第69話 召喚状
銀色の封蝋は、まだ割られていなかった。
食堂の一番奥。
いつもなら帳面や薬包が置かれている小卓の中央に、白い封書が横たわっている。
汚れ一つない。
道中を馬車で運ばれてきたとは思えない白さだった。
その白さが、この食堂の中ではひどく浮いていた。
金継ぎされた皿。
傷の残る机。
壁に掛けられた縄。
クロの包帯。
伊織の右手を覆う固定具。
どれも、壊れたあとが見える。
封書だけが、壊れたことなど一度もないような顔をしていた。
「アリア様、あなた宛です」
エルザは同じ言葉を、もう一度繰り返した。
銀髪を背へ流し、食堂の入口近くに立っている。
椅子は勧められた。
だが、座らなかった。
使者として来た者の立ち方だった。
封書の表には、アリアの名だけがある。
アリア=シルヴェイン。
家名まで、正確に。
差出人の名はない。
代わりに、封蝋へ複雑な紋が押されている。
枝を広げた白い樹。
その根を囲む、二重の輪。
伊織には意味が分からない。
だが、アリアは見た瞬間に分かっていた。
右手が、わずかに動いた。
吊った布が揺れる。
その手で取ろうとして、途中で止めた。
アリアは左手を伸ばした。
「本国長老会の召喚印です」
「命令か」
伊織が聞く。
「形式上は、出頭要請です」
「断れるのか」
アリアは答えなかった。
答えないことが、答えに近かった。
ガルドが椅子を引いた。
木の脚が床を擦る。
「気に食わねえな」
「まだ何も読んでいません」
エルナが言った。
「読まなくても、気に食わねえ」
「それは記録できません」
「しなくていい」
リナはアリアの右手を見ている。
「開けるなら、左手だけでお願いします」
「分かっています」
「分かっている方は、右手を伸ばしません」
アリアが少しだけ目を伏せる。
反論はしなかった。
クロは小卓の下にいる。
封書へ鼻を近づけることはせず、少し離れた場所から見ていた。
耳は立っている。
トトとニコも食堂にいた。
ニコはトトの木片を鳴らさせないよう、横目で見張っている。
トトは封書を見てから、アリアを見る。
「手紙?」
「はい」
「いい手紙?」
アリアの左手が、封書の上で止まった。
「まだ分かりません」
「悪い手紙?」
「それも、まだ」
トトは納得していない顔をした。
「読めば分かる?」
「読んでも、全部は分からないかもしれません」
「難しいね」
「はい」
アリアは封書を持ち上げた。
エルザが一歩だけ近づく。
「封蝋に仕掛けはありません。道中、私以外は触れていません」
「あなたは中身を?」
「知りません」
「本当に?」
ガルドが聞いた。
エルザはガルドを見る。
「私が知っているのは、届けることを命じられたという事実だけです」
「誰に」
短い沈黙があった。
「その問いには答えられません」
ガルドの眉が動く。
「答えられねえのか、答えたくねえのか」
「今は、同じです」
伊織はエルザを見る。
表情は変わらない。
だが、入口から動かないのは、逃げるためではない。
食堂の奥へ踏み込まないためだ。
境界を守っている。
誰の境界かは分からない。
「開けます」
アリアが言った。
「ここでか」
伊織が聞く。
「はい」
「一人で読まなくていいのか」
アリアは封書を見たまま答える。
「私宛です」
「聞いてない」
アリアが顔を上げる。
「一人で読むか、と聞いた」
食堂が静かになった。
ガルドが椅子へ腰を下ろす。
リナも入口側の席に座る。
エルナは帳面を開かなかった。
今は記録より先に、聞く顔をしている。
アリアは一人ずつ見た。
トト。
ニコ。
クロ。
ガルド。
リナ。
エルナ。
そして伊織。
「ここで読みます」
左手の親指で封蝋を押す。
硬い音がした。
銀色の蝋に亀裂が入る。
枝の紋が、根元から割れた。
アリアは紙を取り出した。
一枚。
思ったより少ない。
文字を追う瞳が、少しずつ硬くなる。
途中で一度、息が止まった。
「何が書いてある」
伊織が聞く。
アリアは最後まで読み終えてから、紙を下ろした。
「出頭の理由は三つです」
声は平静だった。
だが、左手の指が紙の端を強く押さえている。
「一つ。東部外縁における無許可の調査行為」
エルナの目が細くなる。
「無許可ではありません。外縁管理局の要請がありました」
「本国は、外縁管理局の判断を越権と見なしています」
「ドレイスさんの責任にするつもりですか」
「その可能性があります」
エルナの顔から、わずかに血の気が引いた。
「二つ目は?」
リナが促す。
「東の山水路で確認された、旧機構設備への接触」
ガルドが腕を組む。
「止めきれなかった歯車のことか」
「おそらく」
「壊してねえぞ」
「手前側の歯は破壊しました」
「壊してんじゃねえか」
「本体ではありません」
「向こうが区別するか?」
誰も答えなかった。
アリアは紙へ目を戻す。
「三つ目」
そこで声が一度だけ止まった。
伊織は急かさなかった。
「アルド=シルヴェイン卿が関与した旧記録について、私が保持している情報の提出」
父の名。
食堂に置かれた音が、少しだけ重くなる。
トトが木片を握る。
鳴らさない。
ニコも止めなかった。
必要がなかった。
「持っているのか」
伊織が聞く。
「何を持っていると判断されたのか、分かりません」
「報告書か」
「可能性はあります」
「書斎の記録も?」
エルザが初めて口を挟んだ。
アリアの視線が向く。
「書斎?」
伊織が聞く。
エルザは表情を変えなかった。
「シルヴェイン家の本邸は、現在も保存されています」
