第77話 父の弟子
鍛冶場の壁には、大きな穴が残っていた。
技術部の男たちは連行された。
折れた捕縛筒も、銀虫も、固定鋲も、観測官が一つずつ回収している。
ただし、金床に置かれた図面だけは渡さなかった。
ハーゲンが太い腕を組み、その前に立っている。
「これは俺が預かる」
観測官が顔を上げた。
「襲撃に関係する資料です」
「俺の鍛冶場に持ち込まれた、俺宛の図面だ」
「あなた宛である証拠は」
「俺がそう言ってる」
「証言だけでは」
ハーゲンが槌を持ち上げた。
振り上げてはいない。
片手で持っただけだ。
それでも観測官は一歩下がった。
「記録は残します」
「好きにしろ」
「複製の提出を」
「断る」
「理由は」
「お前らが持って帰れば、また誰かが人を縛る道具に変える」
観測官の視線が、金床に突き刺さった固定鋲へ向く。
技術部が使ったものだ。
ハーゲンの返し打ちを盗み、鍛冶場そのものを閉じ込めようとした。
「観測部と技術部は別です」
「同じ都の中にいる」
「それだけで同じにされては困ります」
「俺も困った。だから渡さん」
話は終わったらしい。
ハーゲンは図面を丸めず、金床の上へ広げたままにした。
観測官たちは壊れた器具を持ち、鍛冶場を出ていく。
エルザだけが残った。
「私は見ても?」
「目を閉じろと言っても見るだろ」
「では、記録はしません」
「信用してねえ」
「承知しています」
ハーゲンは鼻を鳴らした。
ガルドが崩れた工具棚を起こしている。
リナは伊織を椅子へ座らせ、左肩の包帯を確かめていた。
「開いてはいません」
「なら、いい」
「よくありません。熱があります」
「さっきよりはましだ」
「比較する相手が悪すぎます」
伊織は左手を見た。
黒鋼警棒は消えている。
指先に、具現したあとの冷えだけが残っていた。
クロは金床の近くにいる。
図面ではなく、大樹から持ち帰った金属片を包んだ布を見ていた。
耳が立っている。
「それを調べるのか」
伊織が聞いた。
「ああ」
ハーゲンは布を開く。
爪ほどの灰色の破片。
還しの鉄と似ている。
だが、表面には細かな溝があった。
自然に割れた跡ではない。
何かの部品として削られた形だ。
「さっきは同じ鉄かもしれないと言ったな」
ガルドが近づく。
「見ただけならな」
「今は?」
「まだ分からん」
「叩けば分かるか」
「少しは黙れ」
「職人が材料を前に黙れるか」
「お前は職人じゃなく、野次馬に近い」
「どっちでもいい。叩け」
ハーゲンはガルドを睨んだ。
それから、金床に刺さった固定鋲を見る。
「先に全部抜く」
「さっき止めただろ」
「止めただけだ。死んでねえ」
ハーゲンは火箸で固定鋲を挟む。
銀色の表面には、まだ細い光が流れていた。
槌を横へ置き、一本ずつ引き抜く。
壁。
床。
炉の縁。
梁の下。
技術部が打ち込んだ鋲は、全部で七本あった。
六本目を抜いたところで、クロが低く鳴いた。
「まだあるのか」
ガルドが周囲を見る。
クロは壁ではなく、金床の下を向いている。
鼻先を床へ近づける。
一度嗅ぎ、半歩下がる。
「俺は打たれてねえぞ」
ハーゲンが言う。
クロは鼻を鳴らした。
「金床じゃありません」
アリアが片膝をついた。
右手を吊ったまま、左手で床の煤を払う。
金床の脚の内側。
黒い汚れに紛れ、小さな銀色が見えた。
「いつの間に」
エルナが近づく。
「最初から仕込まれていた可能性があります」
「壁を破る前にか」
「銀虫が入れたのでしょう」
伊織は立とうとした。
リナの手が肩へ置かれる。
「どこへ」
「見に行く」
「ここから見えます」
「細部が見えない」
「見えなくても、皆さんがいます」
伊織はリナを見る。
リナは手を退けなかった。
「座っていてください」
伊織は立たなかった。
ハーゲンが七本目の鋲を火箸で挟む。
「抜くぞ」
