第8話 使者
黒い外套の女は、受付の前に立っていた。
背筋がまっすぐ伸びている。
声は丁寧。
所作に無駄がない。
年齢は三十代前半ほど。黒髪を後ろで束ね、顔立ちは整っているが、表情に温度がない。
事務的な美しさ。
伊織は、そう思った。
女の外套には、小さな紋章が縫い取られていた。
歯車と塔。
見たことはない。
だが、その紋章を見た瞬間、ギルドの空気が変わった。
何人かのハンターが視線を逸らした。
受付のエルナは、笑顔を消した。
奥のテーブルで酒を飲んでいた男が、静かに席を立った。
歓迎される組織ではないらしい。
「アリア=シルヴェイン様はいらっしゃいますか」
女はもう一度言った。
声は落ち着いている。
落ち着きすぎていた。
エルナが慎重に答える。
「アリア様は、本日は体調不良でお休みです」
「存じています」
女は即答した。
伊織は目を細めた。
今、何と言った。
存じています。
つまり、アリアが体調を崩していることを知っている。
誰から聞いた。
いつ知った。
なぜ、それを知っていてここに来た。
女は銀色の封蝋が押された書状を、カウンターに置いた。
「シルヴェイン卿より、至急の書状をお預かりしています。直接お渡ししたいのですが」
「申し訳ありません。ご本人の許可なしに、お部屋へご案内することはできません」
「それはギルドの規定ですか」
「はい」
「承知しました。では、お取次ぎを」
女は、無理に押し通そうとはしなかった。
だが、退く気もない。
伊織はそのやり取りを見ていた。
丁寧な言葉。
正しい手順。
乱れない表情。
だが、相手の事情を尊重しているわけではない。
目的のために、礼儀という道具を使っているだけだ。
そういう人間を、伊織は何人も見てきた。
上官。
官僚。
交渉役。
命令を紙の上で処理する人間。
南条を見捨てる命令を出した連中も、たぶん同じ顔をしていた。
「アリアには会わせない」
伊織は言った。
声は大きくなかった。
だが、ギルド内の空気がさらに静かになった。
女の視線が、伊織へ向いた。
「あなたは」
「東伊織」
「……ああ」
女の目がわずかに動いた。
知っている目だった。
名を聞いて驚いたのではない。
確認しただけだ。
「あなたが、東伊織様ですか」
「様はいらない」
「では、東伊織さん」
女は丁寧に頭を下げた。
「エルザ=ヴァイスと申します。オルドレイン技術保存機構に所属しております」
「用件はアリアか」
「はい。そして、あなたにも」
伊織は黙った。
エルナが不安そうにこちらを見る。
ギルドの奥から、ガルドが歩いてきた。
「朝から物騒な名前が聞こえたな」
ガルドの声は低かった。
エルザは振り向く。
「ガルド様。お久しぶりです」
「俺はお前を知らん」
「こちらは存じ上げております。元傭兵ガルド・ライエン。現在はダストヘイブン周辺の依頼を多く請け負う上位ハンター」
「気持ち悪い女だな」
「情報管理は機構の基本業務です」
「人の名前を勝手に並べるのが仕事か」
「必要であれば」
ガルドの眉が動いた。
伊織はエルザを見ていた。
必要であれば。
その言い方に、温度はなかった。
人の事情も、傷も、過去も、情報として並べられる。
この女にとって、アリアもそうなのだろう。
娘。
研究者。
魔力感知能力者。
シルヴェイン卿の管理対象。
伊織は右手を握った。
まだ冷たい。
鋼鉄の具現を使った後の違和感は消えていない。
エルザの視線が、そこへ落ちた。
一瞬。
ほんの一瞬。
だが、伊織は見逃さなかった。
「俺の右手が気になるか」
「はい」
エルザは隠さなかった。
ギルドの空気が変わる。
「正直だな」
「曖昧にする意味がありませんので」
「何を知っている」
「廃坑にて、ヴァルムドラッヘが討伐されました。通常兵器、魔法、既知の古代遺物のいずれにも該当しない攻撃によって、喉部を消失。目撃者の証言では、黒い金属状の物体があなたの右手に出現したとのこと」
エルザは淡々と言った。
まるで帳簿を読むように。
「機構は、その現象に強い関心を持っています」
伊織は何も言わなかった。
ガルドが舌打ちした。
「もう嗅ぎつけたのか」
「嗅ぎつけたのではありません。観測しました」
「観測?」
アリアの声がした。
全員が振り向いた。
階段の上に、アリアが立っていた。
右腕に包帯。
顔色はまだ白い。
それでも背筋は伸びていた。
クロがその横にいた。
黒い犬は、アリアの足元で低く唸っている。
「アリア」
