第68話 返すもの
ダストヘイブンの門が見えた時、最初に声を上げたのはクロだった。
吠えた、というほど大きくはない。
短く、低く、一度だけ。
けれど、その音を聞いた門番が顔を上げた。
次に、道端の荷馬車の男が振り返る。
それから、門の中で樽を運んでいた若い男が、手を止めた。
町は、戻ってきた者にすぐ気づく。
派手な鐘は鳴らない。
誰も走ってこない。
それでも、人の目が少しずつ集まった。
伊織は左肩を庇いながら歩いた。
縫った傷が、歩くたびに引く。
右手は固定具の中。
左手は空いていた。
ガルドの縄は、ヴォルフが持っている。
重そうではない。
だが、軽く持っているわけでもなかった。
アリアはリナに支えられず、自分の足で歩いていた。
右手は布に包まれている。
熱は引いてきた。
完全ではない。
それでも、足は前へ出ている。
クロはアリアの少し前を歩く。
左前足をかばっている。
それを隠すように、時々早足になる。
そのたびに、リナが低い声で言う。
「ゆっくり」
クロは聞こえないふりをする。
アリアが言う。
「クロ」
クロはすぐ遅くなる。
ヴォルフが笑った。
「誰の言うことなら聞くか、はっきりしてるな」
「あなたも、ゆっくり歩いてください」
リナが言った。
「俺もか」
「腕、動かしすぎです」
「骨は動かしておかないと固まる」
「今は固まってください」
ヴォルフは何か言い返そうとして、やめた。
門番が近づいてきた。
伊織たちを見て、目を細める。
「戻ったのか」
「ああ」
伊織が答えた。
「何人で出た」
「五人と一匹」
「戻ったのは」
「同じだ」
門番は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
門を開ける。
ただそれだけだった。
伊織は門をくぐった。
石畳の音が変わる。
外の乾いた道から、町の中の硬い音へ。
足音が返ってくる。
五つと、一つ。
誰も振り返らなかった。
◆
ガルドは、工房の前にいた。
いつもと同じように、縄と革と金具の匂いの中に立っていた。
だが、伊織たちを見るなり、手を止めた。
表情は変えない。
それでも、目だけが縄を見た。
ヴォルフが持っていた縄を、伊織が受け取る。
左手で持つには、少し重かった。
けれど、自分で返したかった。
伊織はガルドの前に立つ。
「借りた」
ガルドは縄を見る。
「ああ」
「傷んだ」
「見れば分かる」
ガルドは縄を受け取った。
指で、毛羽立ったところをなぞる。
黒く噛まれた痕。
擦れた痕。
水に触れた場所。
金具が通った場所。
一つずつ、指が止まる。
縄を診る手だった。
人の傷を見るようにも見えた。
「切れてねえ」
「ああ」
「なら、戻った縄だ」
ガルドはそう言った。
それだけだった。
伊織は少しだけ息を吐いた。
「直るか」
「直す」
「使えるか」
「別の役目ならな」
「戻るためには」
ガルドは縄を巻き直しながら、首を横に振った。
「一度、ああいう水に噛まれた縄は、同じ場所へは戻せねえ」
アリアが顔を上げる。
ガルドは続けた。
「だが、捨てる縄じゃない。戻った縄は、戻った縄で使い道がある」
「どんな」
ヴォルフが聞いた。
「壁に掛ける」
「使ってねえじゃねえか」
「使うんだよ」
ガルドは縄を肩にかけた。
「戻れるものがあると、若い奴に見せる」
ヴォルフは黙った。
アリアも黙った。
伊織はガルドを見る。
「返した」
「ああ」
「助かった」
「そういう縄だ」
ガルドはそれ以上、山のことを聞かなかった。
縄を受け取り、工房の奥へ持っていく。
壁には、古い縄がいくつも掛けられていた。
切れたもの。
焦げたもの。
水で硬くなったもの。
その中に、ガルドの縄が戻された。
傷んだまま。
切れていないまま。
戻ったものとして。
◆
トトは食堂の裏手にいた。
木箱の上に座り、木片を削っていた。
小さな指で、危なっかしく刃を扱っている。
ニコが横で見張っていた。
