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第6話 いつもの朝

 朝が来た。


 それが少しだけ、不思議だった。


 伊織は宿のベッドの上で目を開けた。


 天井が見える。


 木製の梁。


 薄い染み。


 窓の隙間から差し込む白い光。


 昨日と同じ天井だった。


 廃坑の暗闇でもない。


 炎に照らされた石壁でもない。


 ヴァルムドラッヘの赤い喉でもない。


 ただの、宿の天井だ。


 伊織はしばらくそれを見ていた。


 生きている。


 そう思った。


 特に感動はない。


 だが、確認するように、もう一度思った。


 生きている。


 足元でクロが丸まっていた。


 黒い毛の塊が、ゆっくりと上下している。


 寝息は静かだった。


 昨日、廃坑を出てから、クロは何度も伊織の右手を嗅いでいた。


 何かを確かめるように。


 あるいは、何かを警戒するように。


 伊織は右手を見た。


 手袋は外している。


 手のひらに傷はない。


 火傷もない。


 血も出ていない。


 だが、冷たい。


 皮膚ではない。


 もっと奥だ。


 骨の中に、鋼鉄の欠片が沈んでいるような感覚がある。


 伊織は右手を開き、閉じた。


 指は動く。


 だが、わずかに遅い。


 自分の手なのに、命令が一瞬遅れて届くようだった。


「……面倒だな」


 小さく呟いた。


 クロが目を開けた。


「起こしたか」


 クロは鼻を鳴らした。


 違う、という返事に聞こえた。


 気のせいかもしれない。


 伊織はベッドから降りた。


 床に足をつけた瞬間、体が重いことに気づいた。


 筋肉痛ではない。


 疲労とも少し違う。


 中身を抜かれたような重さだった。


 昨日、銃を出した。


 この世界には存在しないはずの武器。


 黒い金属。


 音のしない弾。


 ヴァルムドラッヘの喉を撃ち抜いた一撃。


 アリアは、それを鋼鉄の具現と呼んだ。


 悪くない名前だと思った。


 だが、名前がついたからといって、理解できたわけではない。


 なぜ出たのか。


 何を消費したのか。


 次も出せるのか。


 使い続けたら、どうなるのか。


 何も分からない。


 分からないものを使った。


 その結果、全員が生きて帰った。


 なら、それでよかったのか。


 伊織は右手を握った。


 答えは出なかった。



 ギルドの朝は、いつも通り騒がしかった。


 依頼書を眺めるハンター。


 昨日の報酬を受け取る者。


 朝から酒を飲んでいる男。


 厨房から流れてくる豆のスープの匂い。


 いつもの朝。


 そう呼ぶには、まだ早い。


 それでも、数日前の伊織なら使わなかった言葉だ。


 伊織がギルドに入ると、いくつかの視線が向いた。


 昨日までとは違う視線だった。


 値踏みではない。


 警戒。


 好奇心。


 畏れ。


 そのどれか。


 あるいは全部。


 伊織は気にしなかった。


 気にしないことにした。


 クロが足元を歩く。


 青い識別布が首元で揺れていた。


 昨日エルナにもらった布だ。


 クロは気に入っていないようだが、外そうとはしなかった。


 受付のエルナが、伊織に気づいた。


「東さん」


「ああ」


「体調はどうですか?」


「動ける」


 エルナは伊織の顔を見た。


 次に、右手を見た。


 それから、わずかに眉を寄せた。


「それは、元気という意味ではありませんよね」


「今は歩ける」


「やっぱり違います」


「よく言われる」


「昨日、皆さんにも言われていました」


「そうだったか」


「そうでした」


 エルナは小さくため息をついた。


 カウンターの奥から革袋を取り出す。


「昨日の件です。正式な査定はまだですが、先払い分が出ています」


