第101話 十二夜
掌の痕は、消えなかった。
五本。
人間の指より長く、細い。
皮膚の上に赤黒く残り、指先へ向かうほど深く沈んでいる。
伊織は右手を握った。
痛みはない。
感覚もある。
それでも、自分の手へ別のものが重なったような違和感だけが残った。
「見せてください」
アリアが言った。
「見てるだろ」
「もっと近くでです」
「大丈夫だ」
「その言葉は信用していません」
観測室の光は落ちたままだった。
円形窓には何も映っていない。結果板の文字も消えている。
接続固定者の椅子だけが、わずかに傾いていた。鋼線拘束具を掛けた固定環の一つは床から半分抜け、周囲の石には細い亀裂が走っている。
アリアは伊織の右手を取った。
指先へ薄紫の光を集め、掌の上で止める。
「魔力反応があります」
「俺のか」
「違います」
声が低くなる。
「観測所のものでもありません」
「向こうの影か」
「おそらく」
クロが近づいた。
掌へ鼻を寄せる。
匂いを嗅いだ瞬間、喉の奥で低く唸った。
「噛むなよ」
クロは伊織を見た。
「冗談だ」
唸りは止まらない。
灰色の縞が、首元だけ薄く浮いている。
「嫌なものが残っているんでしょうか」
「犬に聞け」
「東さんより説明が難しいです」
「俺は説明してる」
「必要なことだけ隠します」
「隠してない」
「では、右肩は?」
伊織は答えなかった。
床へ投げ出された時に打った。腕を動かすと肩の奥が重く、息を深く吸えば胸の上へ鈍い痛みが走る。
アリアの目が細くなる。
「やはり」
「骨は折れてない」
「それを決めるのはエルナさんです」
アリアは伊織の左側へ回り、腕を自分の肩へ掛けた。
「歩ける」
「知っています」
「なら離せ」
「嫌です」
即答だった。
伊織は横顔を見る。
薄紫の瞳は前を向いたまま。耳の先だけが、わずかに赤い。
「肩を貸しているだけです」
「聞いてない」
「言っておく必要があります」
「誰に」
「東さんにです」
クロが先に観測室を出る。
足取りはいつもより速い。
伊織は円形窓を一度だけ振り返った。
黒。
何もない。
だが、こちら側を覚えたものがいる。
掌の痕が、その証拠だった。
◆
通路の外では、ヴォルフが杖を構えたまま待っていた。
エルナは布と薬瓶を持っている。
ニコは石壁の向こうで記録帳を開いたまま立っていた。
「何が起きた」
ヴォルフが聞く。
「中で聞こえただろ」
「声までは分からん」
「一人、残ってた」
「誰が」
「ミレア」
ニコの筆が止まる。
「榊原さんと一緒にいた方ですね」
「ああ」
「生きていたんですか」
「身体はない。接続だけが残ってる。記憶と、目的と、約束」
「それを生きていると言うのか」
ヴォルフが聞いた。
「本人にも分からないらしい」
エルナが伊織の肩へ手を伸ばす。
「座ってください」
「ここで?」
「ここでです」
伊織は石壁へ背を預けて座った。
エルナは肩を触り、腕を少しずつ上げ、胸へ指を当てる。
「息を吸って」
右肩から胸の上へ痛みが走る。
「もう一度」
「同じだ」
「黙ってください」
「アリアと似てきたな」
「良い傾向です」
アリアが言った。
エルナは肋骨を確かめる。
「骨折はなさそうです。ただし、強く打っています。今日は右腕をできるだけ使わないでください」
「無理だ」
「では、動かす回数を半分にしてください」
「何の半分だ」
「普段の無茶です」
ヴォルフが鼻で笑う。
「それなら、普通の人間になる」
「褒めてない」
伊織は右手を開いた。
エルナの表情が変わる。
「これは」
「向こう側から触られた」
ニコの筆が動く。
アリアが振り返った。
「まだ正確に分かっていません」
「では、推定と記録します」
「危険性が高すぎます」
「だから残します」
ニコの声は静かだった。
「伊織さんたちが戻れなかった時、何が起きたか分からなくなる方が危険です」
アリアは何も言わなかった。
伊織はニコを見る。
「書け。ただし、掴まれたとは書くな。接触痕だ」
ニコは一度考え、頷いた。
「分かりました」
ヴォルフが杖を下ろす。
「それで、次は何だ」
伊織は答える前に、クロを見た。
クロは円形扉の方へ身体を向け、耳だけを後ろへ向けている。
「十二夜後」
伊織が言った。
ニコの筆が止まる。
「何がですか」
「扉が開く」
「還り火ではなく?」
「違う」
「帰還の扉ですか」
「向こうから来るための扉だ」
地下の空気が変わった。
誰もすぐには口を開かなかった。
ヴォルフの片目だけが細くなる。
「何が来る」
「分からない」
「場所は」
「鋼鉄塔。第一観測所だ」
「第二は」