見張っているというより、いつでも取り上げられる位置に立っている。
伊織たちを見るなり、トトが立ち上がった。
「あ」
それだけ言って、走ろうとした。
ニコが襟を掴む。
「走らない」
「でも」
「刃を持ったまま走らない」
トトは手元を見た。
小さな刃を持っていた。
「あぶない」
「今気づいたの」
ニコが刃を取り上げる。
トトは改めて走ってきた。
クロの前で止まる。
足の包帯を見る。
「けがした」
クロは目を逸らした。
「けがしたんだ」
トトはしゃがむ。
クロは少しだけ後ろへ下がった。
アリアが言う。
「深くはありません。でも、今日は走らせません」
「そっか」
トトは頷いた。
そして伊織を見る。
「帰ってきた」
「ああ」
「木片は?」
伊織は外套の内側から、小さな木片を出した。
トトの木片。
山水路へ持っていったもの。
名を持つもの。
名のない鉄片とは違うもの。
傷はついていない。
ただ、少しだけ水の匂いが移っていた。
伊織はそれをトトに渡す。
「返す」
トトは両手で受け取った。
すぐに鼻を近づける。
ニコが眉をひそめる。
「嗅がない」
「水のにおいがする」
「だから嗅がない」
トトは木片を光にかざした。
「これ、帰ってきたんだ」
「ああ」
「じゃあ、まだ持ってていい?」
「使うな」
「分かってるよ」
トトは木片を胸に抱える。
「持ってるだけ」
伊織は少しだけ黙った。
トトの「持っているだけ」は、信用しすぎると危ない。
だが、今取り上げるものでもない。
ニコがアリアの右手を見た。
表情が変わる。
「また無理した」
アリアは反論しようとして、止まった。
それから、ゆっくり頷く。
「はい」
ニコが少し驚いた顔をした。
「認めた」
「リナさんに、言われました」
「もっと言われた方がいい」
「はい」
アリアは素直に頷いた。
ニコは眉を寄せる。
「素直すぎても怖い」
リナが小さく笑った。
「今は、そのくらいでちょうどいいです」
ニコはリナを見る。
次に、伊織の左肩を見る。
ヴォルフの腕を見る。
クロの足を見る。
最後に、自分の額を押さえた。
「全員、座って」
「食堂か」
ヴォルフが言う。
「当然」
ニコは言った。
「立って話を聞く顔じゃない」
トトが木片を持ったまま、先に走り出そうとする。
ニコがまた襟を掴む。
「走らない」
「今は刃持ってない」
「木片持ってる」
「木片はいいでしょ」
「転ぶ」
トトはむっとした顔をした。
クロが小さく鼻を鳴らす。
トトはクロを見る。
「クロも走れないもんね」
クロはそっぽを向いた。
アリアが口元を押さえた。
伊織は見なかったことにした。
◆
食堂は、昼の準備で騒がしかった。
皿の音。
鍋の音。
水を流す音。
誰かが注文を間違えた声。
それを叱る声。
どれも、山水路の声ではなかった。
返ってくる音だった。
席は、自然に空けられた。
誰が指示したわけでもない。
入口に近く、壁を背にできる席。
アリアが座りやすい椅子。
クロが足を投げ出せるだけの隙間。
ヴォルフが骨刃を置いても邪魔にならない場所。
伊織はその席を見て、少しだけ黙った。
用意されていたわけではない。
だが、空いていた。
そういう席だった。
ニコが水を置く。
「飲んで」
全員の前に置く。
クロの前にも、小さな器が置かれた。
クロはすぐ飲もうとして、アリアを見る。
「どうぞ」
アリアが言うと、クロは飲んだ。
ヴォルフが笑う。
「本当に許可制だな」
「あなたも水からです」
ニコが言った。
「酒は」
「ありません」
「聞く前に言われた」
「顔に書いてあります」
リナがアリアの右手を見ながら、ニコに言う。
「冷やす布を借りてもいいですか」
「もう用意してる」
ニコは布を出した。
手際がいい。
アリアが左手で受け取ろうとする。
ニコが止める。
「私がやる」
「自分でできます」
「今日は私がやる」
アリアは少しだけ迷った。
それから頷いた。
「お願いします」
ニコは布を巻き直す。
その手は小さいが、丁寧だった。