 革袋がカウンターに置かれた。


 中で硬貨が鳴った。


「多いな」


「まず、旧水路の砂鼠駆除は依頼書通り銀貨二枚です。こちらは処理済みです」


 エルナは小さな袋を一つ置いた。


 次に、少し重い革袋を置く。


「こちらは、廃坑での緊急救助協力金と、ヴァルムドラッヘ討伐への特別査定の先払いです」


「俺は、あれを受けた覚えはない」


「受注ではありません。緊急対応です」


 エルナは少し声を落とした。


「本来、Fランクの方が関わる案件ではありません。ですが、発見者であり、救助に参加し、実際に討伐へ貢献しています。ギルドとして、なかったことにはできません」


「そういうものか」


「そういうものです」


 革袋は重かった。


 この世界に来て、初めて手にしたまとまった金だった。


 昨日、旧水路の依頼で受け取った小さな報酬とは、まるで違う重さだった。


 命の値段。


 そう思いかけて、やめた。


 金で数えるものではない。


 だが、ギルドは数える。


 生き残った者。


 助けた者。


 倒した魔獣。


 壊れた坑道。


 全部を記録にして、報酬に変える。


 その仕組みで、この街は回っている。


「ギルドマスターから伝言です」


「何だ」


「しばらく無茶をするな、だそうです」


「考えておく」


「それ、する気が薄い人の返事です」


 エルナは眉を下げた。


「アリア様も探していました。治癒室の方です」


「分かった」


「それと、右手を隠しても無駄ですよ」


 伊織は自分の右手を見た。


 無意識に、左手で覆っていた。


「隠したつもりはない」


「では、癖です」


「そうか」


「そうです」


 エルナは革袋を伊織の方へ押した。


「受け取ってください。これは、東さんが生きて戻った分でもあります」


 伊織は少し黙った。


 それから、袋を取った。


「助かる」


「はい」


 クロが袋の匂いを嗅いだ。


 金属の匂いしかしなかったのか、すぐに興味をなくした。



 治癒室は、ギルドの奥にあった。


 木製の扉の向こうから、薬草と消毒液に似た匂いがする。


 伊織が扉を開けると、薄衣を着た治癒師が、負傷者の腕に包帯を巻いていた。


 昨日、廃坑から助け出した男たちだ。


 一人は眠っている。


 もう一人は目を開けていた。


 顔色は悪い。


 だが、生きている。


 伊織が入ると、男が視線を動かした。


「あんた……」


 かすれた声だった。


「起きなくていい」


「助けて、くれたんだろ」


「俺だけじゃない」


「それでもだ」


 男は、少しだけ口元を動かした。


 笑おうとしたのかもしれない。


「ありがとう」


 伊織は返事に詰まった。


 礼を言われるために入ったわけではない。


 生きていたから、動いただけだ。


 そう言えばいい。


 だが、その言葉は少し違う気がした。


「……生きていてよかった」


 ようやく、それだけ言った。


 男は目を閉じた。


 治癒師が伊織を見た。


「長話は駄目です」


「ああ」


「あなたもです」


「俺は患者じゃない」


「右手を見れば分かります。患者です」


 治癒師は手を出した。


「診ます」


「あとで」


「今です」


 昨日から、その言葉を何度も聞いている気がした。


 伊織は右手を差し出した。


 治癒師が触れた瞬間、右手の奥が冷えた。


 痛みではない。


 骨の中に、冷たい金属片が沈んでいるような感覚。


 治癒師が眉を寄せた。


「何ですか、これは」


「俺が聞きたい」


「魔力の流れが乱れています。火傷でも裂傷でもない。消耗とも違う。何かが、内側に引っかかっている」


「治るのか」


「分かりません」


「正直だな」


「分からないものを、分かると言う方が危険です」


 その通りだった。


 伊織は右手を引こうとした。


