第2話 最初の夜
路地を抜けると、喧騒が戻ってきた。
人の声。馬車の軋む音。露店の呼び込み。どこかで鉄を打つ音。
クロが、伊織の隣を歩いている。
それが妙に自然だった。
拾ったばかりの犬だ。
しかも、この世界では魔獣に近い存在なのかもしれない。
普通なら警戒する。
手放す。
あるいは、売る。
だが伊織は、そうしなかった。
理由はない。
ただ、路地に置いていく気にならなかった。
ハンターギルドは、街の中央にあった。
二階建ての石造りの建物。入口の上には、剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられている。
扉を押し開けると、酒と煙草と獣の匂いが混じった空気が流れてきた。
一階は酒場を兼ねた受付になっている。
屈強な男たちがテーブルを囲み、酒を飲んでいた。壁には依頼書が無数に貼られている。
傷だらけの剣。
血のついた革鎧。
床に落ちた泥。
荒れた場所だ。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
人の声がある。
酒の匂いがある。
誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが椅子を蹴る音がする。
壊れかけた場所ほど、伊織には分かりやすかった。
伊織は受付カウンターへ向かった。
その時、声が聞こえた。
「ですから、この依頼の報酬額は明らかに不当です。Sランクハンターに対して銀貨十枚というのは、相場の三分の一以下でしょう」
冷静で、よく通る声だった。
カウンターの前に、銀白色の髪をした女が立っていた。
長い耳。
白と銀を基調にした軽鎧。
背には双剣。
細身だが、立ち姿に隙がない。
エルフ。
そう判断するのに、時間はかからなかった。
受付の男は額に汗を浮かべている。
「し、しかしアリア様、今回の依頼は特殊な事情がありまして……」
「特殊な事情があるなら、なおさら報酬を上げるべきでしょう。論理的に考えてください」
淡々としている。
声を荒げてはいない。
だが、引く気は一切ない。
伊織はカウンターの端に立ち、順番を待った。
クロが足元に座る。
銀白色の女が、視線を横に動かした。
伊織と目が合う。
彼女は伊織の服装を一瞥した。
革ジャケット。
カーゴパンツ。
底の厚いブーツ。
次に、クロを見た。
それから、もう一度伊織を見た。
「……見慣れない格好ですね」
「よく言われる」
「今日来たばかりに見えます」
「実際、今日来たばかりだ」
女は少しだけ目を細めた。
観察している目だった。
値踏みではない。
調べている。
「その犬は?」
「クロだ」
「名前ではなく、種を聞いたつもりでした」
「さっき拾った。詳しいことは知らない」
「拾った?」
「ああ。路地で怪我をしていた」
女はクロを見た。
クロも女を見た。
クロの喉が、低く鳴った。
女が一歩近づこうとした瞬間、クロは牙を見せた。
「……認められませんでした」
女は手を引いた。
「当然だ。さっき拾ったばかりだ」
「普通、拾ったばかりの魔獣犬は人間の隣を歩きません」
「そうなのか」
「そうです」
女は、また伊織を見た。
「あなた、何者ですか?」
「今から登録するところだ」
「ハンターに?」
「ああ」
「ランクは?」
「知らない。今日来たばかりだと言った」
女は少し黙った。
表情は変わらない。
だが、興味の色が濃くなった。
「明日の朝、登録試験があります。実技込みです」
「わかった」
「受けるんですか?」
「金がない。仕事が必要だ」
「正直ですね」
「隠す理由がない」
女は、そこで初めてわずかに口元を緩めた。
「アリア=シルヴェインです」
「東伊織」
「ヒガシ、イオリ……?」
アリアは、伊織の名前をゆっくり繰り返した。
翻訳機能が処理できなかったのかもしれない。
あるいは単に、聞き慣れない響きだったのかもしれない。
「聞いたことのない名前です。どこの出身ですか?」
「遠いところから」
「それは答えになっていません」
「今は、それしか言えない」
アリアはしばらく伊織を見ていた。
追及するかと思った。
だが、しなかった。
「……わかりました。明日の試験で会うかもしれませんね」
「ああ」
アリアは受付の男に向き直った。
