第71話 南宿再訪
南へ延びる街道は、朝から乾いていた。
装甲車の太い車輪が土を押し固め、細かな砂を後ろへ巻き上げていく。
荷台には薬箱と工具、東部で得た記録の写し、壊れた音具の残骸が積まれている。
トトは一番奥に座っていた。
首から下げた木片を、服の上から押さえている。
ニコは町に残った。
エルナが持ち出さない記録を守り、留守中の出来事を書き留めるためだ。
別れ際、ニコはトトへ言った。
帰ってきた時の音を、忘れないで。
トトは木片を鳴らさずに頷いた。
まだ出発の音ではない。
戻った時に鳴らす。
そう決めたらしい。
クロは装甲車の前方に伏せていた。
左前足にはまだ薄く包帯が残る。
それでも、鼻は休んでいない。
風が変わるたびに顔を上げ、街道の先と両脇の草地を交互に嗅いでいる。
伊織はクロの後ろに座っていた。
右手は固定具の中。
左肩には、動くたび鈍い痛みが走る。
出発前に具現した黒鋼警棒は、以前より長く形を保った。
完全ではない。
だが、左手の中で崩れなかった。
クロが近くにいたからか。
単に身体が慣れ始めただけか。
まだ分からない。
「東さん」
向かいに座るアリアが言った。
「肩を動かしましたね」
「揺れただけだ」
「自分で動かしたように見えました」
「道が悪い」
操縦席のガルドが振り返る。
「俺の運転に文句があるなら歩け」
「道の話だ」
「なら先に道へ言え」
リナが薬箱の上から伊織を見る。
「どちらでも構いません。肩を動かさないでください」
「二人とも聞こえてるか」
ヴォルフが壁にもたれたまま言った。
「怪我人が一番偉そうにしてるぞ」
「お前は寝てろ」
「起きてる方が楽なんだ」
「年寄りの言い訳だな」
「若い怪我人よりましだ」
トトが小さく笑う。
食堂を離れても、こういう声は変わらなかった。
装甲車の低い振動。
工具の触れ合う音。
クロの爪が床を掻く音。
その全部が突然止まった。
クロが立ち上がった。
耳ではなく、鼻が街道の左側を向いている。
低い唸り。
ガルドがすぐに速度を落とす。
「何だ」
クロは答えない。
装甲車の前方へ移動し、鼻先を床板へ向けた。
次に右。
再び左。
最後に正面。
「止めろ」
伊織が言った。
ガルドが迷わず制動をかける。
装甲車は乾いた音を立てて止まった。
直後。
街道の中央が跳ね上がった。
土を突き破って、三本の鉄杭が突き出す。
止まっていなければ、前輪の中央を貫いていた。
トトが息を呑む。
リナが即座にトトを荷台の奥へ下げた。
「罠か」
ガルドが操縦席から降りる。
伊織も立つ。
左肩が痛む。
無視する。
「降りないでください」
リナが言う。
「車内にいた方が狙われる」
「だからといって怪我が治るわけではありません」
「あとで聞く」
「毎回それですね」
アリアが左手で双剣の片方を抜いた。
右手は吊ったまま。
一本だけでも、構えに迷いはない。
ヴォルフは骨刃を担ぐ。
ガルドは大斧ではなく、荷台から短い鉄棒を取った。
「街道の両側だ」
伊織が言う。
「三つ」
クロが短く吠えた。
一度。
それから、右を向いて二度。
「四つか」
伊織が言い直す。
クロが鼻を鳴らす。
草むらが動いた。
出てきたのは獣だった。
狼ほどの大きさ。
だが、生き物ではない。
胴は薄い鉄板で覆われ、四肢には細い歯車が露出している。
頭部には目の代わりに白い石が一つ。
顎からは、鋸のような歯が並んでいた。
一体。
右から二体。
正面の崩れた道標の陰から、もう一体。
合計四体。
「機構のものです」
アリアが言った。
「知っているのか」
「旧式の路上警戒獣です。ただし、本国の現行型ではありません」
「誰かが掘り出したか」
「あるいは、組み直した」
四体の鉄獣が同時に姿勢を低くする。
首元に、同じ金具が付いていた。
白い樹。
根を囲う二重の輪。
外側の輪だけが、荒く削られている。
「長老会の紋じゃねえな」
ヴォルフが言った。
「元は同じです」
アリアの声が硬くなる。
「でも、使う側が違う」
鉄獣が走った。
一体目が正面から飛びかかる。
伊織は左手を開いた。
黒い粒子が指の間に集まる。
拳銃。
形を取ろうとして、銃身が揺れた。
左肩に痛みが走る。
間に合わない。
