プロローグ 鉄と硝煙の記憶
炎が、石壁を舐めた。
熱波が坑道を吹き抜ける。肺が焼けるように熱い。髪が焦げる匂いがした。
逃げ場は、なかった。
巨大な魔獣が、暗闇の奥から這い出てくる。
岩を削り出したような黒鱗。
地面を砕く爪。
喉の奥で、赤い光が脈打っている。
次で終わる。
誰が見ても分かる。
そういう一撃だった。
アリアの魔法が弾かれた。
銀髪のエルフが、崩れた岩の向こうで膝をつく。白と銀の装束は煤に汚れ、右腕から血が落ちていた。
呼吸が乱れている。
もう、次は撃てない。
「逃げて!」
悲痛な声だった。
伊織は、動かなかった。
逃げる理由がなかった。
いや――違う。
逃げても意味がないと、分かっていた。
魔獣の黄色い目が、伊織を捉えた。
喉の奥で、炎が圧縮されていく。
空気が焦げる。
石壁が軋む。
足元の砂が熱を持つ。
伊織は、アリアを見た。
崩れた岩の向こうで、彼女はまだ立とうとしていた。
膝が震えている。
それでも、双剣の柄に手を伸ばしている。
逃げろと言いながら、自分は逃げる気がない顔だった。
――馬鹿だな。
そう思った。
そして、次の瞬間。
別の顔が、脳裏を過ぎった。
雨の夜。
廃工場。
背中を向けた男。
行け、と言った声。
生きろよ、と笑った顔。
伊織は奥歯を噛んだ。
またか。
また、目の前で誰かが残るのか。
時間が、ゆっくりになった。
右手を前に出す。
何もない空間に向かって。
目を閉じた。
記憶を辿る。
重さ。
反動。
硝煙の匂い。
乾いた発砲音。
引き金を引いた後の、わずかな静寂。
皮膚の下から、骨の芯から、熱が溢れる。
――あるはずのないものを、思い出す。
目を開けた。
空間が、歪んだ。
何もなかったはずの場所に、黒い金属の塊がゆっくりと生まれていく。
光を吸い込むような、深い黒。
鋼鉄の色。
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
あの世界で、何度も何度も使い込んだ形。
銃だ。
この世界には存在しないはずのもの。
それが、伊織の右手にあった。
重い。
冷たい。
だが、手に馴染む。
あまりにも自然に。
引き金に指をかける。
迷いはなかった。
考える必要もなかった。
体が、覚えている。
魔獣が跳躍した。
巨体が、炎を纏って迫る。
――間に合わない。
アリアが息を呑む音が聞こえた。
伊織は、引き金を引いた。
音はしなかった。
だが、確かに撃った感触があった。
黒い閃光が走る。
一瞬で、距離が消えた。
魔獣の喉元に直撃する。
赤い光が、潰れた。
巨体が、空中で止まる。
次の瞬間、重力を思い出したように落ちた。
地響き。
崩落。
そして――静寂。
炎は、もう来ない。
アリアが、息を忘れたようにこちらを見ていた。
伊織は右手を見た。
そこには確かに、銃があった。
鉄のように硬く、鉄のように冷たい。
魔法があり、魔獣が跋扈する異世界。
だが、この手の中にある感触だけは、元の世界と何一つ変わらなかった。
――なぜ、俺はこんな場所にいる。
問いは、答えを持たない。
ただ一つ、分かっていることがあった。
この世界には、俺の知っている戦い方が通じる。
そしてそれは――
この世界を、壊せるということだ。
伊織の右手から、銃が崩れた。
黒い粒子になって、空気に溶けていく。
同時に、体の芯から熱が抜けた。
膝が落ちそうになる。
それでも、倒れなかった。
倒れるわけにはいかなかった。
アリアが何かを言っている。
声は聞こえる。
意味も分かる。
だが、ひどく遠い。
口の中に、乾いた砂の味がした。
すべては、あの朝から始まった。
とりあえず5話まで読んでいただけたら幸いです。