「報酬の件は、後でまた話します」
「は、はい……」
受付の男が、心底ほっとした顔をした。
アリアは踵を返し、ギルドの奥へ消えていった。
クロが、小さく鼻を鳴らした。
「嫌いか」
クロは答えない。
「俺も、よくわからん」
伊織は受付カウンターへ向かった。
登録は、すぐにはできなかった。
「正式登録には試験が必要です。明日の朝、ギルド裏の訓練場に来てください」
受付の女は、そう言った。
「今日できる仕事は?」
「仮登録前の方には出せません」
「そうか」
「宿は取れていますか?」
「金がない」
受付の女は、少し困った顔をした。
それから、伊織と足元のクロを見比べる。
「……ギルド裏の馬小屋の軒下なら、今日だけ使っていいです」
「助かる」
「今日だけですよ」
「ああ」
この街の人間は、妙に親切だ。
そう思ってから、伊織は少しだけ違和感を覚えた。
親切に慣れていない。
ただ、それだけのことだった。
夜になった。
ギルド裏の馬小屋は、藁と獣の匂いがした。壁は古く、隙間風が入る。だが、屋根があるだけましだった。
伊織は小さな焚き火を起こし、クロの傷を見た。
左耳の傷は浅い。
だが、血が固まって毛に絡んでいた。
清潔な布はなかった。
伊織はジャケットの裏地を破り、簡単に傷口を拭いた。
クロは動かなかった。
痛いはずだ。
それでも、じっとしていた。
「我慢強いな」
クロは鼻を鳴らした。
「褒めたんだ」
伊織は包帯代わりの布を巻き、手を離した。
火が、ぱちりと鳴った。
伊織は煙草を口にくわえた。
火はつけない。
最後の一本だった。
今日一日、この世界の言葉は理解できた。
衛兵の言葉。
屋台の老婆の言葉。
受付の言葉。
アリアの言葉。
音は日本語ではない。
だが、意味だけが脳に流れ込んでくる。
フルダイブVRの翻訳機能。
そう考えるのが、一番自然だった。
便利ではある。
だが、不気味でもあった。
一度だけ、翻訳が遅れた場面がある。
露店の老人が仲間に向かって言った言葉だ。古い言い回しか、方言か。脳の奥で、変換が一瞬だけ詰まった。
完璧ではない。
いつか限界が来るかもしれない。
その時は、自分で覚えるしかない。
伊織は煙草を口から外し、クロの頭に手を置いた。
「お前は言葉を話さないから、楽だな」
クロは目を閉じた。
空を見上げる。
二つの月が出ていた。
元の世界にはない空。
だが、妙に静かだった。
静かすぎて、余計なことを思い出す。
南条。
心の中で、名前を呼んだ。
お前が死んでから、俺は廃人みたいに生きていた。
ゲームの中だけが、唯一まともに息ができる場所だった。
戦車を走らせ、銃を撃ち、レイダーを狩る。
数字が上がる。
順位が上がる。
その間だけは、何も考えずに済んだ。
そして気づいたら、別の世界にいた。
笑えない話だ。
クロが、伊織の膝に頭を乗せた。
重い。
温かい。
その重さが、瞼を落とした。
砂の匂いがする夜は、決まって夢を見る。
砂漠ではない。
アスファルトと排気ガスと、夏の熱気が混ざった、あの匂いだ。
東京の夏。
訓練施設の裏手にある、狭い喫煙スペース。
伊織は煙草を吸わない。
それでも、南条がそこにいる時は、隣に座った。
「お前、また来たのか」
南条蓮は、煙草を口から離さずに言った。
細い煙が夜空に溶けていく。施設の外壁に背中を預け、足を投げ出して座っている。制服のシャツは第二ボタンまで開いていた。
規律違反だ。
だが、誰も注意しない。
南条に注意できる人間は、この施設にいなかった。
「座っていいか」
「俺が嫌だと言ったことがあるか」
ない。
一度もない。
伊織は隣に座った。
コンクリートが冷たい。
しばらく、何も言わなかった。
南条は煙草を吸い、伊織は空を見る。
それだけの時間が、伊織には必要だった。
「今日の射撃訓練」
南条が言った。
「お前、最後の三発、わざと外しただろ」
伊織は答えなかった。
「標的が人型になった途端、グルーピングが乱れる。癖だな」
「……うるさい」
「事実を言っただけだ」
南条は煙草を地面で踏み消した。
新しい一本を取り出す。
火をつける前に、少しだけ間を置いた。
「俺は、それでいいと思うけどな」
「何が」
「人を撃つのに躊躇がある方が、人間らしい」
伊織は南条を見る。
南条は空を見ていた。
「お前はないのか」
