第7話 頭痛
扉を開けた。
部屋の中は暗かった。
窓から入る月明かりだけが、床を青白く照らしている。倒れた椅子。床に落ちた魔道書。水差しが横倒しになり、薄く水が広がっていた。
アリアは、ベッドの脇で膝をついていた。
右手でこめかみを押さえている。
呼吸が浅い。
銀髪が頬に張りつき、額には汗が浮かんでいた。
「アリア」
伊織が声をかける。
アリアは顔を上げようとした。
だが、途中で小さく呻いた。
「……入って、いいとは言っていません」
「そういう状態か」
「礼儀の問題です」
「後で謝る」
「今、謝ってください」
「すまない」
「……早いですね」
「急いでる」
伊織は部屋に入り、倒れた椅子を避けて近づいた。
クロが先にアリアのそばへ行く。
低く鳴き、彼女の手に鼻先を押しつけた。
「クロ……大丈夫です」
大丈夫ではない声だった。
伊織はしゃがみ込む。
「何が起きた」
「……頭痛です」
「いつから」
「少し前から。正確には、あなたの部屋から……妙な反応が来た直後です」
伊織は右手を見た。
黒い粒子はもうない。
だが、骨の奥に沈んだ冷たさは残っている。
「俺が試した」
「何を」
「鋼鉄の具現を、少しだけ」
アリアの目が細くなった。
怒りではない。
痛みをこらえながら、理解しようとしている目だった。
「試さないでくださいと、言いました」
「ああ」
「言いましたよね」
「ああ」
「聞いていましたか」
「聞いていた」
「では、なぜ」
伊織は答えなかった。
答えは単純だった。
分からないものを、分からないままにしておけなかった。
出せるのか。
次も使えるのか。
どれだけ危険なのか。
それを確かめたかった。
だが、その結果がこれだ。
アリアは頭痛で膝をついている。
伊織は右手を握った。
「悪かった」
アリアは少しだけ目を伏せた。
「……謝られると、怒りにくいです」
「怒っていい」
「怒っています」
「そうか」
「はい」
アリアはそう言ったが、声に力がなかった。
伊織は床に落ちていた水差しを起こした。
水は半分ほど残っている。
「飲めるか」
「少しなら」
伊織は棚にあった杯に水を注ぎ、アリアに渡した。
アリアは両手で受け取った。
指先が震えている。
伊織はその震えを見た。
胸の奥が、鈍く沈んだ。
ヴァルムドラッヘの炎を前にした時とは違う。
敵がいるわけではない。
攻撃を受けているわけでもない。
それなのに、嫌な感じがした。
自分の力が、仲間を傷つけるかもしれない。
そう思った。
その事実が、思った以上に重かった。
◆
しばらくして、アリアの呼吸は少し落ち着いた。
ベッドに座らせ、クロを足元に置く。
クロは動かなかった。
まるで見張りのように、アリアの横に伏せている。
伊織は椅子を起こし、少し離れて座った。
「離れなくていいです」
アリアが言った。
「近いと悪化するかもしれない」
「分かりません」
「だから離れた」
「勝手に判断しないでください」
アリアの声が少し強くなった。
伊織は黙った。
アリアは額に手を当てたまま、息を整えている。
「今の反応は、痛みだけではありませんでした」
「どういう意味だ」
「あなたの右手から、黒い波のようなものが出たんです」
「見えたのか」
「見えた、というより……感じました。魔力感知に直接、異物が入り込んできたような感覚です」
アリアは言葉を選ぶように、ゆっくり話した。
「普通の魔力反応ではありません。火、水、風、土、光。そのどれにも分類できない。古代遺物の反応にも似ていますが、もっと個人的で、もっと生々しい」
「生々しい?」
「あなたの記憶に触れたような感じです」
伊織の目が、わずかに動いた。
アリアはそれを見逃さなかった。
「……何か、見えました」
「何を」
「はっきりとは分かりません。砂ではない場所。雨。人工物の匂い。鉄。血。誰かの声」
伊織の背中が冷えた。
雨の夜。
廃工場。
南条。
「そこまで見えたのか」
「断片だけです。でも、あなたにとって重要な記憶だということは分かりました」
「見るな」
声が、思ったより低く出た。
アリアは黙った。
クロが顔を上げた。
伊織は自分の声に気づき、息を吐いた。
「……すまない」
「いえ」
アリアは静かに言った。
「今のは、私が踏み込みすぎました」
「お前のせいじゃない」
「でも、あなたが触れられたくない場所でした」
「……ああ」
沈黙が落ちた。
月明かりが床に伸びている。
水差しからこぼれた水が、青白く光っていた。
「それが、南条さんですか」
アリアが言った。
伊織は答えなかった。
答えなくても、たぶん分かっている。
「以前あなたは言いました。昔の相棒、と」
「ああ」
「その人の記憶なんですね」
「たぶん、お前が見たのはそうだ」
