第9話 鉄鎖団の影
朝のギルドは、いつも騒がしい。
依頼書を取り合う声。
昨日の依頼の報告をする声。
飯を食いながら、次の稼ぎ口を話し合う声。
鍛冶場から聞こえる槌音。
厨房から漂う豆のスープの匂い。
扉が開くたびに入り込む、砂埃を含んだ風。
それらは、数日前まで伊織にとって知らない音だった。
今は違う。
少しずつ、聞き慣れてきている。
それが良いことなのかどうか、伊織にはまだ分からなかった。
伊織は食堂の端に座り、薄いスープを飲んでいた。
右手は、まだ完全には戻っていない。
冷たさは薄れた。
指も動く。
だが、奥に何かが残っている。
鋼鉄の欠片が、骨の中に沈んでいるような感覚。
時々、何もしていないのに右手が熱を持つ。
逆に、ふいに冷たくなることもある。
アリアは、それを「能力使用後の残留反応」と呼んだ。
伊織には、そういう難しい言い方は必要なかった。
ただ、分かることがある。
あれは、まだ自分の中にある。
出せるかどうかは別として、消えたわけではない。
クロが足元で丸まっている。
昨日から、クロは伊織とアリアの部屋を行き来していた。
見張りのつもりらしい。
アリアは「必要ありません」と言っていたが、クロは聞かなかった。
伊織にも似たようなことを言った。
聞かなかった。
飼い主に似る、とアリアは言った。
伊織は反論しなかった。
似ているのかもしれない。
その時、向かいの椅子が引かれた。
ガルドが座った。
いつものように大柄な体を椅子に預けたが、表情は軽くなかった。
「東」
「ああ」
「話がある」
伊織はスープの器を置いた。
ガルドが周囲を見る。
声を落とした。
「鉄鎖団が、この街に入った」
伊織は黙った。
聞いたことのない名前ではない。
昨夜、アリアの部屋に置かれた手紙。
その後、エルザが何をしたのかは知らない。
だが、嫌な予感はあった。
「鉄鎖団とは何だ」
「表向きは、南部を根城にしている運び屋崩れの犯罪組織だ。魔獣の密売、古代遺物の横流し、用心棒、脅し。金になることは何でもやる」
「裏は」
「オルドレインと繋がっている」
ガルドは苦い顔をした。
「機構が表で扱えないものを、連中が運ぶ。連中が集めた情報を、機構が買う。持ちつ持たれつってやつだ」
「証拠は」
「昔、奴らの護衛依頼を受けかけたことがある。積荷の中身を見て断った」
「何が入っていた」
「生きた魔獣と、子供の死体だ」
伊織は器から手を離した。
周囲の喧騒が、少し遠くなった。
「子供?」
「獣人の子だった。魔獣に食わせる餌にするつもりだったのか、実験用だったのかは知らん」
ガルドの声は低い。
感情を押し殺した声だった。
「その場で揉めた。何人か斬った。だが、潰せなかった」
「なぜ」
「こっちが一人だったからだ」
ガルドは伊織を見た。
「だから、お前には言っておく。一人で動くな」
伊織は答えなかった。
ガルドは眉を寄せる。
「今、返事しろ」
「情報を集める」
「一人で、か」
「まずは」
「それをやめろと言ってる」
クロが顔を上げた。
伊織は足元を見た。
クロの目が、こちらを見ている。
アリアがよく言う目だ。
また一人で決めようとしている。
そんな目だった。
「アリアには」
伊織が聞いた。
「まだ言っていない」
「なぜ」
「先にお前に言った。あいつは今、頭痛の件で無理をさせられない」
「同じ理由か」
「何が」
「余計な荷物を持たせたくない」
ガルドは黙った。
伊織は短く息を吐いた。
自分で言って、自分に刺さった。
同じだ。
アリアに言わない理由を考えれば、たぶん同じ言葉になる。
機構のこと。
父のこと。
頭痛のこと。
伊織の力のこと。
その上に、鉄鎖団の話まで持ち込むのか。
そう考える。
