第99話 二つの席
円形の扉は、それ以上動かなかった。
縁を走った白い光は残っている。
内側で歯車が回る音も消えた。
開いたように見えて、継ぎ目は髪一本分も広がっていない。
伊織は黒い板から手を離した。
右手の冷えも引く。
「止まりましたね」
アリアが言った。
「ああ」
「故障でしょうか」
「百年以上寝てたなら、動いただけでもましだ」
「正確な年代は分かっていません」
「五十年以上だ」
「最低でも、です」
アリアは円形扉へ顔を近づけた。
薄紫の光を指先へ集め、縁へ沿わせる。
光は金属へ吸われず、表面だけを滑っていく。
「魔力錠ではありません」
「じゃあ何だ」
「機械式に近いです。ただ、内部の動力には魔力が使われています」
「両方か」
「ヴェルナーの技術と似ています」
「順番が逆だろ」
アリアが伊織を見る。
「これを参考にした?」
「たぶんな」
ヴェルナーが一から作ったものではない。
先にこれがあった。
五十年前、この世界へ来た科学者は、古い技術を見つけた。分解し、測り、組み直し、自分の知識へ置き換えた。
人間を部品として見る前から、世界を部品として見ていた。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロは黒い板の前に座っている。
灰色の縞は薄くなった。
金色だった瞳も、元の暗い色へ戻っている。
「触ったか」
クロが鼻を鳴らす。
「触っていない、だそうです」
アリアが言う。
「分かるのか」
「たぶん」
「曖昧だな」
「犬語の専門家ではありません」
「俺の顔は読めるのに」
「東さんよりクロの方が複雑です」
「それ、俺が単純って意味か」
「はい」
答えが早かった。
伊織は黒い板へ視線を戻す。
日本語の文字。
第三帰還観測所。
翻訳ではない。
見たまま読める。
だが、彫られた文字には、少し違和感があった。
「伊織さん」
階段の方からニコの声がする。
「リゼルさんを連れてきますか」
ニコは通路へ入らず、石壁の向こうに立っていた。記録帳を胸へ抱えている。
その後ろにガルドとヴォルフ。
ガルドは腕を組み、狭い穴を睨んでいる。
「そいつが中の仕組みを知ってるなら、連れてきた方が早い」
ガルドが言った。
「知っているとは限らん」
ヴォルフが返す。
「本人が回収しに来た装置が、ここを見つけたんだぞ」
「だからこそだ」
「何が」
「目的が同じとは限らん」
ヴォルフは杖の先で床を一度叩いた。
「オルドレイン技術部は、ヴェルナーを管理対象にした。帰還観測所を探す装置も持っている。負傷者一人とはいえ、施設の入口まで見せていい相手かは別だ」
「今さらだろ」
「場所までは知られていない」
「観測杭が知らせてるかもしれん」
「かもしれん、で決めるな」
「ならどうする」
ガルドが苛立ったように言う。
「ここで睨んでても開かねえぞ」
エルナが階段を下りてきた。
治療用の布で手を拭いている。
「リゼルさんは移動させられません」
「意識は」
伊織が聞く。
「あります。ただ、肋骨が折れています。地下まで担架で運べば、傷が悪化します」
「聞きたいことは聞けるか」
「短時間なら」
「なら、ここへは連れてこない」
伊織は決めた。
ヴォルフが片目を細める。
「信用しないのか」
「信用するかどうかの話じゃない」
「では何だ」
「怪我人を階段で運ばない」
ヴォルフは少しだけ黙った。
「そうか」
「それでいい」
エルナが言う。
アリアが円形扉から離れた。
「私が上へ行きます。扉の構造について、分かる範囲だけ確認します」
「一人で?」
「尋問ではありません」
「言葉の問題だ」
「エルナさんが同席します」
「俺も行く」
ヴォルフが言った。
