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第100話 残った者の声

 呼び出し音は、三度鳴って止まった。


 高くも低くもない。


 鐘とも、金属を打つ音とも違う。


 伊織には、古い電話機の呼び出し音に聞こえた。


 日本で最後に固定電話を使ったのがいつだったか、正確には思い出せない。それでも、誰かが向こう側で待っている音だということだけは分かった。


 円形窓の奥では、白い点が消えずに瞬いている。


 遠い。


 だが、先ほどよりわずかに大きい。


 光が脈打つたび、観測室の黒い壁へ淡い輪が広がった。


 机の上の結果板には、三行の文字が残っている。


 帰還者 一名。


 残留者 一名。


 接続固定者より応答あり。


「触らないでください」


 アリアが言った。


 伊織は結果板へ伸ばしかけた右手を止めた。


「まだ触ってない」


「触ろうとしました」


「読むだけだ」


「読めています」


「次の表示が出るかもしれない」


「別のものが出る可能性もあります」


 アリアは結果板と伊織の間へ立った。


 薄紫の瞳は、板ではなく伊織を見ている。


「何が起きるか分かっていません」


「あの音が呼び出しなら、応じないと切れる」


「切れた方が安全かもしれません」


「次に繋がる保証はない」


「だからといって、無防備に繋ぐ理由にはなりません」


 呼び出し音が、もう一度鳴った。


 一度。


 今度は長い。


 音が消えたあと、二つの椅子の背もたれへ白い文字が浮かんだ。


 帰還観測者。


 接続固定者。


 文字の下から、細い光が伸びる。


 一つは伊織へ。


 もう一つはクロへ。


 クロの灰色の縞が浮かんだ。


 接続固定者の椅子へ歩き始める。


「クロ」


 伊織が呼ぶ。


 止まらない。


 椅子の前まで進む。


 前脚を上げたところで、アリアがクロの胸へ腕を入れた。


「座らせません」


 クロがアリアを見る。


「駄目です」


 低い鼻息。


「嫌でも駄目です」


 クロがもう一歩進もうとする。


 アリアは退かなかった。


 細い身体で、クロの前へ立つ。


「その席に座った者は、扉が閉じるまで動けないと書かれていました。どれほどの時間かも、何を失うかも分かっていません」


 クロの縞が濃くなる。


「役目だからと、自分で決めないでください」


 アリアの声が、わずかに震えた。


「あなたは東さんの道具ではありません」


 クロの前脚が床へ下りた。


 伊織は接続固定者の椅子を見る。


「俺が座る」


 アリアが振り返る。


「駄目です」


「即答か」


「当然です」


「観測者と固定者は入れ替えられるかもしれない」


「確認できていません」


「なら試す」


「試させません」


「お前が座るよりいい」


 アリアの顔から表情が消えた。


「私が座ると言いましたか」


「顔に出てる」


「東さんにだけは言われたくありません」


「なら、なぜ俺の前に立つ」


 アリアは答えなかった。


 右手が、接続固定者の椅子へ届く位置にある。


 伊織が動けば、自分が先に座るつもりだった。


「帰る人を選ぶ前に」


 アリアが言った。


「残される人を決める仕組みなんて、私は認めません」


 観測室が静かになった。


 円形窓の白い点だけが、一定の間隔で瞬いている。


 伊織は二つの椅子を見た。


 一人は扉を見る。


 一人は壁を見る。


 榊原宗一郎とミレアも、この部屋で同じ選択をした。


 どちらが先に座ったのか。


 どちらが相手を止めようとしたのか。


 破られた頁には書かれていない。


「俺もだ」


 伊織が言った。


 アリアの瞳が動く。


「誰も座らせない」


「では、どうするんですか」


「椅子を調べる」


 伊織は接続固定者の椅子へ近づいた。


 座面ではなく、背もたれの下を見る。


 左右へ細い溝が走っている。


 椅子の脚から床へ、黒い金属の管が四本伸びていた。


 拘束具ではない。


 何かを流すための構造だった。


「アリア」


「何ですか」


「魔力の入口はどこだ」


 アリアは伊織の横へしゃがんだ。


 指先へ薄紫の光を集める。


 椅子へ直接触れず、光を周囲へ滑らせた。


「背もたれの中央です」


「出口は」


「脚から床へ流れています」


「一方向か」


「いいえ」


 アリアは眉を寄せる。


「固定者から装置へ渡したものが、別の形で戻っています」


「奪うだけじゃない」


「はい。受け取り、整え、返しています」


 伊織はクロを見る。


