第3話 北へ
夜明け前の空は、まだ紺色をしていた。
ギルドの掲示板に貼り出された依頼票を、伊織は無表情で眺めていた。
「北部哨戒路の魔物討伐。アイゼンパクト管轄区域まで同行要員を含む三名編成。報酬——」
「読むの遅い」
背後から声がした。
振り返らなくても分かった。この声は、アリア=シルヴェインのものだ。
「お前が早いんだろ」
「普通の速さです」
アリアは伊織の隣に並んで、依頼票を一瞥した。長い銀髪が、夜明けの薄明かりの中でわずかに揺れた。
「北部は初めてですか」
「ああ」
「寒いですよ。その格好では」
伊織は自分の装備を見下ろした。特に問題があるとは思えなかったが、アリアの視線には何か言いたげなものが含まれていた。
「……忠告、感謝する」
「忠告じゃないです。事実を言っただけ」
そう言って、アリアは先に歩き出した。
クロが伊織の足元に擦り寄り、それからアリアの後を追った。
どっちの味方だ、お前は。
伊織は小さく息を吐いて、二人——一人と一匹——の後を追った。
ギルドの中庭で、三人目のメンバーが待っていた。
「よっ、遅かったじゃないか」
ガルド・ライエン。三十代半ば、元傭兵崩れのベテランハンターだ。顔の左側に古い火傷の跡があり、それが妙に人懐っこい笑顔と不釣り合いだった。
「俺が今回のリーダーだ。よろしくな、新人コンビ」
「コンビじゃないです」
アリアが即座に返した。
「そうか? 俺には同じに見えるけどな」
ガルドは伊織とアリアを交互に見て、にやりと笑った。
伊織は何も言わなかった。
同じには見えないだろう。普通は。
「出発は今すぐだ。北部街道は日が高いうちに距離を稼がないといけない。夜は魔物の活動が活発になる」
ガルドが地図を広げた。ヴァルトハイムの北端、アイゼンパクトの管轄区域まで、徒歩で二日半の行程だった。
「質問は?」
「ない」と伊織。
「特には」とアリア。
「よし。行くぞ」
クロが小さく鳴いた。それが出発の合図になった。
◆
街道を外れると、景色が変わった。
南部の乾いた砂と岩の地形が、少しずつ草原へと移行していく。空気が違う。湿度が高く、風に土の匂いが混じっている。
伊織は黙って歩きながら、その匂いを肺に入れた。
北の空気だ。
記憶が、勝手に動いた。
——南条と二人で、北海道の演習場に入ったのは、確か十一月だった。あの時も、こんな匂いがした。草と土と、遠くに雪の気配。
「伊織さん」
アリアの声で、記憶が途切れた。
「……なんだ」
「三回、同じ石を踏んでいます」
「……そうか」
「考え事ですか」
「いや」
嘘だった。アリアも分かっているだろうと思ったが、彼女はそれ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ歩く位置が近くなった気がした。
気のせいかもしれない。
伊織はそう思うことにした。
昼過ぎに、一行は小さな廃村で休憩を取った。
ガルドが火を起こし、携帯食を温めている間、伊織は村の外れに立って北の空を見ていた。
「南条」
声に出したつもりはなかった。
「誰ですか」
背後にアリアがいた。
「……独り言だ」
「そうですか」
アリアは伊織の隣に立った。北の空を、同じように見た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
風が草を揺らす音だけがあった。
「大切な人ですか」
アリアが、前を向いたまま言った。
伊織は少し間を置いた。
「……昔の相棒だ」
「今は」
「いない」
それ以上は言えなかった。言葉が、喉の手前で止まった。
アリアは何も聞かなかった。
ただ、その場に立っていた。
それが、妙に——伊織には、ありがたかった。
しばらく、風が草を揺らしていた。
伊織は口を開いた。
「……お前には、話しておく方がいいかもしれない」
アリアは伊織を見た。促さなかった。ただ、聞く姿勢になった。
「俺は、この世界の出身じゃない」
アリアはすぐには答えなかった。
少し間を置いて、言った。
「……地図の空白の向こうですか」
「もっと遠い。地図には、ない」
アリアは前を向いた。
