第107話 第四の選択
採石場へ戻ったとき、空はすでに夕方の色を帯びていた。
西へ傾いた光が切り立った岩壁へ差し込み、灰色の地面に長い影を落としている。崩落した岩と、白い光に削り取られた円筒状の穴は、そのまま残されていた。戦いの痕跡というより、世界の一部だけが不自然に抜き取られたように見える。
伊織は西側の岩棚に伏せ、照準器越しに採石場全体を見渡した。
右肩は厚く固定されている。
アリアの治療で痛みは抑えられていたが、動かせるわけではない。対物狙撃銃は地面へ置いた二脚だけでは支えきれず、岩の隙間に噛ませた木材と革帯で機関部を固定していた。
銃を持つのではない。
そこに置かれた銃へ、身体を合わせる。
銃床と右肩の間には、折り重ねた革と布を挟んである。それでも反動を受ければ、痛みだけでは済まないだろう。
「まだ間に合います」
背後でアリアが言った。
「何にだ」
「武器を変えることにです」
「これ以上、通りそうなものがない」
「魔力を集中した矢なら」
「敵が知らない攻撃は残しておく」
「私の矢は兵器ではありません」
「だからだ」
伊織は照準器から目を離さずに答えた。
敵は現代兵器を記録している。
銃弾。
爆発。
飛翔体。
その性質へ対応する構造を、塔の中で選び始めている。
アリアの魔法まで同じように理解されているかは分からない。今ここで最大出力を見せれば、次から対策される可能性があった。
「一発を隠すために、一発を無駄にするつもりですか」
「無駄にはしない」
「倒せなかったとしても?」
「今日の目的は中を見ることだ」
アリアは納得していなかった。
それでも、伊織の右後方に膝をついた。岩棚の陰から身を出さず、左手を伊織の背中へ添える。
薄い布越しに、掌の熱が伝わった。
「流します」
「まだいい」
「呼吸が乱れています」
「銃が重い」
「嘘ですね」
「半分は本当だ」
「残りの半分は?」
「手が温かい」
アリアの指先が一瞬止まった。
「……緊張感が足りません」
「あるから言ってる」
「意味が分かりません」
掌から流れ込む魔力が、少しだけ強くなった。
怒ったのか、誤魔化したのかは分からない。
ただ、背中へ伝わる力は安定していた。
岩棚の下では、ヴォルフが東側の岩陰に入っている。姿は見えない。刃が夕日を反射しないよう、剣には泥が薄く塗られていた。
クロは採石場の南側。
敵の正面から外れ、風上に伏せている。
ニコとリゼルは、さらに離れた丘の裏だ。直接戦闘には加わらない。敵の動きと魔力変化を記録し、異常があれば信号旗を上げる。
町の兵士はいない。
入口も空けてある。
逃げ道は、敵のためではなかった。
自分たちが生きて戻るためだ。
「一号機、出す」
伊織は左手を地面へ置いた。
黒い粒子が静かに集まり、小型無人機の輪郭を作る。四本の回転翼を持つ偵察機。光学装置と簡単な測定機能だけを積んだ、軽量の機体だった。
具現が完了すると同時に、回転翼が動き始める。
だが、音は小さい。
アリアが細い風の筒を機体の周囲に作り、羽音を上空へ逃がしている。
「風、安定」
「一号機、前進」
無人機が岩棚を越えた。
低空。
採石場の地面すれすれを飛び、崩れた岩の陰を渡っていく。
伊織は視界の端へ映像を繋いだ。
岩。
砂。
白い光に焼かれた地面。
塔の方向。
まだ敵はいない。
二十秒。
三十秒。
クロが顔を上げた。
耳が塔の方角へ向く。
伊織は声を出さず、左手を握った。
全員が警戒態勢へ移る。
やがて、地面に微かな振動が走った。
採石場の入口から、灰白色の巨体が姿を現す。
四本の脚。
長い両腕。
平らな頭部に二つの赤い光。
外見は先ほどの個体と同じだった。
右前脚にあった傷は消えている。
修復されたのではない。
脚そのものが交換されていた。
「新しい個体でしょうか」
アリアが囁く。
「違う」
「なぜ分かるのです」
「左肩にヴォルフの剣跡がある」
わずかな曇り。
泥を落とす前の刃が残した、斜めの線。
同じ個体だ。
だが、一部を造り直されている。
敵は採石場の中央まで進むと、動きを止めた。
赤い光が周囲を走る。
岩壁。
地面。
崩落跡。
西側の岩棚。
伊織たちの位置で、一瞬止まった。
「見つかったか」
「風の膜には触れていません」
「熱かもしれない」
「魔力かもしれません」
「どちらでも同じだ」
隠密は失敗した。
だが、作戦を中止する理由にはならない。
「一号機、上げる」
偵察機が岩陰から飛び出した。
古代兵器の頭上へ向かって上昇する。
