表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
78/85

第76話 打たない鍛人

 開いた石段から、冷たい空気が上がっていた。


 土。


 古い鉄。


 水に濡れた歯車。


 東の山水路で嗅いだものに似ている。


 だが、同じではない。


 クロは大樹の根元から離れず、暗い石段へ低く唸っていた。


 白衣の役人たちは、中枢環の外で騒いでいる。


「封鎖具を持ってこい!」


「根へ触れるな!」


「保全担当へ伝令を!」


 声だけが多い。


 誰も石段へ近づけない。


 大樹の根が、役人たちの前だけを塞いでいた。


 アリアが開口部の手前に立つ。


 彼女と伊織、クロには根が動かない。


「入れ、ということか」


 ガルドが暗がりを覗く。


「少なくとも、拒まれてはいません」


 アリアが答える。


「同じようなもんだろ」


「違います」


 伊織は石段の下を見る。


 灯りはない。


 何段続いているかも分からない。


 黒鋼灯を呼べば、ある程度は照らせる。


 だが、左肩にはまだ痛みが残っている。


 拳銃。


 盾。


 警棒。


 黒鋼灯。


 短い間に、何度も形を変えた。


 クロも息が上がっている。


 背の鋼色の縞は光を失っていた。


「今日は入らない」


 伊織が言った。


 ガルドが振り返る。


「開いたぞ」


「ああ」


「中に歯車がある」


「たぶんな」


「なら」


「装備がない」


 伊織は石段から目を外さない。


「戻る道も分からない。深さも、敵の数も、空気が通っているかも不明だ。怪我人が二人。クロも万全じゃない」


「ここで閉じたら、次に開く保証はありません」


 エルザが言った。


「保証がないから飛び込むのか」


「観測の機会としては」


「俺たちは記録を取りに来たんじゃない」


 エルザの口が止まる。


 アリアが開いた根を見る。


「大樹は、私たちを待つでしょうか」


「知らない」


「閉じた場合は」


「もう一度開ける方法を探す」


 アリアは黙った。


 焦りはある。


 父につながるものが、暗い石段の先にあるかもしれない。


 それでも、前へ出なかった。


「賛成します」


 アリアは言った。


「準備なしでは入りません」


 ガルドが頭をかく。


「二人揃って慎重になると、こっちが急かしてるみたいになるな」


「急かしていました」


 エルナが言う。


「少しだけだ」


「記録には残しません」


「助かる」


 白衣の男が根の外側から叫ぶ。


「そこで何を決めている! 直ちに中枢環から退去しろ!」


 伊織は石段へ背を向けた。


 その瞬間、クロが一度吠えた。


 足元。


 開いた根の端に、細い金属片が挟まっている。


 大樹の内部から落ちたものらしい。


 爪ほどの大きさ。


 鈍い灰色。


 ヴォルフが持っていた還しの鉄に似ていた。


「触るな」


 ヴォルフの声が飛ぶ。


 ガルドが伸ばしかけた手を止める。


 ヴォルフは革袋から布を出し、金属片を包んだ。


 指先で直接触れない。


「同じ鉄か」


 伊織が聞く。


「似てる」


「違うのか」


「打たなきゃ分からん」


「誰が打つ」


 ヴォルフは布の中の金属片を見る。


 片目に、嫌そうな色が浮かんだ。


「会いたくねえ奴がいる」



 職人区は、白い都の端にあった。


 建物の高さは中央と変わらない。


 だが、壁には煤が残っている。


 石畳の隙間には鉄粉が入り、白い水路の表面へ薄い油が浮いていた。


 初めて、都に汚れらしい汚れが見えた。


「ここは毎朝、掃除しないのか」


 ガルドが聞く。


「します」


 アリアが答える。


「これでか」


