第67話 ここから来た
朝の南宿には、薄い霧が残っていた。
山から降りてきたものではない。
夜の水路が、町の石畳に残した白い息だった。
伊織は宿の扉を開け、外を見た。
水の音がする。
昨日よりも遠い。
同じ町にいるのに、遠く聞こえた。
左肩は縫われている。
動かせば糸が引く。
右手は固定具の中で重い。
左手には、まだ拳銃の冷えが少しだけ残っていた。
だが、今朝は何も握っていない。
縄も。
銃も。
刃も。
それでいい、とは言わなかった。
ただ、空いた手があった。
それだけだった。
広間では、リナがアリアの右手を見ていた。
昨夜より熱は引いている。
けれど、完全ではない。
固定具の下に新しい布が巻かれていた。
アリアは左手で膝の上の布を押さえている。
顔色はまだ白い。
それでも、目は濁っていなかった。
クロは足に包帯を巻いたまま、アリアの椅子の横で丸くなっていた。
寝ているふりをしている。
耳だけは動いている。
ヴォルフは壁際で骨刃を磨いていた。
昨日欠けた背の部分を、布で何度も拭いている。
直るわけではない。
それでも、手を止めない。
老人は宿の裏へ行っていた。
名のない鉄片を埋めるためだ。
戻してくれた道具を、戻す。
そう言っていた。
伊織は卓の上を見る。
青い金具は置かれていない。
老人が持っていった。
直せるかどうかを見ると言っていた。
ガルドの縄は、丁寧に巻かれて椅子の背にかけてある。
傷んでいる。
だが、切れてはいない。
返さなければならない。
借りたものだ。
戻るために使ったものだ。
アリアが顔を上げた。
「東さん」
「起きていたのか」
「はい」
クロの耳が動いた。
寝ていない。
伊織は椅子を引いた。
左肩が少し痛む。
アリアがそれを見る。
「痛みますか」
「ああ」
「隠さないのですね」
「昨日、言われた」
アリアは少しだけ口元を緩めた。
すぐに戻した。
「私も、言います」
「何を」
「怖いです」
伊織は黙った。
アリアは続ける。
「報告書を読むのが、怖いです」
リナは手当ての手を止めなかった。
ヴォルフも骨刃を磨く手を止めなかった。
クロだけが目を開けた。
「父が何をしたのか。何を止められなかったのか。何を、私に残したのか」
アリアは左手で布を握る。
「知りたいです。でも、全部を知りたいわけではありません」
「なら、全部は読むな」
伊織は言った。
アリアが伊織を見る。
「はい」
短い返事だった。
揺れはあった。
だが、折れてはいない。
リナが布を締め直す。
「番所へ行くなら、私も行きます」
「もちろんです」
アリアが言った。
ヴォルフが骨刃を壁に立てかける。
「俺も行く」
「腕は」
「動く」
リナが見る。
ヴォルフは少しだけ目を逸らした。
「動く分だけな」
「なら、その分だけにしてください」
「分かったよ」
クロが立とうとする。
足をついた瞬間、少しだけ遅れた。
アリアがすぐに身を乗り出す。
クロは何でもない顔をした。
アリアが眉を寄せる。
「クロ」
クロは観念したように、また座った。
伊織は立ち上がる。
「行くぞ」
アリアが頷いた。
南宿の扉を開けると、霧は薄くなっていた。
水路の音が、町の中を細く流れていた。
父の声ではない。
ただの水音だった。
◆
番所は、朝から開いていた。
ミルダは帳面の前に座っていた。
昨夜より少し眠そうだった。
だが、目は鋭い。
卓の上には、封のされた紙束がある。
アルドの報告書の写し。
その隣に、番所の帳面。
同じ卓に並べられているのが、妙に正しかった。
ミルダは顔を上げた。
「来たか」
「はい」
アリアは答えた。
「読むのか」
「少しだけ」
「全部ではないんだな」
「はい」
ミルダは頷いた。
「なら、私がめくる。読みたいところで止めろ。戻りたくなったら、閉じる」
アリアは驚いた顔をした。
「よいのですか」
「そのために預かった」
ミルダは紙束に手を置く。
「一人で読ませないと言っただろう」
リナがアリアの横に立つ。
伊織は少し後ろ。
ヴォルフは扉の近く。
クロはアリアの足元。
ドレイスはいなかった。
それでよかった。
これは、ドレイスのための時間ではない。
アルドのためだけの時間でもない。
アリアが、自分の目でどこまで見るかを決める時間だった。
ミルダが封を切った。
紙が開かれる。
古い墨の匂いがした。
アリアの肩が少しだけ動く。
父の文字。
その形だけで、届くものがある。
