閑話1 銀の手紙
― アリア=シルヴェインの視点 ―
銀色の封蝋が、月明かりを受けて鈍く光っていた。
机の上に置かれた一通の手紙。
受け取らないと言ったはずのもの。
帰ってくださいと、確かに言ったはずのもの。
それが、部屋に戻ると机の上にあった。
エルザ=ヴァイスらしいやり方だった。
相手が拒んでも、事実だけを残す。
受け取らせた、という形を作る。
その上で、次の手を打つ。
父らしいやり方でもある。
アリアは椅子に座ったまま、しばらく封筒を見ていた。
封蝋には、歯車と塔の紋章。
オルドレイン技術保存機構の印。
その下に、小さく父の署名があった。
アルド=シルヴェイン。
見慣れた筆跡だった。
線は細く、無駄がない。
文字の傾きも、余白の取り方も、昔から変わっていない。
父は、何も変わっていない。
そう思った。
そして、すぐに違うと思った。
変わっていないのではない。
変わってしまった部分を、見ないようにしてきただけだ。
足元で、クロが低く唸った。
黒い犬は、手紙を見ている。
いや、手紙そのものではない。
そこに染みついた気配を警戒しているのかもしれなかった。
「分かるんですか」
アリアは小さく言った。
「これは、あまり良いものではありません」
クロは答えない。
ただ、机の脚のそばに座り、琥珀色の瞳で封筒を見ていた。
その姿が、妙に頼もしく見えた。
数日前まで、自分に牙を剥いていた獣だ。
近づくたびに唸られた。
指を出せば警戒された。
伊織の足元に陣取り、こちらを敵のように見ていた。
それなのに今は、アリアの部屋にいる。
見張りのように。
付き添いのように。
あるいは、何も言わずに隣にいる誰かのように。
アリアは一度、目を閉じた。
頭痛は、まだ少し残っている。
こめかみの奥に鈍い痛みがある。
伊織の右手から流れ込んできた、黒い波のような感覚。
魔力ではない。
魔法でもない。
だが、確かに何かだった。
鉄の匂い。
雨の音。
人工物の冷たさ。
誰かの声。
そして、伊織の中にある深い傷。
見てはいけないものを、見てしまった。
そう思う。
アリアは研究者だ。
未知のものがあれば知りたい。
理解したい。
分類し、構造を見つけ、名前を与えたい。
だから、あの力に名前をつけた。
鋼鉄の具現。
だが、あれは単なる研究対象ではない。
あの黒い鋼鉄の奥には、伊織の記憶がある。
触れれば、彼の傷にも触れてしまう。
それが分かってしまった。
「……厄介ですね」
アリアは呟いた。
クロがこちらを見た。
「あなたの飼い主の話です」
クロは鼻を鳴らした。
違う、という返事のようだった。
「では、あなたの家族の話ですか」
クロは動かなかった。
アリアは少しだけ笑った。
「そうですか」
家族。
その言葉を口にして、胸の奥が少し痛んだ。
アリアは封筒に手を伸ばした。
開けたくない。
だが、開けないままにはできない。
捨てることもできない。
父からの手紙は、いつもそうだった。
受け取りたくないのに、捨てられない。
読みたくないのに、読まずにはいられない。
アリアは封蝋を割った。
乾いた音がした。
◆
手紙は短かった。
予想通りだった。
父の手紙は、いつも短い。
必要なことだけを書く。
感情は書かない。
余白にも、迷いは残さない。
アリアへ。
機構はお前の帰還を求める。
現在、異界干渉に関わる重大な変動が確認されている。
東伊織という人間の近くにいることは、お前にとって危険だ。
速やかに距離を置き、帰還せよ。
これは父としてではなく、機構責任者としての判断である。
アルド=シルヴェイン。
それだけだった。
短い。
あまりにも短い。
父らしい。
心配している、とは書いていない。
会いたい、とも書いていない。
怪我はないか、とも書いていない。
ただ、危険だ。
距離を置け。
帰還せよ。
命令の形をした、心配。
そう理解できるようになったのは、いつからだろう。
子供の頃は、分からなかった。
父は自分を愛していないのだと思っていた。
いつも研究室にいた。
いつも書類を見ていた。
いつも何かを計算していた。
アリアが熱を出しても、父は医師を呼んだ。
薬を用意した。
看病係を手配した。
完璧だった。
だが、枕元に座ってくれた記憶は少ない。
誕生日には、本をくれた。
