第70話 名前をつけないもの
灰色の金具は、記録棚の前に置かれていた。
布の上。
水から離れた卓。
窓は閉められている。
近くに水差しもない。
エルナがそう決めた。
決めたあとで、リナがもう一度確認した。
アリアは触れていない。
伊織も触れていない。
ガルドは触れたそうな顔をしていたが、両腕を組んで我慢していた。
ヴォルフは壁に背を預けている。
クロはアリアの足元に座っている。
左前足には包帯。
それでも、鼻だけは灰色の金具へ向いていた。
ニコは帳面を持っていた。
いつもより背筋が伸びている。
トトは来るなと言われたのに、食堂の入口から半分だけ顔を出していた。
首には木片。
胸元で揺れるたび、ニコの目がそちらへ行く。
「トト」
ニコが言った。
「入ってない」
「顔は入ってる」
「顔だけ」
「顔も駄目」
トトは不満そうに引っ込んだ。
すぐ、もう半分だけ顔を出した。
「見てるだけ」
「だから駄目」
「触らない」
「昨日それで何回止められたと思ってるの」
ガルドが小さく鼻を鳴らした。
食堂の空気は張っている。
それでも、トトとニコのやり取りだけが少しだけ隙間を作っていた。
伊織は卓の上を見る。
灰色の金具。
輪の形。
焼きの入っていない、鈍い色。
青ではない。
黒でもない。
戻る色でも、噛ませる色でもない。
色を持たない金具。
内側には、細い擦れ跡がある。
ただの傷ではない。
何かを通した跡。
アリアはその前に立っていた。
右手は布で吊ったまま。
左手は外套の端を握っている。
薄紫の瞳が、わずかに濃い。
だが、手は出さない。
読むのではない。
見ている。
覚えているものと違うかどうかだけを、確かめている。
エルナが帳面を開いた。
「名称」
そこで筆が止まった。
全員が、灰色の金具を見た。
名前。
その一文字だけで、空気が変わる。
東の山水路で、名前は呼び先になった。
声は記憶から形を借りた。
返事は戻る線をほどいた。
名のない鉄片は、名前がないから声に渡せた。
今、目の前にあるこれは逆だ。
名前をつければ、それを呼ぶものが出るかもしれない。
エルナは筆を止めたまま、伊織を見た。
「帳面には、何と」
「名前をつけるな」
伊織が言った。
「記録には必要です」
「名前ではなく、色と形で書け」
エルナは一度、灰色の金具を見た。
「灰色の金具」
「ああ」
「それは名前では」
「違う。まだ、ただの色と形だ」
エルナは少し考えた。
それから、帳面に書く。
灰色の金具。
その字が書かれるあいだ、誰も喋らなかった。
筆の音だけがした。
アリアが静かに言う。
「名を与えると、呼びやすくなります」
ニコの手が帳面の端を握る。
「呼びやすく」
「はい」
アリアは金具を見たまま続けた。
「名のない鉄片は、声に噛ませるためのものでした。何も返さないよりはまし、という粗い道具です」
ガルドが眉を寄せる。
「粗いって、お前らを戻した道具だろ」
「はい」
アリアは頷いた。
「だから、粗いままでよかったのだと思います」
老人の言葉が、伊織の中に戻ってくる。
名のない音は、作るものじゃない。残すものだ。
灰色の金具は違う。
これは、残っていたものではない。
誰かが、作った。
何かを通すために。
ヴォルフが顎を上げる。
「そいつは、山水路のものか」
アリアはすぐには答えなかった。
灰色の金具を見る。
息を整える。
「違います」
リナが小さく息を吐いた。
安心ではない。
別の不安だ。
「東の山水路の楔とは、線の向きが違います。あれは戻るためのもの。これは、通すためのものです」
「通すってのは、矢をか」
ガルドが聞く。
「矢だけとは限りません」
エルナの筆が止まる。
「ほかに何を通すのですか」
アリアは首を横に振った。
「まだ分かりません。ただ、これは本体ではありません」
「本体?」
「黒い歯車の、本体ではありません」
伊織はアリアを見る。
アリアは続けた。
「でも、似せています」
食堂の音が遠くなる。
厨房の鍋の音。
外の足音。
誰かが扉の前で立ち止まる気配。
全部ある。
それなのに、卓の上だけが冷えていく。
ガルドが低く言った。
「誰かが真似たってことか」
「そう見えます」
ヴォルフが笑わなかった。
「嫌な話だな」
「誰が」
ニコが言った。
声が少しだけ震えている。
「誰が、こんなものを町へ」
伊織は答えなかった。
答えを急げば、名前になる。
