第105話 最初の個体
地下から響く打撃音は、井戸を抜けても消えなかった。
町の石畳を踏むたびに、靴底から小さな振動が伝わってくる。一定の間隔で鋼鉄を叩き、次の一撃までに何かを送り、また叩く。工房の槌に似ていたが、音の重さも、振動が届く範囲も、人間の扱える規模ではなかった。
兵器を造っている。
しかも、一体では終わらない。
井戸から出た伊織は、右肩を押さえながら周囲を見渡した。警備兵たちは地下から駆け上がってきた一行の姿を見て緊張を強めたものの、何があったのかまでは理解していない。白い輪を見上げている町の人々も同じだった。
「井戸を閉鎖しろ。近づけるな」
ヴォルフが警備兵へ命じる。
「ですが、何が――」
「説明はあとだ。動け」
兵士たちが井戸の周囲へ柵を運び始める。
リゼルは伊織の隣まで来ると、声を落とした。
「塔の中で造っているの?」
「塔だけじゃない」
「地下も工房の一部だと?」
「少なくとも、材料と力を送る道になっている。町の下にある中継施設が動けば、第一観測所へ流れ込む量は増える」
「止められる?」
「今の段階では分からない」
リゼルの口元がわずかに歪んだ。
「あなたまで、それを言うのね」
「見ていないものは断言できない」
伊織が答えた直後、塔の方角で低い音がした。
今度は地下ではない。
空気そのものを震わせる、金属の咆哮だった。
通りにいた人々が一斉に振り返る。
鋼鉄の塔の中腹。
先ほど開き始めていた壁面が、左右へ完全に割れていた。その奥に見える暗い空洞から、何かがゆっくりと外へ押し出されてくる。
初めに現れたのは腕だった。
人間の腕に似ている。
ただし、長さは荷馬車一台分を超えており、表面を覆う灰白色の装甲板は、筋肉の代わりに何枚もの薄い層が重なった構造をしていた。五本の指は細長く、関節の一つ一つが銃身のような円筒で連結されている。
次に頭部。
顔はない。
二つの赤い光だけが、平らな装甲面の奥で灯っている。
塔の開口部を押し広げながら、巨体が外へ出た。
高さは十メートルに届かない。
それでも、町の城門より高い。
上半身は人型だが、腰から下は四本の脚に分かれていた。それぞれの脚は細く長く、先端には地面を掴むための三本爪がある。重量を支えるというより、不整地を高速で移動するための構造だった。
古代兵器は塔の外壁へ四脚を掛け、音もなく降り始めた。
「全住民を建物の中へ入れろ」
伊織が言う。
ヴォルフがすぐに兵士へ叫んだ。
「通りを空けろ! 窓からも離れさせろ!」
鐘が鳴る。
火災でも襲撃でもない、聞き慣れない間隔だった。それでも人々は兵士の表情から危険を察し、子どもの手を引き、荷物を放り出し、近くの建物へ駆け込んでいく。
アリアは塔を見たまま、伊織へ尋ねた。
「こちらへ来ますか」
「まだ分からない」
「動き始めています」
「ああ」
古代兵器が地面へ降りる。
落下の衝撃はなかった。
四本の脚が順番に土を捉え、巨大な身体の重量を完全に殺している。
滑らかだった。
速さを見せてはいない。
それでも、その動きだけで分かる。
鈍重な相手ではない。
兵器は頭部を左右へ動かした。
町。
塔。
遠くの森。
最後に、伊織たちがいる通りへ赤い光を向ける。
『異物兵装を再確認』
地下で聞いたものと同じ声が、頭の内側へ響いた。
周囲の兵士たちが顔をしかめる。
伊織だけではない。
この場にいる全員へ意味が流れ込んでいる。
「クロの力ではありません」
アリアが低く言った。
「分かってる」
「観測所そのものが、意味を変換しているのでしょうか」
