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第79話 夜の侵入者

 クロが唸るより先に、伊織は目を開けた。


 屋敷は暗い。


 窓の外から差し込む月明かりが、廊下の床を細く照らしている。


 食卓の横に置かれた長椅子。


 伊織はそこで眠っていた。


 右手は固定具の中。


 左肩には包帯。


 寝台を使わなかったのは、誰かを警戒していたからではない。


 横になると、起き上がる時に肩が痛む。


 それだけだった。


 足元にいたクロが、玄関ではなく天井を見ている。


 吠えない。


 喉の奥で、低い音だけを出している。


 耳が一度、左へ動いた。


 次に右。


 最後に、屋敷の奥。


 三方向。


 伊織は立ち上がる。


 床板を鳴らさない。


 クロの鼻先が、梁の上を追っている。


 天井裏に一人。


 庭側に一人。


 屋敷の裏にもいる。


 少なくとも三人。


 見張っていた者が、そのまま入ってきたとは考えにくい。


 数はもっと多い。


 伊織はクロの背へ左手を置いた。


「アリアを起こせ」


 囁く。


 クロは音を立てず、階段を上がった。


 伊織は台所へ向かう。


 途中で、床に白い粉が落ちているのを見つけた。


 窓際から廊下へ。


 細い線になって続いている。


 匂いを消す粉。


 クロの鼻を潰すためのものだ。


 同じ手は、もう通じていない。


 台所の戸を開ける。


 ガルドは椅子に座ったまま眠っていた。


 ヴォルフは壁へ背を預け、目を閉じている。


 伊織が二人を見る。


 ヴォルフの片目が開いた。


「何人だ」


 声は小さい。


「三方向。数は不明」


 ガルドも目を開ける。


「どこから入る」


「全部だ」


 伊織は台所の奥を指す。


「リナとトトを地下の貯蔵庫へ。エルナは記録を持って一緒に下がれ」


「お前は」


「階段を見る」


「その肩でか」


「動くのは敵だ」


 ガルドは反論せず、壁に立ててあった短い鉄棒を取った。


「裏口は俺が塞ぐ」


 ヴォルフが骨刃を肩へ掛ける。


「庭を回る」


「殺すな」


 伊織が言う。


「努力する」


「努力じゃ足りねえ」


「年寄りに細かい注文をするな」


 ヴォルフは勝手口から闇へ消えた。


 ガルドが食卓を持ち上げる。


 脚を床へ擦らせず、裏口の前まで運ぶ。


「これで足りるか」


「棚も使え」


「人の家だぞ」


「壊されるよりましだ」


「あとでアリアに言え」


 階段から足音が降りてくる。


 アリア。


 左手に剣を一本。


 右腕はまだ布で吊っている。


 クロが隣にいた。


「何人ですか」


「分からない」


「足跡は?」


「残してない」


「目的は」


「俺たちか、記録か、お前の記憶だ」


 アリアの瞳が細くなる。


「手紙を読んだことが知られた?」


「庭にいた奴が報告したならな」


 エルナとリナも起きてきた。


 トトは眠そうな顔で木片を握っている。


「何か来たの?」


「客だ」


 ガルドが答える。


「夜に?」


「礼儀を知らねえ奴らだ」


 リナがトトの肩を抱く。


「地下へ行きましょう」


「クロは?」


「ここに残る」


 伊織が言った。


 トトはクロを見る。


「戻ってくる?」


 クロが一度、鼻を鳴らす。


 トトは頷いた。


「じゃあ、待ってる」


 エルナが記録の入った鞄を持つ。


 伊織は首を振った。


「それは置いていけ」


「奪われます」


「奪わせる」


 伊織は食卓の下を指した。


「本物は地下へ。空の鞄に壊れた音具を入れろ」


 エルナはすぐに動いた。


 鞄の中身を布包みへ移す。


 代わりに、音具の破片と白紙の束を詰めた。


 重さは近い。


「書斎の図面は」


「写しはガルドが持ってる」


 ガルドが腰の内側を叩く。


「原本はハーゲンだ」


「父の手紙は書斎です」


 アリアが言う。


「なら、持っていかれない」


「封を開ける鍵があれば別です」


「今夜、書斎へ向かう奴がいたら追うな」


 アリアが伊織を見る。


「なぜですか」


「何を知ってるか確かめる」


「手紙を失う可能性があります」


「お前は覚えてる」


 アリアは数息だけ黙った。