 だが、治癒師は離さなかった。


「今日は、大きな魔法や能力の使用は禁止です」


「使えと言われても、出せるか分からない」


「それなら結構です。出せたとしても使わないでください」


「約束はできない」


「東さん」


 別の声だった。


 アリアが、部屋の奥に立っていた。


 白と銀の軽鎧ではない。


 上着を外し、袖をまくっている。


 表情はいつも通りに見えた。


 だが、目の下に薄い疲労がある。


「約束してください」


 アリアは言った。


「状況による」


「それは、約束しないという意味です」


「使わずに済むなら使わない」


「それで妥協します」


 アリアは治癒師に視線を向けた。


「右手の状態は」


「魔力経路の乱れです。ただし、通常の魔法疲労とは違います。内側から削られているような反応があります」


「やはり」


「やはり?」


 伊織が聞く。


 アリアは記録板を胸に抱え直した。


「昨日のライフル。あれは、あなたの魔力だけで形を作ったものではありません」


「他に何を使った」


「記憶です」


「記憶?」


「正確には、記憶に刻まれた感覚です。重さ、反動、照準、材質、構造。あなたが知っているものを、魔力が無理に形へ変換した」


 アリアは伊織の右手を見た。


「その時、魔力だけでは足りなかった。だから、身体の内側にある何かを削った」


「寿命か」


 治癒師がぎょっとした顔をした。


 アリアは即答しなかった。


 その沈黙だけで、答えの重さは分かった。


「現時点では断定できません」


「否定もしないんだな」


「嘘はつきません」


 伊織は右手を握った。


 冷たい。


 昨日、ライフルを握った時の感触がまだ残っている。


 長い銃身。


 肩に乗る重さ。


 引き金の硬さ。


 喉の奥の赤い光。


 撃った。


 火を止めた。


 誰かが生き残った。


 それだけは事実だった。


「使ったことは後悔していない」


 伊織は言った。


 アリアの表情が、わずかに変わった。


「後悔の話ではありません」


「違うのか」


「違います。次に使う時、あなたが倒れれば、守れるものも守れません」


「そうだな」


「分かっているなら、自分を数に入れてください」


 昨日も言われた。


 あなたは、守ると言いながら、自分を数に入れていません。


 その言葉は、まだ右手の冷たさより深いところに残っている。


「努力する」


「努力では足りません」


「なら、練習する」


 アリアは少しだけ目を細めた。


「何をですか」


「使い方だ。出るかどうかも分からないものを、危機のたびに使うわけにはいかない」


「それは正しい判断です」


「なら、止めるな」


「止めます」


「なぜ」


「今日は駄目です。明日以降、私の監視下で行います」


「監視か」


「観察です」


「同じだろ」


「違います」


 アリアは即答した。


 クロが伊織の足元で鼻を鳴らした。


 どちらに同意したのかは分からない。



 治癒室を出ると、廊下にガルドがいた。


 壁に背中を預け、腕を組んでいる。


 大斧は持っていなかった。


 そのせいか、昨日より少しだけ普通の男に見えた。


 顔の傷がなければ、だが。


「説教の順番待ちか」


 伊織が言うと、ガルドは鼻で笑った。


「もう説教された顔してるな」


「増やさなくていい」


「増やすに決まってるだろ」


 ガルドは立ち上がった。


「昨日の件だ」


「ああ」


「お前がいなければ、あの二人は死んでた。アリアも危なかった。そこは認める」


「そうか」


「だが、お前は死にかけた」


「死んではいない」


「それを言う奴ほど危ない」


 ガルドは伊織の右手を見た。


「その手、まともに動くのか」


「動く」


「戦えるか」


「相手による」


「いい返事じゃないな」


「嘘よりはましだ」


