の切っ先を観測杭の中央へ差し込んだ。
刃を突き刺すのではない。
白い核の外周にある留め具へ滑らせる。
手首を返す。
小さな金属片が外れた。
白い核が、杭の中央から浮く。
アリアが風で包み、木箱の外へ引き抜いた。
観測杭から伸びた金属線が、すべて止まった。
床へ落ちる。
乾いた音が三度響いた。
伊織は鋼線拘束具を緩めない。
「終わりましたか」
アリアが聞く。
「核を離せ」
「風で保持しています」
「杭からもっと離せ」
アリアが白い核を保管庫の入口へ運ぶ。
衛兵が下がる。
核は指先ほどの大きさだった。
透明な石の中に、白い霧が渦巻いている。
伊織は観測杭を見た。
停止している。
金属線も動かない。
鋼線拘束具を消す。
冷えが右手に残る。
以前より浅い。
だが、完全には消えていない。
クロが伊織の足から前脚を離した。
「助かった」
クロは観測杭を見たまま、耳だけを動かす。
白い核が、アリアの風の中で脈打った。
一度。
弱く。
次の瞬間、細い光が核から床へ落ちる。
「離してください!」
アリアが風を強めた。
核を宙へ持ち上げる。
それでも白い光は切れない。
糸のように伸び、石床へ触れた。
継ぎ目へ入り込む。
保管庫の外へ走り始める。
「観測は終わっていたのか」
伊織が言う。
「違います」
アリアが白い核を見る。
「核を外したことで、蓄積していた探索結果が放出されています」
「止められるか」
「すでに流れています」
クロが白い線を追って走り出した。
「クロ!」
伊織も追う。
◆
白い線は中庭を横切り、石畳の隙間を進む。
ギルドの門を出る。
中央通りへ。
人々が足を止める。
線は細い。
日差しの中では、目を凝らさなければ見えない。
だが、クロにははっきり見えている。
迷わない。
食堂の方向へ走る。
「なぜ食堂へ」
アリアが追いつく。
「知らん」
「地下に何かあるんですか」
「酒樽と古い水路だけだ」
「本当に?」
「俺が来る前からの建物だ」
「では、知らない場所がある可能性があります」
「ある」
白い線が食堂の入口を越える。
ガルドが鍋を持ったまま振り返る。
「何だ!」
「床を空けろ!」
客を壁際へ下げる。
エルナが子供たちを厨房へ移す。
ニコは記録帳を抱えて立ち上がった。
白い線は食堂の中央を通らない。
奥。
厨房と倉庫の間。
クロを検査した部屋の前を抜ける。
地下倉庫へ続く扉へ入った。
伊織が扉を開ける。
階段。
暗い。
湿った空気が上がってくる。
クロが躊躇なく降りる。
アリアが光を浮かべた。
「東さん、前へ出すぎないでください」
「クロが先だ」
「それも止めてください」
「聞かない」
「誰がですか」
「両方だ」
石段を下りる。
地下倉庫には、樽と木箱が並んでいる。
壁際に古い棚。
奥には、使われていない水路の跡。
白い線は床を走り、北側の壁で止まった。
何もない石壁。
クロが鼻を近づける。
前脚で一度掻いた。
石の表面から、薄い灰が落ちる。
「ここに空間があります」
アリアが壁へ手を触れた。
「風が返っています」
伊織は拳で石を叩く。
鈍い。
少し右。
音が変わる。
内側が空洞だった。
「壊すぞ」
「待ってください。構造を確認します」
「早くしろ」
「急がせないでください」
アリアが壁へ魔力を流す。
薄紫の光が石の継ぎ目を走る。
「中央の三枚だけ、後から積まれています。外せます」
「罠は」
「分かりません」
「なら距離を取る」
「何を使うんですか」
伊織は右手を開いた。
黒い粒子が集まる。
再び、黒鋼警棒。
伸ばした状態で具現する。
石の隙間へ先端を差し込めるだけの長さがある。
「また警棒ですか」
