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第10話 鎖の倉庫

 夜明け前のギルドは、いつもより静かだった。


 酒場の椅子は机の上に上げられ、床には昨日の砂埃が薄く残っている。厨房の火はまだ入っていない。豆のスープの匂いもない。


 あるのは、革鎧の擦れる音と、金具を締める音だけだった。


 伊織は食堂の端で装備を確認していた。


 短剣。

 包帯。

 水袋。

 手袋。

 予備の布。

 クロ用の干し肉。


 最後の一つを見て、少しだけ手が止まった。


 戦闘前に確認する装備としては、ずいぶん場違いだ。


 だが、持っていかないという選択肢はなかった。


 クロが足元に座っている。


 首元の青い識別布が、暗い食堂の中でわずかに見えた。


「今日は、子供の匂いを追えるか」


 クロは鼻を鳴らした。


 できる、と言っているようだった。


 気のせいかもしれない。


 だが、伊織はそう受け取った。


 右手を開く。


 冷たい。


 昨夜よりはましだ。


 だが、鋼鉄の感触はまだ奥に残っている。


 出せる。


 たぶん、出せる。


 だが、出すべきかどうかは別だ。


 相手は魔獣ではない。


 人間だ。


 撃てば、死ぬ。


 ヴァルムドラッヘの喉を消したあの力を、人間に向ければどうなるか。


 考えるまでもない。


 伊織は右手を握った。


「東さん」


 声がした。


 アリアが階段から降りてきた。


 白と銀の装束ではなく、動きやすい軽装だった。右腕の包帯はまだ残っている。腰には短い剣。魔道書は持っていない。


 その代わり、小さな革袋を肩から下げていた。


「体調は」


 伊織が聞く。


「昨日よりはましです」


「魔力感知は」


「広域では使いません」


「狭域は」


「必要最低限です」


「本当だな」


「あなたに確認されるのは、やはり納得できませんね」


「俺もそう思う」


「思うだけではなく、改善してください」


 アリアはそう言いながら、伊織の右手を見た。


「右手は」


「動く」


「冷えは」


「ある」


「痛みは」


「ない」


「黒い粒子は」


「出していない」


「出さないでください。少なくとも、私の近くでは」


「ああ」


 伊織が即答すると、アリアは少しだけ目を細めた。


「今日は素直ですね」


「子供がいる」


 アリアは黙った。


 その一言で、十分だったらしい。


 ガルドが奥の扉から出てきた。


 大斧を背負い、革鎧の上に古い外套を羽織っている。いつもの軽口はない。


「準備はいいか」


「ああ」


「はい」


 クロが立ち上がった。


 少し遅れて、ギルドマスターのヴォルフが現れた。


 右目の眼帯。白髪交じりの顎髭。厚い肩。


 その後ろに、数人のハンターが控えている。ベルナもいた。斧を肩に担いでいるが、表情は硬い。


「作戦を確認する」


 ヴォルフが低く言った。


 テーブルの上に、南門倉庫街の簡易地図が広げられる。


「対象は南門倉庫三番。表に見張りが二名。昨夜の情報では、内部に鉄鎖団構成員が少なくとも十名以上。地下に獣人の子供たちがいる可能性が高い。魔獣も確認されている」


 誰も口を挟まない。


「表は俺たちが押さえる。ガルド、ベルナ、お前たちは正面。東、アリア、クロは裏口から地下を探せ」


 ガルドが眉を上げた。


「東を地下へ?」


「子供の救出が優先だ。クロの嗅覚と、東の制圧能力が要る。アリアは魔法陣や鍵の確認だ」


「妥当だな」


 伊織は地図を見た。


 裏口。

 横道。

 隣倉庫との隙間。

 排水路へ抜ける細い通路。


 逃走経路が多い。


 鉄鎖団は、おそらく逃げ道を確保している。


「ヴァルターは」


 伊織が聞いた。


「まだ街には入っていない可能性が高い。ただし、早まったかもしれん」


「つまり、来るかもしれない」


「そうだ」


 ヴォルフは伊織を見た。


「東。お前は鉄鎖団の狙いでもある。無理に奥へ出るな」


「努力する」


 アリアが横から言った。


「それは信用できない返事です」


「分かっている」


「分かっているなら、別の返事をしてください」


 伊織は少し考えた。


「必要がなければ出ない」


「少しだけましです」


 ガルドが低く笑った。


「進歩したな」


「してるのか」


「たぶんな」


 ヴォルフは地図を畳んだ。


「いいか。今回の目的は討伐ではない。子供たちの救出と証拠の確保だ。鉄鎖団を壊滅させるのは、その後でいい」


 全員が頷いた。


「行くぞ」


 夜明け前のギルドを、武装した一団が静かに出た。



 南門倉庫街は、まだ眠っていた。


 空は青くなり始めている。だが、太陽はまだ上っていない。石壁の影が通りに長く伸び、倉庫の扉は黒い口のように並んでいた。


 伊織は裏通りを歩いていた。


 隣にアリア。


 足元にクロ。


 正面では、別働隊の気配が遠ざかっていく。


 表の見張りを押さえるのは、ヴォルフとガルドたちの役割だ。


 伊織たちは裏から入る。


 できるだけ静かに。


 クロが鼻を地面に近づけた。


 低く唸る。


「いるか」


 クロは倉庫の裏口を見た。


 アリアが小さく頷く。


「魔力反応があります。弱い反応が複数。おそらく子供です」


「魔獣は」