魔法理論書。
古代語辞典。
魔力循環に関する論文集。
欲しいと言った覚えはなかった。
でも、父は言った。
「お前なら読める」
褒め言葉だったのだろう。
たぶん。
アリアは嬉しかった。
嬉しかったのに、少し寂しかった。
父に認められることと、父に抱きしめられることは違う。
それが分かるまで、随分時間がかかった。
◆
幼い頃、父はよく遺跡へ連れて行ってくれた。
森の奥。
山の地下。
古い石の門。
風化した碑文。
父は、古代語の刻まれた石板の前で、アリアに言った。
「真実を見つける者が、歴史を作る」
その声を、今でも覚えている。
その頃の父は、まだ父だった。
研究者ではあった。
機構の人間でもあった。
だが、アリアを見る目には、少しだけ温度があった。
「これは読めるか」
父が尋ねる。
幼いアリアは背伸びをして、石板の文字を追った。
「……空、ではなく、門?」
「正しい」
「でも、ここの文法が違います」
「よく気づいた」
父は笑った。
ほんの少しだけ。
父の笑顔は、珍しかった。
だからアリアは、その笑顔を見るために勉強した。
古代語を覚えた。
魔法陣を解析した。
魔力感知を鍛えた。
父に褒められたかった。
ただ、それだけだった。
いつからだろう。
父が、アリアを見る時に、娘ではなく能力を見るようになったのは。
いつからだろう。
アリアが、父に褒められることを恐れるようになったのは。
記憶は、ある部屋へ戻る。
オルドレイン本部。
父の執務室。
夜。
窓の外には、機構の塔が立っていた。魔法灯の白い光が、無機質に廊下を照らしている。
「お前の魔力感知は、機構の資産だ」
父が言った。
机の向こうに座っている。
いつもの正装。
いつもの表情。
いつもの声。
アリアは立っていた。
「私は、あなたの娘です」
「それは知っている」
「娘として、話しています」
「機構の幹部として、答えている」
その一言で、何かが静かに切れた。
怒鳴ったわけではない。
泣いたわけでもない。
ただ、胸の奥で、細い糸が切れる音がした。
「……分かりました」
アリアはそれだけ言った。
扉の前で、一度だけ振り返った。
父はすでに書類に目を落としていた。
アリアの顔を見ていなかった。
それが、組織を離れる前に見た父の姿だった。
◆
アリアは手紙を机に置いた。
クロが、そっと近づく。
封筒を嗅ぎ、低く唸った。
「噛んでは駄目です」
クロはアリアを見た。
「気持ちは分かります」
アリアは封筒を指でなぞった。
銀の封蝋。
父の署名。
それだけで、今でも心が揺れる。
父が嫌いなのか。
そう問われれば、違う。
父が好きなのか。
それも、違う。
もっと複雑だ。
尊敬している。
憎んでいる。
期待している。
諦めている。
会いたくない。
でも、完全に失いたくはない。
そういう感情が、胸の中で絡まっている。
伊織なら、どう言うだろう。
ふと、そう思った。
たぶん、短く言う。
面倒だな、と。
そして、それ以上は聞かない。
だが、見ていないふりもしない。
アリアは窓の外を見た。
廊下の向こうに、伊織の部屋の灯りが漏れている。
まだ起きているらしい。
あの男は、休めと言われても休まない。
自分のことになると雑で、他人のことになると妙に早い。
昨日もそうだった。
アリアが頭痛で膝をついた時、伊織はすぐに治癒師を呼ぼうとした。
自分の右手の異常は放置するくせに。
思い返すと、少し腹が立った。
同時に、少しだけ安心した。
その安心が何なのか、アリアにはまだ言語化できない。
研究者としては、非常に不快だ。
分類できない感情ほど、扱いに困るものはない。
「……あなたのせいですよ」
アリアは廊下の灯りに向かって呟いた。
もちろん、伊織には聞こえない。
聞こえたら困る。
クロが耳を動かした。
「あなたにも言っていません」
クロは目を閉じた。
聞いていない、という態度だった。
伊織に似ている。
アリアはそう思った。
◆
北部街道で、伊織が初めて自分のことを話した時を思い出す。
この世界の出身ではない。
地図にはない場所から来た。
そう言った。
普通なら信じない。
だが、アリアは信じた。
伊織が嘘をつく理由が見当たらなかったから。
それだけではない。
彼の目が、この世界のどこにも属していない目だったから。
