第71話 戻った縄の夜
夜の食堂は、昼とは別の場所に見えた。
椅子は机の下に収まり、皿は棚に伏せられている。
厨房の火は落とされ、鍋の匂いだけが薄く残っていた。
昼間は人の声で満ちていた場所に、今は木の軋む音と、遠い風の音だけがある。
壁には、ガルドの縄が掛かっていた。
黒く噛まれた痕。
擦れた繊維。
金具の通った深い傷。
切れてはいない。
だから、そこにある。
縄の前には、椅子が一つ置かれていた。
そこにガルドが座っている。
大きな体を深く沈め、腕を組み、目を閉じている。
眠っているように見えた。
だが、眠っていない。
伊織には分かった。
あれは、耳で見ている姿勢だ。
その横に、門番が二人。
少し離れた卓には、エルナが帳面を置いて座っている。
筆と墨。
水差しはない。
代わりに、乾いた布が三枚置かれていた。
二十三番棚、下段。
灰色の金具を収めた箱は、食堂の奥の記録棚にある。
木箱。
布。
棚番号だけ。
名前はない。
伊織は食堂の奥、壁際の椅子に座っていた。
左肩には包帯。
縫った傷が、体をひねるたびに痛む。
右手は固定具の中で重い。
左手は膝の上。
見張りではない。
座っているだけ。
そう言われた。
「見張りではありません」
リナが言った。
食堂の入口側に立っている。
腕を組み、伊織を見ている。
「座っているだけです」
「見えている」
「見張りではありません」
「同じだろ」
「違います」
リナの声は即答だった。
アリアが伊織の隣に座っている。
右手は布で吊ったまま。
薄紫の瞳は、壁の縄ではなく、記録棚の方へ向いていた。
クロはアリアの足元で伏せている。
左前足に巻いた包帯が白い。
眠っていない。
鼻先が、時々床へ動く。
食堂の床。
縄の下。
何もない場所。
そこを、何度も嗅いでいる。
伊織はそれを見ていた。
「クロが落ち着かないな」
「はい」
アリアも見ていた。
「縄ではなく、床を見ています」
「何かあるのか」
「まだありません」
「まだ、か」
「はい」
アリアは短く答えた。
それ以上は言わなかった。
読む気はない。
今は、見ているだけだ。
伊織もそれ以上は聞かなかった。
ガルドが目を閉じたまま言う。
「東」
「ああ」
「お前、本当に座ってるだけだな」
「そうしろと言われた」
「言われて聞くようになったか」
「少しは」
「気持ち悪いな」
「うるさい」
門番の一人が小さく笑いかけ、すぐに口を閉じた。
笑える空気ではない。
だが、笑いが完全に消える場所でもない。
それが、この食堂らしかった。
エルナが帳面から顔を上げる。
「見張り開始から、半刻経過。灰色の金具、反応なし。縄、変化なし。クロ、床を警戒」
「犬の様子まで書くのか」
ガルドが聞く。
「必要です」
「犬じゃないと怒られるぞ」
「では、クロ」
エルナは書き直した。
クロが鼻を鳴らした。
伊織は少しだけ口元を動かした。
アリアも、ほんのわずかに表情を緩めた。
その時だった。
記録棚の奥で、小さな音がした。
かちり。
全員の呼吸が、止まった。
ガルドの目が開く。
門番の手が腰の短剣に触れる。
リナが一歩、アリアの前へ出ようとして、止まる。
伊織は動かない。
動こうとした左手を、膝の上で止めた。
アリアが低く言う。
「まだです」
灰色の金具は、箱の中にある。
見えない。
だが、音は聞こえた。
かちり。
二度目。
クロが起き上がる。
縄を見ていない。
床を見ている。
縄の下。
壁と床の境目。
そこに、まだ何もない場所を見ている。
エルナが筆を取る。
手は震えていない。
「反応開始。棚内より金属音、二回」
「書くのか」
門番が小さく言った。
「書きます」
エルナは視線を動かさずに言った。
「怖い時ほど、記録します」
その声に、昼間よりも力があった。
かちり。
三度目。
壁の縄が、わずかに揺れた。