また、しばらく黙っていた。
「信じるのか」と伊織は言った。
「あなたが嘘をつく理由が、見当たりません」
それだけだった。
追及しない。疑わない。ただ、受け取る。
伊織は少し——拍子抜けした。
「……驚かないのか」
「驚いています」
アリアは前を向いたまま言った。
「ただ、それを顔に出す必要がないと思っただけです」
伊織は何も言えなかった。
クロが伊織の足元に擦り寄った。
二日目の昼過ぎ、最初の異変があった。
「止まれ」
伊織が低く言った。
御者の老人が手綱を引く。馬が不安そうに首を振った。
「どうしたの」
アリアが囁いた。
「森が静かすぎる」
鳥の声がない。虫の音もない。風だけが、葉を揺らしていた。
伊織は荷台から静かに降りた。腰の短剣に手をかける。SAT時代に叩き込まれた感覚が、皮膚の下で警告を発していた。
右前方。三十メートル。複数。
「アリア、馬車の左側に回れ。老人を守れ」
「え、でも——」
「今すぐ」
アリアは一瞬だけ伊織の横顔を見た。そして黙って動いた。
森の影が、動いた。
最初の一体が飛び出してきたのは、その直後だった。
灰色の巨体。肩までの高さが馬と変わらない。四肢は太く、関節が異様に発達していた。皮膚は岩のように硬質で、光を鈍く反射している。頭部には二本の短い角。目は黄色く、爛々と輝いていた。
グラウシュタイン。
後でアリアに教えてもらった名前だが、この時の伊織にはただの「脅威」だった。
短剣では歯が立たない。直感でわかった。
刃が通る皮膚じゃない。
なら——
伊織の右手が、空を掴んだ。
意識したわけではなかった。ただ、手が動いた。指が、何かを握ろうとした。
何も、なかった。
グラウシュタインが跳躍した。伊織は横に転がり、爪が空を切る音を聞いた。土に手をついて立ち上がる。
「イオリ!」
アリアの声。
炎が走った。赤と橙の奔流が、グラウシュタインの側面を直撃した。魔獣が怯んで後退する。硬質な皮膚が焦げ、煙が上がった。
「数は!」
「四体! 森の中にまだいる!」
伊織は舌打ちした。
一体でも手こずる相手が四体。短剣では傷もつけられない。
どうする。
どうすれば——
右手が、また動いた。
今度は、何かが応えた気がした。
指先に、触れた。
金属。
冷たい。
重い。
——握れる。
一瞬だけ、そう思った。
次の瞬間、消えた。 グラウシュタインが再び突進してくる。伊織は身を低くして躱し、アリアの炎が追撃した。
二体目が森から飛び出した。アリアが風魔法で軌道を逸らし、炎で追い打ちをかける。三体目が馬車の側面に回り込もうとした瞬間、伊織が先回りして正面に立ちはだかった。
「こっちだ」
低く言った。
グラウシュタインの黄色い目が、伊織を捉えた。
突進。
伊織は真横に跳んだ。爪が地面を抉り、土が飛んだ。着地と同時に走り、魔獣の後方へ回り込む。アリアの炎が、正面から叩き込まれた。
四体目が現れた時、アリアの息が上がっていた。
「まだいる——」
「わかってる。持ちこたえろ」
伊織は短剣を構えた。
刃は通らない。それでも、目の前に立つことはできる。
囮でいい。アリアが仕留めればいい。
グラウシュタインが跳躍した。
伊織は動かなかった。
直前、横から炎が奔った。四体目の側面を直撃し、魔獣が空中で体勢を崩した。地面に叩きつけられ、動かなくなる。
静寂。
◆
膝をついたのは、それから一秒後だった。
体の芯から、熱が消えていく。底を打った感覚——何かが、空だった。
何が空なのかも、分からなかった。
ただ、立てなかった。
「伊織さん!」
アリアが駆け寄ってきた。
ガルドが残りのグラウシュタインを片付けている音が、遠くに聞こえた。骨質の尾が地面を叩く音、それから——静寂。クロが伊織の顔を舐めた。
「立てますか」
「……立てる」
「嘘をつかないでください」
立てなかった。
アリアがしゃがみ込んで、伊織の状態を確認し始めた。額に手を当てる。脈を確かめる。それから——眉をひそめた。
「……魔力が、ない」
「は?」
「魔力が枯渇しています」
アリアは伊織の手を見た。
それから、グラウシュタインが吹き飛んだ方向を見た。
硬質の皮膚に、穴が開いていた。