「父の部屋も?」
アリアが聞く。
「封鎖されたままです」
「誰の命令で」
「長老会です」
「父ではなく?」
エルザは、ほんの一拍だけ遅れて答えた。
「私からは、お答えできません」
アリアの指が紙の端をわずかに曲げた。
リナがそれを見る。
だが、手を出さなかった。
「行けば、書斎を見られるのか」
伊織が聞く。
「召喚状には書かれていません」
アリアが言う。
「見せるつもりがない可能性もあります」
「なら、行かない理由になるか」
「いいえ」
答えは早かった。
伊織はアリアを見る。
薄紫の瞳は揺れていない。
揺れないようにしている。
「行くのか」
「行きます」
ガルドが椅子の背を鳴らした。
「待て」
「待ちません」
「そういう意味じゃねえ」
ガルドの声が低くなる。
「一人で決めるなって話だ」
「これは、私の本国からの召喚です」
「だから何だ」
「私が行かなければ」
「お前一人が行く話と、行くかどうかの話を一緒にするな」
アリアが黙る。
ガルドは腕を組んだまま続けた。
「行くって決めるのは勝手だ。だが、一人で行くと決めるのは勝手じゃねえ」
「同行を認められるとは限りません」
「認めさせる方法を考えるのが先だろ」
「簡単ではありません」
「簡単な話をしてねえ」
リナが小さく息を吐いた。
「珍しく、ガルドさんに賛成です」
「珍しくは余計だ」
「アリアさん一人では行かせません」
「リナさん」
「右手も治っていません」
「それは」
「治療する人間は必要です」
エルナが続ける。
「召喚理由に外縁管理局の越権が含まれるなら、記録を持つ者も必要です」
「エルナまで」
「私は町の記録者です」
エルナは閉じた帳面へ手を置く。
「町で起きたことを、町の外で書き換えさせるつもりはありません」
トトが手を上げた。
「ぼくも行く?」
全員がトトを見る。
トトは少し不安そうに手を下ろした。
「駄目?」
「今回は、まだ分かりません」
アリアが答える。
「じゃあ、帰ってくる?」
アリアの言葉が止まる。
トトは木片を握っている。
何気なく聞いているわけではない。
帰ってこない人がいることを、もう知っている。
「戻ります」
アリアは言った。
声は強くなかった。
だが、迷ってはいなかった。
「ここへ?」
「はい」
トトは木片を一度だけ見た。
それから頷いた。
「じゃあ、待つ」
クロが鼻を鳴らした。
それだけだった。
伊織は紙を見る。
「期限は」
「十二日後です」
「都まで何日かかる」
「通常なら六日。南宿を経由すれば八日ほど」
「経由する必要があるのか」
「報告書の続きを確認したいです」
アリアは言った。
「ミルダさんが保管しています」
「音具の在庫もない」
ガルドが言う。
「東へもう一度行くなら、今のままじゃ足りねえ」
伊織はアリアを見る。
「召喚と山水路はつながっていると思うか」
「はい」
アリアは迷わなかった。
「本国は、私を呼ぶ理由に山水路を使っています。なら、向こうでも東の歯車が問題になっている」
「審問だけで終わらない」
「おそらく」
「罠か」
「分かりません」
エルザが静かに言った。
「審問そのものは、正式なものです」
「罠じゃないと言えるのか」
伊織が聞く。
「言えません」
エルザの答えは早かった。
「正式な制度は、正式に罠として使えます」
ガルドが舌打ちする。
「お前、それを届けに来たのか」
「私は使者です」
「便利な立場だな」
「便利だと思ったことはありません」
その声にだけ、少し人間らしい温度があった。
アリアは召喚状を卓へ戻した。
「行きます」
もう一度言った。
今度は、先ほどとは意味が違う。
自分だけの決定ではないと分かったうえで、口にしている。
「ただし」
全員を見る。
「一人では行きません」
ガルドが頷く。
リナも。
エルナはようやく帳面を開いた。
「同行者と経路を整理します」
「トトとニコは保留」
リナが言う。
「クロは?」
トトが聞いた。
クロが顔を上げる。
アリアは少しだけ考える。
「付いてくると思います」
クロが鼻を鳴らした。
「決まりだね」
トトが言う。
伊織は封書を見た。
白い紙。
銀色の封蝋。
割れた樹の紋。
召喚状は一枚だけだった。
だが、その一枚が、東部と本国とアルドの名を一本につないでいる。
行く理由はできた。
帰ってくる理由は、もうここにある。
「東さんは」
アリアが聞いた。
「行く」
伊織は答えた。
「まだ何も聞いていません」
「聞いた」
「何を」
「一人では行かないと言った」
アリアは言葉を止めた。
伊織は続ける。
「なら、人数が要る」
「あなたは怪我人です」
リナが言う。
「知ってる」
「自覚があるなら」
「右手が使えなくても、歩ける」
「具現は禁止です」
「必要なら使う」
「東さん」
「あとで怒れ」
「先に怒っています」
ガルドが笑いかけて、すぐに封書へ視線を戻した。
その表情が変わる。
「待て」
椅子から立ち上がる。
封蝋の割れた破片へ近づいた。
触れない。
卓へ顔を寄せ、紋を見る。
枝を広げた白い樹。
根を囲う二重の輪。
ガルドではない。
食堂の壁際で、それまで一言も発していなかったヴォルフが、茶碗を置いた。
老人の片目が、銀色の封蝋を見ている。
もう片方の目があったはずの場所は、古い布に覆われていた。
「知っているのか」
伊織が聞く。
ヴォルフはすぐには答えなかった。
茶碗から湯気が上がる。
やがて、低い声が落ちた。
「その紋、まだ使ってやがるのか」