「あとで考える」
今は相手の動きを読む方が先だった。
古代兵器は町へ直進しなかった。
東へ向きを変え、塔と町を結ぶ街道から外れる。その先には、古い採石場と低い丘がある。
「何をする気だ」
ヴォルフが問う。
伊織は頭の中で地形を組み立てた。
採石場。
崖。
岩壁。
町から見えにくい低地。
大型の相手を迎え撃つには、平地より都合がいい。
「追う」
「罠かもしれんぞ」
「だから、町の外で見る」
伊織は短機関銃を消し、代わりに89式小銃を具現した。右肩へ直接銃床を当てると痛みが走るため、吊り紐を短く調整し、身体の中央へ寄せて保持する。
アリアがその動きを見逃さなかった。
「肩は」
「動く」
「使えるかと聞いています」
「撃てる」
「答えになっていません」
「今はそれでいい」
アリアは不満を隠さなかったが、反論はしなかった。
「ヴォルフ。兵士を二隊に分けろ。一隊は住民の避難。もう一隊は採石場の入口を封鎖する。敵を囲むな。退路を残せ」
「逃がすのか」
「逃げ道がない敵は、こちらへ突っ込む」
「相手が逃げると思うか」
「思わない。だが、出口を残した方が動きを誘導しやすい」
ヴォルフが部下を振り分ける。
「リゼルは町へ戻れ」
「反対するわ」
「知ってる」
「地下の流れを読める人間が必要でしょう」
「アリアがいる」
「観測所の記録を読める人間は?」
伊織は一瞬だけリゼルを見る。
「丘の手前までだ。そこから先へ出るな」
「十分よ」
「ニコも残れ」
「記録は」
「遠くから取れ」
ニコは今回は食い下がらず、記録板を胸に抱えたままうなずいた。
伊織、アリア、クロ、ヴォルフ。
四人は兵器の後を追った。
古代兵器は走らなかった。
四本の脚を一定の順序で運び、地面を抉ることなく進んでいる。巨体に似合わず静かだった。足音が小さいからこそ、内部で部品が動く微かな音が耳に残る。
装甲の内側を何かが巡っている。
外から見える形よりも、内部は複雑だ。
採石場へ入る直前、兵器が止まった。
頭部がわずかに傾く。
赤い光が岩壁を走り、地面をなぞり、丘の上に配置された兵士たちの位置で止まった。
「見つかっています」
アリアが言う。
「隠れる気はない」
伊織は地面へ片膝をつき、照準器を覗いた。
距離、およそ二百五十メートル。
風は弱い。
敵は完全に停止。
狙える。
「最初は撃つな」
ヴォルフが剣を抜きかけた手を止める。
「何を待つ」
「反応を見る」
伊織はクロへ視線を落とした。
「中で魔力が動いたら知らせろ」
クロは敵を睨んだまま、低く鼻を鳴らした。
「アリア」
「はい」
「風を当てろ。弱くていい」
「目的は?」
「装甲の隙間を見る」
アリアは左手を伸ばした。
風が地面の砂を巻き上げ、古代兵器の身体へ薄い幕のように流れていく。攻撃力はない。だが、細かな砂塵は装甲板の重なりへ入り込み、普段は見えない空気の流れを形にした。
胸部。
肩。
脚の付け根。
砂は複数の隙間から内部へ吸い込まれている。
「冷却か」
「熱を逃がしているようには見えません」
「中へ空気を送ってる」
地下で聞いた吸気音を思い出す。
炉。
燃焼。
あるいは魔力変換。
伊織は銃口を胸部ではなく、右前脚の付け根へ向けた。
「一発だけ撃つ」
「効くと思うか」
「それを調べる」
呼吸を止める。
照準を固定。
引き金を絞った。
乾いた発砲音が採石場へ響く。
弾丸は装甲の継ぎ目へ正確に命中した。
火花。
灰白色の表面に小さな黒点が残る。
それだけだった。
古代兵器は動かない。
「通っていません」
「見れば分かる」
ヴォルフが眉を寄せる。