敵の赤い光が追う。
まだ攻撃しない。
観察している。
「二号機」
伊織はもう一機を具現した。
今度は機体下部に小さな投射装置を備えた攻撃型。搭載した弾体は、装甲を貫くためのものではない。衝撃と熱を与え、敵に危険と判断させるためのものだった。
「風を」
「支えます」
アリアの掌から流れ込む魔力が増す。
二機同時の遠隔操作。
視界接続。
装備の維持。
頭の奥に鈍い圧力が掛かる。
それでも、以前ほど重くない。
クロとの繋がりが、伊織の中にある器を確実に広げている。
二号機が東側から回り込む。
敵の死角へ入った瞬間、投射。
小型弾が古代兵器の左肩へ命中した。
爆発。
炎と煙が装甲を覆う。
損傷はない。
だが、装甲板が動いた。
「上へ寄った」
伊織が言う。
同時に、ヴォルフが岩陰から飛び出した。
低く身を沈め、右側面から脚へ接近する。
古代兵器は二号機を見上げたまま、右腕だけをヴォルフへ向ける。
五本の指先が開く。
「まだだ」
ヴォルフは止まらない。
距離、三十メートル。
二十五。
二十。
脚部の装甲が動き始めた。
肩へ寄っていた板が下へ戻る。
「今だ。二号機、もう一発」
二発目が背中へ命中。
爆発。
敵の装甲が迷うように止まった。
上か。
下か。
防御対象を選び直している。
「ヴォルフ、離れろ!」
ヴォルフが地面を蹴り、岩陰へ飛び込む。
その直後、指先の光線が地面を横切った。
斜めに走った白い線が、岩の端を消し飛ばす。
ヴォルフは生きている。
予定どおりだ。
「三号機」
三機目が具現する。
武装はない。
光学装置も最低限。
ただ飛ぶだけの機体だ。
正面。
古代兵器の胸部より少し高い位置へ上昇する。
敵の赤い光が三号機へ向いた。
一号機は頭上で観測。
二号機は背後から攻撃。
三号機は正面に滞空。
どれを選ぶ。
「二号機を再び攻撃させます」
アリアが言った。
「まだだ」
「危険度を上げなければ、三号機は選ばれません」
「選ばせる」
伊織は三号機の高度を下げた。
胸部の真正面。
古代兵器が主砲を開けば、砲口を塞ぐ位置。
攻撃能力はなくても、敵にとっては邪魔になる。
赤い光が強くなった。
胸部の装甲が開き始める。
「選んだ」
クロが吠えた。
アリアの掌から、一気に魔力が流れ込む。
敵の胸部へ白い光が集まっていく。
全身の装甲が停止した。
「ヴォルフ!」
東側から影が飛び出す。
ヴォルフの剣が、装甲の止まった右前脚へ叩き込まれた。
一撃。
正面。
前に傷を負わせた場所。
刃が継ぎ目へ食い込む。
アリアが右手を上げた。
採石場を横切る風が、ヴォルフの背中から剣先へ集中する。
押す。
斬るためではない。
装甲板を剥がすための力。
「おおっ!」
ヴォルフが叫び、剣を捻った。
装甲が外れる。
内部の赤い光が露出した。
古代兵器の身体が傾く。
胸部砲の充填が止まる。
「修復へ移ります!」
アリアが叫ぶ。
敵の脚から細い金属片が伸び始める。
計算どおり。
攻撃を捨てた。
修復を選んだ。
「二号機、正面へ」
攻撃型無人機を胸部へ突っ込ませる。
古代兵器は修復を続けている。
装甲は動かない。
二号機が胸部装甲へ接近。
投射。
爆発。
白煙が上がる。
胸部装甲の一部が歪んだ。
「攻撃へ戻ります」
「戻させる」
三号機を砲口へ重ねる。
敵は選ばなければならない。
修復。
攻撃。
どちらか。
胸部の円環が再び回り始めた。
「今だ」
伊織は照準器へ目を押し当てた。
照準線の先。
肩と胸部の間。
装甲が止まり、内部へ続くわずかな隙間。
呼吸を止める。
背中のアリアの手。
クロの吠え声。
ヴォルフが退く姿。
すべてが、一つの瞬間へ集まる。
引き金を絞った。
轟音。
固定した銃が後方へ跳ねる。
革と布を挟んでも、反動は右肩へ深く食い込んだ。
視界が揺れる。
痛みを感じるより早く、弾丸は古代兵器の装甲を貫いた。
灰白色の板が内側へ砕ける。
その奥で、赤い光が弾けた。
古代兵器の上半身が大きく傾く。
右腕が垂れ下がる。
胸部の円環が止まった。
「通った!」
ヴォルフの声が響く。
伊織は照準器から目を離さなかった。
内部が見える。
砕けた装甲の奥。
赤く脈動する円柱。
周囲を走る白い導線。
中心部へ集まる無数の細い管。
核に見えた。
「一号機、接近」
観測用無人機を損傷箇所へ近づける。
映像を拡大。
円柱。
導線。
その背後。
一本だけ、他より太い白い線がある。
古代兵器の背中から外へ伸び、採石場の地面へ沈んでいた。
「何だ、あれは」