「使えるものは使う」
「本来の使い方ではありません」
「同じ道具で二度済むなら安い」
「代償は安くありません」
「分かってる」
伊織は石の継ぎ目へ黒鋼警棒を差し込んだ。
アリアの風が反対側から押す。
「三つで外れる」
「上からです」
一枚目。
石が前へ滑る。
伊織が警棒で受け、床へ寝かせる。
二枚目。
裏から冷たい空気が漏れた。
三枚目。
外れた瞬間、クロの灰色の縞が一気に浮かんだ。
金色の瞳が暗闇を見つめる。
壁の向こうに、細い通路があった。
人一人が通れる幅。
石ではない。
黒い金属で覆われている。
錆びていない。
埃だけが厚く積もっている。
「古代技術」
アリアが呟く。
「見たことは」
「ありません。ですが、今の加工ではありません」
伊織は光を奥へ向けた。
通路の先。
五歩ほど進んだ場所に、扉がある。
円形。
継ぎ目がない。
中央に、手のひらほどの黒い板が埋め込まれている。
白い光の線は、その板へ繋がっていた。
「観測杭が探した起点」
アリアが言った。
「ここにあるはずがないらしい」
「ですが、あります」
クロが通路へ入ろうとする。
伊織が首元を掴んだ。
「待て」
クロが振り返る。
「先は俺だ」
鼻を鳴らす。
「今のは嫌だ、ですね」
アリアが言う。
「分かるのか」
「顔です」
「犬の?」
「東さんより分かりやすいです」
伊織はクロを押さえたまま、通路へ片足を入れた。
冷たい。
空気ではない。
足裏から、右手と同じ冷えが上がってくる。
鋼鉄を具現する時の感覚。
壁。
床。
天井。
通路全体が、伊織の力と似た何かで作られている。
「東さん?」
「この金属、俺の鋼鉄に近い」
「具現物ですか」
「分からない」
一歩進む。
黒い板の前へ立つ。
表面には文字があった。
埃を指で払う。
アリアの光が当たる。
伊織は息を止めた。
翻訳は起きなかった。
意味が遅れて届くこともない。
最初から知っている文字だった。
日本語。
彫られていたのは、七文字。
第三帰還観測所。
「何と書いてあるんですか」
アリアが聞いた。
伊織はすぐには答えられなかった。
ヴェルナーが日本で働いていたのは、五十年前だ。
この通路は、それより古い。
石壁の積み方も。
金属に積もった埃も。
食堂が建つより前から、ここにある。
「帰還を観測する場所だ」
「ヴェルナーが作った?」
「違う」
「なぜ分かるんですか」
「文字が古い」
書体だけではない。
傷。
削れ方。
金属の表面へ積もった時間。
五十年では足りない。
アリアが板へ手を近づける。
「触るな」
伊織が止めた。
「ですが、調べなければ」
「俺がやる」
「それでは意味がありません」
「俺に反応してる」
「だから危険なんです」
白い線が、黒い板の中央へ吸い込まれた。
文字の周囲へ、淡い光が灯る。
クロが唸る。
伊織の右手が冷える。
黒い粒子は出ない。
代わりに、扉の向こうから音がした。
ごとり。
重い。
遠い。
巨大なものが、長い眠りから位置を変えたような音。
アリアが双剣へ手を掛ける。
「動きました」
「ああ」
「開きますか」
「まだ分からない」
二度目の音。
今度は近い。
円形の扉の縁へ、一本の光が走る。
上から下へ。
黒い金属が、わずかに震えた。
ニコが入口から覗いている。
ガルドとヴォルフも来ていた。
誰も声を出さない。
伊織は板の文字を見る。
第三。
なら、一つ目と二つ目がある。
誰が作った。
何のために。
何人が、ここから帰ろうとした。
答えは扉の向こうにある。
円形の金属の奥で、歯車が一つ回った。
百年以上、誰にも触れられなかった音が、食堂の地下へ響いた。