「あなたがいると尋問になります」
「なら、お前が聞き漏らした時だけ口を出す」
「ずっと口を出しそうですね」
「必要ならな」
「では、必要がなくても出しそうです」
「その判断は任せる」
アリアは小さく息を吐いた。
「東さんは、ここで待っていてください」
「扉を見る」
「触らないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
「クロにも触らせないでください」
伊織はクロを見る。
クロも伊織を見る。
「本人に言え」
「クロ、触らないでください」
クロは顔を背けた。
「今のは」
「聞いてる」
「従うでしょうか」
「さあな」
「二人とも、そこから動かないでください」
アリアは通路を出た。
エルナとヴォルフも続く。
ガルドは残った。
「俺は?」
「食堂へ戻れ」
伊織が言う。
「何でだ」
「客がいる」
「地下に変な扉がある時に飯を食う奴がいるか」
上から、器を置く音が聞こえた。
誰かがガルドを呼ぶ。
「いるな」
「いる」
ニコが言った。
「今、追加のスープを頼まれました」
ガルドは天井を見た。
「こんな時にか」
「客は地下を知らない」
伊織が言う。
「知らせる必要もない」
「俺だけ何も見られねえ」
「必要になったら呼ぶ」
「何が必要になる」
「力仕事か、工具だ」
「工具?」
「扉の向こうに機械がある」
「先に言え」
ガルドは通路へ顔を入れた。
「修繕箱を持ってくる」
「食堂は」
「リナがいる」
上から声が飛んだ。
「聞こえてるよ!」
「任せた!」
「勝手に任せるな!」
ガルドは足早に階段を上がっていった。
ニコは残ったままだった。
「お前も戻れ」
「記録します」
「まだ何も起きてない」
「起きた時に、ここへ来ると遅れます」
「危険だぞ」
「壁の外にいます」
ニコは石壁の向こうから、黒い通路を覗く。
「入らないと約束します」
「扉が動いたら階段まで下がれ」
「はい」
「クロが走ったら追うな」
「はい」
「俺が走っても」
「追いません」
「返事が早いな」
「守れないことは約束しないようにしています」
伊織は少しだけ眉を動かした。
ニコは記録帳を開く。
筆を構える。
ヴェルナーより、よほど信用できる記録者だった。
◆
伊織は通路の入口へ戻った。
クロは動いていない。
黒い板を見つめている。
「触ってないな」
鼻を鳴らす。
「お前も俺に似て、信用がないらしい」
クロが伊織を見る。
「否定するな」
もう一度、鼻を鳴らす。
伊織は円形扉を調べた。
黒い板の周囲。
文字。
縁を走る白い光。
触れないように、顔だけを近づける。
第三帰還観測所。
彫りは深い。
字形も整っている。
だが、よく見ると「観測」の字が違っていた。
観の字は旧字体に近い。
帰還の還も、今の日本で日常的に見る形より複雑だった。
彫った者が古い時代の日本人なら、不自然ではない。
ただし、板そのものはさらに古く見える。
文字の周囲だけ、表面の削れ方が違う。
「あとから彫ったのか」
伊織が呟く。
板は元からある。
日本語は後から加えられた。
この施設を作ったのが日本人とは限らない。
日本人の転移者が見つけ、自分の言葉で名前を付けた。
「第三」
伊織は文字を見る。
一つ目と二つ目を見た人間がいた。
少なくとも、番号を付けられる程度には調べている。
「伊織さん」
ニコが壁の向こうから言った。
「何か分かりましたか」
「文字はあとから彫られてる」
「施設を作った人と、名前を付けた人が違う?」
「たぶんな」
紙を擦る音。
「記録しました」
「仮説だぞ」
「仮説と書きました」
「ヴェルナーみたいになるなよ」
「気をつけます」
