第75話 大樹の機構
白い都の朝は、鐘より先に動き始めた。
屋敷の窓を開けた時には、通りの掃除が半分ほど終わっている。白い外套を着た者たちが石畳へ水を撒き、細い箒で同じ方向へ汚れを集めていた。
声は少ない。
箒の音と、水が流れる音だけが続いている。
朝食を終えた一行は、日の高さが屋根を越える前に屋敷を出た。
大樹の機構へ向かうのは、伊織、アリア、クロ、エルナ、リナ、ガルド、ヴォルフ。
トトは屋敷に残した。
本人は付いていくと言ったが、今日の目的は観測であり、安全が保証されていない。
ガルドが残るよう言い聞かせた。
最後には、帰ってきた時に木片を鳴らす役目を渡した。
トトは渋々、門の内側で手を振った。
装甲車は使わなかった。
大樹の機構へ通じる中央路は車両通行が制限されている。監視具に囲まれながら、白い石畳を歩く。
エルザも同行していた。
前を歩く白衣の役人が二人。
後ろに、観測部の記録官が三人。
さらに屋根の上には、銀色の鳥が二羽。
「増えてるな」
ガルドが言った。
「正式な観測です」
エルザが答える。
「正式なら、数が増えても気持ち悪くねえと?」
「記録に残る分だけ、無断よりはましです」
「お前の基準は分かりにくい」
「理解を求めていません」
クロは伊織の左側を歩いている。
昨夜から落ち着かない。
大樹へ近づくほど、鼻が低くなる。
空気ではなく、地面を嗅いでいる。
石畳の下。
水路の底。
白い建物の基礎。
都全体の下へ広がる何かを追っている。
「まただ」
伊織が言う。
アリアもクロを見る。
「根の流れを感じているのでしょうか」
「匂いがあるのか」
「通常はありません」
「通常じゃないんだろ」
クロが一度だけ伊織を見た。
すぐに前を向く。
答える気はないらしい。
中央路の先に、大樹が立っている。
遠くから見た時より、はるかに大きかった。
幹だけで、食堂が数軒入るほどの幅がある。銀色を帯びた白い樹皮。地面から持ち上がった根は石畳を避けるように曲がり、都の各区画へ伸びていた。
枝は空を覆っている。
葉の一枚一枚が淡く光り、風もないのに揺れていた。
大樹の周囲には円形の広場がある。
中央へ近づくほど、石畳の色が濃くなる。
最も内側には、白い柱が十二本。
その間を、銀色の細い鎖が結んでいた。
「ここから先は、申請者と観測対象のみです」
先導役の男が言った。
アリアが止まる。
「補助員は同行条件に含まれています」
「中枢環への立ち入りは別です」
「その条件は通知にありません」
「保全規則です」
エルナが鞄から紙を出す。
「規則番号を」
男の顔がわずかに強張る。
「ここで確認する必要はない」
「あります。分離を認めないと申請書に記載されています」
「中枢環の外にいれば、視界内です」
「距離の指定はありません」
ガルドが小さく笑った。
「また始まったな」
「今回は短く終わらせます」
アリアは男を見る。
「全員で入ります」
「認められない」
「では、観測を拒否します」
白衣の男がエルザを見る。
エルザは銀札を出した。
「申請条件が優先されます」
「保全担当へ確認を」
「確認中に日程が遅れれば、観測期限の延長理由になります」
男は黙った。
数息後、銀鎖の一部を外す。
「中枢石には触れないこと。根を踏まないこと。武器を抜かないこと」
「襲われた場合は」
伊織が聞く。
「ここでは起こりません」
「昨日も同じようなことを聞いた」
「市中の不正器具と中枢機構を同列に扱うな」
「襲ってこないなら問題ない」
伊織は先へ進んだ。
十二本の柱の内側。
空気が変わる。
音が遠くなる。
外を歩く者たちの足音も、銀の鳥の羽音も聞こえない。
大樹の幹の前には、腰の高さほどの石が埋め込まれていた。
中枢石。
表面に、文字が刻まれている。
伊織はそれを見る。
意味が入ってこない。
線。
点。
曲がった鉤。
重なった輪。
いつもなら、見た瞬間に意味へ変わる。
こちらの文字を覚えたわけではない。
それでも読めた。