伊織は形を切り替える。
黒鋼警棒。
短い棒が左手へ落ちる。
一歩踏み込み、鉄獣の顎を横から打った。
鈍い衝撃。
顎が逸れる。
鉄の牙が伊織の肩口を掠めた。
「東さん!」
アリアの剣が下から走る。
鉄獣の前脚、その関節へ刃が入る。
完全には切れない。
だが、歯車が噛み、動きが止まる。
伊織は警棒を返した。
首元の金具を打つ。
一撃。
白い石の光が消えた。
鉄獣が地面へ崩れる。
右から来た二体目を、ガルドの鉄棒が迎えた。
胴を殴るのではない。
前脚の間へ差し込み、体勢ごと持ち上げる。
「こいつ、軽いぞ!」
「中が空洞です!」
アリアが叫ぶ。
「核は首です!」
「先に言え!」
ガルドが鉄獣を横へ投げる。
ヴォルフの骨刃が落ちた。
刃は胴を割らず、首元の金具だけを断つ。
鉄獣が一度痙攣し、動かなくなる。
三体目が装甲車の後方へ回った。
狙いはトトだった。
リナが車内でトトを伏せさせる。
アリアが反転する。
間に合わない。
クロが走った。
左前足を庇っているとは思えない速さだった。
鉄獣はクロへ顎を向ける。
クロは正面からぶつからない。
地面すれすれまで身体を沈め、鉄獣の横を抜ける。
牙が空を噛む。
クロは後脚側へ回り、露出した細い歯車へ体当たりした。
噛まない。
金属の胴へ、肩からぶつかる。
歯車が一つ外れた。
鉄獣の後脚が沈む。
その動きは、偶然ではなかった。
クロは壊れやすい場所を選んだ。
伊織は左手の警棒を消す。
黒い粒子がほどける。
もう一度、形を呼ぶ。
拳銃。
SATで何度も握った短銃。
右手なら迷わない重量。
今は左手。
銃把が掌へ落ちる。
今度は崩れなかった。
クロが鉄獣の後ろから外れる。
命じる前に。
伊織の射線を知っているように。
照準。
首元の金具。
肩が揺れる。
銃口がわずかに上がる。
クロが一度吠えた。
伊織は銃口を下げる。
発砲。
黒鋼の弾丸が、首元の金具を撃ち抜いた。
鉄獣が崩れる。
クロはもう次を見ていた。
最後の一体。
正面の道標に隠れていた個体は、こちらへ走ってこなかった。
口が開く。
顎の奥から、細い筒がせり出す。
「伏せろ!」
伊織が叫ぶ。
黒い針が射出された。
アリアが身を沈める。
ガルドが地面へ転がる。
針は装甲車の側板へ当たり、金属音を立てて弾かれた。
二本目。
狙いはアリア。
伊織は左手を開き直す。
拳銃を維持したままでは間に合わない。
具現を崩す。
黒い粒子が広がる。
板状に集まる。
小型のアイギス・プレート。
完全な盾ではない。
左腕を隠す程度の幅。
縁も欠けている。
伊織はアリアの前へ差し出した。
黒い針が盾へ刺さる。
衝撃が左肩へ抜けた。
視界が一瞬白くなる。
膝が落ちる。
「東さん!」
「見るな。前だ」
鉄獣が三本目を装填している。
クロが道標へ走る。
速い。
だが、正面からは行かない。
草地へ回り込み、風下へ入る。
鼻を地面へ向けたまま、鉄獣の背後を取る。
そして吠えた。
一度。
低く。
伊織には意味が分かった。
首ではない。
もっと下。
「右の前脚です!」
アリアが同じ場所を見つける。
鉄獣の右前脚。その付け根に、他の個体にはなかった小さな箱がある。
射出機構の制御部。
伊織は盾を消した。
左肩に熱が残る。
黒鋼の拳銃をもう一度呼ぶ。
三度目。
輪郭が乱れる。
だが、クロが制御部の横へ回った瞬間、銃身が固まった。
照準。
クロが射線から外れる。
発砲。
小さな箱が砕けた。
鉄獣の口から、装填途中の針が落ちる。
アリアが踏み込んだ。
左手の剣を首元へ突き込む。
金具の隙間。
一度捻る。
白い石が割れた。
鉄獣は前脚から崩れた。
街道に静けさが戻る。
焦げた金属の匂い。
装甲車の側板に刺さった針。
土の中から突き出した三本の鉄杭。
リナが車内から降りてきた。
伊織の前へ立つ。
何も言わない。
左肩を見る。
次に伊織の顔を見る。
「動いたのは道のせいですか」
「今のは違う」
「正直なのが腹立たしいです」
リナは包帯袋を開ける。
「座ってください」
「まだ確認が」
「ガルドさんがします」
「俺に丸投げするな」
ガルドはそう言いながら、壊れた鉄獣の横へしゃがんだ。
首元の紋を布越しに外す。
