第3話 登録試験
夜明けとともに、伊織は馬小屋を出た。
背中が痛い。
地面で寝たのは久しぶりだった。SAT時代の訓練で慣れていたはずだが、あれから何年も経っている。
クロが体を伸ばし、伊織の隣に並んだ。
ギルドの裏手にある訓練場では、すでに十数人が集まっていた。
剣を持った者。
斧を担いだ者。
弓を背負った者。
杖を手にした若者。
年齢も体格もばらばらだったが、共通していることが一つあった。
全員が、武器を持っている。
伊織は何も持っていなかった。
腰に短剣すらない。昨日、この街に来たばかりの異邦人だ。金もない。装備もない。あるのは、着古した革ジャケットと、足元にいる黒い犬だけだった。
視線が向けられる。
値踏みする目。
嘲る目。
無関心を装う目。
伊織は気にしなかった。
人間は、知らないものを測ろうとする。
それだけのことだ。
クロが低く鼻を鳴らした。
「気にするな」
伊織が言うと、クロは黙って足元に座った。
その時、訓練場の奥から男が歩いてきた。
四十代ほど。
傷だらけの顔。
右目に眼帯。
太い腕。
歩き方に無駄がない。
元ハンターか。
あるいは、今も現役か。
男は集まった者たちを見渡した。
「試験の説明をする」
低い声だった。
よく通る。
「今日の試験は三段階だ。第一、基礎体力測定。第二、模擬戦闘。第三、実戦――砦の外に出て、魔獣の討伐を行う」
数人がざわついた。
男は続けた。
「全段階を通過した者のみ、ハンター登録を認める。途中棄権は自由だ。ただし、死んでも文句は言うな」
最後の一言で、何人かの顔色が変わった。
伊織は変わらなかった。
死ぬ可能性がある試験。
そう聞いても、胸の奥は動かなかった。
死にたいわけではない。
ただ、死を遠いものだと思う習慣が、もうなかった。
「質問は?」
誰も手を挙げなかった。
「始める」
基礎体力測定は、単純だった。
走る。
重いものを持つ。
高い壁を登る。
ただ、それだけだ。
だが、単純なものほど差が出る。
走り方。
呼吸。
重心。
足の運び。
腕の振り。
疲労した後の姿勢。
伊織は淡々とこなした。
速く見せる必要はない。
強く見せる必要もない。
必要な分だけ動く。
余計な力を使わない。
最後まで落ちない。
SAT時代の訓練は、これより遥かに過酷だった。
炎天下での装備走。
雨の中での突入訓練。
眠れないまま続く想定演習。
失敗すれば、罵声が飛ぶ。
頭が諦めても、体は動く。
それが、伊織にとって唯一信頼できるものだった。
測定が終わった時、伊織は三番目の成績だった。
一番ではない。
だが、装備なしの異邦人としては十分だった。
試験官が、初めて伊織を正面から見た。
伊織は何も言わなかった。
クロが足元で、尻尾を一度だけ動かした。
第二試験は、模擬戦闘だった。
木製の武器を使った一対一の組み手。
勝敗だけではなく、動き、判断、危険への対処を見るらしい。
伊織に渡されたのは、木剣だった。
軽い。
手に馴染まない。
刃がない。
反動もない。
重心も甘い。
だが、武器は武器だ。
相手は、大柄な斧使いだった。
身長は伊織より頭一つ分高い。肩幅が広く、腕が太い。正面からぶつかれば、力で押し潰される。
男は木斧を肩に担ぎ、伊織を見下ろした。
「武器も持たずに来たのか」
「ああ」
「舐めてるのか?」
「金がない」
周囲で何人かが笑った。
男は笑わなかった。
少しだけ、拍子抜けした顔をした。
「……正直だな」
「隠す理由がない」
「まあいい。怪我しても恨むなよ」
「そっちもな」
男の目が変わった。
次の瞬間、踏み込んできた。
重い一撃だった。
木斧が空気を潰しながら振り下ろされる。
伊織は受けなかった。
半歩、横へずれる。
木斧が肩の横を通過した。
相手の腕が伸びきる。
その瞬間、伊織は木剣の柄で肘の内側を打った。