だが、この前の夜、アリアは言った。
仲間だからです、と。
自分の荷物は自分で決める、と。
伊織はスープを見た。
湯気が薄くなっている。
「言うべきだな」
ガルドがわずかに眉を上げた。
「珍しく早いな」
「学習した」
「なら上等だ」
「だが、先に確認する」
「何を」
「鉄鎖団が本当に俺を狙っているのか、それともアリアか」
ガルドは舌打ちした。
「どっちもだろうよ」
「だろうな」
伊織は立ち上がった。
「どこで見た」
「南門近く。鉄の鎖を刻んだ馬車が入った。見張りに聞いたら、積荷は鉱石と薬草だと言っていたらしい」
「偽装か」
「たぶんな」
「場所は」
「南門倉庫街。だが――」
ガルドは伊織を睨んだ。
「一人で行くな」
「見に行くだけだ」
「それを一人で行くと言う」
伊織は答えなかった。
クロが立ち上がった。
伊織の足元に並ぶ。
「お前も来るのか」
クロは鼻を鳴らした。
当然だ、という顔だった。
ガルドがため息をついた。
「……せめて俺も行く」
「目立つ」
「お前と魔獣犬も十分目立つ」
「違いない」
その時、背後から声がした。
「何の話ですか」
アリアだった。
右腕の包帯はまだ残っている。
顔色も万全ではない。
だが、目ははっきりしていた。
白と銀の軽装。双剣は背負っていない。代わりに短い護身用の剣を腰に差している。
休む気は、あまりないらしい。
伊織は黙った。
ガルドは視線を逸らした。
アリアは二人を見た。
「分かりました。私に言わない話ですね」
「今言うところだった」
伊織が言うと、アリアは少し目を細めた。
「本当ですか」
「ああ」
「少しだけ疑っています」
「正しい」
「正しいと言われると、怒りにくいです」
アリアは空いている椅子に座った。
「話してください」
伊織はガルドを見た。
ガルドが小さく頷いた。
隠す段階ではない。
伊織は、鉄鎖団のことを話した。
犯罪組織。
魔獣の密売。
古代遺物の横流し。
オルドレインとの繋がり。
昨夜、南門から鉄の鎖を刻んだ馬車が入ったこと。
アリアは黙って聞いていた。
途中で口を挟まなかった。
話し終えると、彼女は短く息を吐いた。
「エルザですね」
「そう思うか」
「昨夜、手紙を置いていきました。ですが、本当の目的はおそらく私を説得することではありません」
「観測か」
「はい。私の状態、東さんの反応、ギルドの守り、クロの存在。それを確認した」
アリアの顔が少し硬くなる。
「その上で、鉄鎖団を動かした」
「何のために」
「直接手を出せないからです。機構は表向き、古代技術の保存機関です。ギルド内で強引な行動は取れない。だから、外部の手を使う」
「分かりやすいな」
「分かりやすいから、厄介です」
ガルドが腕を組んだ。
「狙いは東の力か、アリアの回収か」
「両方でしょう」
アリアは言った。
「東さんを捕らえられれば、機構にとっては大きな成果です。私を孤立させれば、帰還を迫りやすくなる」
伊織はアリアを見た。
「体調は」
「今、その話をしますか」
「する」
「頭痛は残っています。魔力感知は広域では使えません。ですが、完全に使えないわけではありません」
「使うなと言われただろう」
「状況によります」
「俺が言ったら怒る返事だな」
「分かっています」
アリアは少しだけ目を逸らした。
「だから、無理はしません」
「信用できない」
「あなたにだけは言われたくありません」
クロが鼻を鳴らした。
どちらにも同意しているようだった。
「方針を決めよう」
ガルドが言った。
「鉄鎖団の馬車を見張る。こっちは三人と一匹。正面からは行かない。倉庫街を歩いて、積荷と出入りを確認する」
「俺が行く」
伊織が言う。
「私も行きます」
アリアが即答した。
