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第4話 Fランクの条件

 翌朝、ギルドの食堂はまだ半分眠っていた。


 椅子を引く音。


 鍋をかき混ぜる音。


 欠伸を噛み殺す受付の声。


 窓の外では、砂を含んだ風が石畳を撫でている。


 伊織は掲示板の前に立っていた。


 昨日受け取った登録証は、手の中にはない。


 薄い金属製のプレートを、首にかけ直していた。


 胸元で、冷たい感触が揺れている。


 軽い。


 だが、ただの飾りではない。


 この街で、伊織が仕事を受けるための証だった。


 Fランク。


 最下位。


 昨日、この世界で登録したばかりの男には、妥当な扱いだった。


 伊織は掲示板の依頼票を眺めた。


 討伐。


 護衛。


 採取。


 荷運び。


 失踪者捜索。


 魔獣の足跡調査。


 文字は読める。


 正確には、読めているというより、意味だけが頭の中に流れ込んでくる。


 便利ではある。


 だが、慣れない。


 知らない文字を、知っている言葉として理解している。


 脳の奥で、誰かが勝手に帳尻を合わせているようだった。


 伊織は一枚の依頼票に手を伸ばした。


 南門近くの干し肉倉庫に入り込んだ小型魔獣の駆除。


 危険度、低。


 報酬、銀貨一枚。


 今日の飯と宿代にはなる。


 そう判断した時、横から白い指が伸びてきた。


「それはやめた方がいいです」


 アリアだった。


 朝から隙のない格好をしている。


 白と銀の軽鎧。


 背中の双剣。


 銀白色の髪は、今日は高い位置で結ばれていた。


 クロが伊織の足元から顔を上げる。


 アリアを見た。


 唸らない。


 ただ、半歩だけ伊織の足元に寄った。


 それがクロなりの距離だった。


「理由は」


 伊織が聞く。


「倉庫内の小型魔獣は、だいたい巣を作っています。一匹見つけたら、十匹います」


「十匹なら銀貨一枚は安いな」


「そういう問題ではありません」


「そういう問題でもある」


 アリアは伊織を見た。


 少しだけ、眉が動いた。


「あなた、本当に昨日登録したばかりなんですよね」


「ああ」


「Fランクの規定を聞きましたか」


「最低ランクだとは聞いた」


「それだけですか」


「それだけだ」


 アリアは小さく息を吐いた。


 呆れたような息だった。


 だが、完全に呆れているわけでもない。


 伊織には、少し判別しにくかった。


「受付で確認した方がいいです」


「依頼の前にか」


「依頼の前にです。死んでから規定を知っても遅いので」


「正しいな」


「正しいです」


 アリアは依頼票から手を離し、受付へ向かった。


 伊織も続いた。


 クロがその間を歩く。


 三人、というには一匹混じっている。


 だが、昨日よりは違和感が少なかった。



 受付の女は、伊織の登録証を確認してから、書類を一枚取り出した。


「Fランクの条件ですね」


「ああ」


「昨日、説明できていませんでした。試験後は混み合っていましたから」


「問題ない」


「問題あります」


 アリアが横から言った。


 受付の女は少し笑った。


「Fランクの方が単独で受けられる依頼は、原則として街中か、城壁のすぐ近くの低危険度依頼に限られます。小型魔獣の駆除、荷運び、採取補助、簡単な見回りなどですね」


「討伐は」


「単独なら小型までです。中型以上の魔獣討伐、街道護衛、荒野での依頼は、Eランク以上、または上位ランクの同行保証が必要です」


「同行保証」


「上位ハンターが責任者として同行する場合、Fランクでも一部の依頼に参加できます。ただし、報酬配分と責任は保証者側に大きく偏ります」


 受付の女は、ちらりとアリアを見た。


「たとえば、アリア様が保証者になれば、東さんはDランク相当までの依頼に同行できます」


「Dランクまでか」


「通常は、です」


 アリアが言った。


「例外的に、ギルドが認めた場合はCランク相当まで参加できます。ただし、新人を危険に晒すので、保証者の評価にも響きます」


「お前に不利ということか」


「失敗すれば、そうなります」


「なら、無理に組む必要はない」


 伊織が言うと、アリアは即座に答えた。


「私は、あなたを観察すると決めました」


「研究対象としてか」


「今のところは」


「便利な言葉だな」


「正確な言葉です」


 受付の女は二人を交互に見た。