力が抜ける。
続けて、足を払う。
相手の体重を利用し、前に崩す。
大柄な体が、地面に転がった。
伊織は一歩踏み込み、木剣を喉元に当てた。
静かになった。
「……参った」
男は悔しそうに言った。
伊織は木剣を下ろし、手を差し出した。
男は一瞬、驚いた顔をした。
それから、手を取った。
「ベルナだ」
「東伊織」
「ヒガシ?」
「東でいい」
「変わった名前だな」
「よく言われる」
ベルナは短く笑った。
試験官が、何かを手帳に書いた。
周囲の視線が、少し変わっていた。
嘲りが消えた。
値踏みは、まだ残っている。
それでいい。
伊織は木剣を返した。
右手が、わずかに熱を持った気がした。
何かを握ろうとする感覚。
だが、そこには何もない。
伊織は手を開き、閉じた。
気のせいだ。
そう思うことにした。
第三試験に残ったのは、十五人中七人だった。
試験官に率いられ、一行は砦の外へ出た。
外門を抜けると、荒野が広がっていた。
昨日、伊織が歩いてきた方向とは逆だ。赤みがかった砂地。低い岩。乾いた風。遠くに獣の骨らしき白いものが転がっている。
「目標は砂爪蜥蜴の群れだ」
試験官が言った。
「三体以上の討伐を確認できた者を合格とする。互いに助け合っても構わない。ただし、手柄の横取りは失格。制限時間は二時間」
砂爪蜥蜴。
昨日、ギルドの掲示板で名前を見た。
砂の中に潜む小型の魔獣。体長は一メートルほど。爪が鋭く、群れで動く。単体では低ランクだが、不意打ちを受ければ新人は死ぬ。
試験としては妥当なのだろう。
参加者たちが散開し始めた。
ベルナは斧を肩に担ぎ、伊織を見た。
「組むか?」
「いや」
「一人でやるのか?」
「一人じゃない」
伊織は足元を見た。
クロが、すでに鼻を地面に近づけていた。
ベルナはクロを見て、少し笑った。
「なるほど。犬連れか」
「そういうことだ」
「死ぬなよ」
「そっちもな」
ベルナは別方向へ歩いていった。
伊織はクロを見る。
「わかるか」
クロは鼻を動かし、荒野の一方向を見た。
低く唸る。
伊織はその方向へ歩き出した。
風が乾いていた。
砂が靴の裏で鳴る。
伊織は周囲を見ながら歩いた。
低い岩。
足跡。
砂の流れ。
小さな窪み。
生き物が通った跡は、必ず残る。
問題は、それに気づけるかどうかだ。
クロが立ち止まった。
伊織も止まる。
前方、十メートル。
砂が、微かに動いていた。
一体ではない。
伊織は目を細めた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
砂の下に輪郭がある。
だが、違和感があった。
浅い。
砂の動きが、わずかに浅い。
隠れている。
そう見せている。
伊織は視線だけを横へ動かした。
右斜め後ろ。
低い岩の陰。
砂の色が、そこだけ少し濃い。
もう一体いる。
待っている。
飛び出すタイミングを。
伊織は何も言わなかった。
クロだけが、耳を少し伏せた。
気づいている。
なら、合わせられる。
武器はない。
伊織は周囲を見た。
拳大の石。
折れた木の枝。
乾いた獣骨。
十分だ。
最初の一体が、砂から飛び出した。
爪が顔面を狙ってくる。
伊織は横へ跳んだ。
爪が空を切る。
着地と同時に、地面の石を拾う。
二体目が飛び出す。
伊織は石を投げた。
硬い音。
石が蜥蜴の頭部に当たり、体勢が崩れる。
クロが三体目に飛びかかった。
黒い影が低く走る。
喉元に噛みつき、砂の上に押さえ込む。
伊織は折れた枝を拾い、よろめいた二体目に踏み込んだ。
側頭部を打つ。
一度。
二度。
動かなくなる。
一体目が体勢を立て直して向かってきた。
伊織は動かなかった。
蜥蜴が跳躍する。
その瞬間、体を沈め、枝を下から突き上げた。
顎の下に入る。
蜥蜴が宙で止まり、落ちた。
四体目が逃げようとした。