「夜には、もう少し汚れます」


「少し安心した」


 槌の音。


 鋸の音。


 熱した金属を水へ沈める音。


 職人区だけは、人の声も大きかった。


 荷を運ぶ者が叫び、鍛冶場の奥から怒鳴り声が返る。


 整った白い都の中で、ここだけ形が揃っていない。


 張り出した屋根。


 増築された煙突。


 壁へ直接打ちつけられた工具棚。


 ガルドの歩き方が少し軽くなった。


「こっちの方が住みやすそうだ」


「火事は多いです」


「それでもだ」


 ヴォルフは通りの奥へ進む。


 足取りに迷いはない。


 何年も来ていないはずなのに、道を覚えている。


 やがて、一軒の鍛冶場の前で止まった。


 看板はない。


 入口の左右に、折れた槌が一本ずつ打ち込まれている。


 炉の火も見えない。


 他の工房から聞こえる槌音の中で、そこだけが静かだった。


「閉まってるぞ」


 ガルドが言う。


「開いてる」


 ヴォルフは扉を押した。


 鍵はかかっていなかった。


 中は暗い。


 炉に火はない。


 壁には槌、鋏、火箸、金床用の工具が並んでいる。


 どれも手入れされていた。


 だが、中央の金床には厚い布が掛けられている。


 鍛冶場の奥に、一人の男が座っていた。


 大柄だった。


 灰色の髪を短く刈り、太い腕を組んでいる。


 左耳が半分欠けていた。


 男はヴォルフを見る。


 立ち上がらない。


「帰れ」


 最初の一言だった。


「久しぶりだな、ハーゲン」


「聞こえなかったか」


「耳が悪くなった」


「目だけじゃ足りなかったらしいな」


 ガルドがヴォルフを見る。


 布に覆われた片目。


 ヴォルフは何も答えない。


 ハーゲンの視線が、一行を順に追う。


 アリアで止まる。


 吊られた右手。


 薄紫の瞳。


 そして、家名を聞く前から何かに気づいた顔になる。


「シルヴェインの娘か」


「アリア=シルヴェインです」


「知ってる」


「父をご存じですか」


「帰れ」


 同じ言葉だった。


 ガルドが前へ出る。


「還しの鉄を打ってほしい」


「打たん」


「まだ何も見せてねえ」


「見なくても打たん」


「理由を」


「火を消した」


 ハーゲンは炉を見る。


 炭は積まれている。


 薪もある。


 火種だけがない。


「俺はもう打たない」


 ガルドは金床へ掛けられた布を見る。


「道具は捨ててねえ」


「捨てれば、誰かが拾う」


「使わないなら同じだ」


「違う」


 ハーゲンの声が低くなる。


「手元に置けば、少なくとも俺の槌では鳴らん」


 ヴォルフが布に包んだ金属片を机へ置いた。


 ハーゲンの目が変わる。


「どこで拾った」


「大樹の中だ」


「嘘をつけ」


「根が開いた」


 ハーゲンは立ち上がった。


 椅子が後ろへ倒れる。


「誰が開けた」


 ヴォルフは伊織を見る。


 ハーゲンの視線も移る。


 右手を固定した異邦人。


 左肩を庇う立ち方。


 その足元の黒犬。


「お前か」


「結果としては」


「何をした」


「聞かれたことに答えた」


「大樹は人の答えで門を開けん」


「開いた」


 ハーゲンは伊織を睨む。


 次にクロを見る。


 クロは唸らない。


 ただ、男の背後にある工具棚へ鼻を向けている。


 そこに何かある。


「図面もある」


 ガルドが鞄から写しを出した。


 ハーゲンは受け取らない。


「しまえ」


「見ろ」


「見ん」


「怖いのか」


 空気が変わった。


 ヴォルフがガルドを見る。


 止めなかった。


 ハーゲンの太い指が閉じる。


「もう一度言ってみろ」


「怖いのかって聞いた」


「ガルド」


 アリアが制する。


「この男は、言わなきゃ見ねえ」


