第106話 三つは選べない
食堂の扉が開いたとき、店内にいた者たちは誰も声を上げなかった。
伊織の右腕は力なく垂れ、外套の肩口には土と灰がこびりついていた。左側から身体を支えるアリアも、紫の髪を砂で汚し、頬には細い切り傷を作っている。クロの黒い毛には白い粉塵が積もり、その後ろを歩くヴォルフの剣は、刃こぼれこそしていないものの、中央付近が鈍く曇っていた。
敗れた者たちの姿だった。
リナは手にしていた皿を静かに置くと、何も尋ねず、食堂の奥にある長机を空けた。
「座って」
「先に地図を」
「座ってから」
「時間がない」
「腕が下がってる人が言っても、説得力がないよ」
伊織は自分の右腕を見た。
肩から先が、他人の身体のようだった。指は動く。感覚もある。だが、腕を持ち上げようとすると、肩の奥で熱を持った刃が回る。
「骨は折れていません」
アリアが先に言った。
「たぶん」
「その言葉を付けると、急に信用できなくなるね」
リナは伊織を椅子へ座らせ、戸棚から布と薬を取り出した。
店内には、避難してきた町の者たちが残っていた。老人、子ども、荷物を抱えた商人。皆、話しかけることもできず、こちらを見ている。
その視線に恐れが混じっていることを、伊織は分かっていた。
塔から現れた巨大な兵器。
丘を消した白い光。
戦いへ向かった者たちが、傷を負って戻ってきた。
安心させる言葉を求められている。
だが、勝てると断言するには、まだ材料が足りなかった。
「怪我人は」
伊織がヴォルフに尋ねる。
「兵士が二人。飛んだ石で腕と頭を切った。死者はいない」
「重傷者は」
「いない。お前が岩を崩したおかげだ」
「アリアの風だ」
「両方だろう」
ヴォルフは曇った剣を机へ置いた。
その音に、店内の視線が集まる。
「敵は塔へ戻った。追跡はさせていない」
「それでいい」
「だが、門の兵は怯えている。無理もない。剣が通らず、矢も魔法も弾かれた」
「戦わせるつもりはない」
伊織の言葉に、ヴォルフの目が細くなった。
「町の兵を使わずに、あれを止めると?」
「正面には立たせない」
「役に立たないと言っているように聞こえるぞ」
「役割が違う」
伊織は左手で水差しを取り、口をつけた。
冷たい水が喉を通る。
採石場の砂埃が、まだ口の中に残っていた。
「町の兵は避難路と封鎖線を維持する。敵を倒すための訓練は受けていない。無理に正面へ出せば、数が多い分だけ死ぬ」
「では、俺は?」
「前に出る」
ヴォルフの眉がわずかに上がる。
「扱いが違わないか」
「お前は止めても出る」
「よく分かっている」
「だから、使う」
ヴォルフは不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
リゼルとニコが食堂へ入ってきた。
ニコは抱えていた記録板を机へ置くと、採石場で取った記録を一枚ずつ広げていく。射撃時刻、敵の反応、装甲移動、光線発射までの間隔。遠方からの観測だったため、細部に不確かな部分はあるが、伊織の記憶と照合するには十分だった。
「初撃から反撃まで、十一秒」
ニコが言う。
「二度目は?」
「銃撃開始から、六秒です」
「短くなってる」
「こちらの武器を識別したためだと思います」
「胸の砲は」
「装甲が開いてから発射まで、九秒前後。ただし、光が強くなり始める前から内部で反応があったとアリアさんが」
アリアは伊織の肩へ治療の光を流しながらうなずいた。
「外見上の変化より先に、胸部へ魔力が集まっています。クロはさらに早く気づいていました」
床に伏せていたクロが顔を上げる。
「何秒だ」
クロは答えない。
「聞き方を変えます」