 何かを言いたそうだったが、言わなかった。


「それと、クロについてですが」


 受付の女が書類に視線を落とした。


「ギルド規定では、魔獣犬を依頼に同行させる場合、飼い主または契約者の管理責任が発生します」


「契約者?」


「従魔契約を結んでいれば、登録できます。結んでいない場合は、仮同行扱いです。街中で問題を起こした場合、東さんの責任になります」


 伊織は足元を見た。


 クロは受付の女を見上げていた。


 大人しくしている。


 少なくとも、今は。


「こいつが人を噛んだら、俺の責任か」


「はい」


「俺が人を殴った場合は」


「それも東さんの責任です」


「分かりやすい」


「分かりやすいですね」


 アリアが言った。


 クロが小さく鼻を鳴らした。


 受付の女は苦笑した。


「ひとまず、クロは仮同行で記録しておきます。三回依頼に同行して問題がなければ、正式登録の審査ができます」


「犬にも審査があるのか」


「魔獣犬ですから」


「そうか」


 伊織はクロを見た。


「聞いたか。三回、問題を起こすな」


 クロは答えなかった。


 ただ、尻尾を一度だけ動かした。


 分かっているのかもしれない。


 気のせいかもしれない。


 伊織は、そう思うことにした。


 受付の女が依頼票の束をめくった。


「今日でしたら、東さんが受けられる依頼はこのあたりです」


 小型魔獣駆除。


 旧水路の点検補助。


 倉庫の荷運び。


 南門付近の見回り。


 報酬は低い。


 だが、Fランクとしては妥当なのだろう。


 アリアは一枚の依頼票を指した。


「これがいいです」


 旧水路脇の排水溝に棲みついた砂鼠の駆除。


 推定数、三から五。


 危険度、低。


 報酬、銀貨二枚。


 管理人から昼食支給。


「昼食がつくからか」


 伊織が言う。


「それも理由の一つです」


「正直だな」


「嘘をつく理由がありません」


 昨日、似たような言葉を自分が言った気がした。


 伊織は短く息を吐いた。


「受ける」


「では、受理します」


 受付の女は依頼票に判を押した。


 その時、少しだけ声を落とした。


「一つ、注意を」


「何ですか」


 アリアが聞く。


「昨日から南門付近で、見慣れない荷馬車が何度か出入りしています。水路沿いは人通りが少ないので、念のため」


 伊織は顔を上げた。


 荷馬車。


 深夜の車輪の音。


 左手首の鎖。


 ばらばらの点が、頭の中で並びかける。


 まだ、線にはならない。


 アリアが伊織を見た。


「心当たりが?」


「ない」


「今の間は、心当たりがある時の間です」


「気のせいだ」


「そうですか」


 アリアは追及しなかった。


 だが、覚えている顔だった。


 クロが足元で、低く鼻を鳴らした。



 南門へ向かう通りは、朝の荷運びで混んでいた。


 木箱を積んだ荷車。


 革袋を背負った商人。


 鍛冶場へ向かう職人。


 子供の声。


 馬の匂い。


 鉄の匂い。


 砂の匂い。


 昨日は、どれも知らないものだった。


 今日は少しだけ、区別がつく。


 伊織は人の流れの中を歩きながら、視線だけを動かしていた。


 出口。


 路地。


 高い場所。


 人の流れに逆らう者。


 足を止めている者。


 見すぎない。


 一点を追わない。


 視野の端で拾う。


「東さん」


「なんだ」


「あなた、歩いている時も休んでいませんね」


「歩いている」


「そういう意味ではありません」


 アリアは隣を歩きながら、通りの先へ目を向けた。


「ずっと周囲を見ています」


「癖だ」


「疲れませんか」


「慣れた」


「慣れるものですか」


「慣れないと死ぬ」


 アリアは少し黙った。


 それから、前を向いたまま言った。


「前の仕事は、ずいぶん物騒だったんですね」


「ああ」


「聞かない方がいいですか」


「今は」


「分かりました」


 それだけだった。


 追及しない。


 待つ。


 南条も、そういう奴だった。


 伊織はその考えを、すぐに押し込めた。


 比べることではない。


 そう思った。


 クロがふいに足を止めた。


 伊織も止まる。


 アリアは二歩進んでから、振り返った。


「どうしましたか」


「クロ」


 クロは路地の奥を見ていた。


 狭い路地。


 積まれた木箱。


 古い布。


 空の樽。