剣では、絶対に通らないはずの場所に。
貫かれた、というより——
“消えていた”。
それから、また伊織の手を見た。
「……あなた、今、何をしていましたか」
「俺が聞きたい」
「……は?」
「分からないんだ。手に何かを握っていた。引いたら、魔物が飛んだ。それだけだ」
アリアは、しばらく黙っていた。
何かを言おうとして、やめた。
また言おうとして、また止まった。
「……魔力が、ない人間が」
「ああ」
「魔力を、使い果たした」
「……そうなのか?」
「そうとしか、説明がつきません」
二人とも、しばらく何も言わなかった。
アリアの表情は、困惑と——それから、何か別のものが混じっていた。
「手を出してください」
「何を——」
「魔力補給です。理屈は後で考えます。早く」
有無を言わせない声だった。
伊織は、右手を差し出した。
アリアが、両手でそれを包んだ。
温かい。
それだけじゃなかった。
何かが、流れ込んでくる。
拒む前に、入り込んでくる。
境界が、曖昧になる。
——どこまでが自分で、どこからがお前だ。
川が合流するような。あるいは、電流が通るような。静かで、でも確かな、熱の移動。
「……っ」
「痛いですか」
「痛くない」
体の芯に、熱が戻ってくる。
アリアの——何かが、伊織の中に馴染んでいく。
なんだ、これ。
俺の中に、他人のものが入ってくる感覚がする。
なのに——なんで、違和感がない。
「……なんで、お前のそれが俺に入るんだ」
「分かりません」
アリアは前を向いたまま言った。
「魔力の補給は、通常、術者と受け手の魔力の波長が合わないと拒絶反応が出ます。相性が悪ければ、逆に体を傷つける」
「……じゃあ、今は」
「合っています」
短い答えだった。
それ以上、何も言わなかった。
伊織も、何も聞かなかった。
繋いだ手の温度が、じわじわと腕を伝って、胸の奥まで届いてくる。
南条と組んでいた頃も、こういう感覚があった。
背中を預けられる、という感覚。
——いや、違う。
これは、もっと近い。
「……少し、楽になりました」
アリアが、静かに言った。
「え?」
「あなたに補給しているのに、私も——少し、楽になっています」
今度は、アリアが困惑する番だった。
「……双方向に、流れています。あなたの中の何かが、私にも返ってきている」
「俺には魔力がないんじゃないのか」
「だから、分からないんです」
アリアは、ようやく伊織の方を見た。
目が、合った。
どちらも、すぐに逸らした。
「……あなたのことが、全然分かりません」
それは、責めているわけじゃなかった。
ただ、本当に——分からない、という声だった。
それと同時に。
もっと知りたい、という声にも、聞こえた。
気のせいかもしれなかった。
伊織は、そう思うことにした。
繋いだ手は、アリアが離すまで——どちらも、離さなかった。
◆
アイゼンパクトは、鉄の街だった。
文字通りの意味で。
城壁は石ではなく鉄で作られていた。建物の外壁にも鉄板が張られ、街灯の柱も、橋の欄干も、市場の屋根も——全部、鉄だった。空気に鉄の匂いが混じっている。炉の熱気が、街全体を薄く包んでいた。
「鉱山都市です」
アリアが歩きながら言った。
「ヴァルトハイム北部最大の鉄鉱石の産地。採掘と製錬が主産業で、ハンターギルドの北部支部もここに置かれています」
「詳しいな」
「調べました。依頼を受ける前に、目的地の情報は必ず確認します」
「……俺は確認しなかった」
「知っています」
アリアは前を向いたまま言った。
「だから私が調べました」
伊織は少し間を置いた。
「……助かる」
「当然のことをしただけです」
そう言ったが、アリアの歩調がわずかに速くなった気がした。
気のせいかもしれない。
クロが伊織の隣を歩きながら、アリアの背中を見ていた。
ギルド北部支部で依頼の完了報告を済ませ、報酬を受け取った。
銀貨十二枚。三人で割ると、一人あたり四枚。
「少ないな」とガルドが言った。
「グラウシュタインが想定外でしたから」とアリアが返した。
「まあ、全員生きてるからよしとするか」
ガルドは銀貨を懐に入れ、伸びをした。