アリアがクロの前へしゃがみ込んだ。
「胸が開くより、どのくらい前に危険を感じましたか」
クロはしばらくアリアを見つめたあと、前脚で床を三度叩いた。
「三秒?」
クロが鼻を鳴らす。
「三呼吸でしょうか」
もう一度、床を三度叩く。
「おそらく、それに近いのでしょう」
伊織は机の上に広げられた紙へ視線を落とした。
敵の形を簡単な線で描く。
四脚。
両腕。
胸部砲。
各部を覆う可動装甲。
右前脚へ銃弾が入ったとき、一時的に動きが鈍った。
修復が始まったのは、その直後。
そして胸部砲を撃つ瞬間、修復は止まった。
「装甲が動いた時刻は」
ニコが記録を確認する。
「最初の一発の直後。右脚を覆いました。その次に肩、腰。東さんが攻撃箇所を変えるたび、二秒から三秒で移動しています」
「全部の装甲が動いたか」
「いいえ。動いたのは被弾箇所の周辺だけです」
「修復中は?」
「脚の装甲が固定されていました」
「胸部砲の充填中は」
「全身の装甲が止まっています」
伊織は三つの言葉を書いた。
防御。
修復。
攻撃。
それぞれを丸で囲み、線で結ぶ。
「これ、同じ力を使ってる」
リゼルが紙を覗き込む。
「魔力を?」
「魔力か、それを変換した何かだ。防御するときは装甲を動かす。傷を受ければ内部を修復する。撃つときは胸へ集める」
「それが何だというの?」
「同時にやっていない」
伊織は三つの丸の中央に、斜線を引いた。
「正確には、できないのか、しないのかは分からない。だが、今日の個体は必ず一つずつ選んだ」
ヴォルフが腕を組む。
「一つしか選べないなら、攻撃させている間に斬ればいい」
「胸部砲を撃たせて近づけるならな」
「アリアの風で逸らす」
「一度目は、射線に角度があったからできた。正面から受ければ、風ごと抜かれる」
アリアは否定しなかった。
「軌道へ干渉できたのは、光そのものではなく、周囲に形成された魔力の偏りだと思います。正面から受け止めることはできません」
「なら、撃つ方向を決めさせる」
ヴォルフが言う。
伊織は顔を上げた。
「どうやって」
「狙わせる者を一人に絞る」
「誰を囮にする」
「俺だ」
「却下だ」
「なぜだ」
「光線を避ける速さがない」
「試してもいない」
「試したあとで死んでいたら、次に使えない」
ヴォルフの目に怒気が浮かぶ。
だが、言い返す前に、アリアが机へ指を置いた。
「敵が攻撃する対象は、最も危険だと判断した者でしょうか」
「採石場ではそう見えた」
伊織は記憶を辿る。
最初に89式を撃ったあと、敵は伊織へ右腕を向けた。
次に丘の兵士へ左腕を向けたのは、包囲の一部と判断したからか。
胸部砲を撃ったのは、ヴォルフとアリアが脚の装甲を剥がし、伊織が内部を撃ち抜いた直後だった。
脅威の高い対象を排除する。
単純ではあるが、合理的だ。
「攻撃力だけではないかもしれません」
アリアが続ける。
「私が風で視界を遮ったとき、敵は私ではなくヴォルフを追いました。けれど、光線を逸らしたあとは、反応が私へ移っています」
「妨害能力も評価してる」
「ええ」
「なら、選ばせられる」
伊織は新しい紙を引き寄せた。
採石場の地形を描く。
入口。
左右の岩壁。
丘。
崩れた場所。
古代兵器が立っていた中央の窪地。
「敵は攻撃を受けると、攻撃元を分析する。危険度を付け、優先順位を決める」
「それを利用するの?」
「一番危険に見えるものを用意する」
「囮か」
ヴォルフが言う。
「人間じゃない」
伊織は左手を開いた。
黒い粒子が少しだけ集まり、手のひらの上で小型無人機の輪郭を作る。しかし完全には具現せず、すぐに粒子へ戻った。
「飛行機械ですか」
アリアが尋ねる。