「外の輪だけ削ってやがる」
「本国の命令ではないと示したいんでしょう」
エルナが言った。
「それとも、そう見せたいだけか」
ヴォルフが骨刃を拭う。
アリアは針の制御箱を見る。
「旧式ですが、部品は新しいです」
「都で組んだものか」
伊織が聞く。
「判断できません。ただ、この道を私たちが通ると知っていた者がいる」
「召喚状を届けた側か」
「それを見た側かもしれません」
エルザはここにいない。
召喚状を渡し、町を離れた。
あの女が漏らしたのか。
別の誰かが見ていたのか。
今は判断できない。
クロが壊れた鉄獣を順番に嗅ぐ。
最後に、伊織が撃ち抜いた制御箱へ鼻を近づけた。
それから、伊織を見る。
背の鋼色の縞が、朝より濃く見えた。
一本の途切れた線が、わずかに先へ伸びている。
「クロ」
アリアが気づいた。
クロは鼻を鳴らす。
何も起きていない。
そう言うように、装甲車へ戻っていく。
伊織は左手を見る。
拳銃はもう消えている。
三度具現した。
肩は痛む。
だが、最後の一発が一番安定していた。
クロが射線を外れた瞬間に。
「記録しますか」
エルナがアリアへ聞く。
アリアは少し考えた。
「鉄獣の構造と紋だけを」
「クロの変化は?」
「まだ、見ただけです」
エルナは頷いた。
伊織も何も言わなかった。
分からないことを、先に決める必要はない。
◆
南宿へ着いたのは、日が傾く前だった。
以前と同じ木の柵。
低い屋根。
軒先に吊られた乾燥薬草。
入口の横には、欠けた水瓶が置かれている。
装甲車の音を聞きつけ、ミルダが宿から飛び出してきた。
「遅い!」
挨拶ではなかった。
ミルダは荷台へ近づき、最初にアリアの右手を見た。
次に伊織の固定具。
クロの包帯。
最後に、後方側板へ刺さった黒い針。
「何を拾ってきたの」
「拾ってない」
ガルドが答える。
「向こうから来た」
「もっと悪いわね」
ミルダは宿の奥へ向かって叫ぶ。
「先生! 怪我人が増えてる!」
「増やしたのはそいつらだろう」
奥から薬師の声が返る。
灰色の髪を後ろで束ねた老人が姿を見せた。
伊織たちを見渡し、深いため息をつく。
「前よりひどい顔になって戻ってきたな」
「元からだ」
ヴォルフが言った。
薬師の目がヴォルフで止まる。
「お前も来たのか」
「悪いか」
「悪くはない。面倒だ」
「よく言われる」
「昔から変わらんな」
二人の間に、古い何かがある。
だが、薬師はそれ以上を言わなかった。
「中へ入れ。報告書を読む前に傷を見る」
「先に報告書を」
アリアが言う。
「傷口に文字を貼っても治らん」
「ですが」
「右手を上げろ」
「上がりません」
「なら、なおさら先だ」
ミルダがアリアの背を押す。
「諦めなさい。先生はこういう時だけ強いから」
「こういう時以外も強い」
「はいはい」
宿の食堂へ通され、伊織とアリアとクロは順番に傷を見られた。
伊織の左肩は開いてはいなかった。
ただ、内側で熱を持っている。
「今日はもう出すな」
薬師が言った。
「何を」
「鉄だ」
「見ていたのか」
「肩を触れば分かる」
薬師は包帯を巻き直す。
「右が使えないから左を使う。左が壊れたら、次はどこから出すつもりだ」
伊織は答えなかった。
「考えていなかった顔だな」
「必要なら考える」
「壊れてから考える奴が一番面倒だ」
向かいでは、ミルダがクロの左前足を見ている。
クロは嫌そうな顔をしているが、足を引かなかった。
「少し良くなってる」
ミルダが言う。
「でも、今日走ったでしょ」
クロが顔を逸らす。
「走ったのね」
もう一度逸らす。
「誰に似たのかしら」
全員の視線が伊織へ向いた。
「俺を見るな」
◆
日が落ちてから、報告書が運ばれてきた。
ミルダが床板の一部を外し、その下から細長い木箱を取り出す。
木箱には鍵がない。
代わりに、三本の革紐が異なる結び方で巻かれている。
ドレイスから届いた筒と同じ結びが、一つ混じっていた。
「預かった時から、このまま」
ミルダが言う。
「誰も開けていない?」
エルナが聞く。
「先生と私が一度ずつ確認した。でも、最後までは読んでない」
「なぜ」
「最初の頁に書いてあったから」
ミルダは木箱をアリアの前へ置く。