「分かりました」


 屋敷の外で、小さな金属音がした。


 玄関の錠ではない。


 窓枠。


 細い工具を差し込んでいる。


 同時に、天井の梁がわずかに軋む。


 伊織は左手を開く。


 黒い粒子が集まった。


 手の中へ落ちたのは、小さな黒鋼灯。


 光をつけない。


 形だけを確かめる。


「灯りを消したままにしてください」


 アリアが言う。


「ああ」


「東さん」


「何だ」


「無理は」


「今は言うな」


 アリアは口を閉じた。


 クロが玄関へ向く。


 耳が立つ。


 錠が外れた。


 扉が、指一本分だけ開く。


 白い煙が床へ流れ込んだ。


「煙!」


 エルナが布で口を覆う。


 甘い匂い。


 眠り薬。


 伊織は黒鋼灯を消す。


 左手へ別の形を呼ぶ。


 円筒形の小さな缶。


 閃光音響弾。


 SATで何度も扱った重量が、掌へ落ちる。


 左手だけでは安全環を抜きにくい。


 伊織は輪を歯に掛けた。


 引く前に、クロを見る。


「玄関の柱。置いたら戻れ」


 クロが姿勢を低くする。


 伊織は閃光音響弾の布帯をクロへ咥えさせた。


 安全環はまだ抜かない。


 クロは玄関の横へ走る。


 煙の流れない壁際。


 倒した椅子の陰へ缶を置く。


 すぐに伊織のところへ戻った。


 伊織は缶から伸びた布帯の端を引く。


 帯は細い糸で安全環につながっている。


 金属音。


 輪が抜けた。


「目を閉じろ」


 玄関が開く。


 白い外套の男が二人、煙の中から入る。


 一人は捕縛筒。


 もう一人は、顔を覆う銀色の面を持っている。


 男の足が椅子を越えた。


 閃光。


 爆音。


 玄関の空気が白く弾ける。


 二人が身を縮めた。


 伊織は走る。


 左肩を振らない。


 腰を落とし、先頭の男へ近づく。


 黒鋼警棒を具現。


 捕縛筒を持つ手首へ一打。


 筒が落ちる。


 二打目。


 膝の外側。


 男の身体が崩れる。


 倒れる前に襟を掴み、壁へ押しつける。


 もう一人が銀の面を伊織へ向けた。


 表面から細い針が開く。


 アリアの剣が横から入った。


 面を持つ腕を切らない。


 留め具だけを断つ。


 銀の面が床へ落ちる。


 アリアは剣を返し、柄頭を男の顎へ当てた。


 男が後ろへ倒れる。


「銀の面は何ですか」


 アリアが尋ねる。


 答えはない。


 天井が割れた。


 黒い影が二人、二階の廊下へ降りる。


 一人は書斎へ。


 もう一人は階段を下りる。


「上を頼む」


 伊織が言う。


 アリアは返事をせず、階段を駆け上がる。


 右手は使わない。


 左手の剣だけを低く構えている。


 クロがその後ろを追おうとする。


「残れ」


 伊織が止めた。


 クロは一瞬だけ迷い、伊織の横へ戻る。


 裏口で大きな音がした。


 食卓が動く。


 ガルドが身体ごと押し返している。


「三人いるぞ!」


「入れるな!」


「分かってる!」


 扉の隙間から銀線が伸びる。


 食卓の脚へ巻きつき、外側から引く。


 ガルドは鉄棒を線へ差し込み、捻った。


「人の家具を引っ張るんじゃねえ!」


 銀線が張る。


 ガルドは鉄棒を離さない。


 逆に扉の蝶番側へ体重を掛ける。


 外の男が引いた瞬間、線の角度が変わる。


 扉と壁の隙間へ食い込んだ。


 一本目が切れる。


 二本目。


 三本目。


 勝手口の小窓が割れ、短槍が突き込まれた。


 ガルドは食卓の天板を立てる。


 槍先が板へ刺さる。


「いい板だ」


 ガルドは槍ごと天板を押す。


 外で人が倒れる音がした。


 玄関から三人目が入る。


 閃光音響弾の効果を避け、遅れてきた男。


 伊織へ向かわない。


 食卓の下に置いた鞄へ走る。


 狙いどおりだった。


 男が鞄を掴む。


 クロが前へ出る。


「待て」


 伊織が低く命じる。


 クロは止まる。


 男は鞄を抱え、玄関へ戻ろうとする。


 逃がして追う。


 そう考えた瞬間、男の袖口から小さな刃が出た。


 鞄ではない。


 クロを見ている。


「獣を確保する」


 初めて声を発した。


「後脚を切れ。歩ければいい」


 クロの唸りが深くなる。


 伊織の判断が変わる。


「伏せろ」