 ガルドは少し黙った。


 それから、声を低くした。


「昨日の黒い銃。あれは何だ」


「俺にも完全には分からない」


「アリアは」


「鋼鉄の具現と呼んだ」


「名前は聞いた。意味は」


「俺の記憶と魔力で、元の世界の武器を形にしているらしい」


 ガルドは、しばらく黙った。


 驚くと思った。


 だが、驚かなかった。


 代わりに、ひどく苦い顔をした。


「便利な力に聞こえるな」


「便利かどうかは、まだ分からない」


「いや、周りはそう見ない」


 ガルドは伊織を見た。


「強い力は、必ず誰かが欲しがる。ギルドも、領主も、盗賊も、研究者もだ」


「研究者」


「アリアのことじゃない。あいつはまだいい。問題は、もっと遠くにいる連中だ」


「オルドレインか」


 ガルドの目が細くなった。


「その名前をどこで聞いた」


「アリアの父に関係があるらしい」


「……そうか」


 ガルドは頭を掻いた。


「面倒なところに繋がってきたな」


「知っているのか」


「名前くらいはな。古代技術を集めてる連中だ。表向きは保存と研究。裏で何をやってるかは知らん」


「表向きがあるなら、裏もある」


「お前、そういうところは勘がいいな」


「癖だ」


「嫌な癖だ」


 ガルドは廊下の窓から外を見た。


「しばらく、目立つな」


「もう遅いだろ」


「遅いが、これ以上は抑えろ。昨日の廃坑にいた連中全員が、口を閉じるとは限らない。黒い銃を見た奴はいる。噂は広がる」


「隠せると思うか」


「完全には無理だ。だから、扱いを決める」


「扱い?」


「ギルドの記録上は、未知の魔道具による一時的な現象。東伊織本人の能力とは断定しない。少なくとも、外に出す報告はそうする」


 アリアが廊下の奥から言った。


「それは、虚偽報告です」


 ガルドは振り返った。


「防衛的なぼかしだ」


「便利な言い方ですね」


「便利で悪いか。生き残るには必要だ」


 アリアは黙った。


 納得はしていない。


 だが、否定もできない顔だった。


「アリア」


 ガルドが言う。


「お前も気をつけろ」


「私ですか」


「お前の名前で、こいつの力に意味がついた。鋼鉄の具現。その呼び方が広まれば、記録に残る。記録に残れば、探す奴が出る」


 アリアの表情が少しだけ硬くなった。


「私のせいだと?」


「そうは言ってない」


「言っているように聞こえます」


「違う。責任を分けろと言ってる」


 ガルドは伊織とアリアを交互に見た。


「一人で抱えるな。どっちもだ」


 伊織は答えなかった。


 アリアも答えなかった。


 クロだけが、二人の間で大きく欠伸をした。


 ガルドは苦笑した。


「犬の方が分かってるかもしれんな」



 昼前、ギルド裏の訓練場に出た。


 昨日の登録試験をした場所だ。


 今は人が少ない。


 砂地に木剣の跡が残っている。


 隅には壊れた的と、古い盾が立てかけてあった。


 伊織、アリア、ガルド、クロ。


 それだけだった。


「本当にやるのか」


 ガルドが言った。


「見るだけです」


 アリアが答えた。


「伊織には、今日は具現をさせません」


「本人に言っておけ」


「本人にも言いました」


「守ると思うか?」


 アリアは伊織を見た。


「守らせます」


「だそうだ」


 ガルドが笑う。


 伊織は右手を見た。


 動く。


 だが、奥に冷たさが残っている。


 昨日のようにすぐ形にできる気はしない。


 むしろ、形になったらまずい。


 そういう感覚があった。


「何を確認する」


 伊織が聞く。


「まず、右手の反応条件です」


 アリアは記録板を取り出した。


「昨日、具現が成功したのは、ヴァルムドラッヘの火炎を止める必要があった時。登録試験では、クロを守ろうとした時。水路では、私に砂鼠が飛びかかった時に反応しています」