「お前が俺の具現を安定させるのと似てるか」


 アリアもクロへ視線を向けた。


「似ています。ただし、こちらはもっと粗い。生きたものへ負荷を掛けながら、装置側が形を合わせています」


「石じゃ代わりにならない理由はそれか」


「おそらく。量ではなく、流れの変化へ応じる必要がある」


「なら、完全な代わりは作れない」


「はい」


「だが、椅子の動きを抑えることはできる」


 アリアが伊織を見る。


「何をするつもりですか」


「座らせないために、固定する」


 伊織は右手を開いた。


 骨の奥が冷える。


 黒い粒子が集まる。


 現れたのは、見慣れた装備だった。


 鋼線拘束具。


 VRの作戦で、暴走する古代兵器の中継核を固定するため、何度も使った。


 敵を縛るだけの装備ではない。


 回転する核へ食い込み、可動部を止め、力の逃げる方向を限定する。


「それは、観測杭を止めたものですね」


「ああ」


「椅子を壊すんですか」


「壊さない」


 伊織は背もたれの下を指した。


「固定者が座ると、この可動部が沈む。たぶん、身体に合わせて接続を深くする仕組みだ」


「それを動かなくする?」


「半分だけ」


「半分?」


「固定者を取り込むところだけ止める。魔力の流路は残す」


「そんな細かい調整ができますか」


「拘束具は、中継核を壊さず止めるための装備だ」


「ですが、これは未知の装置です」


「だから、お前が流れを見る」


 アリアが黙った。


「俺は構造を押さえる。お前は魔力が詰まらないように逃がす」


「クロは」


「外から安定させる」


 クロが前へ出る。


「座るなよ」


 鼻を鳴らす。


「今度は聞いてください」


 アリアがクロの前へしゃがんだ。


「東さんの鋼鉄が崩れそうになった時だけ、支えてください。椅子には触れないで」


 クロはアリアを見る。


 次に伊織を見る。


 その場へ座った。


「分かったのか」


「たぶん」


「犬語の専門家じゃないんだろ」


「東さんよりは通じます」


 呼び出し音が鳴った。


 短い。


 先ほどより弱い。


「時間がありません」


 アリアが立つ。


「やります。ただし、条件があります」


「言え」


「異常が出た瞬間に切ります」


「ああ」


「東さんが止めても切ります」


「ああ」


「鋼線が装置へ食い込んだら、すぐに解除してください」


「ああ」


「クロが反応した場合も中断します」


「ああ」


 伊織は帰還観測者の椅子を見る。


「俺が観測者側へ座る」


「それは必要ですか」


「向こうの日本語を読めるのは俺だ」


「接続される危険があります」


「声だけ聞く」


「それを決めるのは装置かもしれません」


「だから、お前が切る」


 アリアの薄紫の瞳が揺れた。


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃない」


「なら」


「俺一人ではできない」


 伊織はアリアを見る。


「お前がいないと、繋げない」


 アリアは何も言わなかった。


 視線を逸らす。


 耳の先が赤くなる。


「今、その言い方をする必要がありましたか」


「事実だ」


「本当に、そういうところです」


「何が」


「後で言います」


「今じゃないのか」


「今ではありません」


 呼び出し音が、もう一度鳴った。


「始めます」



 伊織は帰還観測者の椅子へ座った。


 黒い革に似た座面は冷たい。


 背もたれへ身体を預けると、肩甲骨の間に細い突起が当たった。


 拘束具はない。


 ただ、円形窓を正面から見るためだけの椅子だった。


 接続固定者の椅子には、誰も座っていない。


 伊織は鋼線拘束具を射出した。


 一本目が背もたれ上部の可動枠へ巻きつく。


 二本目が座面下の軸。


 三本目と四本目が左右の脚を床の固定環へ縛りつける。


 人を縛るためではない。


 椅子そのものを動けなくする。


 ただし、床へ続く黒い管は塞がない。


「締めるぞ」


「少しずつ」


 アリアが両手を広げる。


 右手を観測者側。


 左手を固定者側へ向ける。


 風と魔力で、二つの流れを読む。


「上部を、もう少し」


 伊織が一本目を締める。


「止めてください」


「ここか」


「はい。座面側は、もう少し遊びを残して」


「沈ませるのか」


「完全に止めると、装置が接続なしと判断する可能性があります。動こうとする余地だけ残します」


「分かった」


 鋼線の張りを少し緩める。


 座面は指一本分だけ沈む。


 それ以上は、黒鋼線が止める。


「流路は」


「残っています」