風はない。
誰も触れていない。
ガルドが立ち上がろうとする。
伊織が低く言った。
「まだだ」
「俺の縄だ」
「だから動くな」
ガルドの顎が硬くなる。
だが、止まった。
アリアが縄を見る。
目が濃くなる。
けれど、右手は動かさない。
魔力も通さない。
ただ、見ている。
縄の影が、床に落ちていた。
その影の端が、少しだけ伸びた。
影ではない。
細い灰色の線だった。
床板の隙間に沿うように、壁から一筋、這い出してくる。
音はない。
水の匂いもない。
ただ、冷えた鉄の気配だけがあった。
クロが唸る。
低く、喉の奥で。
アリアがクロの首に左手を置いた。
「まだです」
クロは動かない。
だが、牙を見せている。
灰色の線は、縄の影から床へ伸びた。
真っ直ぐではない。
探るように、左右へ揺れる。
道を作っているのではない。
道を探している。
伊織は息を浅くした。
灰色の線が、椅子の脚に触れた。
何も起きない。
次に、床の傷へ触れた。
食堂の古い傷。
前に椅子を引きずった跡。
何も起きない。
線は、さらに伸びる。
ガルドの縄から床へ。
床から、食堂の中央へ。
そして、入口の方へ。
町の方へ。
エルナが息を吸う。
「これは」
「道を作っていません」
アリアが言った。
声は細いが、通った。
「道を探しています」
ガルドの目が縄に戻る。
「俺の縄を使ってか」
「はい」
アリアは頷いた。
「戻ったものを通じて、戻った場所を測っています」
その言葉が落ちた瞬間、灰色の線が一度止まった。
聞いていたようだった。
アリアは続けた。
「東の山水路の本体ではありません」
灰色の線を見る。
「ですが、あれを知っている者の線です」
食堂の空気が、さらに冷えた。
黒い歯車本体ではない。
だが、無関係ではない。
山の奥にあったものを、誰かが知っている。
誰かが真似ている。
誰かが、ここへ通そうとしている。
エルナの筆が走る。
「戻った物品を通じ、戻った場所を探る」
伊織は言った。
「町の名前を書くな」
エルナの筆が止まる。
「はい」
彼女は書き直さなかった。
ただ、町の名前だけを空白にした。
灰色の線が、また動く。
今度は速い。
床板の隙間を走る。
入口へ向かう。
門番の一人が短剣を抜きかけた。
「斬るな!」
伊織が言った。
門番が止まる。
「斬れば、そこが線になる」
アリアが続けた。
門番の顔が青ざめる。
灰色の線は、門番の足元を避けるように曲がった。
生き物のようだった。
ガルドが椅子を蹴った。
音が大きく鳴る。
その音に、灰色の線が一瞬だけ止まる。
ガルドは縄の前に立った。
大きな背中が、壁の縄を隠す。
「戻った縄だ」
低い声だった。
「通り道じゃねえ」
灰色の線が、ガルドの足元へ向きを変える。
リナが叫ぶ。
「踏まないで!」
「踏まねえ」
ガルドは一歩も動かない。
だが、退かない。
線はガルドの影に触れた。
影が、裂けるように揺れる。
実体ではない。
だが、見ているだけで気分が悪くなる。
アリアの顔色が白くなった。
伊織は椅子の縁を掴んだ。
立つな。
今立てば、全員の視線が乱れる。
自分が前へ出ることが、正しいとは限らない。
灰色の線が、ガルドの靴先に触れようとする。
その瞬間、クロが動いた。
「クロ!」
アリアの声が飛ぶ。
クロは吠えなかった。
走りもしなかった。
包帯の巻かれた左前足を、床へ一歩置いた。
クロの包帯が、床板に触れた。
白い布の端が、灰色に染まる。
それでも、クロは足を引かなかった。
かん。
小さな音がした。
木ではない。
金属でもない。
トトの木片が鳴る音に、少しだけ似ていた。
灰色の線が止まる。
クロの足元で、床板の隙間に噛み込むように止まった。
クロの体が震える。
痛みではない。
冷えだ。
アリアが立ち上がりかける。
伊織が先に言った。
