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第1話 砂と鉄の匂い

 砦都市に近づくにつれ、匂いが変わった。


 砂埃の中に、肉の焼ける匂いが混じる。獣の匂い。汗の匂い。鉄の匂い。


 人が暮らしている場所の匂いだった。


 外壁は石造りで、高さは十メートルほどある。表面には、薄く光る紋様が刻まれていた。普通の石壁ではないことだけは分かった。


 門の前には、鎧を着た衛兵が二人立っていた。


 伊織は迷わず正面から歩いていった。


「止まれ」


 衛兵の一人が、槍を横に構えた。


 伊織は足を止め、両手を軽く上げた。


 武器がないことを示す動作。


 SAT時代に染み付いた癖だった。


 その直後、伊織は眉を動かした。


 聞き取れた。


 意味が、分かった。


 衛兵の口から出た言葉は、日本語ではない。音の並びが違う。舌の使い方も違う。なのに、意味だけが脳に直接流れ込んでくる。


 ――なぜだ。


 考えて、すぐに一つの仮説に行き着いた。


 フルダイブVRの翻訳機能。


 脳に直接接続するタイプのゲームだった。転移した時、その一部が残った。そう考えれば、まだ説明はつく。


 説明になっているかどうかは、別として。


「旅人か? 見慣れない格好だな」


「ああ」


 短く答えた。


 衛兵が理解した様子だった。


 こちらの言葉も、通じている。


 双方向で機能しているらしい。


「どこから来た」


「遠いところから」


「所属は」


「ない」


「武器は?」


「持っていない」


 衛兵は伊織の格好を上から下まで見た。


 革ジャケット。カーゴパンツ。底の厚いブーツ。


 この世界の人間から見れば、相当奇妙に映るのだろう。


「……入れ。ただし、ハンターギルドに登録していない者は、日没までに街を出ること。それが決まりだ」


「分かった」


 伊織は門をくぐった。


 城壁の内側は、想像よりも賑やかだった。


 石畳の通りに露店が並んでいる。干し肉を売る店。鉄鍋でスープを煮る店。刃物を研ぐ音がどこかで響いていた。


 人だけではない。


 耳の長い者。体格の異常に大きい者。獣の耳と尾を持つ者。


 伊織は視線を動かしながら歩いた。


 驚きはある。


 ただ、それを顔に出す習慣がなかった。


 露店の売り声が、耳に入る。


 値段交渉の声。子供の笑い声。誰かを怒鳴る声。馬車の軋む音。


 全部、分かる。


 便利ではある。


 だが、気味が悪かった。


 誰かが頭の奥で、知らない言葉を勝手に日本語へ置き換えているような感覚がある。


 伊織はこめかみを押さえた。


 痛みはない。


 ただ、違和感だけがあった。


 まず金がいる。


 宿もいる。


 情報もいる。


 衛兵はハンターギルドと言っていた。登録すれば仕事ができるのだろう。なら、そこへ行くしかない。


 だが、どこにあるのか分からない。


 腹が鳴った。


 伊織は立ち止まった。


 通りの端に、屋台があった。


 大きな鉄鍋から湯気が上がっている。豆と干し肉のスープらしい。匂いは悪くない。


 伊織は近づき、鍋の中を覗いた。


「一杯くれ」


「鉄貨三枚だよ」


 老婆が言った。


 伊織はポケットを探った。


 何もない。


 財布も、現金も、カードもない。


 当然だ。


 この世界で、持っていて意味のあるものなど何もなかった。


「……すまない。金がない」


 老婆は伊織を見上げた。


 しばらく黙っていた。


 伊織は踵を返そうとした。


「待ちな」


 老婆が器にスープをよそった。


「顔色が悪い。倒れられたら迷惑だ。今日だけだよ」


 伊織は一瞬、言葉を失った。


 器を受け取る。


 温かい。


「……助かる」


「礼は金を持ってきてから言いな」


 伊織はスープを一口飲んだ。


 薄い味だった。


 豆は固い。干し肉は塩気が強い。出汁らしい出汁はない。