「一体。いえ、二体かもしれません。反応が乱れています」


「頭痛は」


「まだ大丈夫です」


「まだ、か」


「言葉の綾です」


「便利な言葉だな」


「あなたの“浅い”よりは正確です」


 伊織はそれ以上言わなかった。


 裏口には鍵がかかっていた。


 木の扉に鉄の錠前。


 古いが、頑丈だ。


 伊織は短剣を抜こうとした。


 その前に、アリアが膝をついた。


「待ってください」


「開けられるのか」


「音を立てずに」


 アリアは指先を錠前に添えた。


 小さな魔法陣が浮かぶ。


 淡い光。


 すぐに消えた。


 錠前が、かちりと鳴る。


「開きました」


「便利だな」


「泥棒扱いしないでください」


「していない」


「今の間は何ですか」


「確認だ」


 アリアがじとりと見た。


 伊織は扉を押した。


 軋む音がしそうだったので、途中で止める。


 ゆっくり。


 指で支えながら。


 必要な分だけ開く。


 中は暗い。


 木箱が積まれている。薬草の匂い。油の匂い。獣の匂い。


 そして、血の匂い。


 伊織の目が細くなった。


 クロが低く唸る。


「行くぞ」


 三人は倉庫の中へ入った。



 倉庫内は、表向きの積荷で埋まっていた。


 鉱石の入った麻袋。薬草の木箱。布で覆われた壺。


 だが、その奥に違う匂いがある。


 鉄の鎖。

 糞尿。

 獣の息。

 怯えた人間の匂い。


 伊織は足を止めた。


 床に、わずかな擦れ跡。


 木箱の下に隠された取っ手。


「地下だ」


 伊織が言うと、アリアが頷いた。


「この下に空間があります」


「罠は」


「魔法的な罠はありません。ただ、物理的なものまでは分かりません」


「十分だ」


 伊織は取っ手を掴んだ。


 重い。


 音を立てないように、ゆっくりと床板を持ち上げる。


 下に階段があった。


 石造りの階段。


 暗い。


 空気が重い。


 クロが一歩先に進もうとする。


「待て」


 伊織はクロの首元を軽く押さえた。


 下から声が聞こえた。


 男の声。


「……明日の夜って話じゃなかったのかよ」


「早まった。ヴァルター様が昼には来る」


「なら、獣はどうする」


「連れていく。ガキどももだ。オルドレインの客が待ってる」


「面倒だな」


「黙れ。高く売れるんだ」


 伊織はアリアを見た。


 アリアの顔が硬い。


 オルドレイン。


 やはり繋がっている。


 伊織は指で合図した。


 一人目、階段下。

 二人目、奥。

 まず制圧。


 アリアが頷く。


 クロが姿勢を低くする。


 伊織は階段を降りた。


 音を立てない。


 一段ずつ。


 下にいた男は、背中を向けていた。


 左手首に鉄の鎖。


 伊織は一気に踏み込んだ。


 口を塞ぐ。

 膝裏を蹴る。

 倒れる前に首筋を打つ。


 男は声を出す前に崩れた。


 奥の男が振り向く。


「な――」


 アリアの風が走った。


 刃ではない。


 圧を持った風。


 男の体が壁に叩きつけられ、息が詰まる。


 伊織が距離を詰め、顎を打った。


 二人目も倒れる。


 静かになった。


 クロが奥へ走る。


 伊織とアリアが続いた。


 地下には檻が並んでいた。


 粗末な鉄格子。


 その中に、子供たちがいた。


 獣の耳を持つ子。

 尻尾を抱えて震える子。

 腕に包帯を巻かれた子。

 まだ幼い、人間の子もいる。


 十人以上。


 全員が、こちらを見ていた。


 泣く声もない。


 泣く力も残っていないのかもしれない。


 アリアが息を呑んだ。


 伊織は奥歯を噛んだ。


 檻の一つに、小さな少年がいた。


 栗色の髪。犬のような耳。痩せた腕。


 少年はクロを見て、次に伊織を見た。


「……兄ちゃんが、呼んだ人?」


 声がかすれていた。


「ニムか」


 少年の目が見開かれた。


「リオ兄を知ってるの?」


「ああ。助けに来た」


 その言葉を聞いた瞬間、檻の中の子供たちがざわついた。


 信じていいのか分からない。


 でも、縋りたい。


 そんな目だった。


 伊織はアリアを見る。


「開けられるか」


「やります」


 アリアは檻の鍵に手を伸ばした。


 その時、地下の奥から低い唸り声が響いた。


 クロが振り向く。


 暗がりの奥。


 大きな檻があった。


 そこに、魔獣がいた。


 黒い体毛。

 異様に発達した前脚。

 口元に鉄の枷。

 目は赤く濁っている。


 魔獣は檻の中で体を震わせていた。


 怒っている。


 いや、怯えている。


 体のあちこちに傷がある。


 薬を打たれているのか、呼吸が荒い。


「魔獣犬の亜種……?」


 アリアが呟いた。


 クロが低く唸った。


 敵への唸りではない。


 もっと違う。


 痛みを知っているものへの反応に見えた。


 伊織は魔獣を見た。


 鉄鎖団は、これを武器にするつもりだったのか。


 あるいは、売るつもりだったのか。


 どちらにせよ、まともではない。


「先に子供を出す」


「はい」


 アリアが檻を開け始める。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 子供たちは怯えながら出てくる。


