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第69話 戻った町の火種

 朝の食堂に、縄が掛かっていた。


 ガルドの縄だ。


 東の山水路へ持っていき、戻ってきた縄。


 黒く噛まれた痕があり、金具の通った部分が深く擦れている。


 切れてはいない。


 だから、壁に掛けられていた。


 食堂に入る者は、まずそれを見る。


 見てから、見なかった顔をする。


 それでも、視線は一度そこへ行く。


 伊織は壁際の席に座り、左手で水を飲んでいた。


 右手は固定具の中。


 左肩は縫ったばかりで、体をひねると糸が引いた。


 食堂の朝は騒がしい。


 鍋の音。


 皿の音。


 パンを割る音。


 トトが何かを落としてニコに怒られる声。


 クロが床に置かれた皿へ鼻を近づけ、アリアに「待て」と言われて止まる音。


 全部、返ってくる音だった。


 東の山水路の底では、音が返らなかった。


 ここでは返る。


 それだけで、場所は違う。


 アリアは左手で匙を持っていた。


 右手はまだ布で吊っている。


 器用ではない。


 何度か粥をこぼしそうになり、そのたびにニコが手を出しかける。


 だが、出さない。


 アリアが自分で整える。


 リナがその様子を見ながら、布を畳んでいた。


「熱は」


 伊織が聞いた。


 アリアは匙を止める。


「少しだけ残っています」


「痛みは」


「あります」


 リナが頷いた。


「よろしい」


「痛みがあるのに、よろしいのですか」


 アリアが聞く。


「隠さないのが、です」


 アリアは少しだけ困った顔をした。


 クロがその顔を見て、鼻を鳴らす。


 トトが首から下げた木片を揺らしながら、クロの横にしゃがむ。


「クロも痛い?」


 クロは目を逸らした。


「痛いんだ」


 クロはさらに目を逸らした。


 ニコが厨房から顔を出す。


「トト、クロの包帯を触らない」


「触ってない」


「触ろうとしてた」


「まだしてない」


「まだ、は駄目」


 トトは頬を膨らませた。


 木片が胸元で揺れる。


 その小さな音に、伊織の目が一瞬だけ動いた。


 名のある木片。


 名のない鉄片とは違うもの。


 戻ってきたもの。


 伊織は水を置いた。


 食堂の扉が開いたのは、その時だった。


 風が入る。


 砂の匂い。


 鉄の匂い。


 それから、焦げた木の匂い。


 ガルドが入ってきた。


 いつもの無骨な顔だ。


 だが、片手に持っているものが違った。


 折れた矢だ。


 矢羽が半分焼けている。


 軸には黒い筋が走っていた。


 食堂の音が、ひとつ遅れて薄くなる。


 伊織は立ち上がらなかった。


 左肩が疼く。


 だが、目だけは矢を見ていた。


 ガルドは壁の縄を見上げ、それから伊織の卓へ来た。


「戻ったばかりで悪い」


「悪いと思ってない顔だ」


「思ってる」


「なら座れ」


「座ってる場合じゃねえ」


 ガルドは折れた矢を卓に置いた。


 木の卓に、乾いた音がした。


 返ってきた。


 だが、嫌な音だった。


 アリアが矢を見る。


 リナが立ち上がる。


 ヴォルフはまだ食堂の奥にいたが、その気配が変わった。


 クロが低く唸る。


 伊織は矢に触れない。


「どこで拾った」


「北門の外。荷馬車の側板に刺さってた」


「誰の」


「野菜を運んできた南側の農家だ。御者は生きてる。腕を擦っただけだ」


「襲撃か」


「違う」


 ガルドの声が低くなる。


「撃った奴がいねえ」


 ヴォルフが奥から出てきた。


 腕に布を巻いている。


 痛むはずだが、顔には出さない。


「見えなかっただけじゃねえのか」


「違う」


 ガルドは折れた矢を指で示す。


「こいつは、荷馬車の内側から刺さってた」


 ニコが息を止める。


 トトが木片を握る。


 アリアの瞳が、わずかに濃くなった。


「内側から」


 リナが言った。


「荷物の中から飛んだのですか」


「そう見える」


 ガルドは伊織を見る。


「荷は、普通の木箱だった。中身は芋と布と修理用の金具。だが、箱の底にこれがあった」


 ガルドはもう一つ、布に包んだものを取り出した。


 小さな金具。


 輪の形をしている。


 青くない。


 黒くもない。


 色がない。


 焼きの入っていない、鈍い灰色。


