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第103話 観測者たち

 白い輪は、夜明けを待たなかった。


 空がまだ深い藍色を残し、町の屋根が輪郭だけを浮かべている時刻にも、それは鋼鉄の塔の上で音もなく回り続けていた。雲より低く、鳥より高い位置に浮かぶ巨大な円環は、光を放っているというより、周囲の暗さを薄く削り取っているように見える。


 見張り台の最上段に立った伊織は、右肩に残る鈍痛を無視しながら双眼鏡を構えた。


 輪の外周には、一定の間隔で細かな光点が並んでいる。その数は多く、肉眼ではただの白い帯にしか見えないが、倍率を上げれば、それぞれが独立して明滅していることが分かった。


 不規則ではない。


 点灯。


 消灯。


 次の光点へ移動。


 その繰り返しが、輪の周囲を一定の速度で巡っている。


「魔法陣ではありません」


 隣で目を細めていたアリアが言った。朝の冷気に紫の髪が揺れ、腰の双剣がわずかに音を立てる。


「断言できるか」


「通常の魔法陣であれば、術式の起点と終点があります。あれにはありません。力の流れが閉じています。それに――」


 アリアは右手を上げ、指先に淡い光を宿した。


 風が生まれたのは一瞬だった。


 見張り台の上を流れていた空気が細く束ねられ、塔の方向へ伸びる。触れることのできない距離を、魔力だけで探るための風だった。


 だが、白い輪の手前で風は崩れた。


 弾かれたのではない。


 そこに何も存在しなかったかのように、形を失って消えた。


「拒絶されています」


「魔力をか」


「いえ。私の魔力を、です」


 伊織は双眼鏡を下ろさなかった。


「持ち主を見分けてる」


「その可能性があります」


 輪の回転に合わせ、塔の表面を這う白い線が明滅する。光は上から下へ流れているのではない。地下から塔を駆け上がり、輪へ送り込まれている。


 井戸の下で見たものと同じだった。


 町の地下を走る導線。


 第一観測所へ集められる力。


 白い輪は、そこから供給を受けている。


 伊織は双眼鏡をニコへ渡した。


「記録できるか」


「何をです」


「全部だ」


 ニコは一度だけ目を瞬かせたあと、革張りの記録板を開いた。


「具体的には」


「輪の回転速度。光点の数。点滅の周期。塔から伸びている線の本数。変化が起きた時刻。それから鳥が近づいた時の反応」


「鳥もですか」


「生き物に反応するかもしれない」


 ニコは短くうなずき、羽根ペンを走らせ始めた。


 ヴォルフは見張り台の縁に片手を置き、遠くの塔を睨んでいる。剣を握っていないときですら、この男は戦場に立つ兵士のように見えたが、今朝の顔には戦意よりも警戒が強く浮かんでいた。


「いつまで見ている」


「分かるまでだ」


「分からなかったら」


「分からないことが分かる」


 ヴォルフが鼻を鳴らした。


「お前らしい答えだ」


 伊織は再び双眼鏡を受け取った。


 右から左へ巡る光点。


 同じ速度。


 同じ間隔。


 同じ明滅。


 魔法の揺らぎとは違う。生物の脈動でもない。


 もっと冷たい。


 もっと正確だ。


「回転してるな」


「見れば分かります」


「そういう意味じゃない」


 伊織は倍率を下げ、輪の全体を視界へ収めた。


「魔法陣なら、形が固定されていても機能する。だが、あれは動き続けている。何かを維持するために、回転そのものが必要なんだ」


 アリアの瞳がわずかに細くなる。


「機構だと?」


「機械なら止まる」


 言葉にした瞬間、足元でクロが低く唸った。


 塔ではない。


 町の方角へ顔を向けている。


 黒い耳が立ち、鼻先が風を探るように動く。


「クロ」


 伊織が名を呼ぶと、クロは見張り台の階段へ向かいかけた。


「待て」


 前脚が止まる。


 振り返った黒い目には、急かすような色があった。


 それでもクロは動かなかった。


「追わないのですか」


 アリアが尋ねる。


「今はな」


「井戸の下から聞こえた声と関係があるかもしれません」


「あるだろう」


「なら、なぜ」


 伊織は塔から視線を外し、町を見下ろした。


 朝の支度を始めた家々の煙突から、細い煙が上がっている。パンを焼く匂いが風に混じり、路地では水桶を運ぶ女の声がする。白い輪が空に浮かんでいても、町はまだ昨日までの習慣を捨てていない。