 クロが近くに寄ると、小さな子が身をすくめた。


 クロはそれ以上近づかず、ただ入口の方を向いた。


 見張るように。


 ニムが檻から出て、伊織の袖を掴んだ。


「リオ兄は?」


「生きてる。ギルドにいる」


「本当?」


「ああ」


 伊織は短く答えた。


 嘘ではない。


 それだけで、少年の目に涙が浮かんだ。


 泣くのを我慢していたのだろう。


「泣くのは後だ」


 伊織が言うと、ニムは慌てて頷いた。


「うん」


 その時、上から音がした。


 怒号。


 剣戟。


 ガルドの声。


 正面も始まった。


 アリアが最後の檻を開ける。


「全員出ました」


「上へ」


「魔獣は?」


 伊織は奥の檻を見た。


 魔獣犬の亜種。


 傷だらけの黒い獣。


 クロが檻の前に立っている。


 動かない。


「置いていくのは危険です」


 アリアが言った。


「あの状態では、暴走する可能性があります」


「殺すか」


 伊織が聞く。


 アリアは答えなかった。


 答えられなかった。


 クロが伊織を見た。


 その目で、伊織は分かった。


 置いていくな。


 そう言っている。


 伊織は短く息を吐いた。


「面倒だな」


 クロが鼻を鳴らした。


 伊織は奥の檻へ近づいた。


 魔獣犬が唸る。


 今にも飛びかかりそうだ。


 伊織はしゃがんだ。


「噛むか」


 以前、クロに言った言葉と同じだった。


 アリアが小さく息を呑む。


 魔獣犬は唸り続けた。


 伊織は動かない。


 ただ、そこにいた。


 数秒。


 いや、もっと長く感じた。


 やがて、クロが檻の前に立った。


 魔獣犬と目を合わせる。


 低く、短く鳴いた。


 魔獣犬の唸りが、少しだけ弱まった。


「開けるぞ」


 伊織が言った。


「本気ですか」


「本気だ」


「暴れたら」


「俺が止める」


「その返事は信用できません」


「だろうな」


 アリアは一瞬だけ迷った。


 それでも、檻の錠前に手をかざした。


 光が走る。


 鍵が開く。


 扉をゆっくり開ける。


 魔獣犬は飛び出さなかった。


 ただ、クロを見ている。


 クロが一歩下がる。


 ついてこい、と言うように。


 魔獣犬はふらつきながら檻を出た。


 子供たちが怯える。


「大丈夫だ」


 伊織は言った。


 根拠はない。


 だが、言うしかなかった。



 地下からの脱出は、静かにはいかなかった。


 階段を上がる途中で、鉄鎖団の男が三人降りてきた。


 先頭の男が子供たちを見て目を見開く。


「てめえら――」


 伊織が動いた。


 階段では大きな武器は使えない。


 短剣を逆手に持ち、男の手首を打つ。


 剣が落ちる。


 続けて膝を蹴る。


 男が崩れる。


 二人目が弩を構える。


 アリアの風が弩を弾いた。


 クロが飛びかかり、男の腕に噛みつく。


 三人目が子供へ手を伸ばした。


 伊織の右手が熱を持った。


 黒い粒子が滲む。


 使うな。


 伊織は奥歯を噛み、左手で短剣を投げた。


 短剣は男の肩に刺さった。


 男が悲鳴を上げる。


 殺していない。


 だが、動きは止まった。


 伊織は踏み込み、顎を打ち抜いた。


 男が倒れる。


 右手の粒子が消えた。


 アリアが伊織を見た。


 何も言わない。


 だが、分かっている。


 伊織が銃を使わなかったことを。


 使いたくても、使わなかったことを。


 子供たちは震えていた。


 ニムが伊織の袖を離さない。


「走れるか」


 伊織が聞くと、ニムは頷いた。


「走れる」


「なら、上へ」


 地上へ出る。


 倉庫内はすでに戦場だった。