「……大切な人だったんですね」
伊織は右手を見た。
右手ではなく、左手を見るべきだったかもしれない。
左手の傷。
南条が一度だけ見て、何も聞かなかった傷。
「あいつは、余計なお世話をする男だった」
伊織は言った。
「俺が倒れそうな時に、勝手に横へ来た。聞かれたくないことは聞かない。だが、見ていないふりもしない」
「優しい人だったんですね」
「さあな」
「今の話だけで、そう思いました」
「簡単に決めるな」
「研究者ですから。仮説です」
アリアは少しだけ笑おうとした。
だが、頭痛が残っているのか、表情が歪んだ。
伊織は立ち上がりかけた。
「医者を呼ぶ」
「待ってください」
「待てない」
「治癒師に診せても、原因は分かりません」
「分からなくても、痛みは抑えられる」
「それは……そうですが」
「なら呼ぶ」
アリアは伊織を見た。
少しだけ、驚いたような顔だった。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「あなた、そういうところは早いですね」
「何が」
「人のことになると、判断が早い」
伊織は返事をしなかった。
アリアは続けた。
「自分のことになると、後回しにするのに」
「……面倒だな」
「ええ。面倒な人です」
クロが鼻を鳴らした。
同意しているように聞こえた。
「お前は黙ってろ」
クロは黙らなかった。
低く、もう一度鳴いた。
◆
エルナを通じて、夜勤の治癒師が呼ばれた。
若い男だった。眠そうな顔をしていたが、アリアの名を聞いた途端に目が覚めたらしい。
診察は短かった。
脈。瞳孔。魔力の流れ。頭部への治癒魔法。
治癒師は困った顔をした。
「外傷ではありません。魔力疲労に近いですが、通常の疲労とも違います」
「危険か」
伊織が聞く。
「今すぐ命に関わるものではありません。ただ、同じ刺激を何度も受けると、魔力感知器官に負荷が残る可能性があります」
「魔力感知器官?」
伊織が聞くと、アリアが説明した。
「魔力を感知するための感覚です。目や耳と同じようなものだと考えてください。魔法使いによって発達の仕方が違います」
「そこに負荷がかかったのか」
「おそらく」
治癒師は頷いた。
「何か、強い異質な魔力に接触しましたか」
アリアは伊織を見た。
伊織もアリアを見た。
少しの沈黙。
アリアが先に口を開いた。
「古代遺物に近い反応を調べました」
嘘ではない。
だが、全部ではない。
治癒師は納得したように頷いた。
「なら、しばらく魔力感知は控えてください。特に広域感知は厳禁です」
「どれくらい」
「最低三日。できれば一週間」
アリアの眉がわずかに動いた。
「一週間は長いです」
「短く言ったつもりです」
治癒師は真面目な顔で言った。
伊織はアリアを見た。
「聞いたな」
「聞きました」
「守れ」
「あなたに言われると腹が立ちますね」
「分かる」
「分かるなら、まず自分が守ってください」
「考える」
「それは駄目です」
治癒師は二人を交互に見た。
何か言いたそうだったが、言わなかった。
賢明だった。
治癒薬を置き、治癒師は部屋を出て行った。
エルナも心配そうに顔を出したが、アリアが「大丈夫です」と言うと渋々戻っていった。
部屋に、また静けさが戻った。
◆
アリアはベッドの背に体を預けていた。
顔色は少し戻っている。
だが、疲労は隠せていない。
伊織は椅子に座ったまま、右手を見ていた。
「距離を置くべきかもしれないな」
自然に出た言葉だった。
アリアが、すぐに反応した。
「誰が、誰とですか」
「俺が、お前と」
部屋の空気が変わった。
クロが顔を上げる。
アリアの目が細くなった。
「理由を聞いても?」
「俺の力が、お前に影響している」
「可能性です」
「可能性があるなら十分だ」
「十分ではありません」
「今日、倒れた」
「倒れてはいません。膝をついただけです」
「同じだ」
「違います」
アリアの声が強くなる。
頭痛が残っているはずなのに、目ははっきりしていた。
「あなたは、また一人で決めようとしています」
「危険を避ける判断だ」
「それを私抜きで決めることが問題だと言っています」
伊織は黙った。
アリアは続けた。
「私の魔力感知があなたの力に干渉する。それは事実かもしれません。ですが、それを調べるのは私です。危険を引き受けるかどうかを決めるのも私です」
「研究者だからか」
「それもあります」
「他には」
アリアは少しだけ言葉に詰まった。
視線を逸らす。
「……仲間、だからです」
小さな声だった。
だが、はっきり聞こえた。
伊織は返事ができなかった。
仲間。
その言葉は、思っていたより重かった。
南条とは相棒だった。
クロは、たぶん家族に近い。
アリアは、まだ分からない。