 その奥に、荷馬車の車輪跡があった。


 新しい。


 まだ砂が崩れきっていない。


 伊織はしゃがみ、車輪跡を見る。


 幅が広い。


 荷が重い。


 車輪の片側だけ、深く沈んでいる。


 左側に重心が寄っていた。


「荷が偏っていたんですか」


 アリアが横にしゃがんだ。


「たぶんな」


「普通の荷馬車では?」


「普通の荷馬車だ」


「では」


「普通に見えるようにした荷馬車かもしれない」


 アリアは伊織を見た。


「疑いすぎでは?」


「そうかもしれない」


「否定しないんですね」


「疑って損をすることは少ない」


「信じて得をすることもあります」


 伊織は答えなかった。


 雨。


 廃工場。


 南条の背中。


 記憶が、ほんの一瞬だけ動く。


 伊織は目を細めた。


 今は、関係ない。


 そう思うことにした。


 クロが車輪跡に鼻を近づける。


 低く唸った。


 短い。


 それだけで、伊織は立ち上がった。


「依頼が先だ」


「追わないんですか」


「情報が足りない」


「意外と冷静ですね」


「追っていい結果になったことが少ない」


 アリアは何も言わなかった。


 ただ、伊織の横顔を一度だけ見た。



 旧水路管理小屋は、南門の内側にあった。


 街の水路は、古い石組みで作られている。


 地面の下を細い流れが走り、余った水を南の排水溝へ逃がしているらしい。


 管理小屋は低い石造りの建物だった。


 扉の前で、痩せた老人が待っていた。


 白い髭。


 曲がった背中。


 手には錆びた鍵束。


「ギルドの人かい」


「ああ」


 伊織が答える。


 老人はアリアを見て、目を丸くした。


「……Sランクのアリア様じゃないか。砂鼠にSランクが来るとは、うちの水路も出世したもんだ」


「今日は保証者です」


「保証者?」


「Fランクの同行保証です」


 アリアは淡々と言った。


 老人は伊織を見た。


「そっちの兄さんがFランクか」


「昨日登録した」


「昨日」


 老人は伊織を上から下まで見た。


 革ジャケット。


 カーゴパンツ。


 ブーツ。


 そしてクロ。


「変わった組み合わせだ」


「よく言われる」


「だろうな」


 老人は笑い、錆びた鍵で水路の扉を開けた。


 湿った空気が漏れてくる。


 石と水と、古い苔の匂い。


 その奥に、獣臭が混じっていた。


 クロが低く唸る。


「いるな」


「はい」


 アリアが頷いた。


「魔力は弱いですが、複数います。四、いえ五」


「依頼書通りだ」


 老人が胸を撫で下ろす。


 伊織は奥を見た。


 暗い。


 狭い。


 左右に分岐がある。


 水音で足音が消える。


 悪い場所だ。


「灯りは」


「私が出します」


 アリアが指先を動かす。


 小さな光球が浮かんだ。


 淡い白い光が、通路の先を照らす。


 伊織は短剣を抜いた。


 昨日、ギルドから借りたものだ。


 手に馴染まない。


 だが、ないよりはましだった。


「拳銃は使わないんですか」


 アリアが聞いた。


「出ればな」


「試してみますか」


「中ではやらない」


「理由は」


「何が出るか分からない。狭い場所で分からないものを使うと、味方を殺す」


 アリアは少しだけ目を細めた。


「……なるほど」


「不満か」


「いいえ。合理的です」


 そう言ってから、少しだけ付け加えた。


「あなたにしては」


「余計だ」


「事実です」


 クロが鼻を鳴らした。


 どちらに同意したのかは分からない。



 水路の中は、思ったよりも狭かった。


 一人が通るには十分。


 二人並ぶには少し窮屈。


 水は足首ほどの深さで、冷たい。


 石壁には苔が生え、ところどころに古い金属管が露出している。


 伊織は前を歩いた。


 クロがその少し先。


 アリアは後ろ。


 光球は三人の頭上に浮いている。


「前に出すぎです」


 アリアが言った。


「見えない場所をクロだけに行かせたくない」


「それは分かりますが、あなたが前に出すぎると私の魔法が撃ちにくいです」


「射線か」


「はい」


「なら、合図を決める」


「今?」


「今」


 伊織は足を止めた。


 水音だけが、通路に響く。


「俺が下がると言ったら、撃て」


「それだけですか」


「それだけだ」


「雑ですね」


「短い方がいい」


