第74話 白い都
白い都には、泥がなかった。
石畳の隙間にも、建物の壁際にも、荷車の轍にも。
街道を走ってきた装甲車だけが、乾いた土を車輪にまとわせている。白い道の上へ褐色の跡を残すたび、通りを行く者たちの視線が下へ落ちた。
咎める声はない。
露骨に顔をしかめる者もいない。
ただ、見ている。
装甲車が通り過ぎたあとに残る汚れを。
窓の内側から。
店先から。
水路に架けられた細い橋の上から。
「掃除が大変そうな町だな」
ガルドが操縦席から言った。
「毎朝、各区画で清掃します」
アリアが答える。
「住民全員で?」
「担当者が決められています」
「道の汚れまで管理されてんのか」
「火災や病の兆候を見落とさないためです」
「泥一つで大げさだな」
「泥に見えたものが、泥ではなかったことがあります」
ガルドが振り返りかけて、やめた。
「そういう話は先に言え」
「今、言いました」
白い石造りの建物は、どれも高さが揃っていた。
屋根の傾き。
窓の大きさ。
道路から扉までの距離。
似ているのではない。
合わせてある。
枝を広げた大樹の周囲に、同じ形の建物を順番に並べたような都だった。
華美ではない。
貧しくも見えない。
整っている。
誰かが決めた形から、何一つはみ出していない。
店の看板も小さかった。
声を張って客を呼ぶ者はいない。
荷を運ぶ者は決められた側を歩き、橋を渡る前に一度立ち止まる。向こうから来る者を確認し、互いにぶつからない順番で進む。
子供たちまで走っていなかった。
トトが荷台から身を乗り出す。
「遊んでないの?」
「遊ぶ場所は別にあります」
アリアが言う。
「どこ?」
「居住区の内側です」
「見えないね」
「外から見えないように作られています」
「なんで?」
アリアの返事が少し遅れた。
「安全のためです」
トトは白い通りを見た。
「ここ、安全なの?」
アリアは答えなかった。
クロが荷台の前方に立ち、鼻を動かしている。
白い都へ入ってから、落ち着かない。
吠えはしない。
だが、伏せようともしなかった。
屋根。
窓。
水路。
橋の下。
鼻先が短く動き続けている。
視線では追えないものを、匂いで数えているようだった。
「まだいるか」
伊織が聞く。
クロの耳が動く。
右側の屋根へ顔を向けた。
銀色の小さな影。
瓦の縁に止まり、こちらを見ている。
鳥の形に似ているが、羽毛はない。細い金属板を重ねた翼と、針のような脚。頭の中央には透明な玉が埋め込まれていた。
伊織が見上げた瞬間、銀の鳥は翼を開いた。
音もなく飛ぶ。
屋根から屋根へ。
一定の距離を保ったまま、装甲車についてくる。
「関所にいたものと同型ですか」
エルナが聞いた。
「よく似ています」
アリアは銀の鳥を見る。
「ただ、あれには観測部の標識がありません」
「なら、誰のだ」
「都で監視具を使用できる部署は複数あります」
「便利な町だな」
ガルドの声に、褒める響きはなかった。
エルザの馬車が後ろから並ぶ。
「追わないでください」
銀の鳥を見上げながら、エルザが言った。
「まだ何もしていない」
伊織が答える。
「クロが飛び出しそうです」
クロは銀の鳥を見ていなかった。
建物の間の狭い路地へ鼻を向けている。
「一つじゃない」
伊織が言う。
エルザの顔がわずかに動く。
「何体ですか」
「クロに聞け」
クロが短く一度鳴いた。
路地の奥。
続けて二度。
水路の向こう。
最後に、喉を低く鳴らした。
装甲車の下。
「止めろ」
ガルドが制動をかける。
装甲車が白い石畳の中央で止まった。
周囲の人々も足を止める。
「道を塞がないでください」
先導していた白衣の役人が振り返った。
「車体の下に何かいる」
伊織は荷台から降りる。
「東さん」
リナの声が飛ぶ。
「屈むだけだ」
「その言葉を信用したことはありません」
伊織は左肩を動かさず、片膝をついた。
装甲車の底。
車軸の影に、小さなものが張りついている。
虫に似ていた。
平たい銀色の胴。
六本の脚。
腹部から伸びた針が、車体の継ぎ目へ差し込まれている。
伊織が顔を近づけると、透明な玉が赤く光った。