「躊躇?」
「ああ」
「あるよ。毎回ある」
「そうは見えない」
「見せないだけだ」
南条が煙草に火をつけた。
「見せたら終わりだろ、この仕事」
伊織は何も言えなかった。
それが正しいことは、わかっていた。
わかっていたから、余計に何も言えなかった。
別の夜の記憶が混ざる。
任務の帰り。
車の中。
二人きり。
南条は助手席で目を閉じていた。眠っているのか、考えているのか、わからない。
「なあ」
「ん」
「お前、辞めたいと思ったことあるか」
南条はしばらく黙っていた。
「ある」
「いつ」
「毎日」
伊織は前を向いたまま、ハンドルを握った。
「でも辞めないだろ」
「辞めたら、お前が困るだろ」
南条は目を開けずに言った。
「俺がいないと、お前は無茶をする。知ってる」
「……余計なお世話だ」
「そうだな」
南条は少し笑った。
「でも、余計なお世話をするのが俺の仕事だから」
最後の記憶は、いつも同じ場所で終わる。
任務のあとだった。
雨は上がっていた。
廃工場の外に出ると、夜の空気に油と鉄と、濡れたコンクリートの匂いが混じっていた。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。赤い光が、割れた窓に反射していた。
南条は、壁にもたれて煙草をくわえていた。
火はついていない。
濡れた髪を片手でかき上げ、いつものように笑っていた。
「腹、減ったな」
南条が言った。
伊織は返事をしなかった。
装備の重さが肩に残っていた。耳の奥では、まだ銃声が鳴っている。誰かの叫び声も、無線の声も、全部が遠かった。
「東」
南条がこちらを見る。
「あの店、また行こうな」
「……どの店だ」
「駅裏の、まずいラーメン屋」
「まずいなら行くな」
「まずいけど、あそこの餃子は悪くない」
「褒めてるのか」
「かなり褒めてる」
南条は笑った。
いつもの顔だった。
任務のあとに、どうでもいい飯の話をする男だった。血の匂いが残っていても、誰かが運ばれていっても、明日があるみたいに話す。
明日も腹が減る。
明日も何かを食う。
それが当然だという顔で。
「次はお前のおごりな」
「勝手に決めるな」
「決めた」
「面倒だな」
「よく言われる」
南条は、火のついていない煙草を口から外した。
その時、奥の暗がりで何かが動いた。
伊織は振り向く。
遅かった。
音がした。
乾いた音だった。
南条の体が、伊織の前で揺れた。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
南条は倒れなかった。
一歩だけ踏みとどまり、伊織の方を見た。
笑っていた。
まだ、笑っていた。
「……あの店」
声が、かすれていた。
「また、行こうな」
それが、最後だった。
伊織は目を覚ました。
天井はなかった。
空だ。
二つの月が、まだ出ている。
馬小屋の軒下。
藁の匂い。
焚き火の残り香。
夢だった。
クロが、伊織の顔を覗き込んでいた。
黒い瞳が、暗闇の中で光っている。
「……起こすな」
クロは動かない。
伊織は目を閉じた。
もう一度、開けた。
南条の顔が、まだ瞼の裏に残っていた。
笑っていた。
あいつはいつも、笑って終わらせる。
怒ることも、泣くことも、縋ることもしない。
全部笑って、片付けてしまう。
次の飯の話まで、残していった。
伊織は右手を見た。
暗闇の中で、何も見えない。
だが、手のひらが微かに熱かった。
気のせいかもしれない。
気のせいでは、ないかもしれない。
伊織は手を握った。
何も掴めない。
それでも、握った。
クロが、伊織の手の甲に鼻先を押しつけた。
「……うるさい犬だ」
クロは動かなかった。
夜明けが近いのか、街の音が少し変わっていた。
遠くで、馬車の車輪が石畳を踏む音がした。
一台ではない。
二台か、三台か。
深夜に荷を動かす理由は、いくらでもある。
伊織は気にしなかった。
だが、クロが顔を上げた。
鼻が動く。
低く、抑えた唸り声。
「何だ」
クロは答えなかった。
唸りは、すぐに止んだ。
馬車の音も、遠ざかっていく。
伊織はしばらく、音の消えた方を見ていた。
何も見えない。
追う理由もない。
今は、関係ない。
そう思うことにした。
伊織は目を閉じた。
今度は、夢を見なかった。




