第5話 廃坑
南門を出ると、風の匂いが変わった。
街の中にあった人と火と鉄の匂いが薄れ、代わりに乾いた砂と獣の匂いが濃くなる。
荷馬車道は、石畳ではなかった。
踏み固められた土と砂の道だ。ところどころに車輪の跡が残り、その脇には低い岩場が続いている。
伊織は歩きながら周囲を見た。
道幅。
岩の高さ。
視界を遮る場所。
倒れた時、身を隠せる窪み。
負傷者を運ぶなら、どの道を戻るか。
先に見るのは、敵ではない。
退く道だ。
アリアが横から言った。
「また退路を見ていますね」
「ああ」
「癖ですか」
「そうだな」
「良い癖です」
「褒めているのか」
「はい」
伊織は返事をしなかった。
クロは少し前を歩いている。
首元の仮登録札が、歩くたびに小さく揺れていた。
本人は、いや、本犬は気に入っていないらしい。時々、首を振っている。
「似合っていると思います」
アリアが言った。
「誰に言った」
「クロにです」
クロが鼻を鳴らした。
「不満そうだな」
「そうですね」
「外していいか」
「駄目です。規定です」
「だそうだ」
クロは、もう一度鼻を鳴らした。
荷馬車道をしばらく進むと、砂の動きが変わった。
風で流れたものではない。
下から押された跡だ。
伊織は足を止めた。
クロも止まる。
アリアが一拍遅れて、周囲の魔力を探るように目を細めた。
「近いです」
「数は」
「小さい反応が四つ。いえ、五つ」
「依頼通りだな」
伊織は腰に差していた短剣を抜いた。
ギルドで借りたものだ。
刃渡りは短い。重さも中途半端。手に馴染まない。
だが、ないよりはいい。
砂が跳ねた。
一体目の砂爪蜥蜴が飛び出す。
昨日と同じ魔獣だ。
体長は一メートルほど。鋭い爪。低い姿勢。群れで動く。
伊織は受けなかった。
半歩下がり、爪を避ける。
地面の石を蹴り上げる。
石が蜥蜴の目元に当たった。
魔獣が一瞬、頭を振る。
その隙に、クロが横から飛び込んだ。
黒い影が喉元に噛みつき、砂の上へ押し倒す。
アリアは動かなかった。
見ている。
観察している。
必要なら止める距離にいる。
二体目。
伊織は短剣を逆手に持ち替え、跳びかかってきた蜥蜴の顎下へ柄を打ち込んだ。
殺すためではない。
動きを止めるためだ。
魔獣が崩れる。
三体目はアリアの風刃が脚を断った。
鋭いが、無駄がない。
「東さん、左です」
「ああ」
言われる前に見えていた。
左の砂が動く。
伊織は横へ逃げず、あえて前へ出た。
飛び出した四体目の横腹を蹴り、体勢を崩す。
クロが追撃する。
五体目は逃げた。
伊織は追わなかった。
「追わないのですか」
「逃げた先を見る」
アリアの目が細くなった。
逃げた砂爪蜥蜴は、荷馬車道から外れ、低い岩場の方へ向かっていた。
クロが鼻を地面に近づける。
そのまま、ぴたりと止まった。
低く唸る。
今までと違う声だった。
「どうした」
クロは岩場の奥を見ていた。
そこには、半分砂に埋もれた古い坑道口があった。
木の支柱は黒ずみ、入口の周囲には古い縄と割れた車輪が転がっている。
廃坑だ。
伊織は入口を見た。
暗い。
奥が見えない。
風が中から吹いている。
乾いた風ではない。
湿った土の匂い。
獣の匂い。
そして、血の匂い。
「アリア」
「はい」
「魔力は」
アリアは表情を硬くした。
「小型魔獣ではありません。奥に、大きい反応があります」
「依頼範囲外だな」
「はい。本来は戻って報告です」
伊織は入口近くに落ちているものを見た。
布切れ。
荷馬車の荷縄。
折れた木箱。
それから、地面に引きずられた跡。
中へ続いている。
「人が入ったか」
「その可能性があります」
アリアの声が低くなった。