ダストヘイブンの人間でもない。
エルフでもない。
ハンターでもない。
貴族でもない。
どこにも帰る場所がない人間の目。
最初は、そう思った。
だが、今は少し違う。
彼は、帰る場所がないのではない。
帰る場所を失った人間なのだ。
そして、それでもまだ、何かを拾ってしまう人間だ。
路地にいたクロを拾った。
ギルドでアリアの言葉を聞いた。
廃坑で、動けなくなったアリアの前に立った。
本人は、いつも面倒だと言う。
だが、結局置いていかない。
アリアは手紙を見た。
父は言う。
距離を置け。
危険だ。
帰還せよ。
正しいのかもしれない。
東伊織の力は危険だ。
アリアの頭痛が、その証拠だ。
彼の記憶に触れた時、魔力感知が焼けるように痛んだ。
鋼鉄の具現は、この世界の魔法体系に存在しない異物だ。
研究者として考えれば、距離を置くべきだ。
観察対象と近づきすぎるのは危険だ。
情緒的な関与は判断を曇らせる。
父なら、そう言うだろう。
エルザも、同じことを言うだろう。
だが。
ギルドで、伊織は言った。
人を物みたいに扱うな。
その一言が、今も胸に残っている。
父は、アリアを守ろうとしているのかもしれない。
けれど、父の言葉はアリアを役割に戻そうとする。
伊織の言葉は、アリアを人として立たせた。
それが、違いだった。
似ているのに、決定的に違う。
「……ずるいですね」
アリアは呟いた。
伊織はたぶん、そんなつもりで言っていない。
ただ、思ったことを短く言っただけだ。
だからこそ、残る。
◆
アリアは椅子から立ち上がった。
少しだけ頭が痛んだ。
治癒師には、魔力感知を控えろと言われている。
最低三日。
できれば一週間。
長い。
非常に長い。
魔力感知を使わずにいることは、アリアにとって目を閉じて歩くようなものだ。
だが、今は仕方がない。
伊織なら何と言うだろう。
休め。
たぶん、そう言う。
短く。
断定的に。
こちらの反論を聞く気のない顔で。
腹立たしい。
だが、今はその声を思い出すと、なぜか少しだけ力が抜けた。
アリアは机の引き出しを開けた。
手紙を入れようとして、止まる。
捨てればいい。
そう思った。
だが、指は動かなかった。
父からの手紙だ。
どれほど腹が立っても、どれほど傷ついても、それは変わらない。
アリアは手紙を丁寧に畳み、引き出しの奥へ入れた。
捨てなかった。
捨てられなかった。
それが、自分の弱さだと思った。
同時に、自分の正直さでもあると思った。
父を完全に拒めない。
機構を完全に捨てきれない。
でも、戻る気にもなれない。
どこにも属せない。
それは、伊織に少し似ている気がした。
似ている。
そう思って、アリアはすぐに首を振った。
「……違います」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
クロが小さく鳴いた。
「違います」
もう一度言った。
クロは何も言わなかった。
ただ、じっと見ていた。
その沈黙が、妙に痛かった。
◆
夜が深くなった。
窓の外には、二つの月が出ている。
ダストヘイブンの街は、昼とは違う顔を見せていた。酒場の灯り。遠くの笑い声。砂を運ぶ風。鉄を冷ます音。
アリアは窓を少し開けた。
冷たい風が入ってくる。
鉄の匂いがした。
この街の匂い。
最初は、荒っぽくて落ち着かない街だと思った。
砂埃が多く、声が大きく、食事は味が薄い。
だが、今は少しだけ違う。
ギルドの朝。
エルナの心配そうな顔。
ガルドの粗い声。
クロの温かさ。
伊織の短い言葉。
それらが、街の匂いと混じっている。
帰る場所。
その言葉が浮かんだ。
アリアは眉をひそめた。
自分には、故郷がある。
シルヴェインの森。
樹上都市。
白と緑の塔。
古い図書館。
父と歩いた遺跡への道。
帰る場所はある。
だが、帰りたい場所かどうかは別だ。
伊織にそう言ったことがある。
あの時、彼は何も言わなかった。
ただ、聞いていた。
それが、ありがたかった。
父は答えを出そうとする。
エルザは判断を伝える。
伊織は、聞く。
ただ、それだけ。
それだけのことが、どうしてこんなに違うのだろう。
アリアは窓の外を見た。
廊下の向こうの灯りは、まだ消えていない。
伊織は、まだ起きている。
きっと右手を見ている。