 ガルドは図面を机へ置いた。


「鉄を打つのが怖いなら、そう言え。過去に何があったか知らねえ。だが、打たなきゃ次に死ぬ奴が出る」


「打ったから死んだ奴もいる」


「なら、同じ打ち方をするな」


「簡単に言うな」


「簡単じゃねえから、鍛人に頼んでる」


 ハーゲンの拳が机へ落ちた。


 図面が跳ねる。


 その時、クロが吠えた。


 入口ではない。


 壁。


 工具棚の奥。


「何だ」


 ハーゲンが振り返る。


 クロが低く唸る。


 棚の裏で、金属が擦れた。


 伊織は左手を開く。


「伏せろ」


 壁が弾けた。


 白い石片と木片が鍛冶場へ飛び込む。


 工具棚が前へ倒れる。


 その奥から、銀色の杭が三本射出された。


 一本は机の図面。


 一本は布に包まれた金属片。


 最後の一本は、ハーゲンの胸を狙っている。


 伊織は黒鋼警棒を具現した。


 左手へ落ちる。


 胸を狙った杭を横から打つ。


 火花。


 軌道が逸れる。


 杭は金床へ突き刺さった。


 金床を覆う布が裂ける。


「外だ!」


 ガルドが叫ぶ。


 崩れた壁の向こう。


 白い外套の男が四人。


 胸には三重の輪。


 技術部。


 一人が銀色の射出器を構え、残りは短槍と捕縛筒を持っている。


「対象物を提出しろ!」


 先頭の男が叫ぶ。


「正式な保全命令だ!」


「命令書を見せてください!」


 エルナが壁際へ下がりながら返す。


「抵抗するなら、強制回収する!」


「見せる気はねえらしいな」


 ガルドが火箸を掴む。


 最初の男が踏み込む。


 短槍の穂先には刃がない。


 代わりに、触れたものを固定する銀色の環が付いている。


 伊織は拳銃を呼ばない。


 鍛冶場は狭い。


 背後には仲間がいる。


 敵は殺す必要がない。


 短槍を警棒で外へ流す。


 男の手首へ一打。


 槍が落ちる。


 胸へ踏み込まず、肩を押して壁へ回す。


 左肩が痛む。


 力で投げない。


 足を払う。


 男が床へ倒れる。


 二人目の捕縛筒が開く。


 銀線が網状に広がる。


 アリアが左手の剣を抜いた。


 線を切らない。


 剣の腹で受け、柱へ巻きつける。


 男が筒を引く。


 銀線が柱へ食い込む。


 動きが止まったところへ、ガルドの火箸が飛ぶ。


 筒の口へ挟まり、発射機構を潰した。


「鍛冶場で職人に道具を向けるな!」


 ガルドが吠える。


「お前の鍛冶場じゃない!」


「今から借りる!」


 三人目が横の窓から入る。


 狙いは図面。


 クロが先に動く。


 男の足へ行かない。


 机の上へ跳び、図面を咥える。


 紙を破らないよう、端だけを掴む。


 男の手が空を切る。


 クロは机から金床へ飛び移る。


 その瞬間、背後の工具棚から小さな銀虫が飛び出した。


 クロへ針を向ける。


「クロ、下!」


 伊織が叫ぶ。


 クロは図面を咥えたまま身を沈める。


 黒鋼警棒が銀虫を打つ。


 胴ではない。


 針の付け根。


 虫が床へ落ちる。


 エルナが布を投げ、上から覆った。


「一体、確保しました!」


「まだいる!」


 クロが工具棚へ吠える。


 二度。


 棚の下。


 ガルドが大きな火箸を差し込み、床板を持ち上げた。


 銀虫が二体、張りついている。


「いつ入れやがった!」


「屋敷から追跡された可能性があります!」


 アリアが答える。


 銀虫の腹が赤く光る。


 ハーゲンが動いた。


 金床に突き刺さった銀杭を素手で掴む。


 引き抜く。


 杭の表面には、細い文字が刻まれていた。


「固定鋲か」


 声が変わる。


 技術部の男が叫ぶ。


「離せ! 既に起動している!」


 銀杭から線が伸びる。