名前をつければ、そこへ向かってしまう。
今は、向かわない。
まず、ここにあるものを逃がさない。
エルナが帳面に書き足す。
黒い歯車本体ではない。
同系統の模倣の可能性。
通過の線。
名称未設定。
夜間開封禁止。
水場から隔離。
触れる者を限定。
「触れる者は」
エルナが聞いた。
ガルドが即座に言う。
「俺」
「駄目です」
アリアとリナが同時に言った。
ガルドは不満そうに二人を見る。
「なんでだ」
「分解しそうだからです」
リナが答える。
「しねえよ」
沈黙。
ヴォルフが鼻で笑った。
「お前、する顔だぞ」
「お前に言われたくねえ」
エルナは筆を持ったまま、淡々と言う。
「触れる者は、私とガルド。ただしガルドは分解禁止。布越しのみ。夜間は触れない」
「書くな、そんなこと」
「必要です」
エルナは書いた。
ガルドが頭を掻く。
伊織はそれを見ながら、灰色の金具から目を離さなかった。
クロが低く唸った。
全員の視線がクロへ向く。
クロは金具を見ていない。
壁を見ていた。
食堂の壁。
そこに掛かっている、ガルドの縄。
戻った縄。
黒く噛まれ、擦れ、切れずに戻った縄。
伊織の背筋が冷える。
「クロ」
アリアが呼ぶ。
クロは反応した。
けれど、視線は縄から離れない。
ガルドが縄を見る。
「なんだ」
その時、棚の中で小さな音がした。
かちり。
誰も触れていない。
灰色の金具が、布の上でわずかに震えていた。
エルナが筆を止める。
リナがアリアの前へ半歩出る。
ヴォルフの手が骨刃に伸びる。
ガルドが縄へ向かいかける。
伊織が言った。
「動くな」
全員が止まった。
クロだけが唸り続けている。
灰色の金具が、もう一度鳴った。
かちり。
その音は、食堂の音に混じらなかった。
浮いていた。
水の底で聞いた音に似ている。
だが、水の匂いはない。
声がした。
「戻ったか」
小さい声だった。
御者が聞いた声と同じ言葉。
だが、今度は近い。
卓の上ではない。
棚の中でもない。
壁の方からだった。
ガルドの縄が、ほんのわずかに揺れていた。
誰も息をしなかった。
トトが入口で目を見開いている。
ニコがすぐにトトの前へ立った。
木片が、トトの胸元で小さく揺れる。
アリアが息を吸った。
声に返さないための、短い呼吸。
「人を呼んでいるのではありません」
アリアが言った。
声は静かだった。
「戻ったものを、探しています」
ガルドの顔が変わった。
怒りではない。
恐れでもない。
縄を見る職人の顔だ。
「俺の縄か」
「はい」
アリアは頷いた。
「あの水に噛まれ、それでも切れずに戻ったものです。だから、見つけられたのかもしれません」
伊織は灰色の金具を見る。
通過の線。
一度だけ何かを通す線。
その線が、戻ったものに反応している。
町へ入ってきた火種は、人を狙っているだけではない。
戻った証に触れようとしている。
ガルドが一歩、壁へ向かった。
伊織が止める。
「外すな」
「見られてるんだぞ」
「外せば、持ち出せる」
「持ち出す?」
「向こうが」
ガルドの足が止まった。
灰色の金具がまた震える。
今度は音にならない。
布の上で、わずかに回ろうとしていた。
エルナが帳面を閉じかける。
伊織が言う。
「書け」
「今ですか」
「今だ」
エルナは筆を取った。
手が震えている。
それでも、筆先は落ちない。
「何を」
「呼称対象、人ではない可能性」
エルナが書く。
「戻った物品に反応」
アリアが続けた。
エルナが書く。
「夜間反応の危険、増大」
リナが言う。
エルナが書く。
ヴォルフが低く笑った。
「いいな。怖い時ほど帳面か」
「怖い時ほど、記録します」
エルナは筆を止めなかった。
「あとで誰かが、同じ間違いをしないように」
その言葉に、伊織は少しだけ目を動かした。
ミルダとは違う。
だが、同じ強さがある。
町の危険は、町の帳面に残す。
そういう人間がここにもいる。
灰色の金具が、ぴたりと止まった。
声も消えた。
ガルドの縄は、まだ壁にある。
揺れも止まっていた。
クロは唸るのをやめない。
アリアがクロの頭に左手を置く。
「もう少しだけ、見ていてください」
クロは鼻を鳴らした。
嫌だと言っているようだった。
それでも、縄から目を離さなかった。
◆
灰色の金具は、記録棚の奥へ移された。
布で包み、さらに木箱に入れた。
木箱には名前を書かない。
ただ、棚の番号だけをつける。
エルナが決めた。
「二十三番棚、下段」
