第72話 壁に打つ板
朝の食堂に、槌の音がしていた。
かん。
かん。
かん。
いつもの鍋の音ではない。
皿の音でも、トトの木片の音でもない。
壁に板を打つ音だった。
ガルドが椅子に片膝を乗せ、食堂の壁へ厚い木板を当てている。
その上に、戻った縄が掛け直されていた。
昨日までより少し高い位置。
壁の板ごと、支えられている。
縄の下には、灰色の線が這い出した床板がある。
朝になっても、そこだけ少し色が違っていた。
焦げではない。
水染みでもない。
灰を薄く擦り込んだような跡。
クロがその前に座っていた。
左前足には、新しい包帯。
白い布の端には、まだ薄い灰色が残っている。
洗っても、完全には落ちなかった。
アリアはその足を見て、何度も眉を寄せた。
クロは嫌そうに目を逸らす。
だが、食堂からは出ていかない。
見張る気なのだろう。
伊織は壁際の席に座り、左手で水を飲んでいた。
右手は固定具の中。
左肩はまだ重い。
昨夜、立ち上がっただけで糸が引いた。
リナには顔を見ただけで怒られた。
エルナには記録された。
アリアには、何も言われなかった。
それが一番効いた。
ガルドが釘を咥えたまま、次の板を合わせる。
「曲がってる」
トトが言った。
ガルドの手が止まる。
「曲がってねえ」
「ちょっと右」
「右ってどっちだ」
「そっち」
「そっちは左だ」
トトは首を傾げた。
ニコが厨房から顔を出す。
「トト、作業中の人に近づかない」
「近づいてない」
「指をさしてる」
「指だけ」
「指も危ない」
トトは指を下ろした。
それでも、壁の前から動かない。
首から下げた木片を握っている。
昨日の夜は鳴らさなかった。
だが、何があったかは聞いている。
聞いて、分かった顔はしていない。
それでも、何かを感じている顔だった。
ガルドは釘を咥え直す。
「見てるだけなら、そこにいろ」
「いいの?」
「触るな。縄にも、板にも、床にも」
「分かった」
「木片も鳴らすな」
「分かった」
「質問は一つずつだ」
「それは難しい」
「努力しろ」
トトは真面目に頷いた。
ニコが少しだけ驚いた顔をする。
ガルドは板を押さえ、釘を打った。
かん。
音が食堂に返る。
昨日の夜、小さな音を重ねて灰色の線を止めた場所。
同じ場所に、今朝は板を打っている。
守るための音。
伊織はその音を聞いていた。
アリアが隣に座る。
右手はまだ吊っている。
だが、昨夜より顔色は戻っていた。
「クロの足は」
伊織が聞いた。
「冷えは残っています。熱はありません」
「痛みは」
「あります」
クロが目を逸らした。
アリアが少しだけ声を低くする。
「あります」
クロはさらに目を逸らした。
「隠すな」
伊織が言うと、クロは鼻を鳴らした。
その鼻の鳴らし方は、どこか伊織に似ている気がした。
アリアがクロを見てから、伊織を見る。
「似ていますね」
「何が」
「隠し方が」
「犬と一緒にするな」
「クロです」
「ああ」
伊織は水を置いた。
ガルドが板を打つ音が続く。
かん。
かん。
かん。
そのたびに、縄が少し揺れる。
縄は戻ったものだ。
だが、戻ったから終わりではなかった。
戻ったものは、また狙われる。
戻った場所も。
戻った者も。
「昨日」
アリアが言った。
伊織は視線だけ向ける。
「撃たなかったんですね」
「ああ」
「壊さなかった」
「ああ」
「自分で、それを選んだんですね」
伊織は少し黙った。
「撃てなかっただけかもしれない」
「違います」
アリアはすぐに言った。
伊織はアリアを見る。
アリアは壁の縄を見ていた。
「撃たないことを選んだんです」
「そう見えたか」
「はい」
「なら、そういうことにしておく」
「そこは、認めてください」
「難しいな」
「では、少しずつで」
アリアはそう言って、少しだけ口元を緩めた。
それは、笑みと呼ぶには小さかった。
だが、伊織には分かった。
昨日より近い。
手を伸ばしたわけではない。
言葉を重ねたわけでもない。
ただ、伊織が選んだことを、アリアが覚えている。
それだけで、距離は少し変わる。
ガルドが壁から声を飛ばした。
「おい、そこの二人」
「何だ」
「真面目な顔で見張るなら、板を持て」
リナが即座に言う。
「東さんは駄目です」
「まだ何も言ってない」
「言いそうでした」
「便利だな」