ニコの返事が少しだけ笑っていた。
伊織は扉の下へ視線を移す。
床との境。
埃が薄い。
扉そのものが震えた時、空気が動いたのだろう。
その中に、四本の薄い筋があった。
黒い板の下端。
古いものではない。
埃が取れたばかりだ。
「クロ」
伊織が低く呼ぶ。
クロは顔を上げる。
「触ったな」
視線を逸らす。
「触ったのか」
耳が伏せる。
「いつだ」
クロは答えない。
「俺が上を見てた時か」
尻尾が一度、床を叩いた。
「何をした」
クロは黒い板へ鼻を近づける。
今度は触れない。
伊織は板の下端を見る。
四本の筋は、クロの爪跡だった。
「お前が先に触ったから動いたのか」
伊織は右手を板へ近づけた。
触れない。
白い光は変わらない。
「俺だけじゃ開かなかった」
クロを見る。
「お前だけでも駄目だった」
クロの灰色の縞が、わずかに浮く。
伊織は息を吐いた。
「二人で触れってことか」
クロが立ち上がる。
「待て」
動きを止める。
「アリアが戻ってからだ」
クロは座った。
「珍しく聞くな」
鼻を鳴らす。
「今のは、俺が待てと言ったからじゃないな」
クロは黒い板を見ている。
扉の向こうに、何かを感じている。
急いでいる。
それでも待った。
クロにも、開けることが危険だと分かっているのかもしれない。
階段から足音がした。
最初に戻ってきたのはガルドだった。
片手に木箱を抱えている。
「持ってきたぞ」
床へ置く。
蓋を開けると、中には金槌、石工用の鑿、鉄鋏、細い錐、大小のねじ回しに似た工具が入っていた。
どれも使い込まれている。
「食堂にこんなものがあるのか」
「壁も椅子も鍋も、放っときゃ壊れる」
「鍋にねじはないだろ」
「柄が外れる」
「それは留め具だ」
「直れば同じだ」
ガルドは扉を覗く。
「開いたか」
「まだだ」
「なら何で呼んだ」
「開いた先で要るかもしれない」
「先に開けろよ」
「触るなと言われてる」
「お前が?」
「ああ」
「珍しいな」
「クロが勝手に触った」
「似た者同士だな」
クロがガルドを見る。
「俺は巻き込むな」
さらに足音が近づいた。
アリアが戻ってくる。
エルナとヴォルフも一緒だった。
「分かりました」
アリアは通路へ入る。
「リゼルさんは、この形式の扉を見たことがありません」
「技術部でもか」
「鋼鉄塔地下にある観測所は、構造が違うそうです。入口は長方形で、認証用の柱が二本ある」
「ここは円形だ」
「はい。観測杭が反応したことも、彼女の知識では説明できないそうです」
「嘘の可能性は」
ヴォルフが言う。
「あります」
アリアは隠さなかった。
「ですが、怪我をした状態での魔力反応と呼吸を見る限り、少なくとも扉の形式については本当に知らないと思います」
「尋問したのか」
伊織が聞く。
「確認です」
「ヴォルフは」
「二回しか口を出していない」
「三回です」
エルナが訂正する。
「三回らしい」
「何を聞いた」
「観測杭の起動条件です」
アリアが黒い板を見る。
「異邦人の接続反応と、起点側の応答が揃うと、自動的に探索を始める。ただし、杭自体には扉を開く機能はありません」
「なら、ここを動かしたのは」
「東さんとクロです」
「やっぱりか」
伊織は板の下に残る爪跡を指した。
「クロが先に触ってた」
アリアの目がクロへ向く。
「触らないでと言いました」
クロが顔を背ける。
「東さん」
「俺じゃない」
「見ていてくださいとも言いました」
「俺が文字を見てる間にやった」
「二人とも信用できません」
「俺もか」
「監督責任です」
「犬の?」
「相棒の、です」
伊織はクロを見る。
クロも伊織を見る。
「共同責任らしい」
鼻を鳴らす。
「反省してください」
「俺はしてる」
