プロローグ 砂の中の鋼鉄
砂が、口の中にあった。
それが最初の認識だった。
東伊織は目を開ける前に、舌の上で乾いた粒を噛んだ。ざらついた感触。鉄と埃の混じった匂い。肺に入る空気は熱く、薄い。
知らない匂いだった。
伊織は身を起こし、砂を吐き出した。
地面は赤かった。
乾いた大地が、地平線の向こうまで続いている。岩は黒く、空はやけに濃い青をしていた。雲はない。風だけがある。風は砂を巻き上げ、頬を細かく削るように撫でていく。
夢ではない。
そう判断するのに、時間はかからなかった。
夢なら、ここまで喉は乾かない。
夢なら、砂の味がいつまでも舌に残ったりはしない。
伊織はゆっくり立ち上がった。
革ジャケット。カーゴパンツ。ブーツ。
昨夜、フルダイブVRゲームに潜った時の格好のままだった。
ゲームの中で、戦車を走らせていた。
廃墟の街を抜け、砂漠を越え、鉄くずみたいな怪物を撃ち抜いた。そこまでは覚えている。覚えているが、その先が曖昧だった。
ログアウトした記憶はない。
伊織は空を見上げた。
太陽が、二つあった。
大きな太陽と、小さな太陽。二つの光が、並んで中天に浮かんでいる。
「……ああ」
短く、それだけ言った。
驚かなかったわけではない。
ただ、驚き方を忘れていた。
南条が死んでから、そういうことが増えた。まともなことも、異常なことも、心の表面を滑っていく。受け止める前に、どこか遠くへ流れていく。
世界が変わった。
その事実すら、伊織の胸を強く揺らさなかった。
伊織は視線を戻した。
遠くに、壁のようなものが見えた。
自然の岩ではない。直線がある。人工物だ。
都市か、砦か。少なくとも、人がいる。
なら、歩くしかない。
伊織は砂を払い、赤い荒野を歩き始めた。
その時だった。
右手が、熱を持った。
皮膚の下から。
骨の芯から。
伊織は立ち止まり、右手を見た。
何もない。
空っぽの手のひら。
だが、指が何かを求めていた。
握るべきものがある。
体が、そう覚えている。
伊織は目を細めた。
重さ。
冷たさ。
反動。
硝煙の匂い。
引き金を引いたあとの、わずかな静寂。
あるはずのないものを、思い出す。
空間が、わずかに歪んだ。
何もなかったはずの場所に、黒い輪郭が浮かぶ。
金属だった。
いや、金属に見えた。
光を吸い込むような、深い黒。
鋼鉄の色。
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
あの世界で、何度も何度も使い込んだ形。
銃だ。
この世界には存在しないはずのもの。
それが、伊織の右手に生まれかけていた。
生まれかけて――崩れた。
黒い粒子になって、空気に溶けていく。
同時に、体の芯から熱が抜けた。
膝が落ちそうになった。
それでも倒れなかった。
伊織は右手を握り、開いた。
何もない。
ただの手だ。
そう思った時、足元で小さな音がした。
乾いた砂の上に、黒い粒が落ちていた。
金属片に見えた。
薬莢にも、割れた歯車の欠けらにも見えた。
伊織はしゃがみ、指先で拾おうとした。
触れる前に、黒い粒は崩れた。
砂に染み込むように消えていく。
残ったのは、焼けた鉄の匂いだけだった。
伊織はしばらく、その場所を見ていた。
幻覚ではない。
少なくとも、そう片付けるには、匂いが残りすぎていた。
なぜ、俺はこんな場所にいる。
問いに答えはない。
ただ一つ、分かることがあった。
この世界に、俺の知っている感触が通じる。
それが何を意味するのか。
今はまだ、分からない。
伊織は遠くの壁を見た。
歩くしかない。
それだけは、分かっていた。
砂の味を口の中に残したまま、伊織は赤い荒野を進んだ。
とりあえず5話まで読んでいただけたら幸いです。