「負荷はどこへ行く」


「まだ分かりません」


「始めれば分かるか」


「分かる前に危険になる可能性もあります」


「それでもやる」


「分かっています」


 クロは伊織の右足へ身体を寄せた。


 触れているのは肩だけ。


 灰色の縞はまだ薄い。


 アリアが机の結果板へ手を伸ばす。


「繋ぎます」


 端の突起を押した。


 二つの椅子へ白い光が走った。


 伊織の背中へ冷たさが入る。


 右手ではない。


 背骨。


 肩。


 首。


 頭の奥へ、細い針を通されるような感覚。


 接続固定者の椅子が震えた。


 座面が沈もうとする。


 鋼線拘束具が軋む。


 黒鋼線の表面へ白い光が走った。


 流れを運んでいるわけではない。


 装置が椅子を動かそうとする力を、鋼線が受け止めている。


「固定部へ負荷が集中しています」


 アリアが言う。


「流路は」


「生きています。ですが、戻り先を探している」


「どこへ」


「クロへ向かっています」


「逸らせ」


「やっています!」


 アリアの左手から薄紫の光が伸びる。


 接続固定者の椅子から漏れる魔力を、床の管へ押し戻す。


 光が一度跳ね返る。


 彼女の腕が震えた。


「強い」


「切るか」


「まだです」


 円形窓の白い点が広がる。


 点から線へ。


 線から輪へ。


 暗闇の中に、細い白い円が浮かんだ。


 その内側に、何かがある。


 人影ではない。


 光の揺れ。


 水面の向こうに誰かが立っているような歪み。


 音がした。


 途切れている。


 日本語。


 共通語。


 どちらにもなりきらない声。


『……こちら……第三……接続……』


 女の声だった。


 年齢は分からない。


 若くも聞こえる。


 老いても聞こえる。


 何人もの声を重ねたように、音の端が揺れていた。


「聞こえるか」


 伊織が日本語で言う。


 返事はない。


 円形窓の輪が一度歪む。


『……日本の……方……』


「ああ」


『……何年……』


「何がだ」


『宗一郎が……帰ってから……』


 伊織の呼吸が止まる。


 アリアが顔を見る。


「何と言っていますか」


「榊原を知ってる」


 伊織は窓へ視線を戻す。


「榊原宗一郎は帰ったのか」


 声が途切れた。


 共通語の単語が混ざる。


『門……閉鎖……観測者……通過……』


 そのあと、日本語がはっきり届いた。


『宗一郎は帰りました』


 観測室の空気が重くなる。


 帳面を残した男。


 大正十三年の東京から来た逓信技師。


 二つの椅子のうち、扉を向いた席へ座ったのは榊原だった。


「お前が残ったのか」


 返事はすぐには来なかった。


 光の輪の奥で、黒いものが動く。


 顔にはならない。


 輪郭もない。


 ただ、一人分の影が立っている。


『名は……長く、使っておりません』


「ミレアか」


 影が揺れた。


 声は共通語になった。


 伊織の中で、半拍遅れて意味へ変わる。


『そう呼ばれた時間は、ありました』


 アリアにも届いた。


 薄紫の瞳が窓へ向く。


「あなたは生きているんですか」


『生きている、という言葉の範囲によります』


「身体は」


『ありません』


 アリアの指先がわずかに震える。


 魔力の流れが乱れ、接続固定者の椅子が強く沈んだ。


 鋼線が軋む。


「アリア」


「大丈夫です」


「無理なら切れ」


「まだです」


 声は続く。


『固定は、肉体より長く残ります。記憶。目的。約束。境界は、それらを区別しません』


「百年以上、ここにいるのか」


『こちらの時間では、百八十六年』


 伊織は言葉を失った。


 榊原がこの世界へ来た時間と、日本での大正十三年は、同じ速度で流れていない。


 百八十六年。


 一人を帰すために残った接続。


「榊原は戻ってきたか」


 影が止まった。


『いいえ』


「待っていたのか」


 長い沈黙。


 呼び出し音とは違う、小さな雑音が混じる。


『最初の十年は』


 日本語だった。


『次の十年も』


 声が共通語へ揺れる。


『その後、数えるのをやめました』


 アリアの唇がわずかに開く。


「恨んでいますか」


 質問は、考える前に出たようだった。


 光の中の影がアリアへ向いた。


 顔はない。


 それでも、見られていると分かった。


『誰を』


「帰った人を」


『いいえ』


「では、自分を?」


 返事が遅れる。


『それも、やめました』


「どうして」


『残ることと、待つことは、同じではありません』