 ガルドが三人を相手にしている。ベルナが扉付近を押さえ、ヴォルフが表の見張りを一撃で制圧していた。


 さすがにギルドマスターだ。


 動きが重いのに、速い。


 子供たちが地下から出てきたのを見て、ヴォルフが叫ぶ。


「救出班! 子供を外へ!」


 待機していたハンターたちが駆け込んでくる。


 子供たちを抱え、外へ誘導する。


 その時、倉庫の奥で爆ぜるような音がした。


 魔法陣。


 アリアが振り向く。


「転移陣です!」


「何だと!」


 ヴォルフが叫ぶ。


 倉庫の奥、布で隠された床に、赤黒い魔法陣が浮かんでいた。


 その中央に、白い手袋の男が立っている。


 細身。

 灰色の髪。

 研究者のような長衣。

 顔には薄い笑み。


 オルドレインの男。


 昨夜、リオが言っていた人物だ。


「これは困りましたね」


 男は言った。


「もう少し静かに済む予定だったのですが」


 アリアの顔が強張る。


「……機構研究部、セヴラン」


「お久しぶりです、アリア様」


 セヴランと呼ばれた男は、優雅に頭を下げた。


「お父上が心配しておられますよ」


「父の名を出さないでください」


「これは失礼」


 セヴランは伊織を見た。


 その目が、楽しげに細まる。


「そして、あなたが東伊織さん。なるほど。確かに、妙な反応ですね」


 伊織は子供たちの位置を確認した。


 半数は外へ出た。

 まだ数人が倉庫内。

 アリアは右斜め前。

 クロは子供たちと魔獣犬の間。

 ガルドは遠い。


 セヴランの足元の魔法陣が強く光る。


 逃げる気だ。


 床の近くに、小さな檻があった。


 中に、まだ一人。


 獣人の少女。


 気絶している。


 セヴランが檻に手を置いた。


「この子だけは持ち帰らせていただきます。適性が高いので」


 伊織の中で、何かが冷えた。


「置いていけ」


「それはできません。貴重な検体です」


 検体。


 その言葉で、アリアの顔色が変わった。


 伊織の右手が熱を持つ。


 今度は抑えきれないほど、はっきりと。


 黒い粒子が指先に集まる。


 アリアが言った。


「東さん、駄目です。ここで撃てば――」


 分かっている。


 子供が近い。

 アリアにも響く。

 相手は人間。

 しかも、撃てばおそらく死ぬ。


 だが、セヴランは檻を持ち上げようとしている。


 魔法陣の光が強くなる。


 間に合わない。


 伊織は右手を前に出した。


 銃を思い出す。


 重さ。

 冷たさ。

 引き金。


 だが、銃ではない。


 撃てば殺す。


 なら、殺さずに止めるもの。


 記憶を探る。


 訓練で使った。

 暴徒鎮圧。

 突入時の制圧。

 非致死。


 黒い金属が形を変えた。


 拳銃ではない。


 短い筒。


 手のひらに収まる、黒い発射器。


 伊織はそれを握った。


 セヴランの目が見開かれる。


「形が変わった?」


 伊織は引き金を引いた。


 音は、やはりしなかった。


 黒い閃光ではない。


 黒い網が走った。


 魔法陣の上を横切り、セヴランの腕に絡みつく。


「なっ――」


 セヴランの体が後ろへ引かれた。


 檻から手が離れる。


 転移陣が一瞬乱れる。


 アリアが叫んだ。


「今です!」


 風が走る。


 魔法陣の一部を削る。


 光が歪んだ。


 セヴランは舌打ちした。


 白い手袋が破れ、その下に金属の義手のようなものが見えた。


「面白い。実に面白いですね、東伊織」


 セヴランは笑っていた。


 恐怖ではない。


 興奮。


「殺傷だけではない。記憶に応じて機能が変わる。これは――」


 ヴォルフが踏み込んだ。


 だが、間に合わない。


 セヴランの足元で、魔法陣が再び光る。


「本日はここまでにしましょう。サンプルは十分です」


