第104話 古い爆破痕
鋼鉄の塔から響いた低音は、長くは続かなかった。
地の底で巨大な歯車が半回転だけして止まったような、短く重い振動だった。だが、眠りから覚めた町に与えた影響は大きかった。通りへ出た人々は白い輪を見上げ、何が起きたのか分からないまま、近くにいる誰かへ同じ問いを繰り返している。
答えを持つ者はいなかった。
少なくとも、地上には。
伊織たちは見張り台を下りると、そのまま旧井戸へ向かった。リゼルが先行し、封鎖を命じたため、井戸の周囲にはすでに警備兵が立っている。野次馬の姿はなかったが、通りの角や窓の隙間から、こちらを窺う視線だけは消えていなかった。
「八日とは、ずいぶん気前よく削ってくれたな」
ヴォルフが低く言った。
「最短だ」
「慰めにはならん」
「するつもりもない」
井戸の縁へ近づくと、クロが真っ先に鼻先を下へ向けた。
昨日と同じ場所であるはずなのに、底から上がってくる空気は変わっていた。湿った土と古い石の匂いに混じり、焦げた金属に似た臭気がある。アリアも気づいたらしく、井戸の内壁へ手をかざし、流れ込んでくる魔力を慎重に探った。
「動いています」
「何が」
「地下の導線です。昨日より速い」
「塔へ流れてるのか」
「ええ。ただし、すべてではありません。途中で枝分かれしています」
伊織は井戸の暗がりを見下ろした。
「町の下に、まだ何かある」
「可能性ではなく、確実に」
アリアの返答を聞き、リゼルが折り畳んだ紙を開いた。昨夜見つけたという古い構造図に、別の薄い紙を重ねている。新しい方は町の地下水路を描いたものらしいが、二つの図を重ねても線はほとんど一致していなかった。
「井戸へ下りた先に、古い排水路がある。ただし、町が造られる前から存在していた区画は記録にない」
「つまり、地図が役に立たない」
「正確には、途中までしか役に立たない」
「十分だ」
伊織は装備を確かめた。
右肩はまだ完全には上がらない。昨日より痛みは軽いが、無理に引けば筋肉の奥へ針を差し込まれたような感覚が走る。長銃を構え続けるのは避けた方がいい。
それでも、地下へ拳銃だけで入る気はなかった。
短く息を吐き、左手を開く。
黒い粒子が指の間から集まり、折り畳まれた短銃身の形を作る。金属の重量が掌へ落ち、光学照準器の小さな窓が淡い朝日を反射した。
SAT時代に使った装備を基礎とし、VRで何度も扱った短機関銃だった。
狭い場所で長銃を振り回す必要はない。
銃口を下げた状態で保持し、伊織はリゼルを見る。
「先頭は俺とクロ。アリアは後ろから魔力を見る。ヴォルフは最後尾」
「私は?」
ニコが聞いた。
「地上だ」
「記録は」
「戻ってから話す」
「地下で起きたことを、すべて覚えていられますか」
「必要なことは」
「不要だと思ったことが、後で必要になるかもしれません」
伊織は数秒だけ考えた。
ニコの言うことは正しい。観測を続けるなら、情報を持ち帰る者が必要になる。
「俺たちから離れるな」
「了解しました」
「危ないと思ったら、記録板を捨てろ」
「記録板より私の方が軽いです」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
表情は変わらなかったが、羽根ペンを収める手だけが少し速かった。
縄梯子を下り、井戸底の石蓋を開く。
昨日見つけた地下通路は、すでに別の場所になっていた。
壁の継ぎ目を走る白い線が、規則的に明滅している。淡い光は照明と呼べるほど強くないが、暗闇の中で通路の形を浮かび上がらせるには十分だった。床に溜まっていた水は細かく震え、その表面に白い筋が映り込んでいる。
伊織は片膝をつき、水へ指先を触れた。
温かい。
「地下水が熱を持っています」
アリアもしゃがみ込み、手袋を外して水面へ触れた。
「魔力が熱へ変換されているのか」
「一部は。残りは、もっと先へ送られています」
「分かるか」