「クロは?」
「してないな」
「東さんもです」
アリアは黒い板の前へ立った。
「推測が正しいなら、同時に触れることで次の段階へ進みます」
「開けるのか」
ヴォルフが聞く。
「完全に開くとは限りません」
「危険は」
「分かりません」
「なら、やめるか」
ヴォルフが伊織を見る。
試している。
進むと言うか。
止めると言うか。
伊織は円形扉を見る。
帰還観測所。
百七夜。
この扉の向こうに、帰る方法があるとは限らない。
罠かもしれない。
古い記録だけかもしれない。
それでも、知らないまま百八夜を数えるつもりはなかった。
「開ける」
伊織が言った。
アリアは反対しなかった。
「条件があります」
「言え」
「扉が動いたら、すぐに中へ入らない。開いた空気を確認する。魔力汚染、毒性、温度、構造の崩壊を調べる」
「ああ」
「クロを先に行かせない」
「ああ」
「東さんも先に行かない」
「誰が行く」
「私が確認してから、全員で入ります」
「お前が先じゃないか」
「風を使います」
「身体は入れない?」
「はい」
「ならいい」
アリアが少し驚いた顔をした。
「何だ」
「反対されると思いました」
「合理的だ」
「東さんがその言葉を使うと、不安になります」
「失礼だな」
「普段が普段です」
ヴォルフが杖を持ち直す。
「俺は入口に残る」
「中へ入らないのか」
伊織が聞く。
「誰かが外を見なければならん」
「ガルドを残すか」
「何で俺だ」
ガルドが言った。
「工具を持ってきた」
「工具は中へ持っていける」
「俺も行ける」
「食堂が空になる」
上から鍋の蓋が落ちる音がした。
「ガルド!」
リナの声が響く。
「火を見て!」
「今行く!」
ガルドは修繕箱を伊織へ押しつけた。
「壊す時は呼べ!」
「開ける前提じゃなかったのか」
「壊す方が早い時もある!」
足音が階段を駆け上がる。
地下に短い沈黙が落ちる。
「入口は私が見ます」
ヴォルフが言った。
「それがいいですね」
アリアが答えた。
「ガルドさんは鍋を見ている方が安全です」
「鍋にとってはな」
◆
伊織は黒い板の前へ右手を出した。
クロが隣に立つ。
前脚を上げる。
「同時だ」
伊織が言う。
クロは伊織を見る。
「一、二、三で触る」
アリアが横から言った。
「分かってる」
「先ほどは『三つで』と言いそうな顔でした」
「顔で分かるのか」
「東さんは単純ですから」
「始めるぞ」
伊織は板を見る。
「一」
クロの縞が浮く。
「二」
右手の奥が冷える。
「三」
伊織の掌と、クロの前脚が同時に黒い板へ触れた。
白い光が弾けた。
熱はない。
衝撃もない。
代わりに、右手から肩へ、細い振動が走った。
クロの身体が硬くなる。
円形扉の縁を光が一周する。
一度。
二度。
三度。
内側で歯車が回る。
今度は一つではない。
大小の歯車が噛み合い、長く止まっていた機構が順番に力を受け取っていく。
黒い金属の表面から、埃が落ちた。
扉が中央から割れる。
左右へ開くのではない。
円形の板が八枚に分かれ、花弁のように奥へ折り畳まれていく。
冷たい空気が流れた。
腐った匂いはない。
土の匂いもない。
乾いている。
長く閉じられていたはずなのに、埃の匂いすら薄かった。
アリアが腕を伸ばす。
風の細い糸を、開いた先へ流し込む。
目を閉じる。
「空間は狭いです」
「どれくらい」
「奥行きは十歩ほど。左右は五歩。天井は低くありません」
「人は」
「動くものはありません」
「魔力は」
「残っています。ですが、攻撃術式の反応はありません」
「毒は」
「風へ異常はありません」
「入れるか」
「待ってください」
アリアは別の風を送る。
今度は床。
天井。
壁。