だが、少なくとも研究者と研究対象だけではなくなっている。
それは分かっていた。
「あなたが危険だから離れる、という判断は簡単です」
アリアは言った。
「でも、それで本当に危険が減るかは分かりません。あなたは一人で無茶をします。私は、それを見ていない場所にいる方が怖い」
「怖い?」
「はい」
アリアは伊織を見た。
「あなたが勝手にどこかで倒れる方が、私は怖いです」
伊織は何も言わなかった。
胸の奥に、また妙な感覚があった。
痛みに近い。
だが、違う。
「……物好きだな」
「あなたに言われたくありません」
「そうか」
「そうです」
沈黙。
今度の沈黙は、さっきより少しだけ穏やかだった。
クロが立ち上がり、二人の間に座った。
伊織とアリアのちょうど真ん中。
「邪魔だ」
伊織が言う。
クロは動かない。
「邪魔です」
アリアも言う。
クロは動かない。
二人は同時に黙った。
そして、アリアが小さく笑った。
「……答えみたいですね」
「何の」
「距離を置くな、という」
伊織はクロを見た。
クロは尻尾を一度だけ動かした。
「お前が決めることじゃない」
クロは鼻を鳴らした。
アリアが言った。
「でも、参考意見としては採用できます」
「そうか」
「はい」
伊織は息を吐いた。
右手の冷たさは、まだ残っている。
だが、少しだけましになった気がした。
気のせいかもしれない。
そう思うことにした。
◆
翌朝。
アリアはギルドを休むことになった。
本人は最後まで不満そうだったが、エルナと治癒師と伊織とクロの四者から止められ、渋々頷いた。
「四対一は卑怯です」
「勝てる相手を選べ」
「あなたは時々、本当に腹が立つことを言いますね」
「元気そうだな」
「元気ではありません」
「なら休め」
「……分かっています」
アリアはベッドに座り、魔道書を手に取ろうとした。
伊織がそれを取り上げた。
「何をするんですか」
「読むな」
「読書は休養です」
「魔力を使う本か」
「少しだけ」
「読むな」
「横暴です」
「そうだな」
アリアはしばらく伊織を睨んだ。
だが、結局あきらめた。
「では、普通の本を持ってきてください」
「分かった」
「できれば古代史の本を」
「普通か、それは」
「私にとっては普通です」
「そうか」
クロがベッドの足元に丸まった。
アリアはクロを見た。
「あなたも見張りですか」
クロは目を閉じた。
「……本当に、飼い主に似ていますね」
伊織は反論しなかった。
似ているのかもしれない。
面倒ではあるが。
◆
伊織は一人でギルドへ向かった。
クロはアリアの部屋に残った。
本人――犬だが――がそう決めた。
伊織は少しだけ迷ったが、置いてきた。
アリアの見張りには、ちょうどいい。
ギルドに入ると、朝の喧騒が戻っていた。
だが、昨日と同じではなかった。
伊織を見る目が増えている。
その視線を無視して、受付へ向かう。
エルナが手を振った。
「アリア様は?」
「休ませた」
「それはよかったです」
「本当にそう思ってる顔だな」
「思っています。アリア様、放っておくと無理をされるので」
「知ってる」
「東さんもですよ」
「今日は依頼に出ない」
「本当ですか?」
「本当だ」
エルナは少し驚いた顔をした。
「……成長しましたね」
「子供扱いか」
「いえ、患者扱いです」
伊織は返事をしなかった。
掲示板を見る。
依頼書が並んでいる。
昨日なら、適当なものを選んでいたかもしれない。
だが今日は見ない。
見るだけだ。
その時、ギルドの扉が開いた。
外の光が差し込む。
入ってきたのは、黒い外套を着た女だった。
三十代前半。
黒髪を後ろで束ねている。
実務的な顔。
無駄のない歩き方。
女はギルドの中を見渡した。
視線が、伊織で止まる。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
だが、伊織には分かった。
女は自分を知っている。
次に、女は受付へ向かった。
「アリア=シルヴェイン様はいらっしゃいますか」
丁寧な声だった。
だが、その丁寧さの奥に、冷たいものがあった。
エルナの表情が固まる。
「……どちら様でしょうか」
女は懐から、銀色の封蝋が押された書状を取り出した。
「エルザ=ヴァイスと申します」
伊織はその名を聞いた。
知らない名前だ。
だが、胸の奥で何かが引っかかった。
女の外套に、小さな紋章があった。
歯車と塔。
伊織は、その紋章を見たことがない。
それでも、分かった。
面倒なものが来た。
エルザは静かに言った。
「オルドレイン技術保存機構より、シルヴェイン卿の書状をお持ちしました」
ギルドの空気が、わずかに変わった。
伊織は無意識に右手を握った。
冷たさは、まだ消えていなかった。