「離れてください!」
アリアが叫ぶ。
銀の虫の胴が割れる。
内部から細い線が飛び出した。
伊織は身体を後ろへ倒す。
線が頬の前を通る。
車体下から路面へ突き刺さり、瞬時に張った。
さらに二本。
伊織の左足と首を狙う。
黒い粒子が左手へ集まる。
黒鋼警棒。
形になった瞬間、最初の線を下から打つ。
切断ではない。
角度を変える。
銀線が石畳へ当たり、火花を散らした。
二本目を靴底で踏む。
三本目が首元へ伸びる。
クロが車体の反対側から飛び込んだ。
線へ噛みつかない。
銀の虫を前足で叩き、車軸から剥がす。
虫が路面へ落ちる。
伊織は警棒の先で胴を押さえた。
内部の歯車が甲高い音を立てる。
虫の脚が石畳を引っ掻く。
「壊さないでください!」
エルナが鞄から厚手の布を取り出す。
「証拠になります!」
「止め方は」
伊織が聞く。
「腹部の針です!」
アリアが答える。
「引き抜くと記録が消える可能性があります。根元を押さえてください!」
「細かい注文だな」
銀の虫が身体を捻る。
黒鋼警棒の下から抜けようとする。
クロが横へ回り、低く唸った。
虫はクロの方へ針を向ける。
伊織が警棒をずらす。
虫の頭部ではない。
針の付け根。
動くだけの隙間を潰す。
アリアが片膝をついた。
左手だけで細い剣を抜く。
刃先を、針の根元にある小さな留め具へ差し込んだ。
「三つ数えます」
「早くしろ」
「動かさないでください。一、二――」
留め具が外れた。
数え終わる前だった。
銀の虫から力が抜ける。
赤い光が消え、脚が石畳へ落ちた。
「三は」
伊織が聞く。
「必要ありませんでした」
アリアは剣を戻す。
エルナが厚手の布で虫を包み、革箱へ収めた。
その間も、周囲の住民は見ている。
悲鳴はなかった。
逃げもしない。
ただ、少し距離を取って見守っている。
白衣の役人が近づいた。
「市中での能力使用は禁止されています」
「襲われた」
伊織が黒鋼警棒を消す。
「監視具に攻撃機能はありません」
「今のを見てなかったのか」
「所属の確認が先です」
「所属が分かれば、攻撃してもいいのか」
役人の口が閉じる。
エルザが馬車から降りた。
「回収物は観測記録として保全します」
「関内で発見されたものは、管理局へ提出してください」
「観測対象の車両へ無断で取りついた器具です。申請条件により、第三部署への移管は保留されます」
「所有者が確認できるまでです」
「確認されても、対象本人の拒否があれば審査へ回します」
役人はアリアを見る。
「研究者として提出に同意を」
「しません」
アリアは即答した。
「理由は」
「東さんとクロを攻撃しました」
「機能誤作動の可能性があります」
「では、同じものをあなたの車体へ取りつけて確認してください」
ガルドが吹き出す。
役人は答えなかった。
「道を開けてください」
エルザが言う。
「市中を塞いでいるのは、こちらではありません」
白い通りの先を見る。
止まった住民たち。
進めない荷車。
役人は周囲の視線に気づいた。
「移動を再開してください」
命令だけを残し、前へ戻っていく。
ガルドが操縦席へ上がった。
「都に入って最初の荷物が虫か」
「捨てません」
エルナが革箱を抱える。
「分かってる。餌はやるなよ」
「食べません」
「虫だからって食うとは思ってねえ」
トトが革箱を見る。
「生きてる?」
「動いてはいません」
「死んだ?」
「それも、まだ分かりません」
「ここ、分からないもの多いね」
エルナは返事をしなかった。
装甲車が再び進み始める。
クロは伊織の足元へ戻った。
左前足を一度持ち上げ、ゆっくり下ろす。
傷は開いていない。
「無茶をするな」
伊織が言う。
クロは横を向いた。
「聞いてるのか」
鼻を鳴らす。
伊織はクロの背を見る。
鋼色の縞。
途切れているはずの一本が、関所を越えた時より長くなっていた。
光の加減ではない。
黒い毛の間を、鈍い銀が細く走っている。
「東さん」
アリアも見ていた。
「まだ言うな」
「何も言っていません」
「顔に出てる」
「あなたに言われたくありません」
クロが二人の間で耳を動かした。