「では、私が『右』と言ったら、右壁側へ寄ってください。『左』なら左壁側です」


「分かった」


「クロは?」


 クロが振り返った。


 伊織は少し考えた。


「鼻を鳴らしたら止まる。唸ったら敵。吠えたら伏せる」


「分かるんですか」


「たぶん」


「たぶん」


「今から確かめる」


 アリアは一瞬、何かを言いかけた。


 だが、やめた。


「……分かりました」


 その直後だった。


 クロが鼻を鳴らした。


 伊織は止まる。


 アリアも止まった。


 前方の水面が、わずかに揺れている。


 右の横穴。


 暗い。


 そこから、何かがこちらを見ていた。


 目が二つ。


 低い位置。


 小さい。


「砂鼠か」


「はい。ですが」


「一匹じゃない」


「はい」


 水面が弾けた。


 三匹が同時に飛び出してきた。


 体長は猫ほど。


 だが、前歯が長い。


 爪も硬そうだった。


 伊織は一歩引いた。


「下がる」


 言った瞬間、アリアの光矢が飛んだ。


 一匹の頭部を貫く。


 伊織は残り二匹のうち、手前に来た一匹を短剣の柄で叩いた。


 刃ではない。


 柄だ。


 水路で血を撒くと、他の魔獣を呼ぶ可能性がある。


 砂鼠が石壁に当たり、落ちる。


 クロがもう一匹に飛びかかった。


 低い姿勢。


 喉元を噛む。


 水が跳ねた。


 終わるのは早かった。


「いい連携でした」


 アリアが言った。


「まだ三匹だ」


「五匹と感知しました」


「なら、あと二匹」


 クロが低く唸った。


 前ではない。


 後ろだ。


 伊織は振り返った。


 背後の水面が揺れている。


 さっき通ってきた場所。


 石壁の隙間から、二匹がこちらを狙っていた。


 挟まれた。


 伊織は短剣を持ち替える。


「右」


 アリアの声。


 伊織は右壁に寄った。


 光矢が肩の横を通過する。


 一匹を撃ち抜く。


 残り一匹が、水面を蹴ってアリアへ跳んだ。


 速い。


 距離が近い。


 伊織の右手が熱を持った。


 握ろうとした。


 重さ。


 冷たさ。


 引き金。


 黒い輪郭が、手の中に生まれかける。


 だが、形にならない。


 崩れる。


 まだ出ない。


 伊織は短剣を投げた。


 刃ではなく、柄を前にして。


 砂鼠の横腹に当たる。


 軌道が逸れた。


 アリアの横を抜け、石壁にぶつかる。


 クロが跳んだ。


 水しぶき。


 短い唸り。


 それで終わった。


 静かになった。


 水音だけが戻ってくる。


 伊織は右手を開いた。


 何もない。


 熱だけが、少し残っている。


 アリアがそれを見ていた。


「今のは」


「出なかった」


「何を出そうとしたんですか」


「分からない」


「昨日の黒いものですか」


「たぶん」


「たぶんが多いですね」


「俺にも分からない」


 アリアは伊織の手を見る。


 観察する目だった。


 だが、その奥に少しだけ違う色があった。


 心配。


 そう見えた。


 見間違いかもしれない。


「無理に出そうとしないでください」


「必要なら出す」


「必要かどうかを、あなた一人で決めないでください」


 伊織はアリアを見た。


 アリアは視線を逸らさなかった。


「私は保証者です」


「研究者じゃないのか」


「今は保証者です」


「便利な立場だな」


「責任がある立場です」


 伊織は黙った。


 責任。


 その言葉は、軽くなかった。


「分かった」


「本当に?」


「本当だ」


「信用していいんですね」


「たぶん」


「東さん」


「分かった」


 アリアはようやく頷いた。



 砂鼠は五匹で全部だった。


 死骸を袋に入れ、水路の奥を確認する。


 巣は小さかった。


 枯れ草。


 布切れ。


 木片。


 そして、細い金属片がいくつか混じっていた。


 伊織はその一つを拾った。


 黒く塗られている。


 ただの金属片だ。


 だが、形に見覚えがあった。


 鎖の一部。


 切れた輪のような形。


 アリアが横から覗き込む。


「それは?」


「分からない」


「水路に落ちた古い鎖では?」


「かもしれない」


 伊織は金属片を鼻に近づけた。


 油の匂い。


 古い水路の匂いではない。


 比較的新しい。


 クロが低く唸った。


 アリアの表情が変わる。