地上にあったはずのない線。
塔からここまで延びている。
敵の身体と、第一観測所を繋ぐ導線。
伊織が気づいた瞬間、古代兵器が動いた。
防御ではない。
修復でもない。
攻撃でもない。
四本の脚を地面へ深く突き刺す。
背中の装甲が開く。
太い導線が白く輝いた。
「魔力が外から流れ込んでいます!」
アリアの声が震える。
胸部の損傷が、内側から一気に塞がり始めた。
砕けた装甲が戻るのではない。
新しい部品が、身体の内部から押し出されてくる。
右腕が持ち上がる。
停止していた円環が再起動する。
三つの選択ではない。
敵自身の力を使わず、塔からすべてを補っている。
「三号機を退避!」
間に合わない。
古代兵器の頭部が上を向く。
赤い光が細く走った。
一号機が消える。
続いて二号機。
三号機。
三つの映像が同時に途切れた。
伊織の視界に、白い残像だけが残る。
「東さん!」
アリアが伊織の身体を岩陰へ引いた。
光線が岩棚を貫く。
固定していた対物狙撃銃が、岩ごと消えた。
熱はない。
爆風もない。
ただ、存在していた場所がなくなった。
伊織は左手で地面を掴んだ。
右腕は完全に動かない。
視界接続を三つ同時に切られた反動で、頭の内側が揺れている。
「撤退信号!」
丘の向こうで、ニコの旗が上がった。
赤。
二度。
想定外の能力。
即時撤退。
「ヴォルフ、戻れ!」
古代兵器の胸部へ、白い光が集まっていく。
充填が早い。
先ほどまでの半分以下。
塔から直接力を受けている。
ヴォルフは岩陰から走り出した。
だが、敵は彼を狙っていない。
頭部が西側の岩棚へ向く。
伊織とアリア。
最大の脅威と判断した二人へ。
「私が逸らします」
「無理だ」
「この距離なら」
「威力が違う」
「では、どうするのです!」
伊織は採石場の地面を見た。
古代兵器の背中から伸びる白い導線。
地中へ沈む位置。
その先は塔へ繋がっている。
敵は強くなったのではない。
補給を受けている。
「線を切る」
「今からですか」
「違う。今日は帰る」
伊織は左手を開いた。
黒い粒子が集まり、円筒形の物体を作る。
煙幕弾。
発射器を構える必要はない。
地面へ転がす。
同時に、アリアが風を円状に回した。
煙が一気に広がり、岩棚全体を覆う。
古代兵器の胸部から光が放たれた。
「右へ!」
アリアの風が二人の身体を押す。
伊織は岩棚の斜面を転がり落ちた。
背後で白い光が煙を貫く。
岩棚の上半分が消える。
残された岩が崩れ、地面へ降り注いだ。
アリアが伊織の外套を掴み、横穴へ引き込む。
クロも飛び込んでくる。
数秒後、ヴォルフが土煙の中から姿を現した。
「全員いるか!」
「いる」
「銃は」
「捨てた」
「敵は」
伊織は岩の隙間から採石場を見た。
古代兵器は追ってこない。
採石場の中央に立ち、こちらが逃げる様子を観測している。
背中の導線は、まだ白く輝いていた。
『戦術行動を記録』
声が頭へ響く。
『遠隔兵装への対策を完了』
伊織は何も答えなかった。
『高質量運動体への対策を開始』
対物狙撃銃も覚えられた。
次に同じ場所へ撃っても、通らないかもしれない。
それでも、必要なものは見た。
「戻るぞ」
伊織は立ち上がろうとした。
右腕が動かず、身体が傾く。
アリアが左側から支える。
「また数えましょうか」
「今日は一回だ」
「まだ一回目です」
「なら、次は立つ」
「そういう問題ではありません」
声は厳しかったが、伊織の身体を支える腕は震えていた。
恐怖が残っている。
怒りもある。
それでも、彼女は前を向いていた。
ヴォルフが採石場を振り返る。
「失敗か」
「作戦は通った」
「倒せなかったぞ」
「中は見えた」
「代わりに、こちらの手も読まれた」
「ああ」
「次はどうする」
伊織は敵の背中から地中へ伸びる、白い線を見た。
兵器は強い。
装甲も、修復能力も、火力も脅威だった。
だが、それらを動かす力は、兵器だけのものではない。
塔。
地下導線。
中継施設。
すべてが一つの構造として繋がっている。
敵を一体ずつ壊す必要はなかった。
「撃つ場所を間違えてた」
ヴォルフが眉を寄せる。
「何を狙う」
伊織は採石場ではなく、遠くにそびえる鋼鉄の塔を見た。
白い輪は、夕焼けの中でも冷たい光を放ち続けている。
「兵器じゃない」
地面の下では、まだ規則的な打撃音が続いていた。
次の個体を造る音。
対策構造を組み込む音。
こちらの敗北を材料にする音。
「兵器を強くしている線を切る」