 アリアの目が揺れた。


 伊織は二つの椅子を見る。


 一人は扉を見て帰った。


 一人は壁を見て残った。


 だが、ミレアは百八十六年、ただ帰りを待っていたわけではない。


「何をしていた」


 伊織が聞く。


『閉じるべき扉を閉じました』


「他にも開いたのか」


『何度も』


「何が来た」


『物。声。記憶。時には、生きたもの』


 円形窓の白い輪が激しく揺れた。


 映像が一瞬だけ浮かぶ。


 知らない空。


 崩れた都市。


 巨大な影。


 赤い海。


 銃声。


 馬車。


 鉄道。


 どれも一瞬で消える。


 異なる世界。


 異なる時代。


 帰るために開いた扉から、別の何かが流れ込んだ。


「帰還観測所は、帰るための施設じゃないのか」


『最初は違いました』


「誰が作った」


『知りません』


「お前たちではない?」


『見つけただけです』


 ヴェルナーと同じだった。


 榊原も。


 ミレアも。


 古代の施設を見つけ、自分たちの目的へ使った。


 扉は、帰るために作られたものではない。


「本来は何をする」


『世界を繋ぐ』


「何のために」


『分かりません』


 科学者も技師も、答えへ届いていない。


 ただ、使った。


 帰るために。


「クロを知っているか」


 伊織が聞いた。


 足元のクロが顔を上げる。


 金色の瞳が、白い輪を見た。


 光の中の影が大きく揺れた。


『そこにいるのですか』


「見えるのか」


『色だけ』


 声が古い共通語へ変わる。


 アリアが息を呑む。


「今の言葉は」


「分かるか」


「境界の古語です。今の共通語より古い」


 ミレアの声が、クロへ向く。


『サル=カナ』


 クロの身体が硬くなった。


 灰色の縞が首から背へ広がる。


 耳が伏せる。


「何と呼んだ」


 伊織が聞く。


 アリアが言葉を探す。


「直訳できません」


「近い意味は」


「道を渡る者。境界を選ぶ獣。両方です」


「夜渡りとは違うのか」


『宗一郎は、夜渡りと書きました』


 ミレアが日本語で言う。


『本当の意味を、彼の言葉では一つにできなかった』


 クロが窓へ一歩近づく。


 接続固定者の椅子が大きく沈もうとする。


 鋼線が鳴った。


「クロ、止まれ」


 伊織が言う。


 クロは止まった。


 だが、縞は消えない。


『まだ幼い』


「クロが?」


『選んでいません』


「何を」


『どちらを、故郷とするか』


 伊織の右手が冷えた。


 クロが選ぶ。


 伊織の帰る先を。


 元の世界か。


 この世界か。


「クロが扉を開くのか」


『開くのではありません』


 ミレアの声が途切れる。


 雑音が増える。


 アリアが魔力の流れを支え直した。


『扉が、どちらへ続くかを選びます』


「そんなことができるのか」


『成長すれば』


「いつ」


『還り火の中で』


 ヴェルナーは、クロが接続を支えているとだけ言った。


 過去の記録でも、黒い獣は翻訳を消さなかった。


 だが、役割はそれだけではない。


 帰還の道そのものを選ぶ。


「一人が残る仕組みは変えられるか」


 伊織が聞いた。


 アリアが伊織を見る。


 最も聞くべきことだった。


 ミレアの影が、少し近づく。


『宗一郎の時代には、できませんでした』


「今は」


 返事の前に、鋼線拘束具が強く軋んだ。


 接続固定者の椅子が、見えない力で沈もうとしている。


 アリアが両手を開く。


 魔力の流れを左右へ分ける。


『あなたの鋼鉄は、椅子を止めている』


「流れは止めてない」


『そのエルフが、流れを戻している』


 アリアの指先から薄紫の光が走る。


『夜渡りが、接続の向きを支えている』


 クロの金色の瞳が光る。


『三つが揃えば、固定を一人へ集めずに済む可能性があります』


「一人が残らなくていい?」


『可能性です』


「仮説か」


『宗一郎も、よく使った言葉です』


 声の端に、わずかな温度が混じった。


 笑ったのかもしれない。


「試したことは」


『ありません』


「なぜ」


『夜渡りが、もういなかった』


 クロの耳が動く。


「前にいた個体は」


『扉を閉じるために、燃え尽きました』


 アリアの指先が強く震えた。


 接続固定者の椅子が床を跳ねる。


 鋼線が一本、深く食い込んだ。


「クロを使えば、同じことになる可能性があるんですね」


『あります』


「なら使いません」


 アリアは即答した。


『選ぶのは、その子です』


「幼いと言ったでしょう」


『だから、今は選ばせてはいけません』