 クロが地面へ沈む。


 伊織は黒鋼警棒を消した。


 拳銃。


 左手に黒い短銃が現れる。


 銃身が揺れる。


 左肩に痛みが走る。


 クロは動かない。


 照準の下に身体を置き、男だけを見ている。


 伊織は撃つ。


 弾丸は男の腕ではなく、袖口の刃を固定する金具へ当たった。


 刃が弾け飛ぶ。


 男が身を引く。


 クロが立つ。


 正面から飛びつかない。


 鞄の下へ頭を入れ、布帯を咥える。


 男が引く。


 クロは引き合わない。


 横へ走る。


 男の腕が外側へ開く。


 伊織が距離を詰める。


 拳銃を消し、黒鋼警棒へ変える。


 開いた肘の内側へ差し込む。


 捻る。


 男の身体が床へ落ちた。


 鞄はクロが持っている。


 伊織は男の背へ膝を置く。


 左肩に力を入れない。


 警棒で手首だけを固定する。


「誰の命令だ」


 男は答えない。


 口の奥で何かを噛んだ。


 伊織は顎を押さえる。


 間に合わない。


 男の身体から力が抜けた。


「毒か」


 エルナが地下へ続く戸の隙間から言う。


「出るな」


「生きていますか」


 伊織は首へ指を当てる。


 脈はある。


 弱い。


「リナ!」


 地下から足音。


 リナが薬箱を持って出てくる。


「捕虜ですか」


「ああ」


「なら、生かします」


 男の口を開き、小さな黒い殻を取り出す。


「全部は飲み込んでいません」


「任せる」


 伊織は立つ。


 二階。


 剣がぶつかる音。


 短い。


 速い。


「クロ」


 伊織が階段を見る。


 クロはすでに前へ出ていた。


 二人で上がる。



 二階の廊下では、アリアが二人を相手にしていた。


 一人は書斎の前。


 銀鎖へ細い刃を差し込んでいる。


 もう一人はアリアを止める役。


 両手に短剣。


 アリアは左手の剣一本。


 右側からの攻撃を受けられない。


 短剣の男も、それを知っている。


 右へ回り続ける。


 アリアは追わない。


 書斎へ近づかせない位置だけを守る。


 短剣が右肩を狙う。


 アリアは半歩下がる。


 刃先が吊り布を裂いた。


 右腕が落ちかける。


 アリアの顔が痛みで歪む。


 それでも、剣を手放さない。


 左の刃を下から返す。


 男の短剣を一本、天井へ弾く。


 二本目が腹へ来る。


 クロが吠えた。


 男の視線が一瞬だけ下がる。


 アリアは身体を横へずらす。


 短剣が服を掠める。


 剣の柄を男の喉元へ押し当てる。


 後ろへ押す。


 男の背が廊下の柱へぶつかった。


 伊織は書斎前の男へ向かう。


 銀鎖は半分ほど外されている。


「そこを離れろ」


 男は振り返る。


 手に持っていたのは鍵ではない。


 薄い銀板。


 封印具へ重ね、内部の形を写し取る道具らしい。


 男が銀板を懐へ入れる。


 代わりに捕縛筒を出す。


 近距離。


 伊織へ向けて撃つ。


 銀線が広がった。


 伊織は黒鋼警棒を前へ出す。


 線が巻きつく。


 男が筒を引く。


 伊織の左肩も引かれる。


 痛みで指が開く。


 黒鋼警棒の輪郭が崩れる。


「東さん!」


 アリアは短剣の男から離れられない。


 クロが廊下の壁際を走る。


 捕縛筒の男は、クロへ足を向ける。


 蹴るつもりだ。


 クロは速度を落とさない。


 足が来る直前、床へ身体を沈める。


 蹴りを潜る。


 男の後ろへ抜ける。


 捕縛筒から伸びた銀線の根元。


 クロはそこを前足で踏んだ。


 線が床へ固定される。


 男がさらに引く。


 伊織ではなく、自分の腕が前へ伸びた。


 伊織は警棒を消す。


 銀線だけが空中へ残る。


 左手で男の筒を掴む。


 自分から距離を詰める。


 額を男の鼻へ打ちつけた。


 鈍い音。


 男がよろめく。


 筒を奪い、廊下の外へ投げる。


 黒鋼警棒をもう一度呼ぶ。


 男の脇腹へ一打。


 膝裏へ二打目。


 床へ落とす。


 クロが背後へ回り、男の手元を見張る。


 伊織が書斎を見る。


 封印具は傷ついている。


 だが、開いていない。


「アリア」


 返事がない。


 短剣の男が、銀色の粉を床へ投げた。


 白い煙が廊下に広がる。