「並べると、分かりやすいな」


「はい。あなたの力は、単純な攻撃意思ではなく、守る対象が明確になった時に反応しやすい」


「守る対象」


「クロ。私。廃坑の負傷者。少なくとも、現時点では」


 伊織は黙った。


 ガルドが腕を組む。


「自分を守る時は?」


 アリアは首を横に振った。


「反応は弱いです。東さん自身に危険が迫っている時より、誰かを守ろうとした時の方が出力が高い」


「面倒な力だな」


「はい」


「本人も面倒だしな」


「否定はしません」


「否定しろ」


 伊織が言うと、クロが鼻を鳴らした。


 アリアは記録板に何かを書いた。


「今日は、具現ではなく想起だけを試します」


「想起?」


「形にしない。思い出すだけです。昨日のライフルの感覚を、手に集めず、頭の中で止める」


「できるか分からない」


「できる範囲で構いません」


「失敗したら」


「私が止めます」


「どうやって」


「魔力の流れを切ります」


 ガルドが顔をしかめた。


「それ、痛いのか」


「痛いと思います」


「おい」


「だから失敗しないでください」


 アリアは真顔だった。


 伊織は短く息を吐いた。


 訓練場の中央に立つ。


 右手を開く。


 ライフルを思い出す。


 長い銃身。


 肩に乗る重さ。


 照準。


 喉の奥の赤い光。


 引き金。


 右手が、わずかに熱を持った。


「そこで止めてください」


 アリアの声。


 伊織は息を止めた。


 形にしない。


 握らない。


 ただ、思い出す。


 黒い粒子が、一瞬だけ指先に浮いた。


 すぐに消える。


 右手の奥が痛んだ。


 伊織は眉を動かした。


「痛みは?」


「ある」


「続けますか」


「少しだけ」


「無理なら止めます」


「ああ」


 もう一度。


 今度は拳銃を思い出す。


 軽い。


 片手で扱える。


 近距離。


 反動は短い。


 右手の熱は、ライフルより弱かった。


 黒い輪郭が出かける。


 だが、伊織は握らなかった。


 消える。


「拳銃の方が負荷は低いですね」


 アリアが言った。


「たぶん、構造が単純だからだ」


「あなたの記憶の解像度も関係しているかもしれません」


「解像度?」


「細部まで知っているものほど、形になりやすい。ただし、強力なものほど魔力消費が大きい」


 ガルドが口を挟んだ。


「つまり、強い武器ほど寿命を削るかもしれないってことか」


「断定はできません」


「断定できない時点で怖いんだよ」


 ガルドは伊織を睨んだ。


「聞いたな。今後、気軽に使うな」


「気軽に使った覚えはない」


「お前の気軽じゃないは、他人から見るとかなり気軽だ」


 伊織は返事をしなかった。


 反論できなかった。


「次に、戦闘以外のものを思い出せますか」


 アリアが言った。


「戦闘以外?」


「見るもの、探すもの。直接殺傷しないものです」


 伊織は少し考えた。


 ゲームの中で使っていた装備。


 銃。


 手榴弾。


 地雷。


 装甲車。


 戦車。


 それ以外。


 偵察ドローン。


 黒い小型機。


 瓦礫の上を飛ばし、建物の中を確認するために使った。


 カメラ。


 小さなローター。


 遠くを見る目。


 伊織は右手を開いた。


 ライフルとは違う感覚だった。


 重さはない。


 反動もない。


 ただ、羽音の記憶がある。


 黒い粒子が、掌の上に集まった。


 小さな機体の輪郭。


 指先ほどの脚。


 薄い羽。


 ローターが、一度だけ回った。


 すぐに崩れた。


 風だけが、掌に残る。


 アリアの目が見開かれた。


「今のは」


「偵察用だ」


「飛ぶのですか」


「出ればな」


「見えるのですか」


「機体の目で見られる。ゲームではそうだった」


「つまり、あなたの視界とは別に、遠隔の映像を得られる?」


「そうだ」


 アリアは記録板に素早く書き込んだ。


 ガルドが顔をしかめた。


「便利すぎるな」


「まだ一秒も出ていない」


「一秒出たなら、次は二秒だ」


 伊織は右手を見た。


 今の反応は、ライフルほど重くなかった。


 だが、別の疲労がある。


 目の奥が少し痛む。


 アリアがそれに気づいた。


「今日はここまでです」


「まだ」


「ここまでです」


 強い声だった。


 伊織は口を閉じた。


 クロが伊織の袖を噛んだ。


 引っ張る。


 かなり本気だった。


「分かった」


 クロは離さなかった。


「本当に止める」


 ようやく離した。