 伊織は見た瞬間、息を浅くした。


 金具の内側に、細い線が刻まれている。


 線というより、擦れた跡。


 だが、ただの傷ではない。


 水路で見た線に似ていた。


 戻る線ではない。


 何かを通す線だ。


 アリアも気づいた。


「東さん」


「ああ」


 伊織は短く答えた。


 ガルドが眉を寄せる。


「見覚えがあるのか」


「似たものを見た」


「山か」


「ああ」


 食堂の空気が重くなる。


 昨日までの山の気配が、町の卓の上に置かれた。


 リナがすぐ言った。


「アリアさんは動けません」


「分かってる」


 伊織が答える。


「東さんもです」


「分かってる」


「分かっている顔ではありません」


 リナの声は鋭い。


 アリアが左手で器を押さえた。


「私も、行くとは言っていません」


 リナがアリアを見る。


「言う前に止めています」


「はい」


 アリアは頷いた。


 その素直さに、ヴォルフが少しだけ笑う。


 だが、すぐに折れた矢へ視線を戻した。


「で、誰が動く」


「俺が見に行く」


 ガルドが言った。


「北門だ。俺の町だ」


「一人で行くな」


 伊織が言った。


 ガルドの目が、少しだけ細くなる。


「お前に言われるとはな」


「俺も言われた」


 食堂の奥で、ニコが小さく頷いた。


 トトも頷いた。


 クロも鼻を鳴らした。


 ガルドは黙った。


 それから、壁の縄を見た。


 昨日まで山にあった縄。


 今は食堂の壁にある縄。


 戻れるものがあると、若い奴に見せる。


 そう言ったのはガルド自身だった。


「分かった」


 ガルドは言った。


「一人では行かねえ」


 伊織は立ち上がった。


 左肩が引く。


 リナの視線が刺さる。


「座ってください」


「北門までだ」


「距離の問題ではありません」


「現場を見る」


「見るだけで済む人は、その肩を縫われていません」


 伊織は黙った。


 正論だった。


 アリアが立ち上がろうとする。


 リナがそちらも見た。


「あなたもです」


「私は、見なくても分かることがあります」


「その手でですか」


 アリアは言葉に詰まった。


 右手の布を見る。


 熱は残っている。


 山水路のあと、まだ戻っていない。


 それでも、アリアは卓の上の灰色の金具を見た。


「触れません」


 静かに言った。


「読みもしません」


 リナが眉を寄せる。


 アリアは続ける。


「見ます。覚えているものと、違うかどうかだけ」


 伊織はアリアを見た。


 東の山水路で、アリアは父の印を読まなかった。


 覚えていた。


 読むことと、認識することを分けた。


 今も、それを使おうとしている。


 リナはしばらく黙った。


 それから、深く息を吐く。


「三分です」


「また三分か」


 ヴォルフが言った。


「あなたは二分です」


「なんで減った」


「腕です」


 ヴォルフは口を閉じた。


 トトが手を挙げる。


「ぼくは?」


「行きません」


 ニコとリナが同時に言った。


 トトは首の木片を握った。


「でも、これ」


「持っているだけ」


 伊織が言った。


 トトはむっとした顔をした。


「言ったの、そっちだよ」


「だからだ」


「ずるい」


「大人はだいたいずるい」


 ヴォルフが横から言う。


 ニコがヴォルフを睨む。


「変なこと教えないでください」


 食堂に、小さな笑いが起きた。


 だが、すぐに消えた。


 卓の上の折れた矢が、笑いを止めていた。



 北門へ向かう道は、いつもより人が少なかった。


 誰かが閉めたわけではない。


 ただ、人が避けている。


 町は、危険な場所をすぐに覚える。


 伊織は歩きながら、右手を動かそうとした。


 中指は少し動く。


 薬指は動かない。


 左肩は一歩ごとに痛む。


 銃は出さない。


 出せるかどうかも数えない。


 今、必要なのは現場を見ることだ。


 アリアは横にいる。


 リナもいる。


 ヴォルフは少し後ろ。


 ガルドが先頭。


 クロはアリアの足元だ。


 走らない。


 足を引きずりながらも、鼻は働いている。


 北門の外には、荷馬車が止まっていた。


 側板に穴が開いている。


 外からではない。


 内側から外へ、木がめくれていた。


 御者の男は腕に布を巻かれ、青い顔で座っている。