「便利ではありません」
アリアが立ち上がろうとする。
リナの視線が動く。
「アリアさんもです」
「私は板を持つだけなら」
「右手」
アリアは黙った。
ガルドが鼻で笑う。
「病人ばっかりだな」
「怪我人です」
エルナが帳面を持って現れた。
「そして、作業者はガルドさんだけではありません。門番二名が補助に来ます」
「俺一人で足りる」
「一人では守らない、です」
エルナが言うと、ガルドは口を閉じた。
昨夜、帳面に書かれた言葉。
ひとりで守らない。
それを言われると、反論しにくいらしい。
門番二人が板を持って入ってきた。
昨日の見張りにいた二人だ。
一人はまだ顔色が悪い。
もう一人は、ガルドの縄を見てから、床の跡を見た。
「ここに打てばいいんですね」
「ああ」
ガルドは釘を渡す。
「ただし、縄には触るな」
「分かっています」
「分かってねえ顔だ」
「分かっています」
「ならいい」
ガルドは大きな手で壁を叩いた。
「この板は、壁を守る。縄を守る。床の線も、ここで止める」
トトが手を上げる。
「質問」
「一つな」
「縄って、そんなに大事なの?」
食堂の音が、少しだけ静かになった。
ニコがトトを見た。
止めようとした。
だが、ガルドが先に言った。
「大事だ」
「なんで?」
「戻ったからだ」
「戻ったものは、全部大事?」
ガルドは槌を下ろした。
しばらく、壁の縄を見る。
黒く噛まれた縄。
切れなかった縄。
食堂に戻った縄。
「全部じゃねえ」
ガルドは言った。
「戻ったから大事なんじゃねえ。戻れなかったものがあるから、戻ったものを掛ける」
トトは首を傾げた。
「戻れなかったもの?」
ガルドは釘を一本、指先で回した。
話す気がない顔に見えた。
だが、逃げる顔ではなかった。
「昔、戻らなかった縄がある」
食堂が静かになる。
ガルドは続けた。
「人の話じゃねえ。縄の話だ」
トトは真面目な顔で聞いている。
「縄が戻らないって、どういうこと?」
「誰かを戻せなかった縄は、壁に掛からねえ」
ガルドは縄を見たまま言った。
「切れた縄。焼けた縄。水に持っていかれた縄。持ち主の手に戻らなかった縄。そういうもんは、箱にも入らねえ。名前も残らねえ」
「なんで?」
「見たくねえからだ」
ガルドの声は低かった。
怒っているのではない。
悔しさが、古くなって残った声だった。
「戻れなかったものを見るのは、きつい。だから、隠す。捨てる。忘れたことにする」
トトは木片を握った。
ニコは黙っている。
エルナは帳面を開いていない。
今は、記録する場面ではないと判断したのかもしれない。
ガルドは釘を置いた。
「でもな。戻ったものまで隠すと、何も残らねえ」
縄を見る。
「こいつは切れなかった。戻った。なら、掛ける」
「見せるため?」
「ああ」
ガルドは頷く。
「戻れるものがあるって、若い奴に見せる」
トトは少し考えた。
「じゃあ、昨日の声は、それを持っていこうとしたの?」
「たぶんな」
「嫌だね」
「ああ」
ガルドは槌を握り直した。
「だから、板を打つ」
かん。
音が鳴る。
今度の音は、さっきより重かった。
食堂全体が、その音を受け止めた。
伊織はガルドを見ていた。
戻らなかった縄。
ガルドが誰のことを思い出しているのかは分からない。
聞くべきでもない。
だが、あの男が縄を壁に掛けた理由は、少し分かった。
見せるため。
忘れないため。
戻れなかったものまで、全部消してしまわないため。
アリアが静かに言った。
「記録と、似ていますね」
エルナが顔を上げる。
「ええ」
「書くことと、掛けること」
エルナは少しだけ考えた。
「残し方が違うだけです」
ガルドが鼻を鳴らす。
「俺は字が嫌いだ」
「だから板ですか」
「板は読まなくていい」
「見れば分かるからですか」
「そうだ」
エルナはその言葉を聞いて、少しだけ頷いた。
それから帳面を開いた。
今度は書くようだった。
ガルドは何も言わなかった。
◆
板打ちは昼前まで続いた。
縄の下には、厚い板が三枚重ねられた。
壁の裏にも、短い支え木が入れられた。
床板の隙間には、灰色の跡を避けて細い木栓が打ち込まれた。
釘は少ない。
金属を使いすぎると、逆に線の足場になるかもしれない。
だから、木を噛ませる。
ガルドの判断だった。
「名前は書かないんですね」
ニコが言った。
