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第78話 書斎

 書斎の鍵は、昼を過ぎてから届いた。


 銀色の細い鍵だった。


 長老会の使者は、屋敷の玄関でそれをアリアへ渡した。


「使用時間は一刻です」


「短すぎます」


「封鎖区画への立ち入り許可が下りただけでも、例外です」


「同行者は」


「認められていません」


「観察対象もですか」


「書斎は家族記録区画です」


 使者は伊織を一度見た。


「外部の者を入れることはできません」


「彼は私の観察対象です」


「研究上の立場と、家の記録は別です」


「都合のいい時だけ分けるのですね」


「規則です」


 アリアの耳が、髪の間でわずかに動いた。


 だが、言い返さなかった。


 鍵を受け取る。


「一刻後、封鎖官が確認に来ます」


「分かりました」


「持ち出しは禁止です」


「書き写すことは」


「許可されていません」


「記憶することも?」


 使者の顔が固まる。


「規則にありません」


「では、覚えます」


 使者は何も言わず、屋敷を出ていった。


 玄関の扉が閉まる。


 ガルドが鼻を鳴らした。


「随分、親切な連中だな」


「鍵を渡しただけです」


 エルナが言う。


「皮肉だ」


「記録に必要ですか」


「いらねえ」


 アリアは鍵を見ていた。


 細い。


 軽い。


 父の部屋を閉じていたものにしては、頼りないほどだった。


「入るのか」


 伊織が聞く。


「はい」


「一人で」


「許可されているのは、私だけです」


「規則の話じゃない」


 アリアは鍵を握る。


「一人で入ります」


 声は静かだった。


「でも」


 そこで一度、言葉が止まる。


 伊織を見る。


「扉の外に、いてください」


「ああ」


「何も聞こえなくても」


「いる」


「時間がかかっても」


「一刻しかない」


「そうでした」


 わずかに視線が下がる。


 アリアは書斎へ向かった。


 伊織も後を追う。


 クロが立ち上がる。


「クロも」


 アリアが言う。


 クロは鼻を鳴らし、伊織の横へ並んだ。



 銀色の鎖は、昨日と変わらず扉を封じていた。


 アリアが鍵を差し込む。


 鍵穴は封印具の中央にある。


 回す。


 小さな音。


 かち。


 それだけで、銀鎖の張りが緩んだ。


 長い間閉じられていたものが、あまりにも簡単に開く。


 アリアは鎖を外す。


 右手は使えない。


 左手だけで、一巻きずつ床へ下ろしていく。


 金属が木床へ触れるたび、乾いた音がした。


 伊織は手を出さない。


 頼まれていない。


 アリアは最後の輪を外し、扉の取っ手へ手をかけた。


 動かない。


 力を入れる。


 濃い木の扉が、わずかに内側へ開いた。


 空気が漏れる。


 埃の匂い。


 紙。


 革。


 古い木。


 長く閉じられた部屋の匂いだった。


 アリアの肩が止まる。


「東さん」


「いる」


 まだ何も聞かれていない。


 それでも答えた。


 アリアは一度だけ頷く。


 扉の隙間へ身体を入れる。


 中へ消える。


 扉は閉めなかった。


 人一人が横を向けば通れるほど、隙間を残した。


 だが、伊織の位置から内部は見えない。


 暗い床と、壁の一部だけ。


 机も、棚も、父の残したものも見えなかった。


 伊織は扉の横へ立つ。


 クロが足元へ座った。


 最初に聞こえたのは、布を外す音だった。


 次に、窓を開けようとする音。


 金具が動く。


 だが、窓は開かなかった。


 アリアの足音が部屋の奥へ進む。


 一歩。


 二歩。


 止まる。


 長い沈黙。


 何かに触れた音がする。


 紙ではない。


 木箱か、引き出しか。


 伊織は扉の内側を見ない。


 見ようと思えば、角度を変えられる。


 一歩横へ動けば、部屋の中が見えるかもしれない。


 だが、動かなかった。


 ここから先は、アリアの場所だ。


 クロが鼻を動かす。


 扉の隙間ではない。


 廊下。


 階段の方を見る。


 低く唸る。


「何だ」


 クロは立ち上がった。


 鼻先を床へ近づける。


 廊下の板。


 書斎の前。


 銀鎖が置かれた場所。


 そこから階段へ向かって、ゆっくり進む。


