第4話 廃坑
ダストヘイブンに戻って三日が経った。
北部遠征の疲れが抜けきらないうちに、ギルドに緊急依頼が入った。
「南部廃坑区域に、Aランク相当の魔獣が出現。周辺集落への被害が確認されている。討伐隊を編成する」
ギルドマスターのヴォルフが、掲示板の前で言った。五十代、元Sランクハンター。白髪交じりの顎鬚と、右目の眼帯が特徴的な男だ。
「Aランクだと」
ガルドが腕を組んだ。
「グラウシュタインより上か」
「比較にならない。廃坑に棲みついた古参の魔獣だ。名前はヴァルムドラッヘ。火炎と岩盤操作を使う。過去に討伐を試みたハンターが三組、全滅している」
食堂が静まり返った。
「今回は六名編成で当たる。ガルド、お前にリーダーを頼む」
「……了解だ」
「アリア=シルヴェイン。魔法支援として参加を要請する」
「はい」
アリアは即座に答えた。
「東伊織」
ヴォルフが伊織を見た。
「お前は――」
「行く」
ヴォルフが言い終わる前に、伊織は答えた。
ヴォルフは少し間を置いた。
「……出発は明朝だ」
夜、伊織は宿の部屋で装備を確認していた。
短剣。予備の刃。包帯。携帯食。
それだけだった。
クロが伊織の膝に乗ろうとして、装備の山に阻まれ、隣に座った。
「Aランクか」
独り言だった。
グラウシュタインでさえ、短剣では傷一つつけられなかった。それより上の相手に、自分は何ができる。
右手を見た。
鋼鉄の具現。
アリアがつけた名前。
あの時――グラウシュタインが吹き飛んだ時――手の中に何かがあった。重くて、冷たくて、見覚えのある形。
見覚えのある、形。
伊織は目を閉じた。
記憶の中に、それがあった。
訓練場。硝煙の匂い。手の中の重さ。引き金を引く感触。
――あれか。
あれが、出るのか。
「……試してみるか」
クロが伊織を見た。
伊織は右手を前に出した。
目を閉じる。
記憶を辿る。重さ。冷たさ。金属の感触。指に馴染む形。
何も、起きなかった。
手のひらは空のままだった。
「……やっぱり、出ないか」
クロが伊織の手に鼻先を押しつけた。
「お前に言われても困る」
伊織は手を下ろした。
出ない。意図しては、出ない。
あの時は――何かが、違った。
アリアが押さえ込まれていた。
それだけじゃない。もっと、何かが――
ノックの音がした。
「東さん」
アリアの声だった。
◆
扉を開けると、アリアが立っていた。
手に、小さな包みを持っていた。
「何だ」
「これを」
包みを差し出した。
受け取って開けると、手袋だった。革製で、指先が補強されている。
「防具屋で見つけました。あなたの手に合うかどうか分かりませんが」
「……なぜ」
「右手を守るためです」
アリアは真っ直ぐに言った。
「あなたの力は、右手から出る。だから――守った方がいいと思いました」
伊織は手袋を見た。
それから、アリアを見た。
「……いくらだった」
「気にしないでください」
「気にする」
「……銀貨二枚です」
「後で返す」
「返さなくていいです」
「返す」
アリアは少し黙った。
「……頑固ですね」
「お前に言われたくない」
アリアが、わずかに笑った。
夜の廊下に、橙色の灯りが落ちていた。
「一つ、聞いていいですか」
アリアが言った。
「ああ」
「明日――怖くないですか」
伊織は少し考えた。
「怖い、という感覚が薄い」
「なぜ」
「失うものが少ないと、怖くない」
アリアはしばらく黙っていた。
「……私は、怖いです」
「そうか」
「あなたが――」
アリアは言葉を止めた。
「……全員、無事に帰りたいです」
それだけ言った。
伊織は何も言わなかった。
「おやすみなさい」
アリアは踵を返した。
「……ああ」
扉を閉める直前、アリアが振り返った。
「東さん」
「なんだ」
「手袋、明日つけてきてください」
それだけ言って、廊下の奥へ消えた。
伊織は手袋を見た。
革の感触が、手に馴染んだ。
クロが伊織の膝に頭を乗せた。
「……お前も心配か」
クロは答えなかった。
ただ、目を閉じた。
伊織も目を閉じた。
革の感触が、まだ手のひらにあった。
◆
廃坑は、街の南東、二時間の行程にあった。
かつて鉄鉱石を採掘していた坑道が、百年前に閉鎖されて以来、魔獣の巣窟になっていた。入口は三つ。内部は複雑に入り組んでいる。
「作戦を確認する」
ガルドが地図を広げた。
「俺とベルナとクラウスが正面から誘引する。アリアとフィンが後方支援。東は――」
「囮をやる」
伊織が言った。
「囮?」