伊織が言う。
「休んでろと言った」
「あなたが静かにしていれば、休んでいました」
「俺のせいか」
「半分は」
アリアは階段を降りてくる。
足取りは少し硬い。
伊織は一歩動こうとした。
だが、アリアが視線だけで止めた。
手を貸すな、という目だった。
伊織は止まった。
アリアはゆっくりとギルドの床へ降り立つ。
クロがその横に並んだ。
エルザは丁寧に頭を下げた。
「アリア様。お加減が優れないところ、失礼いたします」
「本当にそう思っているなら、今日は来ないはずです」
「至急の件ですので」
「父の指示ですか」
「はい」
エルザは書状を差し出した。
「シルヴェイン卿より、帰還命令です」
帰還命令。
その言葉に、アリアの目が冷えた。
「命令?」
「はい」
「私は機構を離れた身です。命令を受ける立場ではありません」
「シルヴェイン卿は、あなたの一時的な離脱を正式な脱退とは認めておられません」
「父が認めていないだけでしょう」
「機構としても、あなたの能力は重要です」
「私は能力ではありません」
アリアの声が、低くなった。
伊織は少しだけ目を細めた。
エルザの表情は変わらない。
「もちろんです。ですが、あなたの魔力感知能力は、現在進行中の研究に不可欠です」
「研究」
「はい」
「異界干渉に関する研究ですか」
エルザは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
アリアの顔から、さらに血の気が引いた。
「……やはり、父は続けているんですね」
「シルヴェイン卿は、必要な研究を継続されています」
「必要かどうかは、誰が決めるのですか」
「機構です」
「つまり、父ですね」
沈黙。
エルザは一拍置いて言った。
「シルヴェイン卿は、あなたを案じておられます」
アリアは笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、静かに言った。
「父はいつもそうです」
「はい?」
「心配しているなら、危険だと言う。会いたいなら、帰還命令と書く。私の意志を聞く前に、私の役割を決める」
アリアは書状を見た。
受け取らなかった。
「私は帰りません」
「アリア様」
「帰りません」
二度目は、はっきりしていた。
エルザは少しだけ目を伏せた。
残念そうな仕草だった。
だが、残念に思っているようには見えなかった。
「その判断は、東伊織さんの影響ですか」
空気が止まった。
クロが低く唸った。
伊織はエルザを見た。
アリアの表情が硬くなる。
「どういう意味ですか」
「あなたはこれまで、単独行動を基本としていました。機構との距離は置いていましたが、完全に断絶する意志は示していなかった。しかし、東伊織さんと行動を共にして以降、判断に変化が見られます」
「私を観測していたのですか」
「安全確認です」
「監視の間違いでしょう」
「言葉の選び方の違いです」
「違います」
アリアの声が震えた。
怒りで。
伊織は一歩、前に出た。
「その辺にしておけ」
エルザが伊織を見た。
「あなたには関係のない話です」
「今はある」
「なぜですか」
「アリアが嫌がっている」
「個人感情で、機構の判断を妨げるのですか」
「ああ」
即答だった。
エルザの目が、初めてわずかに揺れた。
伊織は続けた。
「機構が何かは知らない。シルヴェイン卿が何者かも知らない。だが、本人が嫌だと言っている。なら、それで終わりだ」
「あなたは、この世界の事情をご存じない」
「知らない」
「ならば、口を挟むべきではありません」
「知らなくても分かることはある」
「何が分かると?」
伊織はアリアを見た。
アリアは唇を結んでいる。
体調は悪い。
足も痛むはずだ。
頭痛も完全には引いていないだろう。
それでも、ここに立っている。
自分の意志で。
「人を物みたいに扱うな」
伊織は言った。
ギルド内が静まり返った。
エルザはしばらく伊織を見ていた。
「……興味深いですね」
「何が」
「あなたは、任務や命令に従う側の人間に見えます。ですが、命令という形式に強い拒否反応を示す」
伊織の背中に、冷たいものが走った。
「調べたのか」
「いいえ。推測です」
「よく喋る推測だな」
「あなたの目を見れば分かります」
エルザは淡々と言った。
「命令で何かを失った人間の目をしている」
伊織の右手が冷えた。
同時に、奥で黒いものが動いた。
クロが強く唸る。
アリアが伊織を見た。