 伊織も視線を落とす。


 床は掃除されている。


 埃は薄い。


 それでも、光の角度で跡が見えた。


 靴底。


 細い。


 アリアのものではない。


 昨日、掃除した後にはなかった跡だ。


 書斎の前から、階段へ。


 逆方向にも。


 誰かが来ている。


 鍵を持つ者。


 封を開けられる者。


 伊織はしゃがまない。


 クロへ視線だけを送る。


「追えるか」


 クロが鼻を鳴らす。


 跡を追い、階段の手前まで行く。


 そこで止まった。


 匂いが消えている。


 階段の端には、薄い灰色の粉が撒かれていた。


 匂いを消すためのものだ。


 クロが顔を背け、短くくしゃみをする。


「無理するな」


 クロは不満そうに伊織を見る。


「今はいい」


 鼻を鳴らす。


 それでも、書斎の前へ戻った。


 足跡のことを、アリアへ伝えるべきか。


 今すぐに。


 だが、中にいる彼女が何を見つけたか分からない。


 声をかければ、集中を切る。


 伊織は待つ。


 部屋の中で、引き出しが開く音。


 一つ。


 閉じる。


 別の引き出し。


 鍵がかかっているのか、金具が小さく鳴る。


 アリアの呼吸が聞こえた。


 深くはない。


 何かを見つけた時の呼吸だった。


「東さん」


 声が来る。


「いる」


「そこに?」


「ああ」


「……はい」


 それだけだった。


 助けを求めたわけではない。


 確認しただけ。


 伊織は扉の横に立ち続ける。


 クロも座る。


 廊下の窓から白い光が入る。


 時間が過ぎる。


 遠くで鐘が鳴った。


 一度。


 一刻の半分を知らせる鐘かもしれない。


 伊織には分からない。


 部屋の中で、紙がめくられる。


 何枚も。


 速く。


 途中で止まる。


 今度は長い。


 アリアが何かを読む声はしなかった。


 やがて、椅子がわずかに動いた。


 座ったのか。


 立ち上がったのか。


 見えない。


 クロが扉の隙間へ顔を向ける。


 伊織は止めない。


 クロは中へ入らなかった。


 ただ、鼻を一度動かす。


 それから伊織の足元へ戻る。


 部屋の奥から、小さな音がした。


 金属ではない。


 紙が折れる音。


 次に、引き出しが閉じる。


 足音が近づく。


 アリアが扉の前へ現れた。


 顔色は変わっていない。


 泣いた跡もない。


 左手に、古い封筒を持っている。


 封筒の色は黄ばんでいた。


 表に名前がある。


 ドレイス。


 家名はない。


 役職もない。


 呼び捨てだった。


「持ち出しは禁止されています」


 伊織が言う。


「分かっています」


 アリアは封筒を見る。


「これは、父が出さなかった手紙です」


「中身は」


「読みました」


「何が書いてあった」


 アリアの指が封筒の端へ触れる。


「全部は、まだ言えません」


「そうか」


 伊織はそれ以上聞かない。


 アリアの視線が、廊下の床へ落ちた。


 クロが見つけた足跡。


 彼女も気づく。


「これは」


「誰かが来てる」


「封鎖後に?」


「たぶんな」


 アリアは書斎の中へ振り返る。


 次に、封筒を見る。


 封は既に切られていた。


 古く裂けたのではない。


 刃物を入れた跡がある。


 紙の繊維が、片側だけ新しい。


「私が開けたのではありません」


「分かってる」


「父も、開けたまま保管する人ではありませんでした」


「誰かが先に読んだ」


「はい」


 アリアは封筒を光へかざす。


 内側に、細い銀色の粉が付いている。


 関所で見たものとは違う。


 もっと細かい。


 紙に移るよう、意図して塗られた跡。


「印です」


「何の」


「読んだ者が、再び開かれたか確認するための」


「今、触った」


「はい」


「向こうに分かるか」


「この粉だけなら、分かりません。ただ」


 アリアは封筒の口を見る。


 内側に、髪の毛ほど細い糸が渡されていた。


 切れている。


「糸が張られていました」


「お前が切った?」


「いいえ。既に」


 つまり、読んだ者は一人とは限らない。


 最初に封を切った者。


 その後、糸を張った者。


 あるいは同じ者が、誰かの侵入を待っていた。


「手紙を戻せ」


 伊織が言う。