 アリアの姿が消える。


 金属音。


 足音。


 壁へぶつかる音。


 伊織は黒鋼灯を呼ぶ。


 左手の中で、小さな光が生まれる。


 煙の中へ向ける。


 白い粉に光が反射する。


 何も見えない。


「クロ」


 伊織は目を閉じる。


 クロの鼻が動く。


 煙を避け、床近くの空気を拾う。


 一度吠える。


 左。


 伊織は黒鋼灯を左へ振る。


 煙の端に、人影。


 アリアではない。


 黒鋼灯の強い光を顔へ当てる。


 男が目を閉じる。


 アリアの剣が煙の下から伸びた。


 足首の外側を打つ。


 刃ではない。


 峰。


 男が倒れる。


 アリアがその上へ膝を置き、短剣を蹴り離した。


「無事か」


「右腕を動かしました」


「怪我は」


「痛いです」


「それを無事とは言わない」


「東さんも同じでしょう」


 伊織は答えなかった。


 煙が薄れる。


 階下からガルドの声がした。


「裏は終わった!」


 続いて、庭からヴォルフが入ってくる。


 骨刃の背に、白い外套の男を一人引っ掛けていた。


「生きてるぞ」


「何人いた」


 伊織が聞く。


「庭に二人。屋根から二人。裏に三人」


「玄関に三人」


「十人か」


 ガルドが階段を上がってくる。


「夜中に来る人数じゃねえな」


 エルナも続く。


 倒れた男たちの装備を確認する。


 白い外套。


 三重の輪。


 技術部の標識。


 だが、男の一人が持っていた銀の札には、別の印が刻まれていた。


 白い樹。


 根元の二重輪。


 その中央に、細い縦線。


「観測部?」


 エルナがエルザの銀札を思い出す。


「偽造かもしれません」


 アリアが言う。


「本物なら?」


 伊織が聞く。


「観測部の誰かも関わっています」


 倒れた男の懐から、薄い紙が出てきた。


 エルナが布越しに開く。


 命令書。


 署名はない。


 対象と目的だけが、短く記されている。


「東部調査記録の回収」


 エルナが読む。


「アルド=シルヴェイン未投函書状の内容確認」


 アリアの左手が強く閉じる。


「鋼鉄具現者の生体確保」


 伊織は何も言わない。


「同行生物の回収。損傷は歩行可能な範囲で許容」


 クロが低く唸る。


 最後の一行。


 エルナの声が止まった。


「何だ」


 ガルドが聞く。


 エルナは紙を見たまま答える。


「研究者アリア=シルヴェイン」


 一度、息を整える。


「記憶照合後、機構へ返却する」


 廊下が静まった。


 人の名の横に、返却と書かれている。


 物と同じように。


 アリアは命令書を見る。


 怒りを見せなかった。


 悲しみも。


 ただ、吊り布の裂けた右腕を、左手で支え直す。


「私は、機構の所有物ではありません」


 誰へ向けた言葉かは分からない。


 倒れた者たちか。


 命令を出した者か。


 過去の自分か。


 伊織は命令書をエルナから受け取る。


 左手だけで、中央から二つに破った。


「証拠です」


 エルナが言う。


「写せ」


「原本が必要です」


 伊織は破いた紙を重ねて返す。


「なら、これで残せ」


 アリアが伊織を見る。


「怒っていますか」


「ああ」


「私が返却されると書かれていたから?」


「お前だけじゃない」


 伊織はクロを見る。


 背の鋼色の縞が、暗い廊下で鈍く浮いている。


「こいつを歩ける程度に壊すとも書いてある」


 クロが鼻を鳴らした。


「俺も生体確保だ」


「それは、気にならないのですか」


「慣れてる」


「慣れないでください」


 アリアの声が、少しだけ強くなる。


 伊織は答えない。


 階下でリナが捕虜の治療を続けている。


 トトは地下にいる。


 屋敷は壊された。


 扉。


 窓。


 壁。


 それでも、誰も連れていかれていない。


「明日を待たない」


 アリアが言った。


「長老会へ行くのか」


「いいえ」


 彼女は封じられた書斎を見る。


「先に、こちらから観察します」


 白い都の夜。


 見ていた側が、屋敷へ手を入れた。


 次に追われるのは、命令を出した者だった。


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