クロが追いかける。
短い唸り声。
それで終わるはずだった。
砂が、弾けた。
右斜め後ろ。
岩の陰にいた五体目が、クロへ飛んだ。
速い。
伊織の足が動くより先に、爪がクロの背へ届く。
その距離だった。
クロが振り返る。
遅い。
伊織の右手が熱を持った。
反射だった。
考えるより先に、握ろうとした。
あるはずのないものを。
重さ。
冷たさ。
反動。
黒い輪郭が、手の中に生まれかける。
だが、遅い。
生まれる前に、崩れる。
伊織は舌打ちしなかった。
する暇もなかった。
右手は空のまま。
なら、空でないものを使う。
足元にあった獣骨を蹴り上げた。
白い骨が宙に浮く。
伊織はそれを左手で掴み、踏み込んだ。
銃ではない。
刃でもない。
ただの骨だ。
だが、尖っていた。
伊織は五体目とクロの間に体を入れた。
爪が腕を掠める。
熱い痛み。
血が出た。
それでも止まらない。
獣骨を、蜥蜴の口の中へ突き込んだ。
顎が閉じる。
骨が砕ける。
その一瞬、動きが止まった。
クロが低く潜り込む。
黒い体が跳ねた。
喉元へ噛みつく。
伊織は獣骨を離し、蜥蜴の頭を踏みつけた。
一度。
二度。
動かなくなるまで。
風の音だけが残った。
伊織は息を吐いた。
腕から血が流れていた。
浅い。
だが、爪が掠めた跡は赤く開いている。
クロが戻ってきた。
口元に砂がついている。
背中には、薄く赤い線が一本走っていた。
深くはない。
それを見た瞬間、胸の奥が冷えた。
南条。
雨。
背中。
行け。
一瞬だけ、景色が重なった。
伊織は目を閉じなかった。
今はここだ。
クロは生きている。
目の前にいる。
伊織は膝をつき、クロの背を確認した。
「動くな」
クロは鼻を鳴らした。
「怒ってない」
言ってから、伊織は少しだけ息を吐いた。
「……いや、怒ってるな」
クロは伊織を見た。
伊織は自分の腕を見た。
血が落ちる。
砂に吸われる。
右手の熱は、もう消えていた。
黒い輪郭もない。
何も出なかった。
それでも、間に合った。
今回は。
「よくやった」
クロは鼻を鳴らした。
その時、背後から声がした。
「……見事です」
振り返る。
アリアが立っていた。
白と銀の装束。
背中の双剣。
銀髪が風に揺れている。
試験には参加していないはずだった。
「試験官に頼んで、同行させてもらいました」
「なぜ」
「あなたが気になったので」
真顔だった。
伊織は返す言葉を探した。
見つからなかった。
アリアは伊織の腕を見た。
次に、クロの背。
それから、砂の上に転がる砂爪蜥蜴の死骸を見た。
「武器なしで五体。しかも犬と連携している。最後の一体に気づいていましたね」
「浅かった」
「砂の動きですか」
「ああ」
「普通、新人は見ません」
「見ないと死ぬ」
「そうですね」
アリアは静かに頷いた。
その頷き方は、褒めているというより、記録しているようだった。
「あなたの戦い方は、ハンターのものではありません」
「そうか」
「少なくとも、この街で一般的に教えられる剣術でも、魔法戦闘でもない。相手の重心、視線、地形、即席の道具。すべてを同時に見ている。訓練を受けた人間の動きです。どこで?」
「……前の仕事で」
「何の仕事ですか?」
「今はもうやっていない仕事だ」
アリアは伊織を見た。
その目は、昨日と同じだった。
値踏みではない。
正確に見ようとする目だ。
「東伊織」
「ああ」
「あなたは、何かから逃げてきたんですか?」
風が、砂を運んだ。
伊織は答えなかった。
答えがなかった。
アリアは続けた。
「それとも、何かを探しに来たんですか?」
逃げてきたのか。
探しに来たのか。
どちらでもない。
どちらでもある。
南条が死んだ日から、伊織は立ち止まったままだった。
ゲームの中に逃げ込んだ。
帰る場所を失った。
そして気づけば、この世界にいた。