◆
一行に与えられた滞在先は、都の北側にある古い屋敷だった。
高い塀はない。
白い石の外壁と、淡い木で作られた門。
庭には低い草が均等に刈られ、一本の銀葉樹が立っている。
屋敷の屋根は他の建物より少し低かった。
装飾も少ない。
それでも、周囲の家より広い。
門の前で、アリアが動きを止めた。
「ここなのか」
伊織が聞く。
「はい」
アリアは門を見ている。
表札はない。
紋章も外されている。
だが、左側の柱だけ、色が違っていた。
かつて何かが取りつけられていた跡。
「シルヴェイン家の本邸です」
エルザが言った。
「封鎖中では」
「書斎区画のみです。居住区画は臨時滞在場所として使用できます」
「誰が決めた」
「長老会です」
「いつ?」
「今朝です」
ガルドが門を見る。
「用意がいいな」
「入国を拒否した直後に、泊まる場所を決めたのか」
伊織が聞く。
「拒否が覆る場合も想定していたのでしょう」
「全部、予定の中ってことか」
「少なくとも、複数の結果を準備しています」
アリアはまだ門に触れない。
トトが横へ来た。
「アリアの家?」
「昔の家です」
「今は?」
「誰も住んでいません」
「じゃあ、家じゃないの?」
アリアは門の向こうを見る。
庭。
閉じた窓。
人の気配のない玄関。
「分かりません」
トトは少し考えた。
「入ってみたら?」
アリアの左手が動く。
門へ触れる。
鍵はかかっていなかった。
軽く押すと、淡い木の扉が内側へ開く。
軋む音はない。
長く使われていないはずなのに、蝶番には油が差されていた。
庭へ入る。
砂利の上にも落ち葉がない。
誰も住んでいない。
だが、誰かが手入れしている。
残すために。
使うためではなく。
伊織はその違いを、装甲車を降りる前から感じていた。
玄関の前で、アリアが靴を見た。
街道の土が付いている。
「裏口から入りましょう」
「自分の家だろ」
ガルドが言う。
「床が汚れます」
「住んでないんだろ」
「それでもです」
「掃除すりゃいい」
アリアの目が屋敷へ向く。
「掃除します」
声が少しだけ変わった。
ガルドはそれ以上言わなかった。
全員で裏手へ回る。
勝手口も鍵はかかっていない。
中へ入ると、乾いた木の匂いがした。
埃は少ない。
家具には白い布が掛けられている。
棚の食器はすべて伏せられ、戸棚の扉は細い紐で閉じられていた。
生活を止めた形のまま、保存されている。
アリアは台所の中央に立つ。
薄紫の瞳が、ゆっくり室内を追う。
「ここで料理したのか」
伊織が聞く。
「ほとんど使用人が」
「自分では」
「湯を沸かしたことはあります」
「料理じゃねえな」
「結果として飲めるものができました」
「湯だろ」
「茶葉を入れました」
ガルドが戸棚を開けようとする。
細い紐に気づき、手を止めた。
「触っていいのか」
「居住区画は使用できます」
「聞いてるのは規則じゃねえ」
アリアが少し黙る。
「必要なものだけにしてください」
「分かった」
ガルドは紐をほどかなかった。
荷物を置く場所だけ、白い布を外す。
リナは休める部屋を確認し、寝台の数を数える。
エルナは窓と出入口の位置を記録する。
ヴォルフは庭に面した廊下を歩き、床板の音を確かめていた。
トトはクロと一緒に台所を見て回る。
クロは棚ではなく、床の角や壁の継ぎ目を嗅いでいる。
監視具がないかを探している。
誰に教えられたわけでもない。
装甲車の下にいた銀の虫を覚えた。
それだけで、探し方を変えた。
伊織は廊下の先を見る。
正面の階段。
二階へ続く。
その脇に、他の扉とは違うものがあった。
濃い木で作られた両開きの扉。
取っ手に銀色の鎖が巻かれている。
鎖の中央には、枝を広げた樹の封印具。
書斎。
聞く必要はなかった。
アリアも、その扉を見ている。
右手を吊ったまま、廊下へ出る。
一歩。
もう一歩。
鎖の前まで行く。
触れない。
封印具にも。
扉にも。
ただ、立っている。
伊織は少し離れた場所で止まった。
他の者は来なかった。
ガルドも。
リナも。
エルナも。
台所の物音だけが、遠くで続いている。