「間もなく起きると言ってた。場所は聞けなかった」
「第三はここだな」
ニコが言った。
「第一が鋼鉄塔。第二が不明。第三が食堂の地下」
「番号通りに開くとは限らん」
ヴォルフが返す。
「ですが、最初の扉と言いました」
「第一観測所を指した可能性は高い。断定はするな」
「はい」
ニコは記録へ一言加えた。
推定。
「ヴェルナーは鋼鉄塔へ戻ったんでしょうか」
エルナが聞く。
「戻ってるなら、第一観測所の近くにいる」
伊織は立ち上がろうとした。
肩へ痛みが走り、わずかに動きが止まる。
アリアがすぐに押さえた。
「どこへ行くんですか」
「ヴェルナーを探す」
「今から?」
「時間がない」
「十二夜あります」
「十二夜しかない」
「今、外へ出ても居場所は分かりません」
「手掛かりはある」
「どこに」
「リゼル」
ヴォルフが先に頷く。
「技術部なら、連絡経路を知っている可能性がある」
「怪我人です」
「歩かせるとは言ってない」
伊織は壁へ手をつき、今度はゆっくり立った。
「エーベルトが第一観測所を動かしたのか、観測杭に反応して自動で準備を始めたのか。それを確認する」
「準備?」
ニコが聞く。
「十二夜後に突然開くんじゃない」
伊織は掌の痕を見る。
「今から座標を探し、流路を作って、扉を形にする。その途中が始まってる可能性がある」
「なら、起動と開門は別ですね」
「ああ。今は起動段階だ」
ニコは明確に書き分けた。
起動開始。
完全開門まで十二夜。
「もう一つある」
伊織はクロを見る。
「向こうがクロを見つけた」
アリアの表情が変わった。
「どういう意味ですか」
「ミレアは、還り火まで眠らせろと言った。起きていれば向こうから見つかる」
「誰に」
「分からない」
「燃え尽きる可能性は」
「ある。前の夜渡りは、扉を閉じるために消えた」
アリアはクロを見た。
クロは逃げない。
ただ、二人の顔を見ている。
「眠らせる方法を探します」
アリアが言った。
「百七夜だぞ」
「生きていれば、方法を探せます」
「本人が嫌がっても?」
「燃え尽きるよりはいい」
「クロの意思を無視するのか」
「東さんに任せれば、本人が望むなら危険へ連れていく」
「閉じ込めるのと、どっちがましだ」
「守るためです」
「誰が決める」
「私が――」
アリアは言い切る前に、口を閉じた。
薄紫の瞳が揺れる。
「あなたと同じにしないでください」
その一言で、伊織は黙った。
「クロは、東さんが守れなかった誰かではありません」
声は静かだった。
「危険へ行かせることが、意思を尊重することだとも限らない。眠らせることが正しいとも、私には言い切れません」
アリアはクロへ視線を落とした。
「だから、東さん一人で決めないでください」
伊織の胸の奥へ、鈍いものが落ちた。
クロは南条ではない。
アリアも、失った仲間ではない。
守れなかった誰かの代わりに扱えば、今ここにいる二人を見失う。
危険が近づくたび、自分だけで決め、自分だけが代償を払えばいいと思う。そうすれば、選んだ責任だけは自分に残る。
だが、それは信頼ではない。
「クロ」
伊織が呼んだ。
クロがこちらを見る。
伊織は右肩を庇いながら、ゆっくりしゃがんだ。
「眠るか」
クロは動かない。
「百七夜」
鼻を鳴らす。
「嫌か」
今度は強く鼻を鳴らした。
「塔へ行きたいか」
クロが立ち上がり、伊織の横へ並ぶ。
「そうか」
「それだけで決めるんですか」
アリアが言った。
「決めてない。クロが嫌だと言っただけだ」
「では」
「ヴェルナーに聞く。夜渡りを眠らせる記録があるか。前の個体がどうやって燃え尽きたのか。向こうから隠す方法が他にないか」
「それでも危険なら」
「その時、もう一度決める」
「誰が」
「三人で」
アリアはクロを見る。
次に伊織。
「クロは話せません」
「だから、お前が読む」
「私が?」
「俺より通じるんだろ」
アリアの表情が、わずかに緩んだ。
「都合の良い時だけ認めるんですね」
「役割分担だ」
「便利な言葉です」
「嫌か」
「嫌ではありません」
小さい声だった。
クロがアリアの足へ鼻先を触れた。
アリアは一瞬だけ固まり、それからクロの頭へ手を置く。
「眠らせる案を捨てたわけではありません」
クロが手の下から抜けた。
「嫌だそうだ」
「分かっています」
「なら」
「必要なら、また話します。三人で」
伊織は頷いた。
同じ方向を見て、同じ結論へ行く必要はない。
それでも、誰か一人だけを置いていかないことはできる。
◆
地上へ戻ると、食堂では昼の支度が続いていた。
鍋が煮える音。
皿の重なる音。