聞けば分かった。
今は違う。
模様のまま残っている。
「読めない」
伊織が言った。
アリアが振り返る。
「何がですか」
「あれだ」
中枢石を指す。
「文字の意味が分からない」
アリアの顔から血の気が引いた。
「まったく?」
「ああ」
「形も崩れて見えますか」
「形は見える。意味だけ来ない」
エルザが伊織を見る。
「記録してください」
観測官の一人が筆を走らせる。
「止めろ」
伊織が言う。
筆が止まる。
「何を」
「俺が話した範囲だけ書け」
「観測記録です」
「申請条件を読め」
アリアが記録官を見る。
「能力に関する情報は、本人の同意なく詳細化しないでください」
「既に発言しています」
「読めない、という事実だけです。原因の推測は記載しないでください」
記録官は不満そうに筆を戻した。
アリアは中枢石へ近づく。
触れない距離で止まり、文字を追う。
「古い形式です」
「読めるのか」
「一部だけです。現在の本国語より前のものです」
「何と書いてある」
「最初の行は……守るものは、根へ返す」
アリアの眉が寄る。
「次は欠けています」
「欠けてないだろ」
「文字は残っています。でも、意味のつながりがありません」
伊織と同じではない。
アリアは文字を読める。
だが、文章として成立しない。
クロが中枢石の横へ移動した。
低く唸る。
「触れるな」
伊織が言う。
クロは止まる。
鼻を石へ向ける。
次に根。
大樹の根元にある、細い隙間。
土ではない。
白い樹皮の下から、黒いものがわずかに覗いている。
クロの唸りが深くなる。
「何かあります」
アリアが言った。
「樹皮の内側です」
「触るなと言われてる」
ガルドが周囲を見る。
「向こうは気づいてるのか」
白衣の役人たちは、中枢環の外にいる。
銀鎖の向こう。
近づこうとはしない。
ここから先に入る資格がないのか。
入る気がないのか。
「クロを下げてください」
役人が叫んだ。
「根に接触すれば保全違反です!」
クロはまだ触れていない。
その場で鼻を動かしている。
突然、大樹の葉が止まった。
すべて同時に。
風のない空で揺れていた銀葉が、一枚も動かなくなる。
広場の音が消えた。
伊織は左手を開く。
「武器を出すな!」
役人の声。
「まだ出してない」
大樹の根が鳴った。
木が軋む音ではない。
内側で金属が噛み合うような音。
低く。
重く。
十二本の柱の根元で、銀色の線が光った。
「外へ!」
アリアが叫ぶ。
伊織たちは後退する。
だが、銀鎖の間へ透明な膜が立ち上がった。
外へ出られない。
白衣の役人が膜の向こうから何か叫んでいる。
聞こえない。
「閉じ込められたな」
ガルドが言う。
「予想どおりか」
「最悪の方だけな」
大樹の根元が割れた。
白い樹皮の奥から、黒い金属がせり出す。
人の腕ほど太い。
節が連なり、先端には三本の爪。
一つ。
二つ。
左右の根から、四本の金属腕が現れた。
目はない。
顔もない。
ただ、こちらへ爪を向ける。
「防衛機構です」
アリアが左手で剣を抜く。
「抜くなと言われたぞ」
ガルドが鉄棒を構える。
「状況が変わりました」
「便利な言葉だな」
最初の腕が伸びる。
狙いはクロだった。
クロが横へ跳ぶ。
左前足を庇いながら、根の外側へ回る。
金属爪が石畳を砕く。
破片が飛ぶ。
伊織はアリアの前へ出た。
黒い粒子が左手へ集まる。
小型のアイギス・プレート。
黒い盾が半分だけ現れる。
石片を受ける。
衝撃が左肩へ返る。
歯を食いしばる。
「下がってください!」
リナが叫ぶ。
「出口を作れ」
「私に言わないでください!」
二本目の腕がガルドへ振り下ろされる。
ガルドは受けない。
横へ転がり、根元へ鉄棒を差し込む。
「こいつ、根から動力を取ってる!」
「見れば分かります!」
エルナが柱の陰へ入りながら言う。
「分かるなら止め方を言え!」
「記録にはありません!」
ヴォルフの骨刃が抜かれる。
白い刃が金属腕の節へ当たる。
火花。
切れない。