「一人で読むな、って」
アリアの左手が止まる。
伊織は周囲を見る。
伊織。
アリア。
ガルド。
リナ。
エルナ。
ヴォルフ。
ミルダ。
薬師。
トト。
クロ。
一人ではない。
「開けます」
アリアが革紐を解く。
中には、厚い紙束が入っていた。
表紙に題はない。
署名もない。
紙の端は水に濡れた跡があり、一部が波打っている。
エルナが最初の頁を開く。
文字は細かい。
途中から筆圧が強くなり、所々に別の筆跡で補足が入っている。
「東の山水路に設置された機構は、単独では動作しない」
エルナが読み上げる。
「本体ではないということか」
ガルドが言う。
「続けます」
エルナの指が文字を追う。
「観測した歯車は、東側に敷設された外部節。目的は、水脈および地脈を通じた状態の伝達」
「何を伝える」
伊織が聞く。
「固定状況。通行状態。接触者の有無」
アリアの顔が硬くなる。
「私たちは、見つかった」
「おそらく」
エルナは次の頁をめくる。
「外部節は、接触者一名を基準点として記録する性質を持つ。複数名での接近時、基準の固定は遅延する」
「一人では来るな、はそれか」
伊織が言う。
「はい」
「全員で読めというのも?」
「報告書そのものにも、同じ処理が施されている可能性があります」
トトが周囲を見る。
「みんなで見たら、大丈夫?」
「一人よりは」
アリアが答える。
その言い方に、薬師が少し笑う。
「正直だな」
「断言できません」
「断言する奴より信用できる」
エルナは読み進める。
東の機構へ近づく際の注意。
水へ名前を告げないこと。
同じ音を三度鳴らさないこと。
単独で楔へ触れないこと。
外側から戻る振動を確かめること。
そして、途中に一枚の図面が挟まれていた。
細長い楔。
先端は二つに割れている。
中央には、音を受ける小さな輪。
ガルドが身を乗り出す。
「これが音具か」
「違います」
アリアが図面を見る。
「音を受けるだけではない。打ち込んだ先から返すためのものです」
「還しの鉄」
ヴォルフが言った。
全員が彼を見る。
「その形を知っているのか」
伊織が聞く。
「似たものを見た」
「どこで」
「都だ」
短い答え。
それ以上は言わない。
エルナが最後の頁をめくる。
白紙だった。
文字がない。
水濡れの跡もない。
ただ、中央に楔の図が一つだけ描かれている。
先ほどの図面より簡略化されていた。
楔。
線。
打点を示す、小さな黒い丸。
その下に一行。
エルナが読む。
「還る線は、打つ場所を選ぶ」
ガルドが図面を見つめる。
「打ち込めば止まる、じゃねえのか」
「場所を間違えれば」
アリアが言う。
「止めるどころか、こちらへ呼ぶ」
宿の食堂に沈黙が落ちる。
還しの鉄。
戻すための道具。
だが、打つ場所を誤れば、呼ぶための楔になる。
ヴォルフが持っていた小さな鉄片。
彼が語らなかった過去。
都にいる鍛人。
アルドが遺したかもしれない図面。
全部が、白い都へ続いている。
「この図面を持っていく」
ガルドが言った。
「写しを作ります」
エルナが答える。
「原本は?」
ミルダが聞く。
「ここに残してください」
アリアは白紙の頁を見たまま言った。
「持っていくのは写しだけにします」
「賛成だ」
伊織が言う。
「途中で奪われても、全部は渡らない」
ガルドが薬師を見る。
「還しの鉄を打てる奴は、本当に都にいるんだな」
薬師は答えなかった。
代わりにヴォルフを見る。
ヴォルフも視線を返す。
二人の間に、言葉にしない確認があった。
「いる」
薬師がようやく言った。
「腕は落ちていないのか」
「鉄を持たなくなっただけで、腕まで消えはせん」
「頼めば打つか」
「打たん」
「金か」
「金で動く男なら、今頃もっとましな場所にいる」
「なら、何が要る」
薬師は白紙の図面へ目を落とした。
次に、ヴォルフの布で覆われた片目を見る。
「殴られる覚悟だ」
ガルドがヴォルフを見る。
「やっぱり、お前も来い」
「都までは行かねえ」
「まだ言ってんのか」
「言ってる」
薬師が低く息を吐く。
「還しの鉄を打てる鍛人は、都に一人しかいない」
その声は、宿の古い梁へ静かに返った。
「そして、もう二度と打たないと決めた男だ」