パンを切る音。
地下に帰還観測所があり、十二夜後に異世界の扉が開くと知っているのは、まだ数人だけだった。
リナが伊織を見る。
「何か食べる?」
「朝の残り」
「冷えてるよ」
「温めてくれ」
アリアが隣を見る。
「食欲がないのでは」
「戻ったら食べる」
「言いましたか」
「器に布を掛けた」
「食べ物を無駄にしないためです」
「同じだ」
「違います」
リナが笑う。
「温めるね」
「東さんの分は、少し多めにしてください」
「本人より詳しいな」
「右腕を使えない分です」
「胃袋は変わらない」
「減らした分を補います」
「計算が合わない」
「黙って座ってください」
伊織は壁際の席へ座った。
外套を脱ごうと右腕を上げ、肩の痛みに眉を寄せる。
アリアが横から外套を引き抜いた。
「触るなとは言わないんだな」
「言えば、無理に動かすでしょう」
「分かってるな」
「嫌になるほど」
クロが足元へ伏せる。
ニコは記録帳を抱え、向かいの席へ座った。
新しい紙を開く。
「何を書く」
伊織が聞いた。
「二つの期限です」
筆先を墨へ浸す。
「還り火まで、百七夜」
一行目。
「流入扉の完全開門まで、十二夜」
二行目。
その下へ、少し間を空ける。
「出発予定は?」
ニコが聞いた。
「まだ書くな」
「はい」
空欄のまま残す。
一つは帰るための期限。
一つはこちらへ来るための期限。
どちらも、まだ避け方は分からない。
リナが温めたスープを運んでくる。
伊織の前へ置く。
湯気が上がった。
豆と香草の匂い。
朝と同じものなのに、少し違って見えた。
伊織は左手で匙を持つ。
一口すくう。
手首の角度が悪く、半分が器へ戻った。
「貸してください」
アリアが言う。
「自分で食える」
「器を動かします」
アリアは伊織の左側へ器を寄せ、滑らないように片手で押さえた。
「これなら、こぼしにくいです」
「食わせるんじゃないのか」
アリアの動きが止まった。
「なぜ私がそこまでしなければならないんですか」
「さっき貸せと言った」
「器を動かすためです」
「そうか」
「何ですか、その顔は」
「別に」
「何か期待しました?」
「してない」
「なら、早く食べてください」
耳の先が赤い。
伊織はスープを口へ運んだ。
熱い。
朝より味が分かった。
クロがいる。
アリアがいる。
食堂には皿の音がある。
守るべきものを数えるには、それで十分だった。
ヴォルフが食堂へ入ってくる。
「町への説明はどうする」
伊織が聞いた。
「準備だけ始める」
「理由は」
「北で大規模な魔力異常が観測された。それだけ伝える」
「扉のことは」
「まだ早い。逃げる先が安全かも分からん」
「いつまで隠す」
「二日」
「一日だ」
「交渉になっていないな」
「明日までに、リゼルから連絡経路を聞く」
「話さなければ」
「別の手を探す」
「お前は休め」
「動く量は半分にする」
エルナが厨房から顔を出した。
「聞こえています」
「普通の人間になるだけだ」
ヴォルフが言う。
「ちょうどいい」
食堂の扉が開いた。
衛兵が一人、息を切らして立っている。
顔色が悪い。
「ヴォルフさん」
「何だ」
「北の見張り台からです」
衛兵は膝へ手をつき、一度息を整えた。
「鋼鉄塔の上に、光が出ています」
食堂から音が消えた。
「どんな光だ」
伊織が聞いた。
「白い輪です」
掌の痕が、熱を持った。
「いつから」
「今朝はありませんでした。つい先ほどです。少しずつ大きくなっています」
「塔の周囲は」
「雲が引かれています。鳥も近づきません」
十二夜後。
扉が開く。
だが、開門まで何も起こらないわけではない。
座標を探し、流れを作り、向こう側とこちら側を合わせる。
準備は、すでに始まっている。
クロが立ち上がった。
灰色の縞が、首から背へ静かに浮かぶ。
伊織は左手で匙を置いた。
「明朝じゃ遅い」
アリアの手が、伊織の右肩を押さえる。
「今から塔へ行くつもりですか」
「塔じゃない」
「では」
「見張り台だ。まず、距離と広がり方を見る」
無理に外套へ右腕を通そうとし、痛みが走る。
伊織が止まるより先に、アリアが外套を持ち上げた。
「左からです」
「分かってる」
「分かっていません」
左腕を通す。
アリアが外套を背へ回し、右側は肩へ掛けるだけにした。
留め具も彼女が締める。
「今日は右腕を使わないでください」
「できるだけ、だ」
「今のところ一度も守れていません」
伊織は掌を開いた。
五本の痕が、先ほどより濃くなっている。
「向こうが」
白い痕の奥で、何かが脈打った。
「こっちを見始めた」




