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第70話 還しの鉄

 使える音具は、一つも残っていなかった。


 ガルドが食堂の長机に並べたのは、道具ではない。


 道具だったものだ。


 割れた薄板。


 曲がった打ち棒。


 黒く焼けた小さな輪。


 亀裂の入った筒。


 留め具だけになった金具。


 東の山水路へ持ち込んだ音具は、帰還後に一度すべて分解された。


 水が染みていないか。


 黒い線が残っていないか。


 外から見えない場所までガルドが確かめた。


 その結果が、これだった。


「全滅だ」


 ガルドが言った。


 朝の食堂には、まだ客が入っていない。


 長机を囲んでいるのは、伊織、アリア、リナ、エルナ、ガルド、ヴォルフ。


 少し離れた場所にトトとニコ。


 クロは机の下を歩き、並べられた破片を順番に嗅いでいる。


 不用意に鼻先を触れさせない。


 一つ嗅ぐたびに少し下がる。


 山水路へ入る前とは、嗅ぎ方が変わっていた。


 以前なら、気になるものへ真っ先に鼻を寄せていた。


 今は違う。


 距離を取る。


 匂いを分ける。


 危険なものと、壊れているだけのものを見極めようとしている。


「修理は」


 エルナが尋ねた。


「無理だ」


 ガルドは、亀裂の入った筒を指で転がした。


「形だけ戻しても、中で音が割れる。割れた音を水路で鳴らしたら、何に返事するか分からねえ」


「材料としては?」


「普通の鉄に戻すなら使える」


「音具には戻せない?」


「戻せねえ」


 ガルドの答えは短かった。


 トトが首から下がった木片を握る。


「ぼくのは?」


 ガルドは木片を見た。


「それは音具じゃねえ」


「鳴るよ」


「鳴るものが全部、音具ってわけじゃねえんだ」


「じゃあ、何?」


 ガルドが少し困った顔をした。


 アリアが代わりに答える。


「あなたが、戻ってきたことを知らせるものです」


「道具じゃないの?」


「道具でもあります。でも、それだけではありません」


 トトは木片を持ち上げた。


 傷のある木片。


 水路へ持っていき、戻ってきたもの。


「これで、また聞けない?」


 アリアはすぐには答えなかった。


 ガルドも黙る。


 伊織はトトの手を見る。


 音具は必要だ。


 黒い歯車本体へもう一度向かうなら、なおさらだった。


 だが、トトの木片を削り、金具を付け、戦うための道具に変える。


 その考えには、引っかかるものがある。


「そのまま使うな」


 伊織が言った。


 トトが伊織を見る。


「駄目?」


「壊れる」


「でも、音具がないんでしょ」


「ああ」


「じゃあ、ぼくのがある」


「それは最後まで、お前のまま残せ」


 トトは木片を握った。


 完全には納得していない。


 だが、手放そうとはしなかった。


 ガルドが頭をかく。


「木片そのものをいじる必要はねえ」


 全員がガルドを見る。


「枠を作る」


「枠?」


 ニコが聞いた。


「こいつを削らず、穴も開けず、外側へ音を拾う枠を付ける。取り外せるようにな」


 ガルドは指で四角を作った。


「木片が鳴った時、その震えだけを別の鉄へ渡す。鉄の方で、返ってきた音を聞く」


「作れるのか」


 伊織が聞く。


「今ある鉄じゃ無理だ」


「結局、材料なしか」


「普通の鉄ならな」


 ガルドが並べた破片の一つを摘まむ。


 黒く焼けた小さな輪。


 指先で弾く。


 硬い音がした。


 きん。


 音は広がった。


 天井へ。


 壁へ。


 床へ。


 クロの耳が動く。


 だが、クロは輪を見なかった。


 机の右端を見る。


 遅れて、そこに置かれた薄板が震えた。


 かすかな響き。


 クロは低く鼻を鳴らした。


「何だ」


 ガルドが薄板を見る。


「今の音、あっちへ移ったぞ」


「残っていた線です」


 アリアが言った。


 立ち上がらない。


 触れない。


 薄紫の瞳だけを、黒い輪から薄板へ移す。


「輪の亀裂から出た振動が、以前つながっていた薄板へ戻りました」


「使えるか?」


「いいえ」