ヴォルフはすぐに刃を引く。
「硬いな」
「感想はあとで」
アリアが腕の側面へ剣を滑らせる。
切るのではない。
爪の向きを逸らす。
金属腕が石畳へ突き刺さった。
「関節は三つ!」
アリアが叫ぶ。
「中央の節だけ動きが遅いです!」
伊織は盾を消す。
黒鋼警棒を具現。
左手で握る。
踏み込む。
金属腕の中央節へ、横から打つ。
鈍い音。
表面はへこまない。
だが、内側から別の音が返った。
空洞。
「中にある」
伊織が言う。
「何が」
「核か、接続部だ」
三本目の腕が伊織の背後から迫る。
クロが吠えた。
一度。
低く。
伊織は振り返らず、前へ倒れる。
爪が頭上を通る。
クロはもう次の位置へ移動している。
腕そのものではなく、根元の隙間を嗅いでいる。
「クロ!」
アリアが呼ぶ。
クロが短く二度吠える。
右側。
二本目の根。
「そこです!」
樹皮の隙間。
黒い金属の根元に、小さな白い石が埋まっている。
鉄獣の目と似ている。
だが、こちらは樹皮の奥に半分隠れていた。
「核は根元だ!」
伊織が叫ぶ。
ガルドが鉄棒を構える。
「届かねえ!」
「開けます!」
アリアが右側の金属腕へ踏み込む。
左手一本で剣を振る。
爪を受け流す。
腕の軌道を内側へ誘導する。
金属爪が、自分の根元へ突き刺さった。
樹皮が割れる。
白い石が露出する。
「今です!」
伊織は警棒を消す。
拳銃。
黒い粒子が左手に集まる。
輪郭が揺れる。
左肩が焼ける。
銃把までは出る。
銃身が固まらない。
爪を引き抜いた金属腕が、アリアへ返る。
間に合わない。
クロが白い石の横へ走る。
石へ噛みつかない。
根元の土を前足で掻く。
黒い粉が舞う。
伊織の視界の端で、黒鋼灯が浮かんだ。
呼んでいない。
拳銃になりきれなかった黒い粒子の一部が、小さな灯の形を取っている。
左手の前。
拳一つ分ほどの黒い灯。
光は弱い。
だが、クロが掻いた場所だけが白く浮いた。
石の中央。
細い亀裂。
「東さん!」
アリアの声。
伊織は灯を見ない。
亀裂を見る。
拳銃の銃身が固まる。
クロが射線から外れる。
命じる前に。
発砲。
黒鋼の弾丸が白い石の亀裂へ入る。
石が砕けた。
右側の二本の金属腕が止まる。
力を失い、石畳へ落ちる。
黒鋼灯も消えた。
伊織の左肩に痛みが走る。
片膝をつく。
「東さん!」
「まだ二本だ」
リナが近づこうとする。
残る金属腕が地面を薙ぐ。
ヴォルフが骨刃を石畳へ突き立てる。
刃を支点に身体を浮かせ、攻撃を避ける。
着地と同時に根元へ蹴りを入れる。
「反対側も同じだ!」
「クロ!」
ガルドが呼ぶ。
クロは動かない。
残る根元を見ている。
鼻を動かす。
一度、左。
違う。
次に中央。
違う。
最後に、大樹の幹そのものへ向く。
唸りが変わる。
警戒ではない。
怒りにも近い。
「根元じゃありません」
アリアが言う。
「残りは幹の中です」
金属腕が二本同時に伸びる。
一つは伊織。
一つはクロ。
伊織は立てない。
アリアが伊織の前へ入る。
左の剣だけでは、二本を止められない。
ガルドが一方へ鉄棒を投げる。
金属腕の節に挟まり、動きが遅れる。
もう一方はクロへ迫る。
「伏せろ!」
クロは伏せなかった。
前へ出た。
爪の真下を潜り抜け、大樹の幹へ走る。
黒いものが樹皮の内側を移動している。
クロの背の縞が光った。
途切れていた銀色の一本が、肩から腰へ向かってつながる。
完全ではない。
それでも、今までより長い。
黒鋼灯が再び現れた。
今度は伊織の手元ではない。
クロの頭上。
小さな黒い灯が、クロの走る方向へ引かれている。
「何だ、あれ」
ガルドが言う。
伊織にも分からない。
呼んでいない。
それでも、自分の鋼鉄だと分かる。
黒鋼灯は大樹の幹へ近づき、樹皮の一か所を照らした。
円形の継ぎ目。
周囲と同じ色に偽装されている。
クロがその前で吠える。
一度。
強く。
「そこだ!」
アリアが走る。
金属腕が背後から追う。
伊織は左手を開く。
拳銃はもう無理だ。