 だからこそ、その平穏の中へ不用意に飛び込むべきではなかった。


「向こうは逃げない」


「確信があるのですか」


「昨日、言っただろ」


 見つけた。


 井戸の底から聞こえた声を思い出す。


 あれは警告ではない。


 驚きでもない。


 確認だった。


「向こうも、こっちを見てる」


 アリアの表情から、わずかな苛立ちが消えた。


「だから、先に観察する」


「ええ」


「観察できない相手とは戦えない」


 伊織がそう言った直後、見張り台の下から足音が響いた。


 速い。


 だが、乱れてはいない。


 数秒後、灰色の外套を着たリゼルが姿を見せた。普段より髪をまとめる手間すら惜しんだらしく、淡い金髪が頬にかかっている。


「やっと来た」


「何か分かったか」


「嫌なことなら、いくつか」


 リゼルは息を整える前に、革筒から丸めた紙を取り出した。見張り台の床へ広げられたのは、鋼鉄の塔とその周囲を描いた古い構造図だった。


 線は擦れ、所々が欠けている。


 それでも塔の内部に複数の空間があり、中央を巨大な縦穴が貫いていることは分かった。


「昨夜、地下保管庫から見つけた。第一観測所の一部らしい」


「一部?」


「上半分だけ。地下構造は意図的に切り取られてる」


 伊織は紙の端を指で押さえた。


 塔の中央部。


 同心円状に描かれた複数の区画。


 外縁には、見慣れない記号が並んでいる。


「白い輪は」


「図にはない」


「後から作られたか」


「あるいは、図を作った時点では収納されていた」


 リゼルが塔の上部を指差す。


「ここの空洞。幅は塔そのものとほとんど同じ。何かを内部に格納していたと考えれば、説明はつく」


 伊織は白い輪へ視線を戻した。


 展開した。


 起動した。


 だが、まだ完成していない。


「開いてはいないんだな」


「ええ。ミレアの記録と照合した。扉として完成するなら、輪の内側に空間の歪みが生じる。でも今は何もない。見えているのは外枠だけ」


「準備中か」


「正確には、座標を固定している途中」


 リゼルは言葉を選ぶように、一拍置いた。


「あなたの世界の言い方なら、暖機に近いかもしれない」


「ずいぶん大きなエンジンだ」


「動き出したら、町ごと燃料にされる可能性がある」


 ヴォルフの顔が険しくなる。


「止められるのか」


「分からない」


「分からないばかりだな」


「分かったふりをして全員死ぬよりはいい」


 リゼルは冷たく返したあと、外套の内側から小さな金属箱を取り出した。


 箱は手のひらより少し大きく、表面の半分が黒く焼けている。片側には折れた針金のような部品が突き出し、もう片側には透明な石が埋め込まれていた。


 魔導具に見える。


 だが、伊織には別のものにも見えた。


「通信機か」


「ヴェルナーが残したもの」


 アリアの手が双剣へ伸びた。


「なぜ、それを今まで」


「動かなかったから」


 リゼルは箱を床へ置き、透明な石に指を触れた。


「昨日の夜から、勝手に音を出し始めた」


「音?」


「声ではない。規則的な信号」


 伊織はしゃがみ込み、箱を覗き込んだ。


 透明な石の奥で、小さな光が点滅している。


 三回。


 間。


 二回。


 間。


 五回。


 同じ組み合わせが繰り返されていた。


「呼び出してる」


「誰を」


「こっちをだろうな」


 伊織が言った瞬間、箱から低い雑音が流れた。


 ざらついた音。


 遠くの雷鳴。


 金属同士を擦り合わせるような不快な振動が、見張り台の床をわずかに震わせる。


 ニコの羽根ペンが止まった。


 クロが歯を見せる。


 アリアは箱と塔の双方を警戒しながら、伊織の半歩前へ出た。


 雑音の中に、人の声が混じった。


『――聞こえるか』


 日本語だった。


 掠れている。


 だが、間違いない。


 伊織の背中から、朝の寒さとは別のものが這い上がった。


「聞こえている」


 一瞬、雑音だけが返った。


『東伊織か』


「そうだ」


『時間がない』


 声は年老いていた。


 疲れている。


 それでも言葉の一つ一つは明瞭で、混乱している者の話し方ではなかった。


 ヴェルナー。


 五十年前、この世界へ渡り、古代技術と現代知識を繋ぎ合わせた男。


 塔の上で白い輪が回る。


 通信機の石が、その回転と同じ周期で明滅する。


「お前はどこにいる」


『答えれば、彼らにも聞かれる』


「彼らとは誰だ」


『扉の向こうにいるものだ』


 井戸の底で聞こえた声が蘇る。


 見つけた。


「町の地下へ入ったのか」


『まだだ』


「まだ?」


『彼らは君を見つけた。だが、こちらへ渡るための身体を持っていない』


 伊織は黙った。


 リゼルが構造図を押さえる指に力を込める。


 アリアはヴェルナーの声を理解できていない。通信機から流れるのは日本語だけなのだろう。それでも伊織の表情から、内容が良くないことは察していた。


「白い輪は扉なのか」


『扉の枠だ』


「完成まで十二夜」


『それより早い』


 ニコが顔を上げる。


 伊織の声を聞かなくても、何かが変わったことを察したらしい。


「理由は」


『第三観測所が見つかったからだ。三つの観測所が互いの位置を確認し始めた。計算は加速する』


 伊織は町を見下ろした。


 食堂がある。


 リナがいる。


 客がいる。


 朝になれば、昨日と同じように皿が並び、湯気が立ち、誰かが飯の話をする。


 その足元を、白い線が走っている。


「あと何日だ」


『最短で八日』


 十二夜。


 そのはずだった。


 四日削られた。


 リゼルへ向けて、伊織は指を八本立てた。


 彼女の顔色が変わる。


「何が来る」


 通信機の向こうで、ヴェルナーが息を吐く音がした。


『最初に来るのは、人ではない』


「古代兵器か」


『その呼び方は正確ではない』


 白い輪の光が、一瞬だけ強くなった。


 塔の外壁を走っていた光が中央へ集まり、最下層へ沈んでいく。見張り台からでも分かるほど、地面が微かに震えた。


 鳥が一斉に飛び立った。


 輪の下で、塔の壁面がゆっくりと開き始める。


 隙間の奥に、光のない空洞が見えた。


『第一観測所は兵器ではない』


 ヴェルナーの声が雑音に埋もれる。


 それでも最後の言葉だけは、はっきりと聞こえた。


『兵器を造る場所だ』


 地の底から、何か巨大なものが動き始めた。


 鋼鉄が擦れ合う低い音が、まだ眠りきらない町の上をゆっくりと渡っていった。


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