クロが唸り続けている。
伊織は少しだけ黙った。
戻るべきだ。
規定ではそうだ。
Fランクの補助員が勝手に廃坑へ入る理由はない。
だが、見てしまった。
血の匂い。
引きずられた跡。
奥へ続く暗闇。
見なかったことにはできない。
「入口だけ確認する」
アリアがすぐに言った。
「それ以上は駄目です」
「分かっている」
「本当に?」
「今はな」
「そこは、はいと言ってください」
「努力する」
アリアは眉を寄せた。
「信用しにくい返事です」
「よく言われる」
伊織は短剣を握り直した。
クロが先に入口へ近づく。
伊織はその首元の札を一度だけ見た。
仮登録同行獣。
妙な肩書きだ。
だが、今はそれが、クロがここにいる理由になっている。
入口から中を覗く。
坑道は狭い。
人が二人並ぶのが限界だ。
壁には古い採掘跡があり、天井の支柱はところどころ腐っている。
足跡があった。
人の足跡。
複数。
新しい。
その上を、大きな爪痕が横切っている。
「戻るぞ」
伊織が言った。
アリアが少しだけ驚いた顔をした。
「入らないのですか」
「入る理由はできた。だから戻る」
アリアは一瞬黙り、それから頷いた。
「正しい判断です」
「褒めるな」
「褒めています」
その時だった。
坑道の奥から、低い音が響いた。
地鳴りに似ていた。
次に、男の叫び声。
短く、途切れた。
伊織は動かなかった。
一秒。
アリアが息を呑む。
「生存者がいます」
「だろうな」
「東さん」
「分かっている」
戻るべきだ。
だが、声を聞いてしまった。
なら、話は変わる。
伊織は坑道の奥を見た。
「入口から三十メートルまでだ」
「それ以上は?」
「状況次第」
「それは制限ではありません」
「なら、お前が止めろ」
アリアは伊織を見た。
銀色の目が、まっすぐだった。
「止めます」
「頼む」
三人は坑道へ入った。
中は暗かった。
アリアが小さな光球を浮かべる。
淡い光が、壁と床を照らした。
足跡。
血痕。
砕けた木箱。
転がった鉄の金具。
人が襲われた跡だ。
奥から、熱が流れてきた。
火の匂い。
伊織は足を止めた。
「火を使うのか」
「この反応なら、可能性があります」
「種類は」
「断定はできません。ですが、大型です」
クロが唸った。
次の瞬間、坑道の奥で光が膨らんだ。
赤い。
伊織は反射でアリアの肩を押した。
「伏せろ」
炎が坑道を走った。
熱が頭上を舐める。
髪の先が焦げる匂いがした。
光が過ぎる。
奥に、何かがいた。
蜥蜴ではない。
馬車ほどもある巨体。
岩のような鱗。
長い首。
喉の奥に赤い光が残っている。
アリアが低く言った。
「ヴァルムドラッヘ……」
「知っているのか」
「Aランク相当の大型魔獣です。火炎と岩盤操作を使います」
「最悪だな」
「はい」
伊織は短剣を構えた。
短剣でどうにかなる相手ではない。
分かっている。
だが、背後に退路がある。
横にはアリアがいる。
足元にはクロがいる。
奥には、まだ誰かがいるかもしれない。
ヴァルムドラッヘの喉が、再び赤く光り始めた。
「二秒」
伊織が言った。
「何がですか」
「発光から火炎まで」
一。
「右へ」
二。
炎が走った。
伊織は右へ跳んだ。
アリアも動く。
クロは低く潜った。
炎が背後の壁を焼く。
坑道の木材が焦げる。
「一度出るぞ」
「同意します」
だが、魔獣が前脚を地面に叩きつけた。
壁が鳴る。
天井から砂と小石が落ちた。
坑道の入口側で、岩が崩れた。
退路が狭まる。
完全には塞がっていない。
だが、すぐに通るには危険だ。
「岩盤操作か」
「はい」
「面倒だな」
「かなり」
伊織は周囲を見た。
正面に大型魔獣。