「アリア、待て」
アリアは止まる。
苦しそうな顔だった。
クロは振り返らない。
左前足で、床を押さえている。
灰色の線は、その先へ進まない。
だが、消えもしない。
声がした。
「どこへ戻った」
前より近い。
壁ではない。
床でもない。
食堂全体の木の中から、染み出すような声だった。
「どこへ戻った」
二度目。
ガルドの喉が動く。
答えそうになった。
自分の縄を呼ばれている。
戻った縄。
戻った場所。
それを問われている。
エルナが帳面を閉じた。
乾いた音がした。
「答えない」
強い声だった。
「帳面にも、返事は書きません」
ガルドは歯を噛んだ。
だが、黙った。
門番二人も黙った。
リナも。
アリアも。
伊織も。
クロだけが、床を踏んでいる。
声が変わった。
「名を」
灰色の線が震える。
「場所を」
エルナが帳面を押さえる。
伊織の右手が冷えた。
ここで銃は違う。
撃てば、音が出る。
音は返事になるかもしれない。
刃も違う。
切れば、切り口が線になる。
壊すな。
壊せば、向こうに場所を渡す。
歯を壊すのとは違う。
これは、壊した場所そのものが答えになる。
「壊すな」
伊織が言った。
「今は、止めるだけだ」
ガルドが低く笑った。
「職人に壊すなってのは、厳しい注文だな」
「直す方が得意だろ」
「言うじゃねえか」
ガルドは壁に手を当てた。
縄ではない。
縄の掛かった壁の板。
その板を、大きな手で押さえる。
「ここは食堂だ」
ガルドの声が、低く響く。
「荷置き場じゃねえ。通路でもねえ。戻った奴が飯を食う場所だ」
灰色の線が、細く震える。
「通らせねえ」
ガルドが壁を押さえたまま、足を踏み込む。
床が鳴った。
重い音。
かん、ではない。
ごん、と腹に響く音。
クロの足元の線が、少しだけ薄くなる。
アリアが息を吸った。
「線が揺らいでいます」
「何をすればいい」
伊織が聞く。
「音を重ねないでください。強い音は駄目です。小さい音を、同じ場所に」
リナがすぐに動いた。
棚から木の匙を取る。
エルナが帳面の端を指で叩く。
門番の一人が、短剣を鞘へ戻し、木の鞘尻で床を軽く叩いた。
小さな音。
ばらばらの音。
だが、同じ場所へ集まる。
クロの足元。
灰色の線が止まっている場所。
かん。
こつ。
とん。
小さな音が重なる。
アリアが左手を胸元に置いた。
魔力は出していない。
ただ、呼吸を合わせている。
伊織は椅子に座ったまま、左手で卓を一度だけ叩いた。
こつ。
音が重なる。
食堂の音。
山水路の底にはなかった音。
誰か一人の返事ではない。
場所の音だった。
灰色の線が、さらに薄くなる。
声が歪んだ。
「どこへ――」
クロが、もう一度床を踏んだ。
かん。
今度は、はっきり鳴った。
灰色の線が切れた。
切れたのではない。
ほどけた。
床板の隙間へ、薄い灰のように沈んで消えた。
同時に、記録棚の奥で何かが小さく転がる音がした。
かたん。
灰色の金具だ。
声は消えた。
縄は壁に掛かったまま。
ガルドの手の下で、わずかに揺れていた。
誰もすぐには動かなかった。
動けば、また線が戻るような気がした。
クロがようやく足を上げた。
包帯に、薄い灰色の汚れがついている。
アリアが膝をつく。
今度は、リナも止めなかった。
アリアはクロの足に触れようとして、止まる。
右手ではない。
左手でも、すぐには触らない。
まず、見る。
「熱はありません」
リナが横から布を差し出す。
「冷えは?」
「あります」
アリアの声が少し震えた。
伊織は立ち上がろうとして、肩の痛みに一瞬止まる。
だが、立った。
リナが見た。
「終わってからにしてください」
「終わった」
「まだです」
その通りだった。
エルナが帳面を開く。
筆を取る。
今度は、手が少し震えていた。
それでも書く。