「それは名前じゃないの」
トトが入口から言った。
ニコが睨む。
「まだいたの」
「いるだけ」
「帰って」
「ここ食堂だよ」
「今は記録棚です」
「食堂なのに?」
ニコが言葉に詰まった。
エルナが言う。
「トト」
「はい」
「今見たことを、面白い話にしない」
トトの表情が少し変わった。
叱られた顔ではない。
大事なことを渡された顔だった。
「名前をつけない?」
「そう」
「灰色のやつって言うのは?」
「駄目」
「二十三番棚の下のやつ」
「それも、外では言わない」
トトは考え込んだ。
「じゃあ、言わない」
「そうして」
エルナは頷いた。
ニコが少しだけ驚いてトトを見る。
トトは木片を握る。
「ぼくの木片は、トトの木片でいいんだよね」
アリアが答えた。
「はい。それは、あなたのものです」
「名前があると危ないんじゃないの?」
その問いに、誰もすぐ答えなかった。
アリアは少しだけ考えた。
「危ないものもあります」
「じゃあ、これは?」
「それは、戻る場所を間違えないための名前です」
トトは木片を見る。
まだ分かっていない顔だった。
だが、木片をぎゅっと握った。
「じゃあ、落とさない」
「はい」
伊織はその会話を聞いていた。
名前は全部が危ないわけではない。
呼ぶための名前。
奪うための名前。
帰るための名前。
同じものではない。
東の山水路で、声は名前を奪おうとした。
ここでは、名前が戻る場所を示すこともある。
伊織は左手を開いた。
何も握っていない。
だが、空いている。
銃を出すためではない。
誰かを止めるためでもない。
必要な時に、必要なものを渡すための手だ。
リナが伊織を見る。
「座ってください」
「今からか」
「今からです」
「もう終わった」
「終わった人は座ります」
ヴォルフが笑った。
「名言だな」
「あなたもです」
「俺もか」
「あなたもです」
ヴォルフは諦めたように椅子へ向かった。
ガルドだけが、壁の縄の前に立っていた。
縄を見る。
灰色の金具の箱を見る。
また縄を見る。
エルナが帳面を閉じる。
「ガルド」
「ああ」
「夜は、見張りを置きます」
「俺が見る」
「一人では」
「分かってる」
ガルドは椅子を引いた。
縄の前に置く。
どっしりと座った。
「なら、今夜は俺がここにいる」
伊織が言った。
「寝ろ」
「お前にだけは言われたくねえ」
「見張りは交代だ」
ガルドは伊織を見る。
「お前は入れねえ」
「なぜだ」
「肩」
リナが即座に頷いた。
「正しいです」
アリアも、少し遅れて頷いた。
「反論できません」
ヴォルフが鼻で笑う。
「珍しく正しいな」
「お前ら」
伊織は全員を見た。
誰も目を逸らさなかった。
ニコまで頷いている。
トトも頷いている。
クロも鼻を鳴らした。
伊織は黙った。
これ以上言っても無駄だ。
ガルドが縄の前で腕を組む。
「戻った縄は、俺のだ」
「返した」
「ああ。だから俺が見る」
ガルドは壁を見たまま言った。
「こいつがまた呼ばれるなら、最初に聞くのは俺でいい」
アリアが口を開きかけた。
けれど、言わなかった。
一人では行かない。
それは誰かの役目を奪うことではない。
誰かが立つ場所を、全員で囲むことだ。
エルナが帳面を開き直した。
「夜間見張り。第一番、ガルド。第二番、門番二名。第三番、エルナ」
「お前もか」
ガルドが言う。
「帳面の持ち主です」
「寝ろ」
「交代です」
「頑固だな」
「あなたほどではありません」
ガルドは少しだけ笑った。
重い空気が、少しだけ動いた。
食堂の奥で、鍋の音が戻る。
皿の音も戻る。
誰かが注文を聞き直す声。
トトがニコに追い返される声。
クロが縄の方を見ながら、低く鼻を鳴らす音。
食堂は、止まらなかった。
灰色の金具が来ても。
戻った縄が呼ばれても。
町は、完全には黙らない。
伊織は席に座った。
左肩が痛む。
右手はまだ重い。
左手は空いている。
アリアが隣に座る。
右手を布で吊ったまま、壁の縄を見る。
「名前をつけないものが、増えました」
「そうだな」
「でも、記録は残ります」
「ああ」
「なら、消えません」
伊織は返事をしなかった。
壁の縄を見た。
戻った縄。
呼ばれた縄。
今夜、誰かがそれを見ている。
灰色の金具は、記録棚の奥にある。
名前はない。
だが、場所はある。
それで十分だとは、言わなかった。
食堂の音の中で、伊織はただ、その場所を覚えた。