 ガルドが笑った。


「犬の方が信用されてるな」


「否定できません」


 アリアが言った。


「する気はない」


 伊織も言った。



 訓練の後、ギルド裏の壁際で休んだ。


 アリアは記録板を膝に置き、今の結果を整理している。


 ガルドは腕を組んで立っていた。


 クロは伊織の隣で丸くなっている。


 伊織は右手を開いた。


 何もない。


 だが、指先に小さな羽音の感触が残っていた。


 銃ではない。


 それでも、鋼鉄だった。


「殺すためだけではないのですね」


 アリアが言った。


「何が」


「あなたの鋼鉄です」


 伊織は右手を見たまま黙った。


「昨日のライフルは、火炎を止めるために出ました。今の小型機は、見るために出かけた。なら、この力は武器だけではありません」


「武器として作られたものだ」


「それでも、使い方は選べます」


 アリアは記録板を閉じた。


「鉄は、武器にも、防具にも、道具にもなる。昨日、私が言ったことです」


「覚えている」


「なら、忘れないでください」


 伊織は答えなかった。


 忘れない、と言うのは簡単だった。


 だが、実際に戦場で何を選ぶかは分からない。


 敵が来る。


 誰かが倒れる。


 火が迫る。


 その時、自分が何を出すのか。


 何を握るのか。


 まだ分からない。


 だが、少なくとも一つだけ分かった。


 銃以外も、出せる可能性がある。


 殺す以外にも、鋼鉄は形を取る。


 その事実は、伊織の中で少しだけ重さを変えた。


「東さん」


「なんだ」


「今日は、もう休んでください」


「仕事は」


「ありません」


「金は必要だ」


「昨日の報酬があります」


「そうだったな」


「忘れないでください」


「慣れていない」


「何にですか」


「金を持っていることに」


 アリアは少しだけ目を瞬いた。


 それから、小さく息を吐いた。


「では、まず食事をしましょう」


「訓練ではなく?」


「食事です」


「研究者らしくないな」


「食事は研究以前の問題です」


 ガルドが笑った。


「いいこと言うじゃねえか。おごりか?」


「各自負担です」


「冷たいな」


「当然です」


 クロが立ち上がった。


 食事という言葉だけは、理解しているらしい。


 伊織も立った。


 右手の冷たさは、まだ残っている。


 だが、昨日よりは少しだけ扱える気がした。


 扱える。


 制御できる。


 そう思うことが危ういのだと、伊織は知っている。


 それでも、知らないまま使うよりはましだった。



 市場へ向かった。


 アリアもついてきた。


「休むんじゃなかったのか」


「市場を歩く程度なら休養の範囲です」


「便利な言葉だな」


「あなたに言われたくありません」


 クロは二人の間を歩いた。


 市場は賑わっていた。


 干し肉。


 野菜。


 薬草。


 布。


 革製品。


 鍛冶道具。


 見慣れない果物。


 油の匂い。


 香辛料の匂い。


 鉄の匂い。


 伊織は薬屋で傷薬と包帯を買った。


 獣用の軟膏も買う。


 クロが伊織を見上げた。


「必要だろ」


 クロは目をそらした。


 アリアが横で言った。


「自分用は?」


「今買った」


「それはクロ用です」


「同じ軟膏でいい」


「よくありません」


 アリアは店主に向き直り、別の薬を指した。


「人間用の消炎薬もください。あと、神経痛に効く薬草はありますか」


「ありますよ」


「それも」


 伊織は財布代わりの革袋を出した。


 だが、アリアが先に払った。


「おい」


「必要経費です」


「俺が使う薬だ」


「あなたが放置すると、こちらが困ります」


「なぜ」


「説明が必要ですか」


 アリアは伊織を見た。


 まっすぐに。


 伊織は少し黙った。


「……いや」


「では、受け取ってください」


 薬包を渡された。


 伊織は受け取った。


「返す」


「そのうちで構いません」


「返す」


「はいはい」


「雑になったな」


「あなたが頑固なので」


 クロが小さく鳴いた。


 アリアはクロを見た。


「あなたもそう思いますよね」


 クロは伊織を見た。


 それから、アリアを見た。


 尻尾を一度だけ動かした。


「裏切ったな」


 伊織が言うと、クロは顔をそむけた。


 アリアが笑った。


 今度は、はっきりと。


 伊織はその横顔を見た。


 笑うと、少し幼く見える。


 それを言えば、たぶん怒る。


 だから言わなかった。