何もない手を開き、閉じている。
自分の力が何なのか、考えている。
一人で。
「……また一人で考えているんでしょうね」
アリアは呟いた。
すると、クロが立ち上がった。
扉の方へ歩く。
「どこへ行くんですか」
クロは扉の前で止まり、アリアを見た。
行け、と言っているようだった。
「駄目です。私は休むように言われています」
クロは動かない。
「あなたまで、余計なお世話をするんですか」
クロは鼻を鳴らした。
アリアはしばらく扉を見ていた。
廊下の向こうには、伊織の部屋がある。
ノックする理由はない。
話すこともない。
さっき、ギルドで礼は言った。
それで十分だ。
十分なはずだ。
それでも、足が少しだけ扉へ向きかけた。
アリアは慌てて止まった。
「……今日は行きません」
クロはじっと見ている。
「行きません」
二度目は、自分に言い聞かせるためだった。
クロはしばらくアリアを見ていた。
やがて、諦めたように床へ伏せた。
「何ですか、その態度は」
クロは目を閉じた。
アリアは小さく息を吐いた。
「本当に、飼い主に似ています」
そう言ってから、少しだけ頬が熱くなった。
飼い主。
家族。
隣。
最近、自分の中で増えている言葉がある。
どれも研究用語ではない。
扱いに困る。
◆
アリアは机に戻った。
古代史の本を開こうとして、やめた。
治癒師に止められている。
伊織にも止められている。
クロにも見張られている。
四対一。
確かに分が悪い。
アリアは本を閉じ、代わりに小さな紙を取り出した。
父への返事を書くつもりはなかった。
だが、言葉にしなければならない気がした。
羽ペンを取り、少し考える。
そして、短く書いた。
私は帰りません。
東伊織から距離を置く気もありません。
私は、私の判断でここにいます。
それだけを書いて、手を止めた。
送るかどうかは分からない。
たぶん、まだ送れない。
でも、書いた。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
アリアは紙を畳んだ。
父の手紙とは別に、引き出しの手前へ入れる。
捨てるためではない。
いつか送るかもしれない。
送らないかもしれない。
それでも、今の自分の答えとして、そこに置いた。
クロが静かに近づいてきた。
アリアの足元に座る。
アリアは手を伸ばした。
以前なら唸られた距離。
今は、クロは動かなかった。
指先が、黒い毛に触れる。
硬くて、温かい。
「……あなたは、認めてくれたんですか」
クロは目を細めた。
答えはない。
だが、逃げなかった。
それだけで十分だった。
アリアはクロの頭を、一度だけ撫でた。
少しぎこちない手つきだった。
クロは我慢しているような顔をした。
「失礼ですね」
アリアは小さく笑った。
笑えた。
さっきまで笑えなかったのに。
不思議だった。
◆
その頃、ダストヘイブンの外。
月明かりの届かない路地に、黒い外套の影があった。
エルザ=ヴァイスは、街の外壁を見上げていた。
手には、薄い通信結晶がある。
結晶の奥で、銀色の光が揺れていた。
「はい。接触は完了しました」
声は低い。
感情はない。
「アリア様は帰還を拒否。東伊織への心理的接近を確認。魔力感知器官に異常反応あり。東伊織の力は、対象者の記憶情報と強く結びついている可能性があります」
結晶の向こうから、何か声が返る。
エルザは目を伏せた。
「はい。現段階での強制回収は推奨しません。ギルドの警戒が強い。特に東伊織、ガルド・ライエン、魔獣犬の三者が障害となります」
また声。
「……承知しました」
エルザは通信結晶を握り直した。
「鉄鎖団への接触を許可する、という理解でよろしいですね」
夜風が吹いた。
砂が足元を流れる。
エルザは静かに頷いた。
「承知しました。では、観測を次段階へ移行します」
通信が切れた。
銀色の光が消える。
エルザはしばらく、ダストヘイブンの灯りを見ていた。
「アリア様」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「あなたの判断が、あなた自身を守るとは限りません」
黒い外套が、路地の闇に溶けた。
その夜、ダストヘイブンの南門近くで、鉄の鎖を刻んだ馬車が一台、静かに街へ入った。