 答えは早い。


「戻る場所が固定されています。新しい音を聞く道具にはなりません」


 ガルドが舌打ちする。


「壊れてるくせに、昔の相手だけ覚えてやがる」


「道具ってのは、そういうもんだ」


 壁際から声がした。


 ヴォルフだった。


 老人は昨夜と同じ席にいる。


 召喚状の封蝋を見て口を開いてから、ほとんど何も話していない。


 朝も、茶を飲んでいるだけだった。


 ヴォルフは骨刃を壁へ立てかけたまま、机の上の破片を見ていた。


「直したつもりでも、前の癖が残る」


 ガルドが眉を寄せる。


「何か知ってるなら、最初から言え」


「聞かれてねえ」


「昨日から聞いてる」


「紋の話だろ」


「今は鉄の話だ」


「同じ話だ」


 ヴォルフは茶碗を置いた。


 ゆっくり立ち上がる。


 骨刃は持たない。


 長机へ近づき、黒く焼けた輪の前で止まる。


 触れずに見た。


「こいつは駄目だ」


「見れば分かる」


「お前の分かる駄目と、俺の言ってる駄目は違う」


「面倒な爺さんだな」


「年を取ると、面倒になる」


 ヴォルフは腰の革袋へ左手を入れた。


 取り出したのは、小さな鉄片だった。


 爪ほどの大きさ。


 色は鈍い灰色。


 黒くもなく、銀色でもない。


 薄く曲がっている。


 刃でも金具でもない。


 何かから欠けた破片のように見えた。


 ヴォルフはそれを、長机の何もない場所へ置いた。


「ガルド」


「何だ」


「叩け」


「壊れても知らねえぞ」


「壊せるならな」


 ガルドが打ち棒を取る。


 強くは叩かなかった。


 鉄片の端へ、軽く落とす。


 こん。


 音は小さかった。


 食堂へ広がらない。


 天井にも届かない。


 壁にも返らない。


 打ち棒を持ったガルドの指だけが、わずかに震えた。


 ガルドが動きを止める。


「何だ、今の」


「もう一度だ」


 ガルドが叩く。


 こん。


 再び、音は机の上から消えた。


 代わりに、ガルドの手へ戻る。


 打ち棒を通じて。


 叩いた本人にだけ。


 クロが机の下から出てきた。


 鉄片の前には行かない。


 ガルドの手を嗅ぐ。


 それから鉄片へ鼻を向けた。


 低く一度鳴く。


 伊織はその動きを見る。


 クロは音が鳴った場所ではなく、戻った場所を見ている。


「今のが」


 アリアの声が少し変わった。


「知っているのか」


 伊織が聞く。


「資料でだけです」


 アリアは灰色の鉄片を見た。


「打った音を外へ散らさず、打ち手へ返す鉄」


 ヴォルフが言う。


「還しの鉄だ」


 食堂が静かになった。


 トトが小さく口を開ける。


「かえしの、てつ」


「ああ」


「帰るの?」


「音がな」


 ヴォルフは鉄片を摘まんだ。


「叩いた奴へ戻る。余所へ広がらねえ。水にも、壁にも、知らねえ何かにも渡しにくい」


 ガルドの顔が職人のものへ変わっていた。


「どう打つ」


「知らん」


「嘘つけ」


「俺は鍛人じゃねえ」


「持ってるだろ」


「持ってることと、作れることは別だ」


「どこで手に入れた」


 ヴォルフの指が止まった。


 ほんの一瞬。


「白い都だ」


 召喚状。


 シルヴェイン本国。


 白い樹の紋。


 話がつながった。


 ガルドが鉄片を見つめる。


「都に、これを打てる奴がいるのか」


「いた」


「過去形か」


「生きてはいる」


「なら、いるだろ」


「もう打たねえ」


「何で」


 ヴォルフは答えなかった。


 ガルドが一歩詰める。


「何で打たねえ」


「打った鉄が、戻すためじゃなく、呼ぶために使われた」


 アリアの視線が上がる。


「いつの話ですか」


「昔だ」


「アルドと関係がありますか」


 ヴォルフはアリアを見た。


 片目だけで。


「ある」


 短い答えだった。


 アリアの左手が膝の上で握られる。


「父は、その鍛人を知っていた?」


「知っていた」


「還しの鉄を使った?」


「それ以上は、本人に聞け」


「本人は話すんですか」


「知らん」


「あなたなら、話させられる?」


「俺が行けば、殴られる」