「写しは」


「取るな」


「なぜですか」


「持ち出し禁止だ。写せば、お前が破ったことになる」


「内容を失う可能性があります」


「覚えたんだろ」


 アリアは伊織を見る。


「はい」


「なら残せ」


「誰かに処分されたら」


「その時、処分した奴が動いたと分かる」


 アリアは少し考える。


「餌にするのですか」


「罠を置いたのは向こうだ」


「利用する」


「ああ」


 アリアは封筒を持って書斎へ戻る。


 伊織は外にいる。


 引き出しが開く音。


 紙を戻す音。


 今度は糸を張らない。


 封も直さない。


 触れたことを隠さない置き方にしたらしい。


 アリアが再び出てくる。


 左手には何もない。


「戻しました」


「内容は覚えたか」


「一字一句ではありません」


「十分だ」


「重要な部分は」


 言いかけて止まる。


「何だ」


「父は、ドレイスさんへ謝っていました」


「何を」


「残したことを」


 伊織は答えなかった。


 誰を。


 何を。


 どこに。


 その言葉だけでは分からない。


「他には」


「東の歯車へ向かった理由」


 アリアは閉じた書斎を見る。


「書状にあった最後の線についても、触れています」


「場所は」


「書かれていません」


「なら、手紙だけでは足りない」


「はい」


「他の記録がある」


「おそらく」


 アリアの視線が、扉の内側へ向く。


「でも、時間がありません」


 遠くで鐘が鳴った。


 二度。


 封鎖官が来るまで、残りは少ない。


「もう一度入るか」


「いいえ」


「まだ探せる」


「今は、これ以上触らない方がいいです」


 アリアは足跡を見る。


「先に読んだ者が、私たちの反応を待っています」


「なら、何も見つけなかった顔をするか」


「できると思いますか」


「俺はな」


「私は?」


「耳が動く」


 アリアの耳が、髪の間でぴくりと動いた。


「動いていません」


「今、動いた」


「気のせいです」


 わずかに声が硬い。


 伊織はそれ以上言わなかった。


 足音が階段から聞こえる。


 複数。


 封鎖官。


 白い外套を着た男が二人、エルザと共に上がってくる。


「時間です」


 先頭の男が言った。


「持ち出したものは」


「ありません」


 アリアが答える。


「室内の状態を確認します」


「私も立ち会います」


「許可されていません」


「私が入った後の確認です」


「規則では」


「先に誰かが入っていました」


 封鎖官の顔が止まる。


 一瞬。


 すぐに戻った。


「根拠は」


「床の足跡」


「清掃担当でしょう」


「書斎前まで来る担当はいません」


 アリアは言い切った。


「封筒の封が切られていました」


「古い記録です。保管前の可能性があります」


「内側に監視糸が張られていました」


 封鎖官の視線がエルザへ動く。


 エルザは無表情だった。


「確認します」


「誰が入ったか、記録を開示してください」


「保全記録は長老会の管理です」


「私の父の書斎です」


「現在は長老会の封鎖区画です」


「だから、無断で入ってもいい?」


 アリアの声は静かだった。


 だが、廊下の空気が冷える。


「そのような意味ではありません」


「では、調べてください」


「調査の要否を判断します」


「誰が」


「長老会が」


 アリアは封鎖官を見る。


「先に読んだ者も、その長老会にいるのではありませんか」


 男は答えなかった。


 エルザが口を開く。


「観測記録へ残します」


「家族記録区画の件は、観測任務の対象外だ」


「観測対象の安全に関係します」


「どのように」


「書斎へ先に入った者が、東部調査記録を狙った技術部とつながっている可能性があります」


「推測だ」


「推測として記録します」


 封鎖官の顔に不快が浮かぶ。


 エルザは構わず、記録板へ筆を走らせた。


「封を戻します」


 封鎖官が書斎へ入る。


 もう一人が銀鎖を持ち上げる。


 アリアは扉の前から退いた。


 伊織の横へ来る。


 肩が触れるほど近くはない。


 だが、昨日より半歩だけ距離が短い。


「東さん」


「何だ」


「いてくれましたね」


「頼まれた」


「はい」


 それだけだった。


 銀鎖が扉へ巻かれる。