黒鋼警棒。
短い形だけを呼ぶ。
手の中に落ちる。
アリアへ迫る爪へ投げた。
警棒が関節の隙間へ挟まる。
一瞬だけ止まる。
アリアが幹へ到達する。
左手の剣を逆手に持ち、円形の継ぎ目へ突き込む。
刃先が止まる。
「硬い!」
クロが継ぎ目の下を掻く。
小さな溝がある。
アリアが刃をずらす。
溝へ入れる。
左肩だけで押し込む。
封が外れた。
円形の蓋が開く。
内側に、黒い歯車。
その中央に白い石。
だが、東部で見たものとは違う。
白い石の奥に、別の色がある。
深い赤。
乾いた血のような色。
「離れろ!」
伊織が叫ぶ。
白い石が光る。
黒い歯車が回転する。
金属腕が一斉に止まり、次の瞬間、すべて大樹へ引き戻される。
アリアは後ろへ飛ぶ。
クロも離れる。
樹皮が閉じる。
円形の蓋だけが開いたまま残った。
透明な膜が消える。
外の音が戻る。
役人たちの叫び。
記録官の筆が走る音。
銀の鳥が広場の上を旋回する。
「全員、そこを動くな!」
白衣の男が中枢環へ入ってくる。
だが、大樹の根が一度持ち上がった。
男は足を止める。
中枢石が光っていた。
刻まれた文字が、一行ずつ白く浮かんでいく。
伊織は見る。
やはり読めない。
意味は来ない。
だが、文字の一部が変わった。
最初になかった形が、石の中央へ現れている。
開いた門。
その前に立つ、人の形。
アリアが息を呑む。
「読めるか」
伊織が聞く。
「一部だけ」
「何と」
アリアは中枢石を見つめる。
「開けた者」
その言葉に、伊織の左手が動く。
廃坑。
討ち取った鋼竜。
その奥にあった、封じられたもの。
自分が何を開けたのかは知らない。
だが、大樹は知っている。
「続きは」
アリアが文字を追う。
「問う、とあります」
石の奥で、低い音が鳴る。
声ではない。
それでも、問いだと分かった。
中枢石の表面に、別の文字が浮かぶ。
アリアが読み上げる。
「何のために来た」
役人たちが静まった。
記録官の筆まで止まる。
アリアが伊織を見る。
答えを求めているのではない。
伊織自身が答えるべき問いだと分かっている。
伊織は中枢石を見る。
読めない文字。
意味の届かない場所。
その向こうに、アルドが遺したものがある。
黒い歯車。
還しの鉄。
封じられた書斎。
自分が開けた廃坑。
「父の足跡を見るために来た」
伊織は言った。
アリアの瞳が揺れる。
石はすぐには反応しなかった。
沈黙。
大樹の葉が、再び風もなく揺れ始める。
中枢石の光が消える。
「拒絶されたのか」
ガルドが聞く。
アリアは首を振る。
「分かりません」
白衣の男が近づく。
「観測は終了だ。全員、環の外へ」
「まだ機構の返答が」
「返答はない」
「沈黙も記録します」
エルナが言った。
「機構の反応は保全記録へ帰属する」
「私たちへの問いでした」
「判断するのは長老会だ」
伊織は言い争いを聞きながら、大樹の幹を見る。
円形の継ぎ目は閉じている。
クロはその前から動かない。
黒鋼灯は消えた。
背の縞も、今は鈍い色へ戻っている。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロが振り返る。
その背後で、音がした。
大樹の根元。
今まで何もなかった場所。
白い樹皮が左右へ割れていく。
人一人が通れる幅。
奥には、下へ続く石段があった。
暗い。
黒鋼灯の光も届いていない。
役人たちが息を呑む。
「その門は」
エルザが呟く。
「知っているのか」
伊織が聞く。
「開いた記録がありません」
白衣の男が石段へ近づこうとする。
根が地面から持ち上がり、行く手を塞いだ。
男は止まる。
アリアが一歩進む。
根は動かない。
クロも隣へ並ぶ。
やはり拒まれない。
最後に伊織が近づく。
石段の奥から、冷たい空気が上がってきた。
土。
古い鉄。
そして、東の山水路で嗅いだ黒い歯車に似た匂い。
クロが低く唸る。
今度は、はっきりと敵へ向ける声だった。
分かった。