「休んでいろ」
「断ります」
「危険だ」
「だから行きます」
二人の視線がぶつかった。
ガルドが頭をかいた。
「お前ら、似てるって言われないか」
「言われたくありません」
「同感だ」
二人が同時に言った。
ガルドは笑いかけたが、すぐ真顔に戻った。
「なら、こうだ。東と俺が表。アリアは少し離れて確認役。クロはアリアにつける」
クロが伊織を見た。
不満そうだった。
「アリアを頼む」
伊織が言うと、クロはしばらく動かなかった。
やがて、アリアの足元へ移動した。
アリアが少しだけ表情を緩める。
「また見張りですか」
クロは座った。
「優秀な見張りだ」
伊織が言った。
アリアは小さく頷いた。
「はい。知っています」
◆
南門倉庫街は、昼でも薄暗かった。
高い石壁に囲まれ、通りは狭い。馬車の轍が泥と砂を固め、倉庫の扉には錆びた金具が並んでいる。
乾いた街の中で、ここだけ湿った匂いがした。
古い木材。油。馬の汗。腐りかけた藁。
そして、鉄の匂い。
伊織とガルドは、人足を装って通りを歩いていた。
アリアは少し離れた薬草店の影。
クロはその足元。
伊織は視線を動かした。
一点を見ない。
全体を見る。
流れを見る。
倉庫街には人が多い。
荷を運ぶ者。
帳簿を持つ商人。
酒臭い傭兵。
馬の世話をする少年。
その中に、明らかに浮いている者がいた。
黒い袖。
左手首に巻かれた鉄の鎖。
歩く時、周囲を確認する癖。
訓練された動きではない。
だが、警戒に慣れている。
「いたな」
ガルドが小さく言った。
「ああ」
「左手首の鎖が印だ。鉄鎖団の下っ端は、ああいうものをつける」
「目立つな」
「内輪の誇示だろうよ。馬鹿だが、そういう馬鹿ほど厄介だ」
伊織は黒袖の男を追った。
男は倉庫の一つへ向かう。
扉には、古い商会の印があった。
その下に、小さく刻まれた模様。
鉄の鎖。
見えにくい。
だが、確かにある。
「あそこか」
「だな」
扉の前には二人の見張り。
どちらも武器を隠している。
右腰。
袖の内。
背中。
素人ではない。
伊織は通りの端で足を止めず、そのまま歩きながら観察した。
倉庫の上部に小窓がある。
裏口はおそらく南側。
馬車の出入りは正面。
隣の倉庫との間に人一人分の隙間。
侵入するなら夜。
だが今は、確認だけでいい。
その時、倉庫の中から音がした。
低い唸り声。
獣。
クロが離れた場所で反応した。
耳が立つ。
アリアがクロの首元に手を置き、動くなと止めた。
伊織は目を細めた。
魔獣を運び込んでいる。
ガルドの表情が険しくなった。
「やっぱりか」
「中に何体いる」
「音だけじゃ分からん」
「少なくとも一体。大きくはない」
伊織は足を止めようとして、やめた。
今踏み込めば、騒ぎになる。
アリアの状態も万全ではない。
ギルドへの報告が先だ。
そう判断した直後だった。
倉庫の扉が開いた。
中から若い男が出てきた。
二十代前半。
フードを被っている。
顔色が悪い。
右頬に古い傷。
目が合った。
一瞬。
男の目が揺れた。
恐怖。
焦り。
そして、何かを訴えるような色。
伊織は足を止めた。
男はすぐに視線を伏せ、通りへ出る。
見張りの一人が声をかけた。
「おい、どこへ行く」
「水だ。中の獣が暴れてる」
「早く戻れ」
「ああ」
男は歩き出した。
伊織の横を通り過ぎる。
その瞬間、男が小さく言った。
「夜。南の水路」
伊織は反応しなかった。
足も止めなかった。
男はそのまま通りを抜けていく。
ガルドが小さく言った。
「聞こえたか」
「ああ」
「罠か」
「可能性はある」
「行くのか」
「行く」
「即答かよ」
「情報がいる」
ガルドは息を吐いた。
「だから一人で行くな」
「分かっている」
「本当か?」