「熱い?」
「少し」
「少しじゃない時は?」
「言います」
「本当に?」
「はい」
ニコはアリアを見る。
アリアも見返す。
少しして、ニコが頷いた。
「じゃあ、今は信じる」
リナが横で何か言いかけ、飲み込んだ。
伊織は気づいたが、触れなかった。
ヴォルフが器を持ち上げる。
「飯は?」
「すぐ」
奥から声がした。
ガルドだった。
いつの間にか来ていた。
縄の匂いをまとったまま、食堂の奥に立っている。
「お前が作るのか」
ヴォルフが聞く。
「作らねえ。運ぶ」
「似合わねえな」
「うるせえ」
ガルドは皿を運んできた。
大皿に肉。
野菜の煮込み。
固いパン。
アリアには柔らかい粥。
クロには小さく切った肉。
伊織の前には、匙が置かれた。
右手ではなく、左手側に。
誰が気づいたのかは分からない。
伊織は匙を見た。
左手で取る。
冷えは残っていない。
銃の重さも、今は遠い。
匙の重さだけがあった。
「食え」
ガルドが言った。
「縄は」
「飯の後だ」
「返した」
「ああ。だから食え」
ガルドはそれ以上言わなかった。
伊織は粥ではなく、自分の皿の肉を見た。
普通の食事だった。
怪我人用ではない。
少しだけ硬い。
噛む必要がある。
それも、戻った者に出す飯としては正しかった。
アリアが匙を持つ。
左手で。
少し危なっかしい。
ニコが見ている。
リナも見ている。
アリアはこぼさずに一口食べた。
ニコが小さく頷く。
「よし」
「子どもではありません」
「怪我人です」
アリアは反論できなかった。
クロが肉を食べる。
少し早い。
「ゆっくり」
アリアが言う。
クロは遅くした。
ヴォルフが笑いすぎて、腕を押さえた。
「痛え」
「笑うからです」
リナが言った。
「笑うなって言われてもな」
ヴォルフは笑いながら水を飲んだ。
食堂の中に、音が増えていく。
皿。
匙。
湯気。
誰かの笑い。
小さな文句。
水路の音ではない。
山の声でもない。
生きている場所の音だった。
◆
食事が終わるころ、トトが木片を持って戻ってきた。
削ってはいない。
ただ、紐を通していた。
小さな穴を開け、首から下げられるようにしている。
ニコがそれを見る。
「勝手に穴を開けたの」
「元から開いてた」
「嘘」
「ちょっと広げただけ」
「それを勝手って言う」
トトは伊織を見る。
「持っててもいい?」
「使うな」
「使わない」
「誰かに渡すな」
「渡さない」
「水に近づけるな」
「近づけない」
「夜に名前を呼ぶな」
トトは目を丸くした。
「そんなことしないよ」
「ならいい」
トトは木片を首に下げた。
少し誇らしそうだった。
アリアがそれを見ていた。
「名前があるものは、重いのですね」
誰もすぐには答えなかった。
トトが木片を握る。
「これ、トトのだよ」
「はい」
アリアは頷いた。
「だから、戻ってきました」
トトはよく分かっていない顔をした。
けれど、嬉しそうだった。
伊織はトトの木片から、壁の縄へ視線を移す。
ガルドの縄が、食堂の奥の壁に掛けられていた。
工房ではなく、食堂に。
伊織が見ると、ガルドが言った。
「今日はここだ」
「工房では」
「明日戻す」
「なぜ」
「見せるためだ」
誰に、とは言わなかった。
食堂にいる者たちは、縄を見る。
深くは聞かない。
けれど、見る。
傷んだ縄。
切れなかった縄。
戻った縄。
それが壁にある。
それだけで、何かが伝わる。
アリアもそれを見た。
父の報告書とは違う。
文字ではない。
読むものではない。
残ったものだった。
ニコが小さな皿を片づける。
リナがアリアの布を替える。
ヴォルフが骨刃を壁に立てかけたまま、水を飲む。
クロはアリアの足元で丸くなる。
足を投げ出している。
痛むのだろう。
だが、眠そうだった。
伊織は左手で匙を置いた。
右手は固定具の中。
左肩は縫われている。
左手は、今は空いている。
食堂の音が、少しずつ落ち着いていく。
昼の騒がしさが過ぎ、午後の浅い静けさが来る。