「普通の矢よりは威力があるのだろう」
「ああ」
「それで傷一つか」
「傷にも入らない」
伊織は続けて撃たなかった。
敵の反応を見る。
赤い光が、被弾した脚の付け根へ移る。
装甲板が一枚だけ持ち上がり、弾痕の周囲を覆うように位置を変えた。
直したのではない。
厚くした。
「学習しました」
アリアの声が硬くなる。
「一発でな」
『運動体兵装を確認』
古代兵器の右腕が上がった。
「散開!」
伊織が叫ぶ。
五本の指先が開く。
白い光。
伊織は右へ跳んだ。
地面を蹴った瞬間、肩に鋭い痛みが走る。それでも身体を止めなかった。
光線が、直前までいた場所を横切る。
音がなかった。
通過したあとで、岩壁が崩れた。
削れたのではない。
直径一メートルほどの範囲が、円筒状に消えている。
「撃たせるな!」
ヴォルフが走る。
正面ではない。
岩の陰を使いながら左側へ回り込み、兵器の視線を引きつける。
アリアが風を放った。
砂塵が一気に舞い上がり、赤い光を覆う。視界を切るための風だ。
だが、古代兵器はヴォルフを追わなかった。
頭部を動かさず、左腕だけを丘の上へ向ける。
「伏せろ!」
光線が放たれる。
兵士たちが身を伏せるより早く、アリアが両手を振り上げた。
風の壁が地面から立ち上がり、光線の進路へ斜めに割り込む。
軌道がわずかに曲がった。
光は丘の頂上を掠め、後方の岩を消し飛ばす。
完全には防げない。
だが、逸らせる。
「アリア、今のをもう一度できるか」
「角度が分かれば。ただし、正面から受けるのは無理です」
「十分だ」
伊織は岩陰から出る。
89式を胸部の隙間へ向け、三点射。
発砲。
命中。
装甲が動く。
次の三発は肩。
さらに腰。
効かない。
だが、撃つたびに装甲板の配置が変わる。
被弾箇所を厚くし、次の攻撃へ備えている。
「攻撃を分散させてください!」
アリアが叫ぶ。
「分かってる!」
ヴォルフが右脚へ斬りかかる。
双手で振り下ろされた剣が装甲板へ衝突し、金属音を響かせた。刃は通らない。だが、衝撃で古代兵器の脚がわずかに沈む。
そこへアリアが踏み込んだ。
風を足元へ集め、一気に加速する。
双剣が左右から脚の関節へ走った。
同じ場所ではない。
ヴォルフが正面へ力を掛け、アリアが内側の継ぎ目を狙う。
二人の攻撃が重なった瞬間、装甲板が一枚外れた。
内部に赤い光が見える。
「東さん!」
伊織はすでに照準を合わせていた。
一発。
弾丸が隙間へ入る。
内部で火花が散った。
古代兵器の右前脚が沈む。
巨体が傾いた。
「効いた!」
ヴォルフが叫ぶ。
「下がれ!」
伊織の声と同時に、クロが激しく吠えた。
敵の胸部で魔力が膨れ上がる。
古代兵器は倒れなかった。
沈んだ脚を地面へ突き刺し、三本の脚だけで身体を支える。外れた装甲板の周囲から、細い金属片が伸び、傷口を覆い始めた。
修復している。
それだけではない。
胸部の装甲が開く。
内部に、幾重もの円環が見えた。
白い光が中心へ集まっていく。
「全員退避!」
伊織はアリアへ走った。
ヴォルフはすでに後退している。
だが、アリアは敵へ向けて両手を伸ばしたまま動かなかった。
「風で逸らします」
「無理だ」
「丘の兵士が間に合いません」
「俺がやる」
「何を――」
伊織は左手を開いた。
黒い粒子が集まる。
短い筒状の弾体。
発射器。
肩へ構えるには痛みが強すぎる。
それでも構えた。
84ミリ無反動砲。
重さが身体へ掛かり、右肩の奥で何かが軋む。
狙うのは敵ではない。
胸部の射線と丘の間にある岩壁。
「後方よし!」