「鍵は長老会が持っています」
アリアが言った。
「ああ」
「壊せば入れます」
「壊すのか」
「できません」
「規則だからか」
「それもあります」
アリアは左手を上げた。
封印具の少し手前で止める。
「中に何が残っているか、分かりません」
「だから来たんだろ」
「はい」
「なら、いつかは開ける」
「はい」
返事はした。
だが、手は触れなかった。
伊織は急かさない。
扉の向こうにあるものは、敵ではない。
撃つ場所も、壊すべき核も見えない。
無理に踏み込めば、取り返せないものまで崩れる。
そういう扉だった。
「今日は」
アリアが言う。
一度、息を整える。
「掃除だけにします」
「分かった」
それだけを返す。
アリアは扉に背を向けた。
廊下を戻る。
途中で一度だけ、吊った右手が身体から離れた。
何かを掴もうとしたように。
すぐに戻る。
◆
掃除は、夕方まで続いた。
ガルドが窓を開ける。
リナが寝台の布を替える。
エルナが部屋ごとの状態を書き留める。
トトは小さな箒を借り、クロの後ろを掃いた。
「クロ、毛が落ちてる」
クロが振り返る。
「ここ」
トトが黒い毛を一つ摘まむ。
クロは不満そうに鼻を鳴らした。
「掃除だから」
さらに一つ拾う。
クロは場所を移った。
伊織は家具を動かそうとして、リナに止められた。
「左手も使わないでください」
「椅子だ」
「椅子でもです」
「軽い」
「あなたの軽いは信用できません」
アリアが布を持って近づく。
「私がやります」
「右手が使えないだろ」
「左手があります」
「同じこと言ってるぞ」
「私は具現しません」
言い返せなかった。
二人で椅子を見たまま止まる。
ガルドが横から持ち上げた。
「怪我人同士で張り合うな」
「張り合っていません」
「俺もだ」
「揃って否定するところまで同じか」
ガルドは椅子を窓際へ運んだ。
アリアの耳が少しだけ動く。
伊織は見なかったことにした。
日が傾く。
白い都の建物が、夕陽を受けて淡い金色に染まる。
窓を開けても、外から大きな声は聞こえない。
鐘が一度鳴る。
遠くで扉が閉まる音が連なった。
店じまいの合図らしい。
エルザは玄関に立っていた。
屋敷の中へは入らない。
「長老会から通知です」
アリアが掃除布を置く。
「審問の日程が決まりましたか」
「十日後です」
アリアの顔が硬くなる。
「臨時観測任務は三日です」
「期限が切れる前に、延長申請が必要です」
「最初から延長させるつもりだった?」
「審問日程を決めた者と、観測任務を承認した者は別です」
「都合のいい分け方だな」
ガルドが言う。
エルザは否定しなかった。
「延長の条件は」
アリアが聞く。
「観測対象の市中行動記録。能力の安全性確認。研究目的の具体化」
「具現を見せろ、ということですか」
「明文化されてはいません」
「同じです」
「拒否はできます。ただし、代替の観測結果が必要です」
伊織がエルザを見る。
「何をさせるつもりだ」
「明朝、大樹の機構へ出頭してください」
アリアの顔色が変わった。
「大樹へ?」
「観測対象と同行生物が、都の中枢機構へ与える影響を確認します」
「危険です」
「だからこそ、確認するそうです」
「誰が決めたのですか」
「長老会の保全担当」
「技術部は関与していますか」
「通知上は、ありません」
「通知上は」
「はい」
エルザは一枚の紙を差し出す。
アリアが左手で受け取る。
記された日時。
場所。
同行者。
注意事項。
そして最下部に一文。
「観察対象は、市中を出るな」
アリアが読み上げる。
伊織は窓の外を見る。
白い通り。
同じ高さの屋根。
同じ形の窓。
遠くに立つ大樹。
枝は都の上へ広がり、夕暮れの空を覆っている。
門を通った時から、見えていた。
近づいてはいない。
それでも、根元から伸びる何かが、街全体の下へ張り巡らされているように見えた。
クロが窓際へ来る。
大樹へ鼻を向ける。
耳が立つ。
背の鋼色の縞が、薄暗い室内で鈍く光った。
低い唸りが、喉の奥から漏れる。
警戒ではない。
怯えでもない。
遠くにいる何かを、知っているような声だった。