「俺が一番動ける。誘引役は俺の方が向いている」
ガルドは伊織を見た。
「……お前、自分の命を軽く見てないか」
「そういうわけじゃない。適材適所だ」
「アリア、お前はどう思う」
アリアは伊織を見た。
「……東さんが言うなら、信じます」
「信じるって、お前な」
「でも、一つ条件があります」
アリアが伊織を見た。
「私の魔法の射程内から、出ないでください」
伊織は少し間を置いた。
「……了解した」
「約束ですよ」
「ああ」
ガルドは二人を交互に見て、小さく息を吐いた。
「……わかった。東が誘引、アリアが支援。俺たちが仕留める。行くぞ」
坑道の中は暗かった。
アリアの光魔法が、壁を薄く照らしている。足元に砕けた岩。天井から滴る水。遠くに、何かが動く気配。
「いる」
伊織が低く言った。
「感じます」
アリアが頷いた。
「魔力の密度が――普通じゃない」
前方の闇が、動いた。
最初に見えたのは、目だった。
赤い、二つの光点。
それから――巨体が、闇から滲み出てきた。
全長十メートルを超える、蜥蜴に似た形。四肢は岩のように太く、鱗は黒く光っている。背中に、溶岩のような赤い筋が走っていた。喉元が、橙色に輝いている。
ヴァルムドラッヘ。
「散開!」
ガルドの声と同時に、火炎が吐き出された。
壁が溶けた。
伊織は横に転がり、熱波をやり過ごした。髪の毛が焦げる匂いがした。
「東さん!」
「生きてる」
立ち上がる。
ヴァルムドラッヘの目が、伊織を捉えた。
「こっちだ」
走った。
◆
坑道の奥へ、伊織は走った。
ヴァルムドラッヘが追ってくる。足音が地響きになる。天井から岩が落ちてくる。
後ろを見ない。
前だけ見る。
「東さん、左!」
アリアの声。
左の壁が崩れた。伊織は右に跳んだ。岩が、さっきまでいた場所を埋めた。
「ガルドさん、今です!」
アリアの炎が、ヴァルムドラッヘの側面を直撃した。魔獣が怯む。ガルドとベルナが正面から斬りかかる。鱗に刃が弾かれる音がした。
「硬い! 傷がつかない!」
「目と喉が弱点のはずです! 誘引を続けてください!」
伊織は再び走った。
ヴァルムドラッヘが向きを変える。伊織を追う。
喉が、橙色に輝き始めた。
まずい。
「伏せて!」
アリアの声。
伊織は地面に伏せた。
頭上を、炎が通過した。
アリアの風魔法が、ヴァルムドラッヘの火炎を逸らした。天井に直撃し、岩が崩れ落ちる。
坑道が、揺れた。
「崩落する! 退避!」
ガルドの声。
全員が出口へ走った。
伊織も走った。
天井が落ちてくる。足元が崩れる。
出口が見えた。
あと十メートル。
五メートル。
「アリア!」
クロの鳴き声が、外から聞こえた。
振り返った。
アリアが、いなかった。
崩落した岩の向こうに、アリアがいた。
坑道の一部が落ちて、道が塞がれていた。
アリアは岩の向こうで、膝をついていた。
右腕を押さえている。
血が、滲んでいた。
「アリア!」
「……大丈夫です。岩が、少し当たっただけ」
大丈夫じゃなかった。
声が、震えていた。
「動けるか」
「……岩が、重くて」
足が、岩に挟まれていた。
「ガルド!」
「わかってる! 今、回り込む! 東、時間を稼げ!」
ヴァルムドラッヘが、崩落した坑道の奥から這い出てきた。
岩を踏み砕きながら、こちらへ向かってくる。
目が、アリアを捉えていた。
動けない獲物を、見つけた目だった。
伊織は、岩と魔獣の間に立った。
「こっちを見ろ」
低く言った。
ヴァルムドラッヘの目が、伊織に移った。
喉が、輝き始めた。
短剣を構えた。
刃は通らない。それでも、ここに立つ。
アリアが、伊織の背中を見ていた。
「東さん、逃げてください」
「嫌だ」
「でも――」
「お前が言ったんだろ」
伊織は前を向いたまま言った。
「全員、無事に帰りたいって」
アリアは何も言えなかった。
ヴァルムドラッヘが、跳躍した。
◆
伊織の中で、何かが――決まった。
思考ではなかった。
感情でもなかった。
もっと深いところで、何かが、静かに――決まった。
記憶が流れた。
砂の匂い。夜の喫煙スペース。煙草の煙が夜空に溶けていく。
南条の横顔。街灯の光。
「見せたら終わりだろ、この仕事」
「余計なお世話をするのが俺の仕事だから」
「生きろよ」
――南条。
俺は今まで、お前の言葉だけで生きてきた。
それだけで、十分だと思っていた。
でも――
アリアの声が、記憶に混ざった。
「あなたのことが、全然分かりません」
「鋼鉄の具現、はどうでしょう」