「今度は言う」
伊織はアリアを見た。
離れた場所で、アリアがこちらを見ていた。
彼女は状況を読み取ったらしい。
少しだけ眉を寄せている。
伊織は短く頷いた。
アリアも頷いた。
言葉はない。
だが、伝わった。
それで十分だった。
◆
ギルドに戻ると、ガルドがすぐに奥の部屋を借りた。
伊織、アリア、ガルド。
クロは扉のそばに座っている。
伊織は倉庫街で見たことを話した。
鉄鎖団の印。
倉庫の中の魔獣らしき唸り声。
フードの若い男。
夜、南の水路。
アリアは静かに聞いていた。
「罠の可能性は高いです」
「だろうな」
「それでも行くんですね」
「ああ」
「理由は」
「男の目が、助けを求めていた」
アリアは少し黙った。
「それだけですか」
「それだけだ」
ガルドが苦笑した。
「お前、本当に面倒な男だな」
「よく言われる」
アリアが伊織を見た。
「私は反対です」
「分かっている」
「でも、行くなら一人では行かせません」
「分かっている」
アリアは少し目を細めた。
「今日は素直ですね」
「学習した」
「本当なら良いことです」
伊織は地図を見た。
ダストヘイブン南側。
古い排水路。
外壁の下を抜ける水路跡。
使われていないが、完全に塞がれてはいないらしい。
「夜に行く。俺とガルドで接触。アリアは離れて確認。クロはアリアにつける」
「またですか」
アリアがクロを見る。
クロは鼻を鳴らした。
もう決まっている、という態度だった。
「魔力感知は使うな」
伊織が言うと、アリアは少しだけ不満そうにした。
「使いません。広域は」
「狭域も最小限だ」
「……分かりました」
「本当だな」
「あなたに確認されるのは納得できませんが、本当です」
ガルドが言った。
「俺はギルドマスターにも話しておく。動くなら、後詰めがいる」
「助かる」
「ああ。ただし東」
「何だ」
「罠だったら、引くぞ」
「状況による」
「そこは、はいと言え」
「努力する」
アリアとガルドが同時にため息をついた。
クロも鼻を鳴らした。
「三対一か」
伊織が言うと、アリアは静かに言った。
「四対一です。クロもこちらです」
クロは否定しなかった。
◆
夜。
南の水路は、街の灯りから外れた場所にあった。
壊れた石橋。
乾いた水路。
苔の生えた壁。
遠くで鳴く夜鳥の声。
二つの月が雲に隠れ、辺りは暗い。
伊織とガルドは、水路の手前で身を低くした。
アリアとクロはさらに後方。
廃材置き場の影にいる。
伊織は右手を開き、閉じた。
冷たさはある。
だが、今は出さない。
必要になるまで。
そう決めた。
「来たぞ」
ガルドが囁いた。
水路の奥から足音。
一人。
昼間のフードの男だった。
男は周囲を何度も確認しながら近づいてくる。
怯えている。
演技ではない。
少なくとも、伊織にはそう見えた。
「止まれ」
伊織が低く言った。
男がびくりと肩を震わせた。
「来た……本当に来たのか」
「用件は」
「助けてくれ」
男はすぐに言った。
声が震えていた。
「俺じゃない。中にいる子供たちを」
ガルドの表情が変わった。
「子供?」
「鉄鎖団が集めた。獣人の子供だ。魔力の強い個体を選んでる。明日の夜、南へ運ぶ」
「何のために」
「知らない。だが、オルドレインの人間が来ていた」
伊織は目を細めた。
「黒い外套の女か」
「違う。男だ。白い手袋をしていた。子供たちを見て、使えると言った」
使える。
その言葉が、空気を冷やした。
「場所は」
伊織が聞く。
「南門倉庫三番。地下がある。魔獣もいる。見張りは十二人。幹部はまだ来ていない」
「幹部?」
「ヴァルターだ。南部を仕切っている男。明日来る」
ガルドが小さく舌打ちした。
「ヴァルターか」
「知っているのか」