「逃がすか!」


 ガルドが斧を投げる。


 斧はセヴランの肩を掠めた。


 血が飛ぶ。


 それでも、男は笑っていた。


「アリア様。お父上によろしくお伝えしておきます。あなたは、非常に危険なもののそばにいると」


 光が弾けた。


 セヴランの姿が消えた。


 倉庫に、焦げたような匂いだけが残る。


 伊織の右手から、黒い発射器が崩れた。


 粒子になって消える。


 体の芯から、熱が抜けた。


 膝が落ちかける。


 だが、倒れる前にクロが体を押しつけてきた。


 さらに、アリアが伊織の腕を支えた。


「……立てますか」


「立てる」


「嘘ですね」


「ああ」


「なら、座ってください」


 伊織は言われた通り、木箱に腰を下ろした。


 右手が冷たい。


 だが、さっきの感触が残っている。


 銃ではない形。


 殺さずに止めるための鋼鉄。


 出せた。


 だが、その代償は分からない。


 アリアが額に手を当てる。


「頭痛は」


 伊織が聞く。


「あります」


「すまない」


「でも、前より軽いです」


「なぜ」


「あなたが、殺すためではなく止めるために使ったからかもしれません」


 アリアは伊織の右手を見た。


「鋼鉄の具現は、あなたの意志に強く影響される。だとすれば、何を目的に形を作るかで、波形が変わる可能性があります」


「また研究者の顔だな」


「今は、仲間の顔もしています」


 伊織は返事に詰まった。


 アリアは少しだけ笑った。


 疲れた笑みだった。


 だが、確かに笑っていた。



 倉庫の制圧は完了した。


 子供たちは全員救出された。


 地下にいた魔獣犬の亜種も、暴れることなく外へ出た。クロのそばから離れようとしなかったため、ギルドの獣舎で一時保護されることになった。


 ニムは、ギルドでリオと再会した。


 兄弟はしばらく何も言わなかった。


 ただ抱き合って、泣いていた。


 伊織はそれを離れた場所から見ていた。


 見てしまった。


 聞いてしまった。


 なら、やるしかない。


 そう思って動いた。


 結果として、子供たちは助かった。


 だが、セヴランは逃げた。


 ヴァルターもまだ来ていない。


 鉄鎖団は終わっていない。


 オルドレインも、さらにこちらを見るだろう。


 面倒は増えた。


 だが、不思議と後悔はなかった。


 アリアが隣に来た。


「右手は」


「冷たい」


「でしょうね」


「お前の頭は」


「痛いです」


「だろうな」


「でも、立てます」


「それは大丈夫とは違う」


 アリアが少しだけ目を丸くした。


「私の言葉を覚えていたんですか」


「便利だった」


「不便です。周囲が」


「そうだったな」


 クロが二人の間に座った。


 少し誇らしげに見える。


「お前もよくやった」


 伊織が言うと、クロは鼻を鳴らした。


 アリアがしゃがんで、クロの頭を撫でた。


 クロは少しだけ我慢する顔をしたが、逃げなかった。


 ギルドの外には、朝日が昇っていた。


 二つの太陽が、砂の街を照らしている。


 救われた子供たちの泣き声。

 怒鳴るハンターたち。

 運び出される証拠品。

 鎖をつけられた鉄鎖団の構成員。


 すべてが、朝の光の中にあった。


 伊織は右手を握った。


 次に引き金を引く時。


 それは、殺すためだけではなくていい。


 そう分かった。


 だが同時に、別のことも分かった。


 自分の力は、もう隠しきれない。


 倉庫の外れ。


 誰もいない屋根の上で、黒い外套の影が一つ、静かに消えた。


 その手には、鉄の鎖の紋章が刻まれていた。

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