「俺は今夜ここに泊まって、明日別の依頼を見る。お前らは?」
「同じく」とアリア。
「ああ」と伊織。
「じゃあ、飯でも食うか。奢りはしないけどな」
ガルドが笑いながら歩き出した。
伊織はアリアと並んで、その後を追った。
クロが二人の間を歩いた。
◆
宿の食堂は、鉱夫と旅人で混んでいた。
ガルドはすぐに常連らしき男たちと話し込み、伊織とアリアは隅のテーブルに座った。クロは伊織の足元に丸まっている。
料理が来た。鉄板で焼いた肉と、根菜のスープ。パンは固い。
伊織は黙って食べた。アリアも黙って食べた。
沈黙は、不快ではなかった。
「聞いていいですか」
アリアが、スープを一口飲んでから言った。
「ああ」
「昨日の戦闘で——あなたの右手から、何かが出ていました」
伊織は手を止めた。
「見ていたのか」
「見えました。一瞬だけ。光のようなものが、手の中に凝縮して——それから、グラウシュタインが吹き飛んだ」
伊織はパンを置いた。
「俺にも、よく分からない」
「分からない、というのは」
「意図していない。気づいたら、手に何かを握っていた。それが何なのか、今も分からない」
アリアはしばらく考えた。
「魔力の反応ではありませんでした」
「どういう意味だ」
「魔法は、魔力という媒体を使って現象を起こします。炎を出す、風を動かす、物を持ち上げる——全部、魔力の変換です。でも、あなたの手から出たものは、魔力の波長を持っていなかった」
「じゃあ、何だ」
「分かりません」
アリアは正直に言った。
「ただ——」
少し間を置いた。
「あなたの中に、何かがあります。魔力ではない、でも魔力に似た何か。それが、極限状態で外に出た」
「……俺には、そういうものがあるのか」
「あります。確かに」
伊織は右手を見た。
何も見えない。普通の手だ。古い傷跡がある。それだけだ。
「魔力補給の時も、感じました」
アリアが続けた。
「あなたの中のそれが、私の魔力と——共鳴した。だから双方向に流れた。だから私も楽になった」
「共鳴」
「はい。波長が合う、という感覚です。通常、他人の魔力は異物として感じます。でも、あなたのそれは——」
アリアは言葉を止めた。
「……なんだ」
「異物じゃなかった」
少しだけ、声が揺れた。
短く、それだけ言った。
伊織は何も言えなかった。
アリアもそれ以上言わなかった。
食堂の喧騒が、二人の沈黙を包んでいた。
◆
食事を終えて、二人は宿の外に出た。
アイゼンパクトの夜は、ダストヘイブンより寒かった。鉄の街灯が橙色の光を落とし、石畳に長い影を作っている。
クロが伊織の隣を歩いた。
「少し、歩きませんか」
アリアが言った。
「ああ」
二人は街の外縁部へ向かった。城壁の内側、鉄の壁に沿った細い通路。人通りがない。風が、鉄の匂いを運んでくる。
「一つ、聞いてもいいですか」
アリアが前を向いたまま言った。
「さっきも聞いていたが」
「別の話です」
「……どうぞ」
「あなたは——この世界に来て、後悔していますか」
伊織は少し考えた。
「していない」
「なぜ」
「帰る場所がなかった。だから、ここにいることに、特に問題はない」
「帰る場所が、なかった」
アリアは繰り返した。
「……それは、寂しくないですか」
「寂しいという感覚が、よく分からない」
「……そうですか」
アリアは少し黙った。
「私も、似たようなものかもしれません」
「お前が?」
「帰る場所は、あります。でも——帰りたい場所かどうかは、別の話です」
伊織はアリアを見た。横顔が、街灯の光で薄く照らされている。
「……父のことか」
アリアは少し驚いた顔をした。
「……なぜ知っているんですか」
「知らない。ただ、そういう顔をしていた」
アリアはしばらく黙っていた。
「……鋭いですね」
「そうでもない」
「そうでもあります」
二人は歩き続けた。
城壁の角を曲がったところで、アリアが立ち止まった。
「あなたの力に、名前をつけてもいいですか」
唐突だった。
伊織は足を止めた。
「……好きにしろ」
アリアはしばらく考えた。
街灯の光の中で、銀髪が風に揺れた。
「鋼鉄の具現、はどうでしょう」