クロが一度吠えた。
低い。
ハーゲンの手が止まる。
「抜くな、か」
クロは吠えない。
鋲ではなく、大樹から拾った金属片を見る。
「先にこっちを打てってのか」
ガルドが聞く。
クロが鼻を鳴らした。
ハーゲンは金属片と鋲を交互に見る。
「順が逆だな」
「何の順ですか」
アリアが尋ねる。
「鋲を最後に止めてるのが、金床じゃねえ」
ハーゲンは金属片を持ち上げた。
「こいつだ」
「大樹の中にあったものが?」
「同じ線につながってる」
「離れた場所にあったのに」
「線に距離は関係ねえことがある」
ハーゲンは金属片を金床の中央へ置く。
溝の一本と、破片の縁がぴたりと重なった。
偶然ではない。
金床自体が、この形を知っている。
「何で、お前の金床に合う」
ガルドが聞く。
「昔、同じ型を打った」
「誰に頼まれて」
ハーゲンは答えない。
槌を手に取る。
「全員、金属から離れろ」
「何が起きる」
「分からん」
「分からないものを叩くんですか」
リナが言う。
「分かるために叩く」
「職人は全員そうなのですか」
「腕の悪い奴は、先に壊す」
ガルドが少し笑う。
「そこは同意する」
全員が金床から距離を取った。
クロだけが動かない。
金床の右側。
大樹の破片が見える位置に立っている。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロは伊織を見る。
「危なければ下がれ」
鼻を鳴らす。
ハーゲンが槌を上げた。
強くは振らない。
破片の端へ、小さく落とす。
こん。
音は鍛冶場へ広がらなかった。
金床の溝へ吸い込まれる。
一瞬の静寂。
七本目の固定鋲が赤く光った。
「下がれ!」
ハーゲンが叫ぶ。
床が跳ねた。
金床の下から銀線が噴き出す。
一本ではない。
細い線が束になり、鍛冶場の壁と天井へ走る。
抜き取った六本の鋲が床から浮き上がった。
引き寄せられている。
尖った先端を内側へ向けたまま。
「伏せろ!」
伊織は左手を開いた。
黒い粒子が集まる。
小型のアイギス・プレート。
黒い盾が腕の前へ現れる。
六本の鋲が飛ぶ。
一つが盾へ刺さった。
衝撃が左肩に返る。
伊織の背が椅子へ叩きつけられる。
二つ目をヴォルフの骨刃が弾く。
三つ目はガルドが火箸で受け、床へ落とす。
四つ目がアリアへ向かう。
彼女は左手で剣を抜いた。
受けない。
刃の腹を添え、軌道だけを下げる。
鋲が床を削る。
残る二本は、ハーゲンの背中へ向かっていた。
クロが吠える。
二度。
右。
伊織は盾を消す。
黒鋼警棒へ形を変える。
椅子に座ったまま、右側へ投げる。
警棒が一本目へ当たり、二本目も巻き込んで壁へ弾いた。
クロはすでに金床へ走っている。
銀線の間へ飛び込む。
「クロ、止まれ!」
伊織が叫ぶ。
クロは止まらない。
金属片へ噛みつくのではなく、前足で金床の溝を叩いた。
一度。
別の溝へ移る。
もう一度。
「順番を見てる」
アリアが言った。
「何が返っているかを」
金床の溝が順番に赤く光る。
右。
左。
中央。
七本目の鋲。
大樹の破片。
ハーゲンはそれを見た。
「三、五、二、七」
槌を上げる。
金床の溝を打つ。
一打。
浮いていた鋲が床へ落ちる。
二打。
天井へ伸びた銀線が切れる。
三打。
七本目の固定鋲から光が消える。
だが、大樹の破片だけが赤く光ったままだ。
「まだだ!」
ガルドが叫ぶ。
「分かってる!」
ハーゲンが四打目を振り下ろす。
金属片が跳ねた。
赤い光が、黒へ変わる。
破片の内側から小さな歯が開いた。
部品だった。
ただの鉄片ではない。
黒い歯が金床へ食い込み、固定しようとする。
クロが唸る。
背の鋼色の縞が濃くなる。
伊織の左手に、黒鋼灯が現れた。
呼んでいない。
小さな灯が、金床の上へ浮かぶ。
黒い歯の根元だけを照らした。
そこに白い点がある。