 エルナがいた。


 帳面を持っている。


 伊織を見ると、眉をひそめた。


「戻ったばかりでしょう」


「ああ」


「なぜここに」


「同じことをリナに言われた」


「なら戻りなさい」


「現場を見るだけだ」


 エルナはリナを見る。


 リナは無言で頷いた。


 三分、という意味だろう。


 エルナは息を吐いた。


「三分です」


 伊織はリナを見た。


「増えてないか」


「増えていません」


 アリアが小さく笑いそうになり、すぐに荷馬車へ視線を戻した。


 ガルドが側板を叩く。


「ここだ」


 伊織は穴を見る。


 木の割れ方。


 角度。


 矢の刺さった高さ。


 外へ向けて飛んでいる。


 箱の中からだ。


 だが、矢を撃つだけの空間はない。


 弓もない。


 機構も見当たらない。


 荷台には芋の箱が三つ。


 布の束が二つ。


 修理用の金具が入った小箱が一つ。


 灰色の金具は、その小箱の底にあったという。


 伊織は小箱を見る。


 触れずに、角度を変えて中を見る。


 底板の隅に、黒い粉のようなものがついていた。


 火薬ではない。


 焦げた鉄の匂い。


 クロが鼻を近づける。


 すぐに、低く唸った。


 アリアが身を屈める。


 リナが止めようとする前に、アリアは手を出さずに見るだけで止まった。


 薄紫の瞳が、少し濃くなる。


「戻る線ではありません」


 アリアが言った。


「東の山水路の楔とは違います」


「何だ」


「通過の線です」


「通過?」


「どこかから、どこかへ、一度だけ何かを通すための線です」


 エルナの顔が強張る。


「それは、町の中へ何かを通したという意味ですか」


 アリアは即答しなかった。


 灰色の金具を見る。


 荷台を見る。


 穴を見る。


 そして、小さく首を横に振った。


「まだ分かりません。ただ、これは戻るためのものではありません」


 伊織は荷台の穴を見た。


 矢は内側から外へ飛んだ。


 なら、町へ入るためではない。


 町の中から何かを出すためでもない。


 一度だけ何かを通す。


 矢が通った。


 では、矢を通したのは何か。


「御者」


 伊織が声をかけた。


 男がびくりとする。


「この荷はどこからだ」


「南側の農村です。いつもの荷です」


「積んだ時、箱は開けたか」


「芋は見ました。布も。金具の箱は、村の鍛冶屋が閉じたままで」


「途中で音は」


「ありません」


「声は」


 男の顔がさらに青くなった。


 エルナが顔を上げる。


 リナも見る。


「聞いたのか」


 伊織が聞く。


 男は喉を鳴らした。


「門の手前で、一度だけ」


「何と」


「……戻ったか、と」


 その場の空気が冷えた。


 アリアの左手が、右手の布を押さえる。


 クロが牙を見せる。


 ヴォルフが骨刃に触れようとして、リナに睨まれる。


 ガルドの目が、荷台から門へ移った。


 伊織は御者を見る。


「誰の声だ」


「分かりません。けど、近くでした。荷台の中みたいで」


「返事は」


「してません。怖くて」


「それでいい」


 伊織は言った。


 言ってから、一瞬だけ止まる。


 その言葉を使ったことに気づいた。


 だが、今は訂正しない。


 御者に必要な言葉だった。


「返事をしなかったなら、まだいい」


 アリアが補った。


 御者は震えながら頷いた。


 エルナが帳面に書く。


「荷台内より不明声。発話内容『戻ったか』。返答なし」


「エルナ」


 伊織が言う。


「この荷を誰にも触らせるな」


「すでに封鎖しています」


「町に同じ箱は」


「確認します」


 ガルドが灰色の金具を布で包む。


「こいつは俺が」


「駄目」


 アリアが言った。


 ガルドが止まる。


 アリアの声は強くなかった。


 だが、通った。


「それは、道具ではありません。まだ、役目が分かっていないものです」


「じゃあどうする」


 アリアはエルナを見る。


「記録棚へ。触る人を決めてください。布越しに、同じ向きで置く。水の近くへ置かない。名前をつけない」


 トトに言ったことと似ていた。


 伊織は黙って聞いていた。


 アリアはもう一つ付け加える。


「そして、夜に開けない」


 エルナの筆が止まる。


「夜に?」


「はい」


「理由は」


 アリアは灰色の金具を見た。