「東さん」
その声で、伊織は戻った。
右手を開く。
何もない。
まだ何も出ていない。
だが、指先に黒い粒子が滲みかけていた。
エルザはそれを見ていた。
観察していた。
恐怖ではない。
興味だった。
「やはり、反応する」
「何をした」
伊織の声が低くなる。
「何も。刺激を与えただけです」
「人の傷を刺激と呼ぶのか」
「必要な確認です」
ガルドが前に出た。
「もういい。ここはギルドだ。揉め事なら外でやれ」
「揉めるつもりはありません」
「十分揉めてる」
エルナもカウンターの奥で硬い顔をしている。
数人のハンターが、いつでも動ける位置に立っていた。
エルザは周囲を見た。
そして、判断したように書状を持ち直した。
「本日は、書状をお渡しすることが目的です」
「受け取りません」
アリアが言った。
「一読だけでも」
「受け取りません」
「シルヴェイン卿のご意向です」
「私の意向は、今伝えました」
アリアはまっすぐエルザを見た。
声は少し弱い。
だが、折れていない。
「帰ってください」
エルザは沈黙した。
それから、静かに頭を下げた。
「承知しました」
あまりにもあっさりしていた。
伊織は違和感を覚えた。
引き際が早い。
目的は本当に書状だったのか。
いや。
今、この女は見た。
伊織の右手の反応を。
アリアの状態を。
二人の距離を。
クロの警戒を。
ギルドの反応を。
十分に情報を得た。
だから引くのだ。
「アリア様」
エルザは最後に言った。
「シルヴェイン卿は、あなたを見捨てません」
「それは、救いではありません」
アリアは答えた。
「私には、脅しに聞こえます」
エルザは表情を変えなかった。
「残念です」
そう言って、外套を翻した。
ギルドの扉へ向かう。
その途中、伊織の前で一度だけ足を止めた。
「東伊織さん」
「何だ」
「あなたの力は、危険です」
「知っている」
「いいえ。あなたはまだ知りません」
エルザは、静かな声で言った。
「それが何を呼ぶのかを」
伊織は返事をしなかった。
エルザは扉を開け、外へ出た。
黒い外套が、朝の光の中に消える。
しばらく、誰も何も言わなかった。
◆
最初に動いたのは、クロだった。
アリアの足元に行き、彼女の手に鼻先を押しつける。
アリアは、ようやく息を吐いた。
それまで息を止めていたようだった。
「座れ」
伊織が言った。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「……今は、あなたに言われても反論できませんね」
アリアは近くの椅子に腰を下ろした。
顔色が悪い。
エルナが水を持ってくる。
「アリア様」
「ありがとうございます」
アリアは水を受け取り、一口飲んだ。
手が少し震えていた。
伊織はそれを見た。
自分の右手も、まだ冷たい。
ガルドが低い声で言った。
「厄介なのが来たな」
「あれがオルドレインか」
伊織が聞く。
「末端ではない。少なくとも、ただの伝令じゃない」
「だろうな」
アリアが口を開いた。
「エルザ=ヴァイス。父の補佐官です。機構の調整役で、研究部署と外部組織の連絡を担当しています」
「つまり、父親の側近か」
「はい」
「嫌な女だな」
ガルドが言った。
アリアは目を伏せた。
「優秀な人です」
「褒めるのか」
「事実です。優秀で、正確で、間違えません」
アリアは杯を見つめた。
「だから、苦手です」
伊織は黙って聞いていた。
アリアは続けた。
「父と同じです。正しいことを、正しい手順で、正しい言葉で伝える。でも、そこに私がどう感じるかは入っていない」
「アリア」
エルナが心配そうに呼ぶ。
アリアは首を振った。
「大丈夫です」
またその言葉だ。
伊織は言った。
「今日はもう部屋に戻れ」
「嫌です」
「なぜ」
「戻ったら、考えてしまいます」
「ここにいても考えるだろ」
「一人で考えるよりはましです」
伊織は返事に詰まった。
アリアはそれを見て、小さく笑った。
「勝ちました」
「何に」
「分かりません。でも、勝った気がします」
ガルドが少し笑った。
エルナも表情を緩める。
空気が、ほんの少しだけ戻った。
クロはアリアの足元に座ったままだった。
伊織はその様子を見て、少しだけ息を吐いた。
◆
その日の午後、アリアはやはり部屋に戻された。
本人は不満そうだったが、エルナとガルドと伊織とクロに囲まれると、最後は諦めた。
「また四対一です」
「勝てる相手を選べと言った」