「偵察用の小型機だ。武器も積める」
「それを囮に?」
「一機では足りない」
伊織は採石場の上空へ、三つの印を描いた。
「最初の一機で観測させる。二機目には攻撃させる。三機目は何もしない」
「何もしない機械を飛ばす意味は」
「敵がどれを選ぶかを見る」
リゼルが眉を寄せた。
「試験をするつもり?」
「向こうが俺たちにしたのと同じことをする」
食堂の奥で、子どもが泣き始めた。
母親が抱き寄せ、小さな声で宥めている。
伊織はそちらを見なかった。
見れば、焦る。
焦れば、必要な段階を飛ばす。
守るためには、急がなければならない。
だが、急ぐことと、考えずに動くことは違う。
「その機械は、どの程度動かせるのですか」
アリアが問う。
「距離で消耗が増える。視界を繋げば、さらに使う」
「三機同時は」
「長くは無理だ」
「今の肩では、銃も満足に扱えません」
「肩は使わない」
「魔力は使います」
「クロがいる」
伊織の言葉に、クロの耳が動いた。
鋼鉄の具現が成長していることは、すでに分かっていた。クロとの繋がりが強まるほど、伊織の魔力量は増し、維持に必要な負担も少しずつ下がっている。
だが、無制限ではない。
「足りなければ、私が補います」
アリアが言った。
「風で機体を支えるのか」
「それもできます。ですが、魔力そのものを渡す方法もあります」
伊織はアリアを見る。
「前にやったやつか」
「あなたが無理に重兵装を出そうとしたときです」
「倒れたな」
「ええ。ですから、今度は倒れる前に止めます」
「止まらなかったら」
「止めます」
声音は静かだった。
しかし、細い紫の瞳には、議論を許さない強さがあった。
「手を背中へ置く必要があります」
「戦場でか」
「あなたが動かなければ」
「難しい注文だ」
「では、動かなくて済む配置を考えてください。戦術を考えるのは得意なのでしょう」
伊織はわずかに息を吐いた。
アリアは冗談を言ったつもりではない。
それでも、少しだけ肩の力が抜けた。
「狙撃位置を作る」
「そこへ私も入ります」
「敵に見つかる」
「風で隠します」
「魔力を使いすぎる」
「配分を考えます」
以前なら、アリアは伊織の作戦に参加するため、剣を持って前へ出ようとしただろう。
今は違う。
何を斬るかではなく、どこに立ち、何を支え、どの瞬間に力を使うかを考えている。
伊織は採石場の西側に印を付けた。
「ここに観測位置を作る。岩壁の陰。敵の胸部と脚が見える高さ」
「風向きは」
アリアが尋ねる。
「今日と同じなら北西から南東」
「砂を使えます」
「最初の一機が接近したら、機体の周囲だけ風を切れ」
「音を消すのですね」
「完全には無理でいい。気づく時刻をずらしたい」
ニコが羽根ペンを走らせる。
ヴォルフが地図を指した。
「俺はどこだ」
「東側の岩陰」
「また脚を狙うのか」
「まだ斬るな」
「何をする」
「見せる」
伊織はヴォルフの位置から、敵の右側面へ線を引いた。
「剣を抜いて、近づく。敵が装甲を脚へ寄せる距離まで」
「斬らずに戻るのか」
「そうだ」
「つまらんな」
「次は斬れる」
「次?」
「装甲を脚へ寄せたら、上が薄くなる」
伊織は敵の肩と胸の間へ印を付ける。
「ドローンで上から攻撃する。敵は装甲を上へ戻す。その間に、ヴォルフが脚を開ける」
「前と同じでは?」
リゼルが聞く。
「前は偶然、脚を開けた。次はこっちが開けさせる」
「そのあと、また修復されるわ」
「だから修復を選ばせる」
伊織は三つの丸のうち、修復へ指を置いた。
「脚を傷つければ、修復する。その間は装甲が止まる」
「でも、胸の砲を撃たれたら」
「撃たせる」