「ハーゲン!」
アリアが指す。
「歯の内側です!」
「見えてる!」
ハーゲンは槌を横にした。
打面ではない。
細い側面を、白い点へ落とす。
高い音。
きん。
黒い歯が砕けた。
赤い光が消える。
銀線が床へ落ち、動かなくなった。
鍛冶場に、荒い呼吸だけが残る。
黒鋼灯は消えた。
クロが金床の前で座り込む。
左前足を少し浮かせている。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロは顔を上げた。
リナが伊織から離れ、クロの前足を確認する。
「傷は開いていません。でも、今日はもう走らせません」
クロが不満そうに鼻を鳴らす。
「あなたにも言っています」
リナは伊織を見る。
「分かってる」
「今、盾と警棒を使いましたね」
「必要だった」
「その返答も予想していました」
ハーゲンは砕けた黒い歯を火箸で持ち上げる。
白い点は完全に消えていた。
「還しの鉄じゃない」
「何だった」
ガルドが聞く。
「扉の歯だ」
「大樹の?」
「それより古い」
ハーゲンは破片を金床へ戻した。
「開けるための部品じゃない。開いたものを、開いたままにするための歯だ」
伊織は廃坑を思い出す。
討ち取った鋼竜。
その奥に眠っていたもの。
大樹が示した言葉。
開けた者。
「俺が廃坑を開けたことと、関係があるか」
ハーゲンが伊織を見る。
「知らん」
「その顔は、何か知ってる」
「知ってることと、つながることは別だ」
ハーゲンは図面へ目を落とした。
「先にこっちだ」
楔の図。
中央の輪。
打点を示す黒い丸。
「この線を引いたのは、アルド=シルヴェインだ」
アリアが動きを止める。
「父が」
「ああ」
「いつですか」
「二十年ほど前だ」
「山水路の件より前?」
「最初の図はな」
「最初の?」
ハーゲンは図面の右端を指でなぞる。
「何度も書き直してる。線の重なりが違う」
エルナが近づく。
「筆跡を見分けられるのですか」
「線の癖だ。文字より分かる」
「あなたは、父と一緒にこれを?」
アリアの声は平静だった。
吊られた右手の布だけが、わずかに揺れている。
ハーゲンは槌を置いた。
「鍛冶を教えたのは俺だ」
ガルドが眉を上げる。
「アルドが鉄を打ったのか」
「下手だった」
「どれくらい」
「最初の一月で槌を三本折った」
ガルドが小さく笑う。
アリアの口元も、ほんの少しだけ動いた。
「父が?」
「力の向きを知らなかった。頭で線を引けば、鉄もそのとおり動くと思ってた」
「想像できます」
「似てるな」
ハーゲンの言葉に、アリアの表情が止まる。
「手まで似なくてよかった」
吊られた右手を見る。
「これは別です」
「分かってる」
ハーゲンは図面へ視線を戻す。
「打ち方を教えた。火の見方も、鉄が嫌がる音も教えた」
「では、父はあなたの弟子だった」
「最初はな」
「最初は?」
「あいつは、還す線を見つけた」
鍛冶場の外から、遠い槌音が聞こえる。
規則正しく。
何度も。
「俺たちは、鉄を元の形へ戻すことしか考えてなかった。曲がったら直す。割れたら継ぐ。打った力を打ち手へ返せれば、安全だと思った」
ハーゲンは、先ほど砕いた黒い歯を見る。
「アルドは言った。力を戻すだけじゃ足りない。戻る先を、鉄に選ばせるなと」
「誰が選ぶのですか」
「使う奴だ」
ハーゲンはアリアを見る。
「戻す場所を決める。戻していいものを決める。人へ返すのか、道具へ返すのか、地面へ逃がすのか」
「楔の役割」
「ああ」
ガルドが図面を見つめる。
「じゃあ、弟子が師匠を追い越したのか」
「違う」
ハーゲンは首を振る。
「鉄を打つなら、あいつは最後まで下手だった」
「なら」
「線については、俺が弟子になった」
アリアは何も言わなかった。
父の弟子。
白い都の端で火を消し、槌を置いた男。