壁の板を見ている。
そこには何も書かれていない。
ガルドは小刀で、板の端に小さな刻みを入れていた。
一本。
それから、少し離してもう一本。
文字ではない。
記号にも見えない。
ただの作業印のようだった。
「名前じゃねえ」
ガルドは言った。
「ここに掛けるって印だ」
「印ならいいんですか」
ニコが聞く。
アリアが板を見る。
「呼ぶための印ではありません」
「なら?」
「戻すための印です」
トトが木片を握る。
「名前と似てる」
「似ています」
アリアは頷いた。
「だから、間違えないようにします」
伊織はその会話を聞いていた。
名前。
印。
場所。
戻るためのもの。
呼ぶためのもの。
奪うためのもの。
似ている。
だから、間違えれば危ない。
それでも、全部を捨てることはできない。
何も名づけず、何も印を残さず、何も掛けなければ、戻る場所も消える。
ガルドが板を叩いた。
「これでいい」
エルナが帳面に書く。
「食堂壁面補強完了。戻った縄は、壁板に掛け直し。板端に戻し印二本」
そこで筆が止まる。
エルナは少しだけガルドを見る。
「戻し印、でいいですか」
「勝手に名前つけるな」
「では、板端の刻み二本」
「それでいい」
ガルドは言った。
伊織は少しだけ目を動かした。
それでいい。
その言葉に引っかかる。
だが、これはガルドの言葉だ。
伊織の癖ではない。
伊織は何も言わなかった。
エルナは「板端の刻み二本」と書いた。
名前にしない。
ただ、場所を間違えないために残す。
トトが木片を一度だけ鳴らそうとして、止めた。
ガルドが見る。
「鳴らしてもいいぞ」
「いいの?」
「今のは、応援だろ」
トトは頷いた。
かん。
木片が鳴った。
板を打つ音とは違う。
だが、同じ壁に返った。
ガルドは少しだけ目を細めた。
「悪くねえ」
エルナが即座に言う。
「今の音は記録しません」
「なんでだ」
「応援なので」
「記録しろよ」
「名前が増えます」
「そうか」
ガルドは少しだけ笑った。
食堂にも小さな笑いが戻る。
完全に戻ったわけではない。
床には灰色の跡がある。
クロの足にも汚れが残っている。
記録棚の奥には、灰色の金具が沈黙している。
それでも、笑いは戻る。
戻るものは、ひとつではない。
◆
昼過ぎ、クロの包帯を替えることになった。
食堂の隅。
いつもの席。
クロは横になり、顔だけ伊織の方へ向けている。
逃げるつもりはない。
だが、不満はある。
リナが布を外す。
アリアが左手だけで足を支え、灰色の汚れを見る。
伊織は少し離れて座っている。
近づくと、リナに怒られる。
それに、アリアが集中している。
邪魔はしたくない。
「汚れではありません」
アリアが言った。
食堂の空気が変わる。
リナが布を持つ手を止めた。
「じゃあ、何?」
「線の残りです」
アリアはクロの足に触れない。
灰色の残りを、角度を変えて見るだけだ。
「クロが止めた線の一部が、包帯に移っています」
「危ないのか」
伊織が聞く。
「今すぐ動くものではありません。熱もありません。声もありません」
「だが、残っている」
「はい」
アリアは布を見る。
「燃やしてはいけません」
「なぜ」
「煙になります」
全員が黙った。
煙。
散る。
広がる。
場所を持たないものになる。
灰色の線には、それが危ない。
「水で洗うのも駄目か」
リナが聞く。
「駄目です。水は通しやすい」
「じゃあ、どうするの」
アリアは少し考えた。
そして、ガルドを見る。
「木の粉はありますか」
「ある」
「乾いたものを」
「ああ」
ガルドがすぐに鍛冶場横の木屑袋を持ってきた。
細かい木の粉。
アリアはそれを布の上に薄く撒く。
灰色の汚れが、少しずつ木の粉に吸われていく。
色が鈍る。
動かない。
声もしない。
クロは不満そうに鼻を鳴らした。
「くすぐったい?」
トトが聞く。
クロは目を逸らす。
「くすぐったいんだ」
クロはさらに目を逸らした。
リナが小さく笑う。
アリアも少しだけ表情を緩めた。
「この木の粉ごと、封じます。名前はつけません。二十三番棚には置かない方がいい」
「なぜ」
エルナが聞く。
「灰色の金具と近づけない方がいいからです」
「別保管ですね」
「はい」
エルナは帳面に書く。
「灰色付着布。別保管。木粉封じ。名称未設定」
ガルドが言う。