 夕方、ギルドへ戻る途中で、伊織は屋台の前で足を止めた。


 最初の日に、スープをくれた老婆の屋台だった。


 大きな鉄鍋から湯気が上がっている。


 老婆が伊織に気づいた。


「おや、生きてたかい」


「ああ」


「金はできたのかい」


「できた」


「なら、一杯三枚だよ」


 伊織は鉄貨を出した。


「二杯」


「連れの分かい」


「ああ」


 アリアが横で少し驚いた顔をした。


「私は別に――」


「食え」


「命令ですか」


「昨日、怪我をした」


「あなたもです」


「俺も食う」


「……分かりました」


 老婆は二杯分のスープをよそった。


 伊織は器を受け取り、一つをアリアに渡した。


 薄い豆のスープ。


 初日に飲んだ時と同じ味だった。


 相変わらず薄い。


 豆は固い。


 干し肉は塩辛い。


 だが、温かい。


 伊織は一口飲んだ。


 胃に熱が落ちる。


 アリアも一口飲んだ。


 少しだけ眉を動かした。


「薄いですね」


「だろうな」


「でも、悪くありません」


「そうか」


 老婆が笑った。


「兄ちゃん、初日より顔色がましになったね」


「そうか」


「そうだよ。目が少し生きてる」


 伊織は返事をしなかった。


 アリアが伊織を見た。


 何も言わなかった。


 それがありがたかった。


 クロが足元で座っている。


 伊織は干し肉を少し裂いて、クロに渡した。


 クロは静かに食べた。


 屋台の前を、人が通り過ぎていく。


 子供の声がする。


 どこかで鍛冶屋の槌音が響く。


 砂埃が夕陽に染まっている。


 知らない街だった。


 今も、知らないことばかりだ。


 だが、初日よりは少しだけ、輪郭が見えていた。


 戻る場所。


 その言葉が、また浮かんだ。


 伊織はスープを飲み干した。


 器を老婆に返す。


「また来る」


「金を持ってね」


「ああ」


 老婆は笑った。


 伊織は歩き出した。


 アリアとクロが隣にいた。


 それだけのことだった。


 それだけなのに、妙に静かだった。



 夜。


 宿の部屋に戻ると、疲労が一気に来た。


 伊織はベッドに腰を下ろした。


 クロは足元に丸まる。


 窓の外には、二つの月が出ていた。


 伊織は右手を見た。


 冷たい。


 朝よりはましだ。


 だが、まだ奥に残っている。


 鋼鉄の感触。


 アリアにもらった薬を飲み、右手を軽く握る。


 出せるのか。


 そう思った。


 試すな、と言われた。


 必要かどうかを一人で決めるな、とも言われた。


 伊織は右手を開いた。


 何もない。


 だが、奥にある。


 分かる。


 昨日までは、掴み方が分からなかった。


 今は違う。


 目を閉じる。


 重さ。


 冷たさ。


 引き金。


 黒い金属。


 炎を裂いた一撃。


 指先に、黒い粒子が一瞬だけ集まった。


 すぐに消えた。


 同時に、右手の奥が凍るように冷たくなった。


「……っ」


 伊織は息を詰めた。


 痛みではない。


 だが、不快だった。


 自分の中から、何かを引き出そうとして、逆に何かを掴まれたような感覚。


 クロが跳ね起きた。


 低く唸る。


「平気だ」


 伊織は言った。


 クロは唸り続けた。


「……平気じゃないな」


 伊織は右手を握った。


 冷たい。


 ただ、もう一度試そうとは思わなかった。


 その時、壁の向こうで小さな物音がした。


 隣の部屋。


 アリアの部屋だった。


 椅子が倒れたような音。


 続いて、短く息を呑む声。


 伊織は立ち上がった。


 右手の冷たさが、まだ残っている。


 クロが扉の前に走り、低く唸った。


「アリア」


 壁越しに声をかける。


 返事はない。


 伊織は扉を開け、廊下に出た。


 アリアの部屋の前に立つ。


 中から、微かな呼吸音が聞こえた。


 荒い。


「アリア」


 もう一度呼んだ。


 少し遅れて、声が返ってきた。


「……大丈夫です」


 大丈夫ではない声だった。


 伊織は扉を見た。


 クロが低く唸る。


 右手が、冷たい。


 骨の奥に沈んだ鋼鉄が、月明かりの下で目を覚ましているようだった。


 伊織は短く言った。


「開けるぞ」


 返事は、なかった。


 それでも、拒む声もなかった。


 伊織は扉に手をかけた。


 その向こうで、アリアが小さく呻いた。


 そして――


 伊織の右手に、また黒い粒子が滲んだ。


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