 ガルドが鼻で笑った。


「それだけのことした顔だな」


「そうかもな」


 ヴォルフは否定しなかった。


 布に覆われた片目へ、誰の視線も一度だけ集まる。


 だが、誰も聞かなかった。


 今聞いても、答えない。


 それが分かった。


 エルナが机の破片を数える。


「この鉄があれば、音具を作り直せますか」


 ヴォルフはガルドを見る。


「腕次第だ」


「俺に振るな。打ち方を知らねえ」


「鍛人に打たせろ。その後はお前の仕事だ」


 ガルドは還しの鉄を睨む。


 敵を見る目ではない。


 難しい材料を見る目だ。


「トトの木片は削らねえ」


「ああ」


「外枠だけ作る」


「好きにしろ」


「音を外へ渡さず、持ってる奴に戻す」


「できるならな」


「言ったな」


 ガルドの口元が少しだけ上がる。


「作ってやる」


 トトが木片を握ったまま、ガルドを見る。


「壊さない?」


「壊さねえ」


「穴も開けない?」


「開けねえ」


「黒くしない?」


「それは鉄次第だ」


「黒いのは格好いいよ」


「注文が増えたな」


 トトが少し笑った。


 食堂の空気が、わずかに緩む。


 伊織はヴォルフを見る。


「同行するのか」


「都へか」


「ああ」


「行かねえ」


 即答だった。


 ガルドが顔をしかめる。


「お前がいなきゃ、鍛人が話さねえかもしれねえだろ」


「俺がいるから話さねえかもしれん」


「どっちだ」


「知らん」


「役に立たねえな」


「よく言われる」


 ヴォルフは還しの鉄を革袋へ戻した。


 だが、席へは戻らなかった。


 召喚状の封蝋を見る。


「白い都へ入るなら、気をつけろ」


「何に」


 伊織が聞く。


「閉じてる奴は、外から来たものを怖がる」


「珍しい話ではない」


「違う」


 ヴォルフは割れた樹の紋を指した。


「あそこは、外を怖がって閉じたんじゃねえ」


「なら、何を」


「中にあるものを、外へ出さねえためだ」


 誰もすぐには言葉を返さなかった。


 白い樹。


 根を囲む二重の輪。


 守るための紋ではない。


 閉じ込めるための輪にも見えた。


「何がある」


 伊織が聞く。


「大樹」


 ヴォルフは言った。


「機構」


「他には」


「鍛人」


「それだけか」


 ヴォルフの片目が細くなる。


「それを確かめに行くんだろ」


 答えになっていなかった。


 だが、今はそれ以上追わなかった。



 出発は二日後に決まった。


 十二日後の召喚期限。


 南宿を経由して八日。


 余裕は多くない。


 食堂では、旅支度が始まった。


 リナは薬と包帯を分ける。


 エルナは東部での調査記録を、持ち出すものと残すものに分ける。


 ガルドは音具の残骸から、再利用できる留め具だけを外している。


 アリアは召喚状を布で包み、報告書の写しと別の鞄へ入れた。


 伊織は右手を開こうとする。


 薬指は動かない。


 他の指も、以前ほど素直ではない。


 左手なら具現できる。


 だが、左肩の傷がある。


 大型のものは出さない。


 必要以上に数えない。


 分かっている。


 分かっていても、出発前には確認しなければならない。


 伊織は食堂裏へ出た。


 クロがついてくる。


 訓練用に立てられた古い板。


 中央に、何度も打撃を受けた跡がある。


 伊織は左手を開いた。


 黒い粒子が集まる。


 拳銃。


 形になりかける。


 右手で握り慣れた重量が、左へ落ちる。


 銃身が半分まで現れたところで、輪郭が揺れた。


 崩れる。


 伊織は握り込む。


 消える前に、形を変える。


 短い黒鋼警棒。


 拳銃より単純な形。


 左手の中に収まる。


 完全ではない。


 表面に薄い欠けがある。


 それでも、使える。


 伊織は板へ踏み込んだ。


 右足を前へ出す。


 腰を回す。


 左の警棒を、板の端へ打ち込む。


 鈍い音。


 板が揺れた。


 左肩に痛みが返る。


 伊織は二撃目を止めた。


 クロが板の右側へ回る。


 壊れた木の匂いを嗅ぎ、伊織を見る。


「まだだ」