伊織が聞く。
「名前だけな。鉄鎖団の幹部だ。金と恐怖で人を動かすタイプの屑だ」
フードの男が震えた。
「頼む。俺はもう抜けたい。でも逃げられない。弟が捕まってる」
「弟も倉庫か」
「ああ」
「なぜ俺に言った」
男は伊織を見た。
「昼間、あんたを見た。噂で聞いてた。黒い鉄で魔獣を殺した異邦人。あんたなら……」
「俺は正義の味方じゃない」
伊織は言った。
男は目を伏せた。
「分かってる。でも、他に誰もいない」
その言葉に、伊織の左手が微かに疼いた。
誰も来ない。
中学の頃、地面に座ったまま思った言葉。
誰も来ない。
誰も見ていない。
いや、見ていても来ない。
伊織は男を見た。
見てしまった。
聞いてしまった。
なら、もう遅い。
伊織は短く言った。
「分かった」
ガルドが伊織を見た。
止める気はなさそうだった。
ただ、苦い顔をしている。
「すぐには動かない」
伊織は続けた。
「場所と人数を確認する。ギルドに報告する。明日の搬送前に叩く」
男の顔に、少しだけ安堵が浮かんだ。
「ありがとう」
「礼はまだ早い」
その時だった。
クロが遠くで低く吠えた。
一度だけ。
警告。
伊織とガルドが同時に動いた。
男の背後。
水路の壁の上。
黒い影が三つ。
弩。
「伏せろ!」
伊織は男を突き飛ばした。
矢が飛ぶ。
一本が伊織の肩を掠めた。
痛み。
浅い。
ガルドが斧を抜く。
水路の闇から、さらに数人の男たちが出てきた。
左手首に鉄の鎖。
鉄鎖団。
「やっぱり罠か」
ガルドが低く言った。
フードの男が青ざめる。
「違う! 俺は――」
「分かってる」
伊織は短剣を抜いた。
クロがアリアを守るように前に出ている。
アリアは魔力を練ろうとして、こめかみに手を当てた。
まだ頭痛が残っている。
伊織はそれを見た。
「アリア、使うな!」
「ですが――」
「クロ、守れ!」
クロが低く唸った。
鉄鎖団の一人が笑う。
「噂の異邦人か。ボスが会いたがってるぜ」
「俺は会いたくない」
「そう言うなよ。手足の一本くらいなら残して運べって言われてる」
伊織の右手が冷えた。
次に、熱を持った。
黒い粒子が指先に滲みかける。
だが、伊織は握り潰すように右手を閉じた。
まだ使うな。
今ここで出せば、アリアに響くかもしれない。
それに、相手は人間だ。
撃てば、殺す。
殺す覚悟がないわけではない。
だが、今は違う。
伊織は低く言った。
「ガルド」
「分かってる」
ガルドが一歩前へ出る。
「こいつらは生かして捕る。情報を吐かせる」
「できるか」
「努力する」
「信用できない返事だな」
「お前に言われたくねえ」
鉄鎖団が動いた。
夜の水路に、刃の音が響いた。
◆
戦闘は短かった。
ガルドは強かった。
粗野に見えるが、斧の扱いに無駄がない。殺さずに叩き伏せる技術がある。刃ではなく柄で顎を打ち、膝を砕き、腕を極める。
伊織はその隙間を埋めた。
短剣ではなく、体術で。
踏み込む。
避ける。
肘を打つ。
膝を払う。
壁に叩きつける。
SAT時代に叩き込まれた制圧術。
銃がなくても、人間相手なら十分だった。
クロはアリアの前を離れなかった。
近づく者がいれば牙を剥き、足を止める。
アリアは魔法を使わなかった。
使わずに、周囲の動きを読んで声を出した。
「右、上です!」
伊織はその声に反応し、頭上から飛びかかってきた男の腕を取った。
捻る。
男が地面に落ちる。
最後の一人が逃げようとした。
ガルドが投げた斧の柄が、男の足を払った。
男は水路に転がり、呻いた。
静かになった。
伊織は息を整えた。
右手は熱い。
だが、出していない。
何とか抑えた。
アリアがこちらを見る。
分かっている顔だった。
伊織が使わなかった理由を。
「怪我は」