「覚えています。腹立たしいことに」
アリアは階段を上がる。
途中で一度、振り返った。
「東さん」
「何だ」
「さっきは……ありがとうございました」
「何もしていない」
「言ってくれました」
「何を」
「人を物みたいに扱うな、と」
伊織は黙った。
言った。
確かに言った。
考えて言ったわけではなかった。
ただ、出た。
「事実だ」
「それでも、嬉しかったです」
アリアは視線を少し逸らした。
「……少しだけ」
「そうか」
「はい」
クロが階段を上がり、アリアの隣に立った。
「クロはどうする」
伊織が聞く。
クロはアリアの部屋の方を見た。
答えは明白だった。
「また見張りか」
クロは鼻を鳴らした。
アリアが少し笑った。
「優秀な見張りですね」
「頑固でもある」
「誰かに似ています」
「言うな」
「言っていません」
アリアは部屋へ戻った。
クロも中に入る。
扉が閉まった。
伊織は階段の下にしばらく立っていた。
右手が、まだ冷たい。
エルザの言葉が耳に残っている。
あなたの力は、危険です。
あなたはまだ知りません。
それが何を呼ぶのかを。
伊織は右手を開いた。
黒い粒子は出ない。
だが、奥に沈んだ鋼鉄は、確かにそこにある。
ガルドが後ろから言った。
「東」
「ああ」
「あの女、また来るぞ」
「分かってる」
「次は書状だけじゃ済まないかもしれない」
「だろうな」
ガルドは少し黙った。
「アリアを守るつもりか」
伊織は階段を見上げた。
扉の向こうに、アリアとクロがいる。
数日前まで、知らない女と、路地で拾った犬だった。
今は違う。
どう違うのか、言葉にはできない。
だが、違う。
「守ると決めるほど、偉くはない」
伊織は言った。
「でも、見てしまった」
ガルドが短く笑った。
「お前らしいな」
「そうか」
「ああ。面倒な男だ」
「よく言われる」
伊織は右手を握った。
その冷たさが、少しだけ増した気がした。
◆
夜。
アリアの部屋。
机の上には、読まれなかった書状が置かれていた。
正確には、受け取らなかったはずの書状だった。
だが、部屋に戻ると、机の上に置かれていた。
銀色の封蝋。
歯車と塔の紋章。
その下に、小さく、父の署名。
エルザのやり方だ。
受け取らせた事実を作る。
拒否しても、そこに置く。
逃げ道を、静かに塞ぐ。
アリアは椅子に座り、書状を見ていた。
クロが足元にいる。
黒い犬は、封筒を見て低く唸った。
「分かりますか」
アリアは小さく言った。
「これは、あまり良いものではありません」
クロは動かない。
アリアは封筒に触れた。
指先が震えていた。
父の筆跡だ。
開けなくても分かる。
幼い頃から、何度も見てきた文字。
感情の少ない、整った筆跡。
真実を見つける者が、歴史を作る。
父はそう言った。
あの頃の父は、まだ父だった。
いつから、シルヴェイン卿になったのだろう。
アリアは封筒を開けた。
短い手紙だった。
父の手紙は、いつも短い。
必要なことだけを書く。
感情は書かない。
アリアへ。
機構はお前の帰還を求める。
現在、異界干渉に関わる重大な変動が確認されている。
東伊織という人間の近くにいることは、お前にとって危険だ。
速やかに距離を置き、帰還せよ。
これは父としてではなく、機構責任者としての判断である。
アルド=シルヴェイン。
アリアは手紙を折り畳んだ。
しばらく、何も言わなかった。
クロが彼女の膝に鼻先を押しつけた。
「……父としてではなく、ですって」
アリアは笑おうとした。
笑えなかった。
「知っています。そんなこと」
声が、小さく震えた。
「ずっと前から、知っています」
窓の外には、二つの月が出ていた。
廊下の向こうに、伊織の部屋の灯りが見える。
まだ起きているのだろう。
アリアは手紙を見た。
距離を置け。
父の言葉。
危険だ。
機構の判断。
だが、今日ギルドで、伊織は言った。
人を物みたいに扱うな。
アリアは目を閉じた。
その言葉だけが、胸の奥に残っていた。
「……距離を置く気には、なれません」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
父へか。
機構へか。
伊織へか。
自分自身へか。
クロが静かに鳴いた。
アリアは手紙を机の引き出しにしまった。
捨てなかった。
捨てられなかった。
それが、父への感情の正直な形だった。
窓の外で、風が砂を運んでいる。
鉄の匂いが、わずかに混じっていた。