 クロが鼻を鳴らす。


「分かってる」


 もう一度鼻を鳴らす。


「二度言うな」


 背後から足音がした。


 リナではない。


 アリアだった。


 右手を吊ったまま、食堂裏の戸口に立っている。


「何も言いません」


「そうか」


「ただ、見ています」


「それが一番面倒だ」


「具現は一回だけですか」


「ああ」


「警棒への変更を含めると、二回です」


 伊織は答えなかった。


 アリアは伊織の左手を見る。


 黒鋼警棒はまだ残っている。


 完全ではない。


 だが、以前より崩れ方が遅い。


「左手の具現が安定しています」


「少しだけな」


「クロが近くにいたからでしょうか」


 伊織はクロを見る。


 クロは板の前に座っている。


 背の鋼色の縞は、まだ途切れている。


「分からない」


「私も分かりません」


「なら、決めつけるな」


「記録もしません」


 アリアはそう言った。


 だが、見ている。


 伊織が警棒を消すまで。


 クロが伊織の左手を嗅ぐまで。


 何も言わずに。



 出発の朝。


 食堂の前には、荷が積まれていた。


 薬。


 布。


 記録。


 工具。


 音具の残骸。


 トトの木片を入れるための、まだ空の木枠。


 ヴォルフは結局、同行するとも、しないとも言っていない。


 朝から姿も見せていなかった。


「逃げたな」


 ガルドが言った。


「聞こえてるぞ」


 装甲車の反対側から声がした。


 ヴォルフが現れる。


 骨刃を背負い、旅装をしていた。


 ガルドが眉を上げる。


「行かねえんじゃなかったのか」


「南宿までだ」


「都には?」


「行かねえ」


「鍛人は」


「そこまで生きて着いたら考える」


「縁起でもねえな」


 ヴォルフは答えず、荷台へ骨刃を置いた。


 その時、北門の方から馬が一頭走ってきた。


 騎手は門番だった。


 手に、細長い筒を持っている。


「エルナさん!」


 エルナが前へ出る。


 門番は馬から降り、筒を差し出した。


「夜明け前、門の外に置かれていたそうです。差出人なし。見張りは誰も気づかなかったと」


 エルナは直接受け取らない。


 布を広げ、その上へ筒を置かせる。


 封蝋はない。


 紋もない。


 ただ、筒の口に細い革紐が三重に巻かれている。


 エルナの顔が変わった。


「知っているのか」


 伊織が聞く。


「外縁管理局の緊急記録に使う結び方です」


「誰からだ」


「名はありません」


「誰かは分かる?」


 トトが尋ねる。


 エルナは革紐を見る。


「おそらく」


 名前は言わなかった。


 ドレイス。


 全員が同じ男を思い浮かべていた。


 エルナが紐を解く。


 筒の中から、折り畳まれた紙が一枚出てきた。


 文字は少ない。


 差出地なし。


 署名なし。


 エルナが読み上げる。


「審問は、罠ではない」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「信用できねえ書き出しだな」


 エルナは次の行を見る。


 声が少し低くなる。


「だが、罠に使う者はいる」


 誰も口を挟まなかった。


 さらに下。


「南宿を経由しろ」


 その次。


「保管中の報告書は、全員で読め」


 最後の一行。


 エルナの指が止まった。


「一人では来るな」


 風が、食堂前を通り抜けた。


 誰も名前を呼ばなかった。


 だが、その一文を書いた男が誰なのかは分かった。


 伊織は装甲車を見る。


 南宿。


 報告書の続き。


 還しの鉄。


 白い都。


 閉じた場所の中にあるもの。


 行く理由は、また一つ増えた。


 アリアが紙を見たまま言う。


「出ましょう」


「ああ」


 伊織は答えた。


 クロが装甲車へ先に乗る。


 トトの木片が、胸元で小さく揺れた。


 まだ鳴らない。


 聞くための鉄も、まだない。


 それでも、一行は出発した。


 戻ってきた音を、次は失わないために。


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