アリアが聞いた。
「浅い」
「またそれですか」
「本当に浅い」
アリアは伊織の肩を見た。
矢が掠めた傷。
血は出ているが、深くはない。
「後で手当てします」
「ああ」
「逃げないでください」
「逃げない」
「信用します」
その言葉に、伊織は少しだけ返事が遅れた。
「……そうか」
ガルドが倒れた鉄鎖団の一人を縛り上げながら言った。
「信用されてんぞ」
「珍しいな」
「自覚あるのか」
「少しは」
フードの男は、水路の端で震えていた。
伊織は近づいた。
「名前は」
「……リオ」
「弟は」
「ニム。まだ倉庫にいる」
「分かった。助ける」
リオの目が揺れた。
「本当に?」
「ああ」
「なぜ」
伊織は少し考えた。
答えは、いつも同じところに戻る。
「見てしまった」
それだけ言った。
リオは何も言えなかった。
その時、縛られた鉄鎖団の男が笑った。
「助ける? 無理だ。明日の夜には、ヴァルター様が来る。あの人が来たら終わりだ」
伊織は男を見た。
「ヴァルターは何をする」
男は笑ったまま言った。
「異邦人、お前に会うんだよ」
「俺に?」
「ああ。黒い銃を出す男。オルドレインが欲しがってる化け物。お前を捕まえりゃ、俺たちは大金だ」
アリアの表情が硬くなった。
男は続けた。
「それと銀髪のエルフ。そっちも一緒だ。逃げた機構の娘だろ? 高く売れる」
クロが唸った。
低く、深い唸り。
伊織の右手が、今度こそ黒く滲んだ。
アリアが言った。
「東さん」
静かな声だった。
伊織は右手を握りしめた。
黒い粒子が消える。
「……分かってる」
男は笑っていた。
だが、伊織を見て笑いが止まった。
伊織は何もしていない。
ただ、見ていただけだ。
ガルドが男の襟を掴む。
「お前には、ギルドでたっぷり話してもらう」
男は唾を吐こうとした。
ガルドが顎を軽く叩いた。
男は沈黙した。
◆
夜明け前。
ギルドの地下室に、捕らえた鉄鎖団の男たちが運ばれた。
ギルドマスターのヴォルフは、報告を聞くと表情を変えなかった。
だが、机に置いた指が一度だけ強く曲がった。
「獣人の子供。魔獣。オルドレインの男。ヴァルター」
低い声だった。
「全部繋がったな」
「明日の夜、搬送らしい」
伊織が言う。
「なら、明日まで待たない」
ヴォルフは即断した。
「夜明け後に倉庫を押さえる。ギルドとして動く」
「俺も行く」
「当然だ。お前はもう巻き込まれている」
アリアが口を開いた。
「私も行きます」
「体調は」
ヴォルフが問う。
「万全ではありません。ですが、地下構造の解析と魔法陣の確認が必要になる可能性があります」
「魔力感知は制限つきだ」
「分かっています」
ヴォルフはしばらくアリアを見た。
そして頷いた。
「無理はするな」
「はい」
伊織がアリアを見た。
アリアもこちらを見る。
「言いたいことは分かります」
「なら言わない」
「その方が助かります」
クロが二人の間に座った。
ヴォルフがそれを見て、短く言った。
「その犬も連れていけ。子供の匂いを追えるかもしれん」
クロが鼻を鳴らした。
任せろ、という顔だった。
伊織は右手を見た。
まだ、冷たい。
だが、恐れている暇はない。
倉庫の地下には、子供たちがいる。
鉄鎖団は伊織を狙っている。
オルドレインはアリアを見ている。
ヴァルターという男が来る。
面倒なことになった。
伊織はそう思った。
だが、不思議と足は重くなかった。
見てしまった。
聞いてしまった。
なら、やるしかない。
夜明けの光が、窓の外を白く染め始めていた。
伊織は右手を握った。
鋼鉄の感触は、まだ奥に沈んでいる。
次に引き金を引く時。
それはたぶん、人を救うためだけでは済まない。
そういう予感があった。