ここに来た理由など、知らない。
探しているものがあるのかも、わからない。
「……わからない」
ようやく、それだけ言った。
アリアは少しだけ目を細めた。
追及はしなかった。
「……わかりました。今は聞きません」
クロが伊織の隣に戻ってきた。
アリアを見上げる。
アリアは、クロに向かってゆっくりと手を差し出した。
昨日は唸った。
今度も唸るかと思った。
だが、クロは動かなかった。
鼻先で、アリアの指先を嗅いだ。
「……認められましたね」
アリアが、初めて微かに笑った。
クロは伊織を見た。
それから、アリアを見た。
尻尾が、一度だけ動いた。
伊織は気づいたが、何も言わなかった。
試験の結果、合格者は七人中四人だった。
伊織は、その一人だった。
ギルドに戻ると、受付で金属製のプレートを渡された。
薄い。
冷たい。
名前と登録番号が刻まれている。
「ランクはFからスタートだ」
試験官が言った。
「ただし、お前の戦闘は見ていた。早ければ一ヶ月でDランクに上がれる」
「わかった」
「武器は持たないのか?」
「今は持っていない」
試験官は伊織を見た。
何かを言いかけて、やめた。
「……ギルドで貸し出しもある。初回は無料だ」
「助かる」
「無茶はするなよ。武器なしで魔獣を倒せる人間はいる。だが、長くは続かない」
「ああ」
伊織は登録証を受け取り、カウンターを離れた。
その金属の感触が、手の中に残った。
冷たくて、硬い。
元の世界で握っていたものに、少しだけ似ていた。
銃ではない。
だが、金属の重さは同じだった。
アリアが壁に寄りかかって待っていた。
「登録できましたか?」
「ああ」
「では、一つ提案があります」
「聞く」
「私は今、パーティーを組んでいません。あなたも一人です。当面、行動を共にしませんか」
伊織は少し考えた。
「理由は?」
「あなたが気になるから、と言いましたが」
アリアは少し間を置いた。
「正確には、あなたの戦い方が、私の知らない体系に基づいているからです。研究したい」
「……正直だな」
「嘘をつくのが苦手なので」
「研究対象としてか」
「今のところは」
「今のところ?」
「今後、評価が変わる可能性はあります」
伊織はアリアを見た。
アリアは真顔だった。
冗談なのか本気なのか、判断しにくい。
おそらく本気だ。
伊織はクロを見た。
クロはアリアを見ていた。
「クロが嫌がったら断る」
「公平な条件ですね」
アリアは即答した。
伊織はクロに向かって言った。
「どうする?」
クロはアリアを見た。
アリアも、クロを見た。
数秒、そのままだった。
やがて、クロは立ち上がった。
伊織の足元から離れ、アリアの方へ歩く。
そして、アリアの足元に座った。
アリアが、また微かに笑った。
「決まりですね」
伊織は短く息を吐いた。
「……ああ」
ギルドを出る頃には、昼の光が少し傾き始めていた。
窓の外で、ダストヘイブンの喧騒が続いている。
露店の声。
馬車の音。
鍛冶場の槌音。
砂埃を運ぶ風。
知らない街だった。
だが、昨日よりは少しだけ、知らない場所ではなくなっていた。
伊織はギルドの扉を押し開けた。
表の通りを、馬車が一台、ゆっくり過ぎていく。
荷台には厚い布がかけられていた。
荷馬車は珍しくない。
だが、御者台の男の左手首に、鉄の鎖が巻かれていた。
装飾にしては、無骨だった。
伊織はその手首を一秒だけ見て、目を外した。
気にする理由がなかった。
まだ、なかった。
アリアが、伊織の視線の先を見た。
「どうかしましたか」
「いや」
クロが低く鼻を鳴らした。
伊織は登録証を握った。
薄い金属の感触。
冷たくて、硬い。
右手が、一瞬だけ熱を持った気がした。
伊織は足を止めた。
何かを握ろうとする感覚がある。
だが、何も出ない。
まだ、何もない。