店内の空気が止まった。
ヴォルフさえ、すぐには言葉を返さなかった。
「誰に」
アリアが静かに尋ねる。
「ドローンだ」
伊織は採石場の正面上空へ、最後の印を付けた。
「攻撃用の機体を胸部の正面へ置く。敵が一番危険だと判断する位置に。脚を修復しながら撃てないなら、どちらかを選ぶ」
「攻撃を選べば、脚の修復が止まる」
「修復を選べば、胸部砲は撃てない」
「どちらを選んでも」
「隙ができる」
伊織は紙の中央へ一本の線を引いた。
西の観測位置から、敵の胸部へ。
狙撃線。
「その瞬間に撃つ」
「何で?」
リゼルが問う。
伊織は答えず、黒い粒子を左手へ集めた。
長い銃身。
太い機関部。
大型の照準器。
具現しかけた対物狙撃銃は、机の上に輪郭だけを現し、すぐに消えた。
右肩では支えられない。
伏射でも、反動を受ければ傷が悪化する。
それでも一発なら撃てる。
「敵の中へ届く弾だ」
ヴォルフが対物狙撃銃の消えた場所を見る。
「一発で倒せるのか」
「倒せないかもしれない」
「なら、何のためだ」
「次に倒す場所を見つけるためだ」
誰もすぐには口を開かなかった。
今度の戦いも、勝つためではない。
さらに調べるための戦い。
敵は一度の接触でこちらの兵器を覚えた。
ならば、こちらも同じ速度で敵を理解しなければならない。
「もう一度、負けるつもり?」
リゼルの声には、責める響きがなかった。
確認だった。
「負ける準備はしない」
伊織は地図の外側へ、退避経路を二本描いた。
「ただし、倒せなくても全員戻す」
「それを負けと呼ぶ者もいるわ」
「呼ばせておけばいい」
伊織は食堂を見渡した。
避難してきた者たち。
不安を隠せない大人。
泣き疲れ、母親の胸で眠り始めた子ども。
厨房からは、温め直されたスープの匂いが漂っている。
戦場から戻れば、ここに食事がある。
それを守るために、勝ち方を選ぶ。
英雄に見える必要はない。
無傷で勝つ必要もない。
最後に、この場所が残ればいい。
「準備はいつまでに」
ニコが尋ねた。
「日暮れまでに観測位置を作る。採石場の住民を完全に退避。入口には誰も置くな」
「敵が先に動いた場合は」
「鐘を三回。全員、地下へ入らず西門から外へ避難する」
「食堂は」
リナが聞いた。
伊織は言葉に詰まった。
戦術上なら、町の中心部に近いこの建物は放棄すべきだった。
地下の導線も近い。
敵が狙う可能性がある。
「閉める」
ようやくそう言った。
「今日から?」
「ああ」
「料理は」
「避難所で作れる場所を探す」
リナは少しだけ考え、鍋の蓋を開けた。
湯気が立ち上る。
「なら、これを食べてからにして」
「時間が」
「空腹で考えた作戦なんて、ろくなものにならないよ」
誰かが小さく笑った。
ほんのわずかな音だった。
それでも、店内に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
リナは器へスープを注ぎ、伊織の前へ置いた。
右手が使えないことに気づき、木匙の向きを左側へ変える。
「食べたら、好きなだけ考えて」
伊織は左手で木匙を持った。
具材を掬い、口へ運ぶ。
温かかった。
敗北の味はしなかった。
机の上には、敵の図と作戦線が広がっている。
その中央には、防御、修復、攻撃の三つの丸。
敵は強い。
速い。
学習する。
それでも、何もかもを同時には選べない。
伊織はスープを飲み込み、もう一度、三つの丸を見た。
「選ばせるぞ」
独り言に近い声だった。
だが、アリアには聞こえていた。
「ええ」
彼女は伊織の背後へ立ち、治療の光を右肩へ流しながら、地図を見下ろした。
「こちらが望むものを」