 それでも、温かかった。


 体の中に、熱が戻ってくる。


 久しぶりに、誰かに親切にされた気がした。


 その感覚が、少しだけ居心地悪かった。


 器を返すと、老婆が顎で通りの奥を示した。


「ギルドを探してるなら、中央通りをまっすぐだ。剣と盾の看板がある」


「……顔に書いてあったか」


「あんたみたいな顔の男は、だいたい行く場所がない。なら、ギルドだ」


 伊織は短く息を吐いた。


 笑ったわけではない。


 ただ、少しだけ、呼吸が軽くなった。


「覚えておく」


「金も忘れるんじゃないよ」


「ああ」


 伊織は屋台を離れた。


 中央通りへ向かう途中、路地の奥で音がした。


 低い、くぐもった唸り声。


 伊織は足を止めた。


 人の声ではない。


 獣だ。


 路地に入る。


 人通りが少なくなる。壁際には木箱が積まれ、壊れた桶や布切れが捨てられている。


 その奥。


 ゴミ捨て場の陰に、黒い塊があった。


 近づく。


 犬だった。


 いや、犬に似た生き物だった。


 全身は煤けたような黒毛に覆われている。光の当たり方で、毛並みが青みを帯びて見えた。左耳には新しい切り傷があり、血が毛に絡んでいる。


 周囲には小石が散らばっていた。


 投げられたのだろう。


 犬は伊織を見上げ、唸った。


 伊織はしゃがみ込んだ。


 目線を合わせる。


「……噛むか?」


 犬は唸り続けた。


 伊織は動かなかった。


 手も伸ばさない。


 声もかけない。


 ただ、そこにいた。


 しばらく、二つの呼吸だけが路地にあった。


 犬の唸り声が、少しずつ低くなる。


 やがて、止まった。


 伊織はゆっくりと右手を伸ばした。


 指先が、黒い毛に触れた。


 固い。


 汚れている。


 だが、温かかった。


 その瞬間、また右手が微かに熱を持った。


 さっきと同じ感覚ではなかった。


 鋼鉄の熱ではない。


 生き物の、温度だった。


 犬は逃げなかった。


 伊織は耳の傷を見た。


 血は止まりかけている。傷は深くない。ただ、放っておけば膿むかもしれない。


「面倒だな」


 小さく言った。


 犬が伊織を見た。


 責めるような目ではなかった。


 ただ、見ていた。


 伊織は息を吐いた。


「……クロ」


 気づいたら、そう言っていた。


「お前は、クロだ」


 黒いからクロ。


 それだけだ。


 それだけのはずだった。


 犬は伊織の手を、一度だけ舐めた。


 ざらついた舌の感触があった。


 伊織は少しだけ目を細めた。


「来るか?」


 クロは立ち上がった。


 足を少し引きずっている。


 それでも、伊織の隣に並んだ。


 伊織は路地の出口を見た。


 ハンターギルドを探さなければならない。


 金を稼がなければ、今日の夜を越せない。


 その前に、この犬の傷をどうにかする必要がある。


 面倒が増えた。


 伊織はそう思った。


 だが、置いていく気にはならなかった。


 路地に置いていかれる痛みを、伊織は知っていた。


 誰も来ない場所で、誰かを待つ時間を知っていた。


 だから、置いていけなかった。


 それだけだった。


 歩き出す。


 クロがついてくる。


 伊織は少しだけ歩く速度を落とした。


 路地を抜けると、街の喧騒が戻ってきた。


 人の声。


 馬車の音。


 鉄を打つ音。


 遠くの笑い声。


 伊織は右手を見た。


 さっきまであった微かな熱は、もう消えている。


 その代わり、手の甲にクロの舌の感触が残っていた。


 冷たい金属ではない。


 温かい、生き物の感触だった。


「行くぞ」


 クロが、小さく鼻を鳴らした。


 それが返事のように聞こえた。


 気のせいかもしれない。


 伊織は、そう思うことにした。

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