「また名前なしが増えたな」
「増えました」
アリアが答える。
「でも、場所は必要です」
伊織はその言葉を聞いていた。
名前はない。
場所はある。
第70話から続いているルールが、さらに増えていく。
複雑だ。
だが、必要だった。
この町は、危険を名前で呼ばずに、場所で覚えようとしている。
それは、逃げではない。
呼ばれないための知恵だ。
◆
夕方。
食堂の壁には、新しい板が馴染み始めていた。
色は少し違う。
周囲の古い板より明るい。
そこだけが新しい傷のように見える。
縄は、その上に掛かっている。
今朝よりも、少し安定して見えた。
ガルドは壁の下に座り、茶を飲んでいた。
珍しく黙っている。
トトが少し離れて座っている。
木片を握ったまま、縄を見ている。
ニコはその横で記録帳を開いていた。
エルナの帳面ではない。
ニコ自身の記録帳だ。
字はまだ少し硬い。
でも、止まっていない。
伊織は食堂の外、扉の横に立っていた。
中の音が聞こえる。
鍋。
皿。
茶を注ぐ音。
トトの小さな声。
クロの鼻息。
アリアが扉を開けて出てきた。
手には、畳んだ布がある。
「冷えます」
「またか」
「左手ではありません」
「じゃあ何だ」
アリアは伊織の左肩を見る。
「肩です」
「大げさだ」
「縫っています」
「少しだ」
「少し縫う、という表現はありません」
伊織は黙った。
アリアは少しだけ満足したように見えた。
「巻き直しても?」
「リナは」
「許可を取りました」
「エルナは」
「記録済みです」
「ガルドは」
「余計なことを言うので、聞いていません」
伊織は少しだけ息を吐いた。
「なら、頼む」
アリアは伊織の左肩に布を当てた。
右手は使わない。
左手だけ。
器用ではない。
だが、慎重だった。
伊織は動かなかった。
アリアの指が、布越しに肩の近くを通る。
触れている。
それだけだ。
なのに、食堂の音が少し遠くなる。
「昨日」
アリアが言った。
「クロが足を出した時、私は動きそうになりました」
「ああ」
「止められました」
「止めた」
「はい」
布を結ぶ指が、少しだけ止まる。
「少し、怖かったです」
「クロがか」
「クロが傷つくことも。私が触って、悪くすることも。見ているだけになることも」
伊織は何も言わなかった。
アリアは続ける。
「でも、止まれました」
「そうだな」
「皆がいたからです」
さっきと同じ言葉。
だが、今度は少し違って聞こえた。
「東さんが止めたからでもあります」
「俺は」
「止めました」
アリアの声は静かだった。
「だから、私は触らずに見られました」
伊織は食堂の中の音を聞く。
ガルドが何かを言い、トトが笑っている。
クロが鼻を鳴らす。
戻った場所の音。
「お前も俺を止める」
「はい」
「なら、同じだ」
アリアは布を結び終えた。
少しだけ不器用な結び目。
だが、ほどけない。
「同じ、ですか」
「ああ」
「なら、少し進みましたね」
「何が」
「私たちの止め方です」
伊織は答えなかった。
アリアも、それ以上は言わなかった。
食堂の中から、木片の音がした。
かん。
今度は誰も止めなかった。
伊織は壁の縄を見る。
新しい板。
戻った縄。
床の灰色の跡。
そのすべてが、同じ場所にある。
消えなかったもの。
隠さなかったもの。
名前をつけず、場所だけを残したもの。
ガルドが中から声を上げた。
「東、アリア。茶が冷めるぞ」
アリアが扉へ向かう。
伊織も続いた。
扉を開ける前に、アリアが一度だけ振り返った。
「東さん」
「ああ」
「昨日、撃たなかったこと」
「まだ言うのか」
「はい」
アリアは静かに言った。
「私は、覚えています」
伊織は黙った。
それをどう受け取ればいいのか、まだ分からない。
だが、悪くはなかった。
食堂の扉が開く。
音が返ってくる。
板を打った壁。
戻った縄。
その下で、ガルドが茶を飲んでいる。
トトの木片が、胸元で静かに揺れている。
クロは包帯の足を前に投げ出し、眠っているふりをしている。
エルナの帳面は閉じられていた。
ニコの記録帳は開いていた。
消えなかったものが、そこにあった。
隠さなかったものも。
戻らなかったものの話も。
全部が、食堂の壁の下に置かれていた。
名前はない。
けれど、場所はある。
だから、誰も見失わなかった。