戻ってきた流れを指先で受ける。
「床は安定しています。崩落の危険も低い」
「入るぞ」
「一緒にです」
「ああ」
伊織は右手を板から離す。
クロも前脚を下ろす。
扉は閉じない。
白い光だけが、八枚の金属板の縁へ残っている。
アリアが光を浮かべた。
三人で中へ入る。
ヴォルフとエルナは入口に残った。
ニコは石壁の外。
約束通り、入ってこない。
観測室は、想像より小さかった。
巨大な装置はない。
壁一面の歯車もない。
中央に机が一つ。
その前に椅子が二つ。
横並びではない。
一つは扉を向き、もう一つは奥の壁を向いている。
離れて置かれていた。
机の上には、黒い箱。
右側の壁には、小さな棚。
左側には円形の窓がある。
窓の向こうは暗い。
土ではない。
何もない黒。
アリアの光を近づけても、反射しない。
「窓ですか」
アリアが言う。
「向こうに空間は」
「風が通りません。透明な板で塞がれています」
伊織は円形窓を覗いた。
自分の顔も映らない。
光だけが消える。
夜空にも見えた。
だが、星はない。
ただ黒い。
クロが窓へ近づく。
唸らない。
灰色の縞も反応しない。
「今は何もないのか」
伊織が呟く。
「還り火の時だけ変わる可能性があります」
アリアは机を見る。
表面には薄く埃が積もっている。
その中に、一筋だけ跡があった。
指で引いたような線。
古い。
埃が再び積もり、ほとんど消えている。
「誰かが使っていた」
「ああ」
二つの椅子。
一人ではない。
伊織は扉を向いた椅子へ近づく。
座面は木ではなく、黒い革に似た素材。
ひび割れている。
背もたれの上に、日本語が刻まれていた。
帰還観測者。
奥の壁を向いた椅子には、別の文字。
接続固定者。
「何と書いてありますか」
アリアが聞く。
「こっちは、帰還を見る者」
伊織は最初の椅子を指した。
「もう一つは、接続を固定する者」
「接続を固定?」
「扉を繋いでおく役目かもしれない」
「二人必要ということですか」
「分からない」
アリアは接続固定者の椅子を見る。
その前には壁しかない。
窓もない。
何も見えない場所を向いて座る。
「帰る人と、残る人」
アリアが言った。
伊織は答えなかった。
まだ決まったわけではない。
ただの役割かもしれない。
観測者が帰るとも限らない。
固定者が残るとも限らない。
言葉だけで決めつけるな。
そう思っても、二つの椅子の向きが気になった。
一人は扉を見る。
一人は壁を見る。
クロが接続固定者の椅子へ鼻を近づける。
座面の下。
何かを嗅いでいる。
伊織が屈む。
椅子の裏に、細い金属筒が固定されていた。
「何かある」
アリアも膝をつく。
指先から風を送り、金属筒の周囲に積もった埃だけを払う。
留め具が二つ。
小さな溝の入った頭部。
こちらの世界にもある、単純な締結具だった。
「外せそうです」
「工具を持ってきて正解だったな」
伊織は入口へ戻り、ガルドの修繕箱を持ってきた。
中身を机の横へ並べる。
似た形の工具を三本選び、留め具へ合わせる。
一本目は太い。
二本目は先端が浅い。
三本目が溝へ収まった。
「使えるんですか」
アリアが聞く。
「形は違うが、回す方向は同じだろ」
「壊さないでください」
「古いものほど、急に回さない」
伊織は工具の柄を軽く握った。
力を掛ける前に、左右へわずかに動かす。
固着している。
一度戻す。
アリアが留め具の周囲へ細い風を送り、埃と錆に似た粉を吹き出した。
「もう一度」
ゆっくり回す。
今度は動いた。
金属が擦れる、小さな音。
留め具を一本外す。
二本目も同じように緩めた。
「慣れていますね」
「装備の手入れで嫌になるほどやった」
「銃ですか」