 ミレアの声が、初めて強くなった。


 円形窓の白い輪が膨らむ。


『眠らせてください。還り火が始まるまで、深く』


 クロが唸った。


「無理だな」


 伊織が言う。


「本人が嫌がってる」


『起きていれば、向こうから見つかります』


「向こう?」


 雑音が激しくなる。


 白い輪の外側に、黒い筋が走った。


 一つ。


 二つ。


 亀裂のように増える。


 アリアの顔色が変わる。


「別の接続が入っています」


「どこから」


「分かりません。ですが、こちらの流れではありません」


 接続固定者の椅子が大きく沈む。


 鋼線拘束具が限界まで張る。


 一本の固定環が床から浮いた。


 伊織の右腕へ、具現の負荷が返る。


「切れ」


 伊織が言う。


「まだ声が」


「切れ、アリア」


 アリアは結果板へ手を伸ばす。


 ミレアの声が割り込む。


『待ってください』


「何だ」


『ヴェルナーの数え方は、正しい』


「百七夜か」


『還り火は』


 雑音。


 共通語。


 古語。


 日本語。


 声が何度も途切れる。


『ですが、それでは遅い』


 白い輪の奥に、別の影が現れた。


 ミレアではない。


 大きい。


 人間の形をしていない。


 細長いものが何本も伸び、円の内側を探っている。


 クロが牙を剥く。


 灰色の縞が背中いっぱいに広がる。


 金色の瞳が強く光った。


 接続固定者の椅子が床を跳ねた。


 鋼線が一本切れる。


 黒い粒子となって弾けた。


「固定が崩れます!」


 アリアが叫ぶ。


「接続を切れ!」


「切ります!」


 アリアが結果板の突起を押す。


 反応しない。


「動きません!」


 黒い影の細い先端が、円形窓の表面へ触れた。


 透明な板が内側から軋む。


 伊織は椅子から立とうとする。


 身体が動かない。


 背中が固定されている。


「東さん!」


「俺より椅子を止めろ!」


 接続固定者の椅子がさらに沈む。


 残った鋼線が張り詰める。


 固定環が石床から半分抜けた。


 このままでは、椅子そのものが装置へ呑まれる。


「鋼線を全部切ります!」


「やれ!」


 アリアが双剣を抜いた。


 白刃が二本、残る鋼線へ落ちる。


 一本目。


 火花。


 切れない。


 黒鋼線は、古代兵器の核を拘束するための装備だ。


 簡単には断たれない。


「東さん、解除を!」


「やってる!」


 伊織は具現を消そうとする。


 鋼線は残る。


 椅子へ掛かる力が、拘束具を必要としている。


 伊織の意思ではなく、具現された装備本来の機能が、対象を固定し続けている。


 円形窓の影が近づく。


 透明な板へ、黒い亀裂が走った。


 クロが吠えた。


 初めて聞く声だった。


 犬の声ではない。


 低く。


 深く。


 観測室の床そのものが震える。


 クロの前脚が、床へ伸びた鋼線の一本を踏む。


 灰色の光が流れ込む。


 黒鋼線の輪郭が一瞬だけ白くなった。


「今です!」


 アリアの双剣が交差する。


 二本の刃が、白く変わった鋼線を上下から挟む。


 捻る。


 断ち切る。


 一本。


 二本。


 最後の一本が切れた瞬間、接続固定者の椅子が大きく跳ねた。


 伊織の身体が帰還観測者の椅子から投げ出される。


 床へ肩を打つ。


 息が詰まる。


 アリアが受け止めようとしたが、間に合わない。


 それでも頭だけは両腕で守った。


 二人で床へ倒れる。


 円形窓の白い輪が急速に縮む。


 ミレアの声が遠ざかる。


『第一観測所が……起きました』


「どこだ!」


『鋼鉄の塔』


 ヴェルナーがいる場所。


『第二も……間もなく』


「何が起きる」


 白い輪が点へ戻る。


 ミレアの声が、最後だけはっきりと届いた。


『十二夜後、最初の扉が開きます』


「還り火は百七夜後だろ」


『帰るための扉ではありません』


 黒い影が、閉じる光の向こうで動いた。


 何本もの細い腕が、こちらへ伸びる。


『こちらへ来るための扉です』


 白い点が消えた。


 円形窓は、何も映さない黒へ戻る。


 観測室の光がすべて落ちた。


 残ったのは、アリアの荒い呼吸と、クロの低い唸りだけだった。


 伊織は床へ倒れたまま、自分の右手を見た。


 黒い粒子はない。


 冷えも薄れている。


 それでも、掌には細長い指の跡が残っていた。


 向こう側から、掴まれた跡だった。


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