「クロが反応しています」


「ああ」


「依頼書には、砂鼠だけとありました」


「砂鼠だけなら、鎖は落ちていない」


「誰かがここを使った?」


「たぶんな」


 伊織は金属片を布に包み、ポケットに入れた。


「報告しますか」


「する」


「全部?」


 伊織は少し黙った。


 前なら、言わなかったかもしれない。


 情報を自分の中で整理してから動く。


 それが癖だった。


 だが、さっきアリアは言った。


 必要かどうかを、一人で決めるな。


「ギルドには砂鼠の件を報告する。金属片は、まずお前に見せた」


「今、見ています」


「そうだな」


「……つまり、隠さないということですか」


「たぶん」


「また、たぶん」


「慣れてない」


 アリアは少しだけ目を丸くした。


「何にですか」


「誰かと情報を共有することに」


 水音がした。


 通路の奥で、小さく響く。


 アリアは何も言わなかった。


 しばらくして、静かに頷いた。


「では、慣れてください」


「努力する」


「努力で済ませないでください」


「厳しいな」


「保証者なので」


「研究者じゃなかったのか」


「両方です」


 クロが二人の間を通り抜け、出口の方へ歩き出す。


 先に行くぞ、と言っているようだった。


「行くか」


「はい」


 三人は水路を戻った。



 管理小屋の老人は、袋に入った砂鼠を見て満足そうに頷いた。


「助かったよ。夜になると天井裏まで走り回ってな。眠れやしなかった」


「巣は処理した」


 伊織が言う。


「水路の奥に金属片がありました」


 アリアが続けた。


 老人は眉をひそめた。


「金属片?」


「最近、誰かが水路を使った可能性があります」


 老人の顔色が少し変わった。


「わしは知らんよ」


「疑っているわけではありません」


 アリアの声は冷静だった。


「ただ、南門付近で荷馬車の出入りが増えていると聞きました。水路に繋がる裏口はありますか」


 老人はしばらく黙っていた。


 それから、鍵束を握り直した。


「古い搬入口がある。今は使ってない。南の排水口近くに、鉄格子の扉が一つ」


「鍵は」


「わしが持ってる。開けてない」


「合鍵は」


 老人は答えなかった。


 それが答えだった。


 伊織は管理小屋の奥を見た。


 古い棚。


 錆びた工具。


 地図。


 その端に、黒い油染みがあった。


 小さい。


 だが、新しい。


「最近、誰か来たか」


「……二日前、若い男が一人。水路の地図を見たいと言ってきた。商会の者だと言っていた」


「名前は」


「覚えておらん」


「左手首に、何か巻いていなかったか」


 老人は目を細めた。


「……黒い布を巻いていた気がする」


 鉄の鎖ではない。


 隠していた。


 伊織はアリアを見た。


 アリアも伊織を見た。


 線が、少しだけ見えた。


 まだ細い。


 だが、ある。


「その男がまた来たら、ギルドに知らせてください」


 アリアが言った。


「分かった」


 老人は頷いた。


 それから、思い出したように小さな包みを差し出した。


「昼飯だ。約束だったろう」


 中には、固いパンと干し肉、それから豆を潰したものが入っていた。


 伊織は受け取った。


「助かる」


「礼はいい。夜に眠れるなら安いもんだ」


 老人はクロを見た。


「犬にもやってくれ」


 小さな干し肉が一枚追加された。


 クロが尻尾を一度だけ動かす。


「礼を言え」


 クロは鼻を鳴らした。


 老人は笑った。



 ギルドへ戻る道で、アリアは包みの中のパンを見ていた。


「固いですね」


「食える」


「食べ物に対する基準が低すぎます」


「腹に入ればいい」


「それは間違っています」


「そうか」


「食事は、身体機能の維持だけではありません。精神状態にも影響します」


「研究か」


「常識です」


 アリアはパンを少し割り、クロに差し出そうとした。


 クロは匂いを嗅いだ。


 食べなかった。


「……拒否されました」


「干し肉があるからな」


「選り好みするんですか」


「する」


「意外と贅沢ですね」


「誰に似たんだろうな」


 クロが伊織を見た。


 アリアも伊織を見た。


「俺じゃない」


「私は何も言っていません」


「目が言っていた」


「便利な翻訳機能ですね」


「これは翻訳じゃない」


 アリアが少しだけ笑った。