「……鋼鉄の」
「あなたの意志が、形になる。鉄のように硬く、鉄のように冷たい。でも——」
アリアは伊織を見た。
「鉄は鍛えれば、何にでもなれる」
伊織は何も言わなかった。
右手を見た。
鉄のように硬く、鉄のように冷たい。
——でも、鍛えれば何にでもなれる。
「……悪くない」
それだけ言った。
アリアは小さく頷いた。
「では、そう呼びます」
「ああ」
クロが、伊織の右手に鼻先を押しつけた。
温かかった。
◆
翌朝、出発前にガルドが伊織を呼んだ。
宿の裏手、人気のない路地だった。
「昨日の戦闘のことだ」
ガルドは腕を組んで言った。
「グラウシュタインが吹き飛んだ。あれ、お前がやったな」
「……見ていたのか」
「見てた。アリアの魔法じゃない。方向が違う」
伊織は答えなかった。
ガルドは伊織を見た。値踏みするような目ではなかった。ただ、確認している目だった。
「俺は長くこの仕事をしている。色んなものを見てきた。魔法使い、剣士、獣人、古代の遺物を使う奴——」
少し間を置いた。
「お前のは、そのどれでもない」
「……そうかもしれない」
「隠す気はないのか」
「隠す理由がない。俺自身が分かっていないものを、隠しようがない」
ガルドは少し笑った。
「正直な奴だな」
「そうでもない」
「そうだよ。俺の経験上、正直な奴は大抵そう言う」
ガルドは壁に背中を預けた。
「一つだけ言っておく。お前のそれが何であれ——この世界には、珍しいものを欲しがる奴がいる。力を持つ者を利用しようとする奴が、必ずいる」
「……知っている」
「知ってるか。じゃあいい」
ガルドは立ち上がり、路地の出口へ向かった。
「アリアを守れよ」
振り返らずに言った。
「あいつは強いが、一人で抱えすぎる癖がある。お前みたいな奴が隣にいると、少し楽になるんじゃないかと思う」
伊織は何も言わなかった。
ガルドは笑いながら、路地を出ていった。
路地に、一人残った。
ガルドの言葉が、耳の奥に残っている。
アリアを守れよ。
——守る。
その言葉が、妙に——胸の奥に引っかかった。
南条に言われた言葉とは、違う重さだった。
伊織は右手を見た。
何も、ない。
それでも、握った。
◆
帰路は、来た道を戻った。
北部街道を南へ。草原から砂地へ。空気が乾いていく。
伊織は歩きながら、右手を時々見た。
鋼鉄の具現。
アリアがつけた名前だ。
意志が、形になる。
——俺に、意志があるのか。
南条が死んでから、何かのために動くという感覚が薄れていた。ただ生きていた。ゲームの中で戦車を走らせ、飯を食い、眠った。それだけだった。
なのに、昨日——
アリアが押さえ込まれた瞬間。
手が、動いた。
意識する前に、体が動いた。
それは——何だったのか。
「伊織さん」
アリアの声。
「……なんだ」
「また同じ石を踏んでいます」
「……そうか」
「考え事ですか」
今度は、嘘をつかなかった。
「ああ」
アリアは少し間を置いた。
「……話せそうなら、聞きます」
「今は、まだ」
「分かりました」
それだけだった。
追及しない。待つ。
——南条も、そういう奴だった。
違うのは、南条は煙草を吸いながら待っていた。アリアは、ただ歩きながら待っている。
どちらも、悪くなかった。
クロが伊織とアリアの間を歩いた。
二人の歩調が、いつの間にか揃っていた。
伊織は気づいたが、直さなかった。
アリアも気づいているだろうと思ったが、彼女も直さなかった。
砂地の向こうに、ダストヘイブンの城壁が見えてきた。
「帰ってきましたね」
アリアが言った。
帰ってきた。
伊織はその言葉を、少し反芻した。
帰る場所がない、と言った。
でも——
「……ああ」
短く答えた。
それ以上は、言わなかった。
言葉にすると、何かが変わってしまう気がした。
変わることが——今は、まだ怖かった。
城門をくぐった。
砂埃の匂いがした。
——知っている匂いだ。
伊織は、そう思った。
それだけだった。
……のはずだった。
右手が、わずかに熱を持つ。
何もない。
だが——
確かに、そこに“ある”。
次は、出せる。
根拠はなかった。
それでも、確信していた。