後方に半崩落。
右に狭い横穴。
左は腐った支柱。
最悪に近い。
だが、まだ詰んでいない。
坑道の奥から、うめき声が聞こえた。
生きている。
伊織は短く息を吐いた。
「アリア」
「はい」
「救助対象がいる。俺が注意を引く。お前は位置を探れ」
「駄目です」
「理由は」
「あなたが死にます」
「まだ死なない」
「まだ、では困ります」
伊織は答えなかった。
ヴァルムドラッヘの喉が光る。
今度は近い。
「クロ」
クロが伊織を見る。
「右の横穴だ。入るな。誘導だけしろ」
クロが低く唸った。
分かったのかどうかは分からない。
だが、動いた。
黒い影が右へ走る。
ヴァルムドラッヘの目がそれを追った。
伊織も走った。
正面へ。
アリアが叫ぶ。
「東さん!」
「火を逸らせ」
喉の光。
二秒。
一。
伊織は左へ跳ぶ。
二。
炎が右肩の横を通過した。
熱い。
だが、生きている。
アリアの風が炎の尾を裂いた。
その隙に、伊織は横穴の入口へ飛び込む。
ヴァルムドラッヘが追う。
巨体が坑道の壁を削った。
岩が砕ける。
狭い。
ここなら、首を十分に振れない。
伊織は壁に背をつけた。
右手が熱を持っていた。
この世界に来て生まれかけたもの。
夜の馬小屋で、指の奥に沈んでいたもの。
銃の感触。
だが、拳銃では足りない。
距離。
鱗。
喉。
発光部。
必要なのは、近くで撃つための銃ではない。
遠くの一点を抜くための形だ。
もっと長い射線。
もっと深く通す力。
伊織は右手を上げた。
空間が歪む。
黒い粒子が集まる。
拳銃ではない。
長い銃身。
重い機関部。
肩に乗る冷たい感触。
ライフル。
この世界には存在しないはずの鋼鉄が、伊織の手に生まれた。
体の奥から熱が抜ける。
膝が沈みそうになる。
それでも、構えた。
アリアの息を呑む気配が、背後で聞こえた。
「それは……」
「説明は後だ」
ヴァルムドラッヘの喉が赤く光る。
二秒。
伊織の視界が、奇妙に静かになった。
線が見えた。
距離。
角度。
壁の反射。
炎の前兆。
喉の奥、赤い光の中心。
ゲームの画面ではない。
現実だ。
だが、体は知っている。
狙うべき場所を。
一。
息を止める。
二。
引き金を引いた。
音は、思ったよりも小さかった。
黒い弾丸が、光を吸い込むように飛ぶ。
ヴァルムドラッヘの喉が弾けた。
赤い光が消える。
炎は出なかった。
魔獣が絶叫した。
坑道が震える。
伊織の右手に、冷たい痛みが走った。
骨の奥を、鉄の針で掻かれたような感覚。
ライフルが黒い粒子になって崩れた。
伊織は膝をつきそうになった。
クロが体を押しつける。
倒れるな、と言っているようだった。
気のせいかもしれない。
伊織は歯を食いしばった。
「まだだ」
喉を失ったヴァルムドラッヘは暴れた。
炎は吐けない。
だが、爪と尾は残っている。
そこへ、アリアの風刃が走った。
脚を裂く。
続いて、坑道の奥から怒鳴り声が響いた。
「伏せろ!」
大斧を持った男が飛び込んできた。
ガルドだった。
後ろに、ベルナもいる。
さらに、治癒師らしき若い男が負傷者を支えていた。
「アリア! 東! 生きてるか!」
「見れば分かる」
「分かりにくいんだよ、お前は!」
ガルドは大斧を振り上げ、喉を失って暴れるヴァルムドラッヘの前脚へ叩き込んだ。
ベルナが反対側から斧を打ち込む。
アリアの風が、魔獣の体勢を崩す。
クロが低く走り、尾の動きを誘導する。
伊織は壁に手をつきながら立ち上がった。
右手が冷たい。
だが、まだ動く。
「右の横穴へ寄せろ」
伊織が言った。
ガルドが一瞬こちらを見る。
「何だと?」
「あそこなら体をひねれない。尾も振れない」