「銃も、無線機も、防具もだ。現場で外れた部品は、自分で戻す」
「南条さんも?」
伊織の手が一瞬だけ止まる。
「あいつは細かい作業が苦手だった」
「そうなんですか」
「力で回して、頭を潰す」
「ガルドさんみたいですね」
「似てるかもしれない」
伊織は二本目を外した。
具現ではない。
手の中にあるのは、ガルドが何年も使った実物の工具。
それでも、指は覚えていた。
壊さずに外す力。
戻せるように分解する手順。
金属筒を支え、椅子の裏から外す。
軽い。
振ると、中で紙のようなものが動いた。
アリアが布を机へ敷く。
その上へ金属筒を置く。
蓋にも同じ形式の留め具があった。
今度は一つ。
伊織が工具で緩める。
蓋を回す。
乾いた空気が抜ける音がした。
中から出てきたのは、油紙に包まれた細長い帳面だった。
紙は黄ばんでいる。
だが、崩れていない。
表紙へ文字がある。
縦書き。
今の日本語より、形が古い。
伊織はゆっくり読んだ。
第三號帰還觀測所記錄。
「記録ですか」
「ああ」
「読めます?」
「読める。少し古いが」
表紙の下に名前があった。
榊原宗一郎。
肩書きもある。
逓信技師。
「誰ですか」
「知らない」
「日本人?」
「ああ」
「技師とは」
「技術者だ。通信や電気を扱っていた」
ヴェルナーより前に、この世界へ来た技術者。
同じ日本人。
だが、伊織とは時代が違う。
伊織は帳面を開く。
最初の頁。
文字は筆ではない。
鉛筆に近い。
薄く、細い。
旧字体と古い仮名遣いが混じっている。
読めないほどではない。
だが、一文ごとに頭の中で今の言葉へ直す必要があった。
伊織は声に出して読む。
「大正十三年六月、日本国東京市より転移……」
アリアが聞く。
「大正十三年?」
「日本の年代だ」
「今からどれくらい前ですか」
「俺のいた時間からなら、百年ほど」
「この世界では」
「分からない」
転移した時代が違っても、こちらで同じだけ時間が流れるとは限らない。
榊原宗一郎は、自分がどれほど未来の日本人に読まれるか知らずに書いている。
伊織は続きを追う。
最初の数頁は、転移直後の記録だった。
言葉が分かったこと。
魔法を電気に近い現象として考えたこと。
元の世界へ戻る方法を探したこと。
共通語の文章を日本語へ置き換え、自分用の用語を作ったこと。
帰還観測所。
接続。
境界。
還り火。
ヴェルナーが使った日本語の多くは、榊原の記録から来ている。
「ヴェルナーは、この帳面を読んだのか」
伊織が呟く。
「ここへ来たことがある?」
「帳面が残ってるなら、違う場所で写しを読んだ可能性もある」
アリアは頁を見ても意味を理解できない。
それでも、文字の密度や、線の強さを観察している。
「丁寧な方ですね」
「分かるのか」
「最初の頁は、行間が揃っています」
アリアは後ろの頁を指す。
「こちらは乱れている」
伊織は帳面をめくる。
後半。
文字は次第に大きくなり、斜めに崩れている。
何度も同じ語が出てきた。
ミレア。
人の名前だ。
「誰ですか」
アリアが聞く。
「たぶん、この世界で会った人間だ」
最初は案内役。
次に助手。
やがて、榊原と一緒に観測所を探した者として書かれている。
女性か男性かは、まだ分からない。
ただ、榊原は「彼女」と記していた。
「二人でここを見つけた」
伊織が言う。
「二つの椅子」
アリアが見る。
「ああ」
帳面の頁が進む。
第一観測所。
破損。
第二観測所。
起動せず。
第三観測所。
一部稼働。
還り火の観測に成功。
帰還経路の形成を確認。
伊織の指が止まる。
「帰る道を見つけた」
「成功したんですか」
「まだ分からない」
次の頁。
文章が短くなる。
日時。
測定値。