 本当に少しだけだった。


 だが、昨日より自然だった。


 伊織はそれを見て、すぐに視線を外した。


 見ていたと気づかれるのが、少し面倒だった。


 ギルドの前に近づいた時、クロが足を止めた。


 伊織も止まる。


 アリアも、今度はすぐに止まった。


「またですか」


「ああ」


 通りの向こう。


 露店の陰に、男が立っていた。


 黒い外套。


 顔はよく見えない。


 ただ、左手首に黒い布が巻かれている。


 男は伊織たちを見ていた。


 視線が合う。


 一秒。


 二秒。


 男は何も言わなかった。


 踵を返し、人混みに消えた。


 追える距離だった。


 伊織は動かなかった。


 アリアが、少しだけ前に出かけて止まる。


「追わないんですか」


「罠かもしれない」


「その可能性はあります」


「それに、今はお前がいる」


 アリアが伊織を見た。


「それは、私が邪魔という意味ですか」


「違う」


「では」


「保証者を危険に晒すと、俺の評価に響くんだろ」


 アリアは一瞬だけ黙った。


 それから、わずかに眉を寄せた。


「……そういう言い方をしますか」


「規定の話だ」


「規定の話ですね」


 クロが鼻を鳴らした。


 アリアは小さく息を吐いた。


「今の判断は、正しいです」


「そうか」


「ただし、言い方は減点です」


「点数制か」


「Fランクなので」


 伊織は短く息を吐いた。



 三人はギルドへ入った。


 食堂の喧騒が戻ってくる。


 椅子の音。


 皿の音。


 誰かの笑い声。


 昨日までは、ただ騒がしいだけの場所だった。


 今は少し違う。


 ここに戻れば、依頼を報告できる。


 報酬を受け取れる。


 誰かがいて、誰かが飯を食っている。


 そういう場所だった。


 伊織はポケットの中の金属片を握った。


 冷たい。


 登録証とは違う冷たさだった。


 右手は熱を持たなかった。


 だが、クロは低く唸っている。


「報告に行くぞ」


 伊織が言うと、アリアは頷いた。


「はい。全部、です」


「分かっている」


「本当に?」


「たぶん」


「東さん」


「……分かっている」


 受付で依頼完了を報告した。


 砂鼠五匹。


 巣の処理。


 旧水路の異常なし。


 そこまでは、普通の報告だった。


 伊織は布に包んだ金属片をカウンターに置いた。


 受付の女の表情が変わった。


「これは……?」


「水路の巣に混じっていた」


 伊織は答えた。


「古い鎖の破片にも見えるが、油の匂いが新しい。クロも反応した」


 受付の女はすぐに奥へ引っ込んだ。


 戻ってきた時、隣に一人の男がいた。


 ガルドだった。


 昨日の登録試験場で見た試験官とは違う。


 だが、同じ種類の目をしていた。


 戦い慣れて、生き残ってきた人間の目だ。


「見せろ」


 ガルドは短く言った。


 伊織は金属片を差し出した。


 ガルドはそれを指先でつまみ、光にかざした。


 しばらく黙っていた。


 それから、低く言った。


「どこで拾った」


「旧水路だ」


「南門側か」


「ああ」


「……面倒だな」


 ガルドの声から、軽さが消えた。


 アリアが一歩近づく。


「知っているものですか」


「たぶんな」


 ガルドは金属片をカウンターに置いた。


「これは、ただの鎖じゃない。南部廃坑の古い搬入口に使われていた鎖と同じ材だ」


「廃坑?」


 伊織が聞いた。


「ダストヘイブンの南東にある古い鉱山跡だ。百年前に閉鎖されてから、今はほとんど使われていない。水路の一部が、そこへ続く古い搬入口とつながっている」


 アリアの表情が変わった。


「つまり、誰かが旧水路を通って、廃坑側へ荷を運んでいる可能性がある」


「そういうことだ」


 ガルドは伊織を見た。


「お前、南門付近で何か見たか」


 伊織は少し間を置いた。


 ここで黙る理由はない。


 そう判断した。


「昨日、ギルドを出た時、荷馬車を見た。御者の左手首に鉄の鎖が巻かれていた」


 アリアが伊織を見る。


 聞いていない、という顔だった。


 だが、責める声は出さなかった。


 伊織は続けた。


「今朝、南門へ向かう途中で、新しい車輪跡を見た。荷が偏っていた。水路の管理人は、二日前に黒布を左手首に巻いた男が水路の地図を見に来たと言っていた。帰り道にも、黒い外套の男を見た。左手首に黒い布」