「流れは二つ。北東と、真下です」
北東には鋼鉄の塔がある。
もう一つは、町のさらに深い場所。
伊織は天井を見上げた。
食堂がどの方向にあるかを頭の中で割り出す。
おそらく、そう遠くない。
「先に下だ」
「塔ではなく?」
「塔は逃げない。町の下にあるものを知らずに、塔へ近づく方が危険だ」
クロが一度だけ尾を振った。
同意というより、進む道を知っているような動きだった。
通路を進むにつれ、人工物の痕跡は濃くなった。
初めは粗い石積みに見えた壁が、やがて継ぎ目のない灰色の材質へ変わり、床には一定間隔で細長い溝が現れた。荷車の轍ではない。幅が狭すぎるうえ、左右の溝が完全に平行だった。
「何かを運ぶための軌道だな」
「鉱石でしょうか」
「もっと重いものだ」
伊織は溝の内側へ指を当てた。
削れ方が深い。
何十年、何百年という単位で、同じ場所を重量物が往復した痕跡だった。
「兵器?」
ニコが背後から聞く。
「部品かもしれない」
「塔へ?」
「その可能性が高い」
さらに進むと、通路は三方へ分かれた。
右は北東。
左は町の外縁。
中央は緩やかに下っている。
クロは迷わず中央へ向かった。
「待て」
伊織が手を上げる。
全員が止まった。
音がする。
機械音ではない。
何かが擦れる、微かな連続音。
伊織は照準器越しに暗闇を覗き、銃口をわずかに下げたまま呼吸を整えた。
「アリア」
「生き物の魔力はありません」
「それ以外は」
「奥に大きな反応があります。ただし、動いてはいません」
「距離」
「二百歩ほど」
伊織は壁際へ寄り、クロを左へ送った。自分は右。アリアとニコを中央に置き、ヴォルフへ後方を任せる。
言葉は必要なかった。
アリアは小さくうなずくと、指先から風を流した。地下の湿った空気が床を這い、通路の先へ伸びていく。強い風ではない。埃の動きと空間の形を読むための、ごく薄い流れだった。
数秒後、アリアの眉が動いた。
「広い空間です」
「入口は」
「正面に一つ。左右にも隙間があります」
「見張りは」
「ありません」
伊織はクロを見る。
唸っていない。
少なくとも、すぐに襲ってくるものはいない。
前進する。
通路の終わりには、巨大な円形空間があった。
天井は高く、光が届かない。中央には井戸よりも太い柱が立ち、その表面を無数の白い線が上下へ走っている。柱の根元からは六本の太い導線が床へ伸び、それぞれ異なる通路へ消えていた。
一本は塔へ。
一本は町の中心へ。
残る四本は、別の方向へ伸びている。
「中継施設」
伊織がつぶやく。
「魔力を集め、分配しています」
アリアが柱へ近づこうとした。
「触るな」
足が止まる。
「分かっています」
「ならいい」
「あなたは時々、私を何だと思っているのですか」
「すぐ前へ出る剣士」
「否定しにくい言い方をしないでください」
緊張の中でも、わずかにいつもの調子が戻る。
だが、クロは柱を見ていなかった。
円形空間の端。
崩れた壁の前で、低く鼻を鳴らしている。
伊織はそちらへ向かった。
壁の一部が黒く焦げている。
周囲の材質は熱で溶け、外側へ向かって歪んでいた。自然に崩れた形ではない。中心点から一気に圧力を受けた痕跡がある。
伊織はしゃがみ込み、破片を拾った。
表面に煤が残っている。
溶けた金属の間には、小さな球状の粒が食い込んでいた。
「これは何ですか」
アリアが隣へ立つ。
「爆破跡だ」
「魔法による?」
「違う」
伊織は指先で粒を転がした。
鉄片。
均一ではないが、自然に飛び散ったものでもない。
爆発の威力を増すため、意図的に混ぜられた破片だ。
「爆薬を使ってる」
「ヴェルナーが?」
「可能性はある」
壁の焦げ跡は古い。
五十年という時間とも矛盾しない。
だが、爆破は一度ではなかった。
少し離れた場所に、もう一つ。
さらに奥に三つ目。
一定の間隔で壁が破壊されている。
進路を作るためではない。
何かを止めるための配置だった。