「夜の方が、返事をしやすいからです」


 誰も笑わなかった。


 エルナは帳面に書いた。


「夜間開封禁止」


 ガルドが低く言う。


「町に入ったな」


 伊織は門の内側を見る。


 町の音がある。


 鍛冶の音。


 子供の声。


 食堂の仕込みの音。


 戻った場所だ。


 そこに、山の奥に似たものが入ってきている。


 黒い歯車本体ではない。


 ゼクトそのものでもない。


 だが、火種だ。


 小さく、灰色の火種。


 伊織は息を吐いた。


「騒ぎにするな」


 エルナが頷く。


「分かっています」


「けど、隠すな」


「分かっています」


 エルナの声は硬い。


「町の危険は、町の帳面に残します」


 ミルダとは違う。


 だが、同じ種類の強さがあった。


 リナが伊織を見る。


「三分です」


「まだだ」


「三分です」


 アリアも伊織を見る。


「戻りましょう」


 伊織は灰色の金具を見る。


 見ていたい。


 もっと調べたい。


 だが、それをすると足が止まる。


 今ここで、自分が追うべきものではない。


 役目を渡す。


 伊織はエルナに言った。


「任せる」


 エルナは少しだけ驚いた顔をした。


 それから、真面目に頷く。


「任されました」


 ガルドが荷馬車の横に立つ。


「俺は残る」


「一人で残るな」


 伊織が言う。


「分かってる。門番と二人だ」


「三人にしろ」


 ヴォルフが言った。


「二人は喧嘩になる」


「お前が言うな」


 ガルドが返す。


 それでも、門番をもう一人呼ぶよう手を上げた。


 クロが荷台に向かって唸り続けている。


 アリアが呼ぶ。


「クロ」


 クロは少しだけ遅れて戻った。


 その遅れを、伊織は見た。


 クロも、何かを嗅いでいる。


 まだ終わっていない。


 だが、今日は追わない。



 食堂へ戻ると、ニコが入口で待っていた。


 トトは奥にいる。


 木片を握ったまま、厨房の隅に座らされている。


 ニコは伊織たちを見るなり、腕を組んだ。


「三分って聞きました」


「三分だった」


 ヴォルフが言う。


「嘘です」


「なんで分かる」


「顔です」


 ヴォルフは黙った。


 ニコは次に伊織を見る。


「座ってください」


「みんな同じことを言うな」


「言われることをするからです」


 伊織は反論しなかった。


 席に戻る。


 壁にはガルドの縄がある。


 朝よりも、少し違って見えた。


 戻った縄。


 町の中へ入ってきた火種。


 戻れるものと、通すもの。


 同じ金具でも、同じ線でも、意味が違う。


 アリアが席に座る。


 右手を押さえている。


 リナがすぐに布を替える。


「熱が上がっています」


「触ってはいません」


「見ただけで上がるなら、見すぎです」


「はい」


「はい、ではなく、休んでください」


「はい」


 ニコがそのやり取りを見て、少しだけ安心した顔をした。


 トトが木片を握ったまま、こちらを見る。


「何かあった?」


 誰もすぐには答えなかった。


 伊織はトトを見る。


 首の木片。


 小さな穴。


 名のあるもの。


 持っているだけのもの。


「まだ分からない」


 伊織は言った。


「でも、夜に名前を呼ぶな」


「またそれ?」


「まただ」


 トトは不満そうにした。


 だが、木片を服の中にしまった。


 ニコがそれを見届ける。


 食堂の中に、また音が戻ってきた。


 皿。


 鍋。


 誰かの足音。


 ガルドの縄が壁に掛かっている。


 その縄は、戻ったものの証だった。


 だが、町の外から戻ってきたものだけが、町へ入るわけではない。


 戻った町にも、火種は落ちる。


 伊織は左手を膝の上で開いた。


 銃は出さない。


 今ここで必要なのは、撃つことではなかった。


 見ること。


 渡すこと。


 座ること。


 そして、次に立つ時を間違えないこと。


 アリアが隣で言った。


「一人では行きません」


 伊織は壁の縄を見た。


 ガルドの縄。


 戻った縄。


 切れていない縄。


「ああ」


 短く答える。


 食堂の音が、少しだけ大きくなった。


 その音の中で、灰色の金具のことだけが、静かに残っていた。


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