第102話 白い輪
北の見張り台は、町で一番風が強い。
石段を登るたび、乾いた風が外套を鳴らした。
伊織は右腕を動かさないよう、左手で手すりを掴む。
肩はまだ重い。
踏み外すほどではないが、咄嗟に右腕を使えば痛みが走る。
「ゆっくりです」
後ろからアリアが言う。
「急いでない」
「急ぎたい顔です」
「分かるか」
「ええ」
クロが二人より先を歩く。
灰色の縞は首筋だけ。
振り返る回数が、普段より少し多かった。
◆
見張り台へ着くと、衛兵が二人待っていた。
若い兵士は額へ汗を浮かべ、年配の兵士は望遠鏡から目を離さない。
「東さん」
若い衛兵が振り返る。
「あれです」
北。
鋼鉄塔。
昼の空へ、白い輪が浮かんでいた。
眩しいわけではない。
雲より白く、光より淡い。
空へ描かれた円だけが、ゆっくり回転している。
塔そのものは見えない。
距離が遠い。
それでも輪だけは、町のどこからでも見えるほど大きかった。
「大きくなってるか」
「はい」
年配の衛兵が答える。
「最初は塔の上に小さく見える程度でした」
「今は?」
「三十分ほどで二倍近くです」
伊織は望遠鏡を受け取る。
左手だけで支え、右肩を庇う。
鋼鉄塔の頂上。
白い輪は空中へ固定されているわけではなかった。
塔の先端から、細い白い糸が何本も伸びている。
その糸が輪を支えていた。
「糸……」
伊織が呟く。
アリアも望遠鏡を覗く。
「見えます」
「魔力か」
「はい」
「一本じゃありません」
彼女は目を細めた。
「塔からだけではありません」
「どういう意味だ」
「見えないだけです」
アリアは空を見る。
「もっと遠くからも、同じ流れが集まっています」
「第二観測所か」
「可能性はあります」
ヴォルフが腕を組む。
「第三は」
アリアは首を横へ振った。
「ここは動いていません」
「まだ、か」
「はい」
伊織は望遠鏡を下ろした。
白い輪は静かだった。
だが、静かなだけで不気味だった。
爆発もしない。
雷も落ちない。
ただ、空が少しずつ形を変えている。
「町の様子は」
ヴォルフが聞く。
若い衛兵が答えた。
「皆、珍しい雲だと思っています」
「騒ぎは」
「まだありません」
「よし」
ヴォルフは短く頷く。
「余計なことは言うな」
「はい」
◆
クロが突然、耳を立てた。
北ではない。
東を見る。
そのまま石壁の縁まで歩き、鼻を高く上げる。
「どうした」
伊織が呼ぶ。
返事の代わりに、小さく唸る。
アリアも東を見る。
「魔力があります」
「塔か」
「違います」
「町の中です」
ヴォルフが眉を寄せた。
「敵か」
「分かりません」
クロは階段へ向かった。
止まらない。
「クロ!」
伊織が呼ぶ。
クロは一度だけ振り返った。
それから走り出す。
「追うぞ」
「右肩!」
「後で聞く」
伊織も階段を駆け下りる。
肩が痛む。
構わない。
クロが誰かを見つけた。
その時点で放ってはおけない。
◆
町の東側。
井戸のある小さな広場。
子どもたちが遊んでいる。
老婆が洗濯物を干している。
普段と変わらない昼だった。
クロは井戸の前で止まった。
鼻を地面へ近づける。
石畳を一周する。
唸る。
「ここか」
伊織が息を整えながら言う。
クロは井戸を見た。
アリアが縁へ近づく。
風を落とす。
目を閉じる。
「……下です」
「水か」
「もっと下」
「空洞があります」
ヴォルフも井戸を覗いた。
「昔の避難路か」
「違います」
アリアは首を振る。
「人工物です」
「地下室?」
「もっと深い」
伊織は井戸の石積みを見る。
古い。
だが、一か所だけ色が違う石があった。
丸い傷。
金属が擦れたような跡。
見覚えがある。
「鋼線拘束具……?」
VR時代。
暴走遺跡の扉。
同じ擦り傷を何度も見た。
拘束具ではない。
何か重い金属を何度も固定した痕だ。
「ここにも観測所があるのか」
「違います」
アリアが答える。
「流れが細すぎます」
「なら」
「通り道です」
「何の」
「魔力です」
アリアは井戸の縁へ手を置く。
「第三観測所へ流れていません」
「第一か」
「はい」
伊織は空を見た。
白い輪。
塔。
そして井戸。
一本の線になった。
「町の下を流してる」
「何を」
「扉を開くための魔力だ」
◆
その時だった。
井戸の底から、小さな音がした。
――コン。
誰かが石を叩いたような音。
子どもたちは気付かない。
老婆も洗濯物を干している。
聞こえたのは四人だけだった。
「今の」
ヴォルフが低く言う。
再び。
――コン。
今度は二回。
クロの毛が逆立つ。
井戸の底へ向かって吠えた。
水面が揺れる。
波紋が広がる。
その中心へ、小さな白い光が浮かんだ。
「魔力反応!」
アリアが叫ぶ。
井戸の中からではない。
さらに深い。
岩盤の向こう。
見えない地下。
「離れろ!」
ヴォルフが叫ぶ。
周囲の子どもたちを押し退ける。
伊織は井戸から一歩下がる。
その瞬間。
石畳の隙間へ、細い白い線が走った。
一本。
二本。
三本。
町中へ張り巡らされるように広がっていく。
子どもが歓声を上げる。
「きれー!」
大人には光が見えていない。
伊織たちだけが見ていた。
「認識阻害……」
アリアが息を呑む。
「観測者だけが見える」
白い線は井戸から伸びる。
家の下へ。
道の下へ。
広場の下へ。
まるで町そのものが、一つの巨大な魔法陣だった。
伊織の掌が熱を持つ。
五本の痕が白く光る。
井戸の底から、今度は声がした。
遠い。
かすれている。
日本語ではない。
共通語でもない。
それでも意味だけが頭へ入る。
**――見つけた。**
クロが激しく吠えた。
空の白い輪が、一瞬だけ強く輝く。
井戸の底の光も、それに応じるように脈打った。
伊織は掌を押さえた。
熱い。
まるで誰かが、痕の向こうから手を重ねているようだった。
そして井戸の底から、三度目の音が響く。
――コン。
今度は返事だった。
誰かが、こちらの存在に気付いた。