ヴォルフが意味を察し、背後から離れる。
伊織は引き金を引いた。
爆音。
弾体が岩壁へ突き刺さり、表面を大きく崩す。
大量の岩と砂塵が落下し、敵と丘の間へ厚い幕を作った。
直後、古代兵器の胸から光が放たれる。
岩壁が内側から白く染まる。
一瞬後、崩れた岩の半分が消えた。
残りが衝撃で吹き飛ぶ。
アリアが風を横へ叩きつけ、飛散した岩を町とは逆の方向へ流した。
それでも衝撃は消せなかった。
伊織の身体が地面へ投げ出される。
右肩から落ちた。
息が止まる。
視界が白くなる。
遠くでアリアの声がした。
「東さん!」
身体を起こそうとしたが、右腕に力が入らない。
古代兵器は採石場の中央に立っている。
前脚の傷はすでに塞がりかけていた。
銃弾。
剣。
風。
無反動砲。
いずれも倒すには足りない。
兵士たちは丘から退却している。
ヴォルフもアリアも生きている。
それで十分だった。
「撤退だ」
伊織は左腕で身体を起こした。
「まだ戦えます」
アリアが隣へ駆け寄る。
「戦えるかどうかじゃない」
「では」
「ここにいる理由がない」
古代兵器は追ってこなかった。
赤い光が伊織の手元へ向く。
使用した無反動砲。
被弾した装甲。
アリアの風。
ヴォルフの剣。
すべてを順番に確認している。
『兵装特性を記録』
「測られました」
「ああ」
『近接干渉、気流干渉、爆発性運動体を登録』
敵は勝とうとしていない。
次に勝つため、こちらを覚えている。
「急いでください」
アリアが伊織の左側へ入り、肩を支えようとする。
「自分で歩ける」
「歩ける人は、立つのに三回も失敗しません」
「数えてたのか」
「数えたくなくても見えます」
クロが敵へ唸りながら後退する。
ヴォルフが最後尾へ回り、兵士たちを町の方向へ下がらせる。
伊織たちは採石場を離れた。
古代兵器は追撃しなかった。
それどころか、全員が射程外へ出たことを確認すると、塔の方角へ向きを変えた。
「戻るのか」
ヴォルフが息を切らしながら言う。
「試験が終わったからだ」
「俺たちは試されたということか」
「そうだ」
「それで、何が分かった」
伊織は答えなかった。
古代兵器の背中を見る。
四本の脚。
動く装甲。
自己修復。
指先の光線。
胸部の主砲。
こちらの攻撃を受けるたび、装甲配置を変えた。
だが、すべての場所を同時には守れなかった。
脚を厚くすれば、肩が薄くなる。
肩へ移せば、腰が開く。
胸部の円環が起動した瞬間だけ、全身の装甲が止まった。
魔力を攻撃へ集中させるためだ。
万能ではない。
選択している。
防御。
攻撃。
修復。
三つを同時には行えない。
「東さん」
アリアがもう一度呼ぶ。
伊織は古代兵器から視線を外さないまま、わずかに口元を緩めた。
「分かった」
「何がですか」
「普通にやったら勝てない」
「それは、今見れば誰でも分かります」
「ああ」
伊織は左手で右肩を押さえた。
痛みは強い。
次に同じ撃ち方をすれば、腕が使えなくなるかもしれない。
それでも、頭の中ではすでに採石場の地形を作り直していた。
岩壁の高さ。
入口の幅。
風の向き。
敵が足を置いた位置。
装甲が動く順番。
胸部砲の充填時間。
「だから、普通にやらない」
アリアが黙る。
ヴォルフも、何も言わなかった。
遠ざかる古代兵器の背中で、灰白色の装甲板が静かに元の位置へ戻っていく。
伊織はその動きを最後まで見届けた。
勝てるとは、まだ言えない。
だが、勝ち筋はあった。
問題は、それを一度で通せるだけの準備と、全員の動きを一つにまとめられるかどうかだった。