 床。


 壁。


 炉。


 金床。


 鍛冶場全体を一つの形に固定しようとしている。


 出口の扉が閉まる。


 窓枠が動かなくなる。


 床板まで硬く噛み合い、逃げ道が塞がっていく。


「解除しろ!」


 ガルドが言う。


「無理だ!」


 ハーゲンは銀杭を見る。


「打ち込まれた順を返さなきゃ止まらん」


「分かるのか」


「俺が作った型を盗んでやがる」


 ハーゲンが金床の布を剥いだ。


 下から現れた金床は、普通のものではなかった。


 表面に細い溝が何本も走っている。


 音を導く線。


 ハーゲンは壁の槌を見た。


 長く触れていない柄。


 手入れだけはされている。


 右手が伸びる。


 途中で止まる。


 技術部の男が再び射出器を構えた。


 狙いはハーゲン。


 クロが吠える。


 一度。


 低く。


 伊織は振り返らない。


 黒鋼警棒を後ろへ投げる。


 警棒が射出器の筒へ入る。


 発射された杭が内部で詰まり、筒が破裂した。


 男が腕を押さえて倒れる。


「打て」


 伊織が言った。


 ハーゲンが伊織を見る。


「俺に命令するな」


「なら、鍛冶場を取られろ」


 銀線が炉へ食い込む。


 炭が積まれた棚が歪む。


 このまま固定されれば、火を入れる場所も、槌を振る場所も失われる。


 ハーゲンの顔から迷いが消えた。


 壁の槌を掴む。


 太い柄が、手の中へ収まる。


「一度だけだ」


 誰に言ったのかは分からない。


 ハーゲンは銀杭を金床の溝へ置いた。


 槌を上げる。


 振り下ろす。


 こん。


 大きな音ではなかった。


 だが、打撃は銀杭から床へ走った。


 一本目の線が外れる。


 壁。


 炉。


 扉。


 固定された順番を逆にたどり、音が返っていく。


 こん。


 二打目。


 工具棚の下にいた銀虫が同時に止まった。


 こん。


 三打目。


 技術部の男たちが持つ捕縛筒の留め具が外れた。


 銀線が床へ落ちる。


 扉が開いた。


 窓枠が戻る。


 鍛冶場が、息を吐いたように軋んだ。


 ハーゲンは槌を下ろす。


 炉には火がない。


 それでも、打ち終えた男の額には汗が浮かんでいた。


「今のが」


 ガルドが金床を見る。


「還しの鉄か」


「違う」


 ハーゲンは短く答えた。


「ただの返し打ちだ」


「同じじゃねえか」


「同じにするな」


 技術部の男たちは、正規の門衛に引き渡された。


 エルザが関所から人を呼び、観測官が現場を封鎖する。


 ハーゲンは誰とも話さなかった。


 壊れた壁を見た。


 倒れた棚を起こした。


 散らばった工具を一本ずつ拾う。


 最後に、クロが咥えていた図面を受け取る。


 紙の端には歯形すら付いていない。


「器用な犬だな」


 クロが鼻を鳴らす。


 ハーゲンは図面を机へ広げた。


 先ほどまで見ることを拒んでいたもの。


 楔。


 中央の輪。


 打点を示す黒い丸。


 指で線を追う。


 一度。


 二度。


 途中で止まった。


 顔から、鍛冶場の主の表情が消える。


 代わりに、遠いものを見る目になる。


「知っているのか」


 アリアが聞いた。


 ハーゲンは答えない。


「父が描いたのですか」


 図面の端を押さえる太い指に、力が入る。


 紙がわずかに波打った。


 ヴォルフが壁際に立っている。


 二人の間に、古い沈黙があった。


 ハーゲンは図面から目を上げる。


 アリアを見る。


 次に伊織。


 最後に、布で覆われたヴォルフの片目。


「この線を引いた男を、知っている」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