 ガルドは黙って聞いていた。


 聞き終えると、短く息を吐いた。


「鉄鎖団だな」


 その名前を聞いた瞬間、受付の女の顔色が変わった。


 アリアも、わずかに眉を寄せた。


「鉄鎖団?」


 伊織が聞く。


「盗賊、密輸屋、魔獣売り。呼び方はいくつかあるが、要するに裏の組織だ。魔獣、古代遺物、違法魔道具。金になるものなら何でも運ぶ」


「左手首の鎖は」


「印だ。堂々と見せる奴もいるし、黒布で隠す奴もいる」


 伊織は、昨日の御者の手首を思い出した。


 気にする理由がなかった。


 まだ、なかった。


 今は違う。


「廃坑を調べる必要がある」


 アリアが言った。


「待て」


 ガルドが手を上げた。


「調べるのはいい。だが、これはFランクの仕事じゃない」


 伊織は何も言わなかった。


 それは、さっき説明されたばかりだった。


 Fランクは、街中と城壁近くの低危険度依頼まで。


 上位者の同行保証があっても、通常はDランク相当まで。


 廃坑は違う。


 明らかに、それ以上だ。


「なら、俺は外れる」


 伊織が言うと、アリアが即座に振り向いた。


「なぜですか」


「規定だ」


「あなたは発見者です」


「発見者でもFランクだ」


「私が保証者になります」


「保証者がいれば何でも通るわけじゃないと聞いた」


 アリアは言葉を止めた。


 ガルドが少しだけ笑った。


「正論だな」


「笑うところか」


「いや、悪くない。規定を理解した新人は長生きする」


 ガルドはカウンターに置かれた金属片を見た。


「今回は討伐依頼じゃない。あくまで確認調査だ。南部廃坑の外周と搬入口を確認する。内部深くには入らない。危険があれば即撤退。それなら、発見者として同行する理由は作れる」


「都合のいい解釈ですね」


 アリアが言った。


「ギルドってのは、だいたい都合のいい解釈で回ってる」


 ガルドは肩をすくめた。


「責任者は俺がやる。アリア、お前は保証者。東は発見者兼、現場確認。クロは匂いを追えるなら役に立つ」


 クロが鼻を鳴らした。


 自分の名前が出たのは分かったらしい。


「決まりか」


 伊織が聞く。


「まだだ」


 ガルドは受付の女を見る。


「ヴォルフに通す。正式な調査依頼として組む。出発は明朝。今日の夜に準備だ」


「ヴォルフ?」


「ギルドマスターだ。元Sランク。面倒ごとが嫌いで、面倒ごとの匂いには敏い」


「会うのか」


「今からな」


 ガルドは金属片を布に戻し、伊織へ渡した。


「お前が持っていろ。拾ったのはお前だ」


 伊織は受け取った。


 冷たい感触が、布越しに残る。


 アリアが伊織を見ていた。


「何か」


 伊織が聞く。


「今度は、最初から話しましたね」


「途中からだ」


「それでも、話しました」


「……そうか」


「はい」


 クロが伊織の足元に戻ってきた。


 鼻先で、ポケットを軽く押す。


 金属片の入った場所だった。


「分かっている」


 伊織は低く言った。


 クロは鼻を鳴らした。


 何かが始まっている。


 昨日、そう思った。


 今日は、少し違った。


 何かはもう、始まっていた。


 こちらが気づくより前に。


 ずっと。


 そして明日、その入口へ向かう。


 南部廃坑。


 そこに何があるのかは、まだ分からない。


 だが、伊織はポケットの中の金属片を握った。


 冷たい。


 右手は、熱を持たなかった。


 それでも。


 何かを握ろうとする感覚だけは、確かに残っていた。


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