その時、アリアが言った。
「戻ったのですね」
伊織はアリアを見る。
アリアは壁の縄を見ていた。
トトの木片を見た。
クロを見た。
それから、自分の左手を見た。
「戻りました」
誰も否定しなかった。
それは山から戻ったという意味だけではない。
南宿から戻った。
縦穴から戻った。
父の声ではなかったものから戻った。
そして、ここへ戻った。
アリアは席に座っている。
誰かが用意した席に。
クロが足元にいる。
リナが横にいる。
ヴォルフが少し離れた場所で水を飲んでいる。
伊織は壁を背にしている。
ガルドの縄は壁にある。
トトの木片はトトの胸元にある。
皿は空になっている。
食堂の湯気が、薄く上がっていた。
帰る場所という言葉は、誰も口にしなかった。
けれど、席はあった。
◆
夕方、伊織は一人で食堂の外に出た。
一人と言っても、扉のすぐ横だ。
遠くへ行くつもりはない。
左肩が動くたびに痛む。
右手は重い。
疲れている。
だが、眠る前に少しだけ風に当たりたかった。
ダストヘイブンの夕方は、南宿と違う匂いがした。
砂。
鉄。
飯。
人の声。
遠くの鍛冶音。
水の匂いは薄い。
伊織は左手を開いた。
銃は出ない。
出そうともしていない。
手のひらには、匙の感触だけが残っていた。
扉が開く。
アリアが出てきた。
右手を布で吊り、左手で外套を押さえている。
クロは来ていない。
たぶん、ニコに捕まっている。
「起きていていいのか」
「少しだけです」
「リナは」
「三分だけ、と」
「正確だな」
「はい」
アリアは伊織の隣に立った。
町の夕方を見ている。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙は重くなかった。
音があるからだ。
食堂の中の声。
皿の音。
ガルドの低い声。
トトが何かを言い訳している声。
ニコが叱る声。
ヴォルフが笑って、痛がる声。
リナが誰かを座らせる声。
全部、聞こえる。
全部、返ってくる。
「南宿を出る時」
アリアが言った。
「私は、ここから来たと言いました」
「ああ」
「今は、少し分かります」
「何が」
「ここから来たから、戻れました」
伊織は黙って聞いた。
「帰る場所を背にして歩くのは、離れることだと思っていました」
アリアは食堂の明かりを見る。
「でも、違いました。背にしているから、戻る向きが分かります」
伊織は夕方の道を見た。
門の方角。
南宿の方角。
さらに東の山。
そこにはまだ、黒い歯車の本体がある。
ゼクトがいる。
父の報告書の続きもある。
終わっていないものばかりだ。
だが、今ここにいる。
それは、逃げではない。
アリアが続けた。
「私は、父の道から来たのではありません」
声は静かだった。
「ここから行って、ここへ戻りました」
伊織はアリアを見た。
アリアは食堂の明かりを見ていた。
薄紫の瞳に、灯りが映っている。
山の水ではない。
町の灯りだった。
「なら、次もそうしろ」
伊織が言った。
「はい」
アリアは頷いた。
「一人では行きません」
中から扉が開いた。
リナが顔を出す。
「三分です」
「まだ二分くらいでは」
「三分です」
アリアは少しだけ笑った。
「戻ります」
扉の向こうから、クロが短く鳴いた。
待っている声だった。
呼ぶ声ではない。
伊織はその違いを、もう間違えなかった。
アリアが扉に手をかける。
左手で。
少し不器用に。
それでも、自分で開けた。
中から、湯気と声がこぼれた。
食堂の音が、外へ広がる。
伊織は少し遅れて中へ入った。
ガルドの縄は、壁に戻った。
トトの木片は、トトの掌に戻った。
アリアは、自分の席に戻った。
伊織は、空いた左手で扉を閉めた。
誰も、山の話を急がなかった。
食堂の音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。
帰る場所を背にして歩いた者たちが、もう一度そこへ戻ってきた音だった。