「夜間反応。発話内容『どこへ戻った』。返答なし。戻った物品を通じ、戻った場所を探索。ガルドの縄を起点。クロが床面で進行を停止。複数の小音により線消失」
エルナはそこで止まった。
伊織を見る。
「町の名は」
「書くな」
「はい」
エルナは空白を残した。
空白のまま、次の行へ進む。
「対策。縄の下の床板補強。記録棚の二重封。夜間交代見張り継続」
ガルドが壁から手を離した。
縄を見上げる。
それから、低く言った。
「明日、縄の下に板を打つ」
「壁ごとか」
伊織が聞く。
「ああ」
ガルドは縄を見たまま答えた。
「壁ごと守る」
その声には、いつもの軽さがなかった。
戻った縄は、見せるために掛けられた。
今夜からは、守るものになった。
アリアはクロの足を布で包みながら、ガルドを見た。
「一人で守らないでください」
ガルドは少しだけ眉を上げる。
「言うと思った」
「言います」
「俺の縄だ」
「はい」
アリアは頷いた。
「でも、この場所の縄でもあります」
ガルドは黙った。
そして、短く笑った。
「面倒なことを言うな」
「東さんに似ましたか」
「そいつは重症だ」
伊織は返さなかった。
アリアも小さく笑った。
ほんの一瞬。
だが、見えた。
リナがクロの包帯を替える。
クロは嫌そうにしているが、逃げない。
門番の一人が深く息を吐いた。
「今の、誰に報告すればいいんですか」
「全員です」
エルナが言った。
「ただし、町の名前は出しません」
「難しいですね」
「難しいから、記録します」
エルナは帳面を閉じた。
◆
見張りは続いた。
ガルドは縄の前に残った。
今度は、門番二人だけではない。
エルナも残る。
リナはクロの処置を終えてから、食堂の入口に椅子を置いた。
アリアはクロの横に座った。
伊織はその隣に座らされた。
「横並びですね」
アリアが言った。
「座らされた」
「私もです」
「クロもだな」
クロは鼻を鳴らした。
不満そうだが、動く気はないらしい。
伊織は壁の縄を見る。
ガルドがその前に座っている。
大きな背中。
傷んだ縄。
食堂の壁。
その三つが、同じ線上にある。
今夜、敵は場所を探った。
人ではなく、戻ったものを使って。
次は、別のものを使うかもしれない。
戻った皿。
戻った木片。
戻った者。
考えれば、いくらでもある。
伊織の右手が冷える。
だが、今は銃ではない。
撃つ相手は、まだいない。
守るものだけが、見えている。
アリアが小さく言った。
「撃たなかったんですね」
「ああ」
「壊さなかった」
「ああ」
「座っていました」
「座らされた」
「それでも、です」
アリアは縄を見ている。
「必要な判断でした」
「分からない」
「私は、そう思います」
伊織は黙った。
アリアの横顔を見る。
薄紫の瞳に、食堂の灯りが映っている。
山の水でも、灰色の線でもない。
灯りだ。
伊織は視線を戻す。
「お前も読まなかった」
「はい」
「触らなかった」
「はい」
「それで止めた」
アリアが少しだけ目を伏せた。
「皆がいたからです」
「そうだな」
「それを、忘れないようにします」
伊織は短く頷いた。
クロが二人の間で鼻を鳴らす。
眠そうだった。
けれど、耳だけは縄の方を向いている。
エルナが帳面の最後に一行を書いた。
声には出さなかった。
伊織には文字が見えた。
ひとりで答えない。
その下に、少し間を空けて、もう一行。
ひとりで守らない。
伊織はその文字を見ていた。
誰も、山の話をしていない。
それでも、東の山水路で学んだことが、ここに戻ってきていた。
食堂の灯りは落とされなかった。
ガルドの縄は、壁に残った。
灰色の金具は、棚の奥で沈黙している。
町の名は、どこにも書かれなかった。
それでも全員が、その場所を知っていた。
ここだ。
誰も口にしなかった。
言わなくても、守る場所は分かっていた。