ガルドは横穴を見た。
すぐに理解した。
「ベルナ、右へ寄せるぞ! アリア、風で首を押さえろ! フィン、負傷者を下げろ!」
「はい!」
指示が走る。
伊織は息を整えた。
さっき、視界に見えた線が、まだ薄く残っている。
坑道の幅。
魔獣の体長。
横穴の角度。
崩れかけた支柱。
どこを壊せば、動きが止まるか。
どこを残せば、人が通れるか。
伊織は短く言った。
「左の支柱は落とすな。落とすなら右だ」
「なんで分かる!」
「見れば分かる」
「分かんねえよ!」
それでも、ガルドは従った。
大斧が右側の岩を削る。
アリアの風が砂を払い、ベルナが魔獣の脚を止める。
ヴァルムドラッヘの巨体が横穴に半分入り込んだ。
動きが鈍る。
喉は潰れている。
火は吐けない。
ガルドが吠えた。
「今だ!」
斧が振り下ろされた。
ベルナの一撃が重なる。
アリアの風刃が、傷口を押し広げる。
ヴァルムドラッヘの首が落ちた。
重い音がした。
坑道の中に、砂と血と焦げた匂いが広がる。
誰もすぐには動かなかった。
伊織は壁に背を預けた。
右手を見た。
震えている。
自分の手なのに、少し遠い。
クロが近づき、右手の匂いを嗅いだ。
低く、心配するように鳴いた。
「立てる」
クロは信じていない顔をした。
犬の顔にそういうものがあるのかは、知らない。
だが、そう見えた。
アリアが伊織の前に膝をついた。
「手を見せてください」
「後でいい」
「今です」
声が硬かった。
伊織は少しだけアリアを見た。
冗談ではない目だった。
右手を差し出す。
アリアは触れずに、魔力の流れを見るように目を細めた。
「魔力経路が乱れています。今の武器、相当な負荷がかかっています」
「そうか」
「そうか、ではありません」
アリアの声が、少しだけ強くなった。
「あなたは、守ると言いながら、自分を数に入れていません」
伊織は黙った。
ガルドが近づいてきた。
「お前、Fランクだよな」
「ああ」
「嘘だろ」
「登録証にはそう書いてある」
「そういう話じゃねえ」
ベルナが肩で息をしながら笑った。
「木剣の時から変だとは思ってたけどな」
「変か」
「変だ」
伊織は返事をしなかった。
フィンと呼ばれた治癒師が、奥にいた負傷者を連れて戻ってきた。
「生きています。二人、重傷ですが助かります」
その言葉で、坑道の空気が少しだけ緩んだ。
伊織は目を閉じた。
助かった。
全員ではないかもしれない。
間に合わなかった者もいるかもしれない。
それでも、今ここにいる誰かは助かった。
なら、動いた意味はあった。
右手の冷たさは消えない。
鋼鉄の感触は、まだ骨の奥に残っている。
アリアが静かに言った。
「今の力に、名前はありますか」
「ない」
「では、仮に呼びます」
「何と」
アリアは伊織の右手を見た。
「鋼鉄の具現」
伊織はその言葉を、少しだけ口の中で転がした。
鋼鉄の具現。
悪くない。
だが、名前がついたからといって、理解できたわけではない。
なぜ出たのか。
何を消費したのか。
次も出せるのか。
使い続けたら、どうなるのか。
何も分からない。
分からないものを使った。
その結果、誰かが生きている。
伊織は右手を握った。
答えは出なかった。
ただ、クロが隣にいて、アリアが前にいた。
ガルドが大斧を肩に担ぎ、呆れたように言った。
「帰るぞ。説教は外でまとめてやる」
「いらん」
「いる。山ほどいる」
ベルナが笑った。
アリアは笑わなかった。
「私からもあります」
「お前もか」
「はい」
クロが鼻を鳴らした。
それが、当然だと言っているように聞こえた。
気のせいかもしれない。
伊織は、そう思うことにした。