接続の状態。
ミレアの体調。
榊原自身の翻訳機能の低下。
最後の数頁は、紙が強く擦れていた。
何度も読み返された跡。
伊織はそこを開く。
大きく、二行だけ書かれている。
帰還には、観測者と固定者を要す。
固定者は、扉の閉鎖まで接続を保持せねばならない。
アリアが伊織の表情を見る。
「何と」
「二人必要だ」
「やはり」
「まだ続きがある」
次の頁。
帰還経路の保持中、固定者は移動できない。
扉の向こうへは行けない。
アリアは接続固定者の椅子を見る。
壁を向いた席。
「一人が残る」
「ああ」
「必ず?」
「この記録では」
アリアは黙った。
伊織も先を読む。
榊原は何度も別の方法を試していた。
装置による代替。
魔力石。
複数人での分担。
距離を取った固定。
すべて失敗。
最後に、還り火が始まる。
榊原とミレアは二つの椅子へ座った。
どちらがどちらへ座ったかは書かれていない。
頁の端が破れている。
その先だけがない。
「最後は」
「破れてる」
「持ち去られた?」
「分からない」
伊織は帳面の残りを確かめる。
最後の紙の裏。
文字はない。
代わりに、金属筒の底へ薄い板が残っていた。
筒を傾ける。
机の上へ、小さな音を立てて落ちる。
黒い金属板。
掌より小さい。
表面に二本の溝がある。
アリアが手を近づける。
「魔力が残っています」
「触るな」
「分かっています」
黒い板の端に、小さな突起があった。
伊織は修繕箱から細い鉄棒を選んだ。
突起の周囲を確認する。
押し込むための形。
罠に見える穴はない。
「押します」
「指では駄目なんですか」
「何が出るか分からない」
「そこは慎重なんですね」
「手が減るのは困る」
「そういう言い方はやめてください」
伊織は鉄棒の先で突起を押した。
板の内部が動く。
二本の溝に、白い文字が浮かんだ。
一段目。
帰還者 一名。
二段目。
残留者 一名。
伊織は声に出さなかった。
アリアには文字が読めない。
だが、伊織の顔を見ている。
「結果ですか」
「ああ」
「誰が帰ったんですか」
「書いてない」
「残ったのは」
「それもない」
二人の名前。
榊原宗一郎。
ミレア。
どちらか一人が帰った。
どちらか一人が残った。
帳面がここにある。
榊原が残したものなら、榊原が残った可能性が高い。
だが、帰る直前に記録を置いた可能性もある。
ミレアが保存したのかもしれない。
確定できない。
クロが接続固定者の椅子へ近づいた。
座面へ前脚を置く。
灰色の縞が薄く浮かぶ。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロは動かない。
黒い板の文字が一度揺れた。
その下へ、新しい一行が浮かぶ。
文字は日本語ではなかった。
アリアが息を呑む。
「古代文字です」
「読めるか」
「一部だけ」
アリアは光を近づける。
目を細める。
「接続固定者……生存」
伊織は接続固定者の椅子を見る。
百年以上前、ここへ座った者。
一人を帰すために残った者。
「生きてるのか」
「断定できません。生存という語ですが、生命活動を指すのか、接続が残っているという意味か」
黒い板が小さく震えた。
円形窓の奥。
何も映さなかった黒に、細い光が走る。
遠い。
星よりも小さい。
白い点。
それが一度だけ瞬いた。
クロの金色の瞳が開く。
灰色の縞が、背中いっぱいに広がった。
伊織の右手が冷える。
誰かに握られたような感覚。
扉の向こうではない。
円形窓のさらに奥。
届かない場所から、細い糸がこちらへ伸びている。
黒い板へ、もう一行が浮かんだ。
接続固定者より応答あり。
観測室の奥で、古い呼び出し音が鳴った。