「全員、無事に帰りたいです」
――俺はまだ。
捨てていいものを、持っている。
右手が、熱を持つ。
今までと違う。
逃げ場がない熱だ。
——掴め。
皮膚の下から、骨の芯から、何かが――溢れてくる。
指が、形を求めた。
記憶の中にある、あの重さ。あの冷たさ。あの、手に馴染む感触。
今度は――応えた。
完全に。
空間が、歪んだ。
右手の中に、それが“生まれる”。
黒い金属。
光を吸い込む、鋼鉄。
重かった。
冷たかった。
見覚えのある形だった。
SATで使っていた、あの銃だった。
でも――違った。
金属の質感が、違った。
光を吸い込むような、深い黒。鋼鉄の色。
引き金に指をかけた。
迷いはなかった。
——撃てる。
確信があった。
引いた。
音は、しなかった。
だが——
世界が裂けた。
ヴァルムドラッヘの喉元に、それが直撃した。
橙色の輝きが、消えた。
消えた、ではない。
“抜け落ちた”。
魔獣が、後退した。
一歩。
二歩。
それから――崩れた。
巨体が、地面に落ちた。
岩が砕ける音がした。
静寂。
伊織は、右手を見た。
銃は、まだそこにあった。
今度は、消えなかった。
手の中に、確かに――あった。
「……東さん」
アリアの声が、後ろから聞こえた。
振り返った。
アリアが、岩の向こうから伊織を見ていた。
目が、大きく開いていた。
「今――」
「ああ」
「それが――」
「ああ」
アリアはしばらく、何も言えなかった。
それから――
「……鋼鉄の具現」
静かに、言った。
伊織は右手を見た。
銃が、手の中にあった。
鉄のように硬く、鉄のように冷たい。
でも――
「……鍛えれば、何にでもなれる、か」
独り言だった。
銃が、光の粒になって、消えた。
右手が、空になった。
でも今度は――空じゃなかった。
何かが、そこに残っていた。
熱でも、重さでも、ない。
もっと、静かな何かが。
ガルドが岩を退かして、アリアを助け出した。
右腕の傷は深くなかった。骨には異常がない。
「歩けるか」
「……はい」
アリアは立ち上がった。
それから、伊織の方へ歩いてきた。
伊織の前で、立ち止まった。
「約束、守ってくれましたね」
「何の約束だ」
「射程内から出なかった」
伊織は少し考えた。
「……お前が射程内に来た」
「そうですね」
アリアは、わずかに笑った。
「……ありがとうございました」
「礼はいらない」
「言わせてください」
アリアは伊織を見た。
真っ直ぐに、見た。
「ありがとうございました、東さん」
伊織は何も言えなかった。
クロが、二人の間に割り込んで、アリアの手を舐めた。
「……クロ」
アリアがしゃがんで、クロを抱き上げた。
「重い」
「わかってます」
それでも、離さなかった。
◆
廃坑から街へ戻る道、伊織は少し後ろを歩いた。
前を行くアリアが、クロを抱いたまま歩いている。右腕に包帯が巻かれている。
ガルドが伊織の隣に並んだ。
「見たぞ」
小声で言った。
「……ああ」
「あれが、鋼鉄の具現か」
「アリアがそう呼んでいる」
「いい名前だ」
ガルドは少し間を置いた。
「お前、変わったな」
「そうか」
「北部に行く前と、目が違う」
伊織は前を向いたまま、何も言わなかった。
「……悪い意味じゃない」
ガルドは笑った。
「生きてる目になった」
それだけ言って、前へ歩いていった。
街の門が見えてきた頃、アリアが立ち止まった。
振り返って、伊織を見た。
「東さん」
「なんだ」
「一つ、聞いていいですか」
「ああ」
アリアは少し間を置いた。
「あの時――何を、考えていましたか」
伊織は空を見た。
夕暮れが、街を橙色に染めていた。
南条の顔が、一瞬、浮かんだ。
笑っていた。
いつもの、あの顔で。
「……失いたくないと、思った」
静かに言った。
「それだけだ」
アリアは何も言わなかった。
しばらく、伊織を見ていた。
それから――前を向いた。
「……帰りましょう」
「ああ」
二人は並んで、街へ向かって歩いた。
クロが、二人の間を歩いた。
歩調が、揃っていた。
今度は――どちらも、気づいていた。
それでも、直さなかった。
夕暮れの街に、三つの影が伸びた。
伊織は右手を、一度だけ見た。
何も、ない。
でも――
失いたくないと、思った。
それが答えだった。
それだけで、十分だった。
——のはずだった。
右手が、わずかに熱を持つ。
何もない
だが、確かにある。
次は、もっと出せる。
根拠はなかった。
それでも、そう思った。