 一巻き。


 二巻き。


 最後に封印具が閉じる。


 かち。


 細い鍵が回される。


 書斎は再び閉じられた。


 だが、何も知らない部屋には戻らない。


 中には、出されなかった手紙がある。


 先に読んだ者がいる。


 そして、その者はアリアがここへ来ることを知っていた。



 夜。


 屋敷の食卓には、ガルドが作った硬い煮込みが置かれていた。


「肉が硬い」


 ヴォルフが言う。


「食える」


「食えるのと旨いのは違う」


「嫌なら残せ」


「残すとは言ってない」


 トトは木片を卓の横へ置き、煮込みへパンを浸している。


 クロは床で伏せたまま、玄関の方を見ていた。


 アリアはほとんど食べていない。


 エルナが帳面を閉じる。


「手紙の内容を、今ここで共有しますか」


「一部だけ」


 アリアが答える。


「父はドレイスさんへ、東の山水路へ向かったことを知らせていました」


「協力を頼んだのか」


 ガルドが聞く。


「逆です」


 アリアは指を組む。


 右手はまだ布の中。


「来ないでほしい、と」


「理由は」


「自分が戻らなければ、外縁の記録を守ってほしい」


「それでドレイスは残った」


 伊織が言う。


「おそらく」


「最後の線は?」


「手紙には、こうありました」


 アリアは少し目を閉じる。


 記憶の中の文字を追う。


「線は、家には置けない」


 ガルドの手が止まる。


「書斎じゃねえのか」


「図面か、手掛かりは書斎にある。でも、最後の線そのものは別の場所です」


「どこだ」


「続きは、書かれていませんでした」


「破られていた?」


「いいえ。そこから別の話に変わっています」


「何の」


 アリアは答えるまで、少し時間を置いた。


「私のことです」


 食卓が静まる。


「何と」


 リナが穏やかに聞く。


「機構へ残すべきではない、と」


 アリアの声は揺れなかった。


「私の力を、資産として扱わせるなと、ドレイスさんに頼んでいました」


 ガルドが顔をしかめる。


「頼んだ相手が外縁管理局の男か」


「父は、自分では止められないと思ったのでしょう」


「それで、あいつに預けた?」


「預けたのではありません」


 アリアが訂正する。


「逃げ道を残そうとした」


 伊織はアリアを見る。


 彼女は食卓ではなく、閉じた窓を見ている。


「その手紙は、届かなかった」


「ああ」


「ドレイスさんは知らない可能性があります」


「なら、見せる必要がある」


「はい」


「でも、原本は持ち出せない」


「覚えている範囲で、書きます」


 エルナが帳面を開こうとする。


 アリアが止める。


「今は、私が書きます」


「分かりました」


 アリアは紙を一枚取った。


 左手で筆を持つ。


 宛名を書く。


 ドレイス。


 父が書いたのと同じ名。


 最初の一行を書こうとして、筆が止まる。


 長い。


 やがて、アリアは筆を置いた。


「今日は、書けません」


「明日でいい」


 伊織が言う。


「忘れるかもしれません」


「忘れない」


「なぜ分かるのですか」


「お前が、今も全部覚えてる顔をしてる」


 アリアの耳が、髪の間で動いた。


 反論はなかった。


 紙は白いまま。


 宛名だけが残っている。


 クロが突然、玄関へ顔を向けた。


 低く唸る。


 伊織も立つ。


 外。


 庭の銀葉樹の向こう。


 誰かがいた。


 白い外套。


 顔は見えない。


 こちらが気づいた瞬間、塀の向こうへ消える。


 伊織は追わない。


 クロも動かない。


「見られていました」


 エルナが言う。


「ああ」


 アリアは白紙の手紙を見る。


 宛名。


 ドレイス。


 先に読まれた父の手紙。


 そして、今夜書けなかった娘の手紙。


「明日、調べます」


 アリアが言った。


「書斎へ入った者を?」


「はい」


 伊織は窓の外を見る。


 庭にはもう誰もいない。


 だが、足跡は残る。


 見ていた者も。


 読んだ者も。


 完全には消えない。


 こちらが追うと知った今、向こうも動く。


 白い都の夜は静かだった。


 静かなまま、誰かが先回りしていた。


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