その男が、アルドから教わったと言っている。
「父は、これを何に使ったのですか」
アリアが尋ねる。
ハーゲンの顔から、わずかな柔らかさが消えた。
「黒い歯車を止めるためだ」
「止められた?」
「止めきれなかった」
短い答え。
「だが、遅らせた」
「どれくらい」
「分からん。十年か。二十年か。もっと短かったか」
「父は、その後ここへ?」
「来てない」
「書状は」
「一度だけ」
ハーゲンは金床の下へ手を入れた。
底板を外す。
中から細長い鉄筒を取り出した。
錆びてはいない。
蓋には、白い樹の紋も、機構の印もなかった。
ただ一本、斜めの傷がある。
ハーゲンは鉄筒をアリアへ差し出す。
「俺宛だ」
「見ても?」
「そのために残した」
アリアは左手で受け取った。
蓋を開ける。
中には古い紙が一枚。
黄ばんでいる。
折り目が擦れ、端が少し欠けていた。
文字は少ない。
アリアは黙って読む。
薄紫の瞳が、途中で止まった。
「何と書いてある」
伊織が聞く。
アリアは紙から目を離さない。
「止めきれなかった」
声は揺れなかった。
「だが、遅らせ方は遺した」
その下に、さらに一行。
「打つな。最後の線を見るまでは」
ガルドが図面へ目を落とす。
「最後の線?」
ハーゲンは楔の図の中央を指した。
「足りないんだ」
「どこが」
「打点から、返す先へつなぐ線がない」
「これでは打てない?」
「形だけなら打てる」
「使えば」
「呼ぶ」
鍛冶場が静まる。
ヴォルフが壁際から離れた。
図面を見る。
それから、ハーゲンを見る。
「アルドは、最後の線をどこへ置いた」
「書状に続きがある」
アリアは紙の下を見る。
一行。
「持ち帰った、と」
「どこへ」
答えは分かっていた。
それでもアリアは尋ねた。
ハーゲンは言う。
「自分の書斎だ」
アリアの左手が、紙を強く握りかける。
途中で力を緩めた。
古い紙を傷めないように。
「書斎は封鎖されています」
「開けろ」
「長老会の許可が必要です」
「父親の部屋へ入るのに、他人へ許可を取るのか」
「今の私は、あの家の所有者ではありません」
「誰が決めた」
「記録が」
ハーゲンが鼻を鳴らす。
「鉄より面倒だな」
アリアは紙を筒へ戻す。
「それでも、開けます」
「そうしろ」
「最後の線を見つけたら」
ハーゲンは図面を見た。
槌を握った手が、一度だけ開く。
「その時に決める」
「何を」
「俺が、また打つかどうかだ」
◆
屋敷へ戻った時、日は沈みかけていた。
トトが門の内側で待っていた。
一行の姿を見つけると、木片を握る。
「鳴らしていい?」
「ああ」
伊織が答える。
トトが木片を打つ。
かん。
乾いた音が庭へ広がる。
クロが鼻を鳴らす。
戻ってきた音だった。
アリアは屋敷へ入る。
荷物を置かない。
上着も脱がない。
まっすぐ、書斎の前まで歩いた。
濃い木の両開き扉。
銀色の鎖。
白い樹の封印具。
昨日と何も変わっていない。
だが、アリアの左手には、アルドの書状が入った鉄筒がある。
伊織は少し離れた場所で止まる。
「開けるのか」
「はい」
「鍵は」
「借ります」
「貸さないと言われたら」
アリアは封印具を見る。
「その時に考えます」
声は落ち着いている。
だが、薄紫の瞳は扉から動かなかった。
伊織はそれ以上聞かない。
アリアが振り返る。
「東さん」
「何だ」
「明日、長老会へ行きます」
「ああ」
「私が、余計なことを話し始めたら」
「止めればいいのか」
「いいえ」
アリアは少し考えた。
「質問してください」
「何を」
「私が言えなくなったことを」
伊織は答える。
「分かった」
アリアは書斎の扉へ向き直った。
その横顔から、少しだけ力が抜ける。
伊織は見なかったことにした。
◆
【観察記録】
対象は今日、私の代わりに三度、質問をした。
~~助かった。~~
記録の必要なし。




