第5話 いつもの朝
ダストヘイブンに来て、一ヶ月が経った。
その夜、伊織は夢を見た。
夢の中では、右手に銃があった。
重くて、冷たくて、見覚えのある形。
でも今度は——怖くなかった。
ただ、そこにある。
手に馴染む感触で、そこにある。
目を覚ました。
天井が見えた。
ダストヘイブンの宿屋の、木製の天井。
クロが足元で眠っている。
右手は、空だった。
でも——空じゃなかった。
何かが、そこにある。
名前はない。
でも確かに、ある。
伊織はゆっくりと起き上がった。
◆
ダストヘイブンの朝は、いつも砂埃から始まる。
伊織はギルドの掲示板の前に立っていた。
夜明けから三十分。食堂はまだ半分眠っている。受付のエルナが欠伸をしながらカウンターを拭いている。クロが伊織の足元で丸まっている。
窓の外、砂埃が風に流れていく。
屋台の老婆が店を開け始めている。石畳の上を、猫が横切った。
知らない街だった。
一ヶ月前は、そう思っていた。
いつもと同じ朝だった。
――いつもと同じ、か。
伊織は掲示板を眺めながら、その言葉を反芻した。
ダストヘイブンに来て、どれくらい経つ。一ヶ月と少し。それだけの時間で、「いつもと同じ」という感覚が生まれていた。
帰る場所がない、と思っていた。
でも――いつもと同じ朝がある場所を、帰る場所と呼ばないのなら、何と呼ぶのか。
「読むの遅いですよ」
背後から声がした。
振り返らなくても分かった。
「お前が早いんだろ」
「普通の速さです」
アリア=シルヴェインが、伊織の隣に並んだ。銀白色の長髪が、朝の薄明かりの中で揺れた。双剣を背負い、魔道書を小脇に抱えている。いつもの格好だ。
――いつもの、格好。
また、その言葉が出てきた。
「東部街道の依頼、見ましたか」
アリアが一枚の依頼書を指した。
「Bランク相当の魔獣・複数。報酬は銀貨二十枚。昨日から貼り出されています」
「ああ、見た」
「どう思いますか」
「悪くない」
「私もそう思います」
二人は同時に依頼書に手を伸ばした。
指が、触れた。
一瞬だった。
どちらも、何も言わなかった。
アリアが先に手を引いた。
「……取ってください」
「ああ」
伊織は依頼書を取った。
クロが伊織とアリアを交互に見て、小さく鼻を鳴らした。
「うるさい」
伊織が言った。
「何がですか」
アリアが言った。
「……独り言だ」
◆
受付でエルナに依頼書を提出した。
「東部街道ね。二人で行くの?」
「ああ」
「ガルドさんは?」
「別の依頼を見てる」
エルナは伊織とアリアを交互に見た。それから、何かを言いかけて、やめた。
「気をつけてね」
それだけ言った。
「何か言いたそうだったが」
ギルドを出てから、伊織が言った。
「気のせいです」
アリアは前を向いたまま答えた。
耳が、わずかに赤かった。
伊織は気づいたが、何も言わなかった。
◆
ギルドの外、朝の空気が街を包んでいた。
砂埃の匂い。鉄の匂い。遠くに、屋台の煙。
知っている匂いだ。
クロが伊織の隣を歩いている。
アリアが、伊織の斜め前を歩いている。
いつもの位置だ。
伊織は少し歩調を上げた。
アリアの隣に並んだ。
アリアは何も言わなかった。
ただ、少しだけ——歩く速度を落とした。
クロが、二人の間を歩いた。
三つの足音が、石畳に響いた。
揃っていた。