「順番に後退した」
「何がですか」
「爆破地点が奥から入口へ続いてる。誰かがここで戦いながら、押し戻された」
ヴォルフが焦げた壁を見上げた。
「相手は」
「分からない」
「勝ったと思うか」
伊織は最後の爆破跡へ視線を移した。
壁の向こうには、巨大な扉があった。
半分が崩れている。
残った部分には、深い傷が無数に走っていた。
刃物ではない。
爪のようにも見えるが、一本一本が人間の腕ほど太い。
扉の向こうは暗い。
その暗闇から、冷たい風が吹いてくる。
「少なくとも、ここでは止めてない」
クロが扉の手前で立ち止まり、全身の毛を逆立てた。
初めて、喉の奥から明確な警告音を出す。
伊織は銃口を上げた。
アリアが両手を開き、薄い風の膜を全員の前へ広げる。何かが飛んできた場合、軌道を逸らすための防御だ。
ヴォルフが剣を抜く。
ニコは記録板を閉じ、胸へ抱えた。
暗闇の奥で、金属が鳴った。
ひとつ。
間を置いて、もうひとつ。
足音ではない。
鎖が引かれる音に近い。
「下がるぞ」
ヴォルフが伊織を見る。
「確認しないのか」
「今ここで起こす理由がない」
「敵なら、今のうちに」
「形も数も分からない敵へ、狭い入口から突っ込むのか」
ヴォルフは一瞬黙り、剣を下げた。
「撤退する」
伊織は全員へ短く告げた。
クロだけが動かなかった。
暗闇を見つめ、歯を見せている。
「クロ」
反応はない。
「戻るぞ」
黒い耳が動く。
ようやくクロは一歩下がった。
その直後だった。
円形空間の中央に立つ柱が、強く明滅した。
六本の導線へ同時に光が走る。
一本は塔へ。
一本は町の中心へ。
残る四本は、地中のさらに遠い場所へ。
暗闇の奥で、鎖の音が止まった。
代わりに、何かが息を吸うような音が響いた。
生き物ではない。
巨大な炉へ空気を送り込む、低く深い吸気音だった。
アリアの顔色が変わる。
「魔力が集まっています」
「どこへ」
彼女は塔へ伸びる導線ではなく、半壊した扉の向こうを見た。
「こちらです」
床が震えた。
暗闇の中で、淡い赤色の光が二つ灯る。
目の高さではない。
人間の三倍以上ある位置だった。
伊織は引き金へ指をかけたまま、ゆっくりと後退する。
赤い光は動かなかった。
こちらを見ている。
観察している。
やがて、通信機を通さず、空間そのものを振動させる声が響いた。
『構造を確認』
日本語ではない。
それでも意味が頭へ直接流れ込んできた。
『異物、五』
クロを含めている。
『戦闘記録と照合』
壁に残る古い爆破跡が、白い光を反射した。
『同系統兵装を検出』
伊織の手にある短機関銃へ、赤い光が向いた。
五十年前。
ヴェルナーはここで、同じ相手と戦った。
そして敵は、その戦いを覚えている。
『対策構造を選択』
暗闇の奥で、無数の金属音が重なった。
一体ではない。
何かが組み替わっている。
伊織は全員を出口へ下がらせながら、最後まで赤い光から目を逸らさなかった。
「急げ」
「東さん」
アリアが振り返る。
「走れ」
扉の向こうで、巨大な腕が持ち上がった。
五本の指先が、銃身のように開いていく。
伊織は床へ一発撃った。
弾丸が灰色の材質を叩き、火花を散らす。
同時に、アリアが風を爆発させた。
空気の塊が全員の背中を押し、崩れた壁の外へ弾き出す。
直後。
白い光線が円形空間を貫いた。
柱の一部が音もなく消え、遅れて周囲の石材が崩れ落ちる。
伊織は通路へ転がり込み、右肩に走った痛みを噛み殺した。すぐに身体を起こし、出口へ向かう。
背後から追撃はなかった。
代わりに、あの声が響く。
『試験終了』
伊織は走りながら理解した。
今の攻撃は、殺すためではない。
測るためだった。
『製造を開始』
地面のはるか下で、重い何かが動き始める。
規則的な打撃音が、町の地下全体へ広がっていった。
鋼鉄を打つ音。
部品を組み上げる音。
兵器が生まれる音だった。