リナが小さく言った。
「息を」
アリアは息を吸った。
ゆっくり吐いた。
ミルダが最初の一枚を卓に置く。
アリアは目を落とした。
読もうとして、止まった。
リナの手が動きかける。
アリアは首を横に振った。
「大丈夫です、とは言いません」
小さな声だった。
「でも、読めます」
ミルダは何も言わない。
アリアは、最初の一文を読んだ。
声に出して。
「黒い歯車を作った者は、私ではない」
広間の空気が固まった。
誰も動かなかった。
アリアは次を読む。
「だが、止められなかった責任は、私にある」
そこで、アリアは目を閉じた。
父の声ではない。
父の文字だった。
それでも、胸に刺さる。
リナがアリアの背に手を置こうとして、止めた。
アリアが自分で息を整えた。
「続けます」
ミルダが次の行を指で押さえる。
文字が続いている。
山水路。
旧管理路。
名の流れ。
戻すための楔。
黒い歯車。
事故。
幾人かの名前。
その多くを、ミルダは飛ばした。
アリアが止めなかったからだ。
知る必要があることと、今知るべきことは違う。
そういうめくり方だった。
途中に、短い記述があった。
ミルダの指が止まる。
「ここは」
アリアが聞く。
「読め」
ミルダは言った。
アリアは目を落とす。
「声は、死者を戻すものではない」
指先が震えた。
「声は、残った者の記憶から形を借りる」
伊織は、左手を握りそうになった。
やめた。
南条の声。
あれは、南条ではない。
分かっていた。
だが、文字になると、別の痛みが来る。
アリアはさらに読む。
「呼ばれた者は、声に顔を与えてはならない。返事をしてはならない。返事は、戻る線をほどく」
クロが小さく鳴いた。
アリアは足元を見る。
クロは立っていない。
ただ、そこにいる。
それだけで、アリアの息が戻った。
ミルダはさらに数枚を飛ばした。
説明の多い箇所だったのだろう。
地図。
数式のような線。
古い印。
アリアは見ない。
読まない。
ミルダも見せすぎない。
紙の音だけが、番所に響いた。
最後に近い一枚で、ミルダの手が止まった。
「ここは、お前が決めろ」
アリアは紙を見た。
父の字が、少し乱れている。
墨の濃さも違う。
急いで書いたのかもしれない。
震える手で書いたのかもしれない。
アリアは左手を膝の上で握った。
「読みます」
ミルダは紙を置いた。
アリアは声に出した。
「もし、娘がこの記録を見る日が来たなら、私は失敗したのだろう」
リナが目を伏せた。
ヴォルフは扉の方を向いた。
伊織はアリアだけを見ていた。
アリアは続ける。
「その時、願うことは一つだけだ」
声が少し揺れた。
けれど、途切れない。
「私の跡を、娘の道にしないでほしい」
紙の上に、朝の光が落ちていた。
番所の小さな窓から入る光だった。
山の光ではない。
町の光だった。
アリアはしばらく動かなかった。
父の文字を見ている。
読んでいるのではない。
見ている。
そして、左手を伸ばした。
紙に触れる寸前で、止めた。
触れなかった。
「閉じてください」
アリアが言った。
ミルダはすぐに紙を閉じた。
「いいのか」
「はい」
「まだ残っている」
「残しておきます」
アリアは言った。
「全部を今日の私で読んでしまうと、父の言葉でいっぱいになります」
ミルダは紙束に封を戻す。
「なら、また来い」
「はい」
「一人では来るな」
「はい」
ミルダは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
すぐに帳面へ視線を落とした。
「町の帳面には、こう残す」
筆を取る。
乾いた音。
墨を含ませる。
「山水路旧管理路より生還。黒い歯車本体未確認。音具全損。再侵入不可」
そこで、ミルダは一度止まった。
アリアを見る。
「ほかに残すことは」
アリアは少し考えた。
そして言った。
「父の声ではなかった」
ミルダは頷き、帳面に書いた。
もう一つ、アリアは続けた。
「でも、父の文字はありました」
ミルダはそれも書いた。
最後に、筆を止める。
「これでいい」
アリアは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。読みに来る時は、昼にしろ。夜は嫌だ」
ヴォルフが笑った。
「分かる」
「お前に言ってない」
「俺も嫌だ」
「なら来るな」
小さな笑いが起きた。
番所の中で、ちゃんと返った。
◆
南宿へ戻ると、老人が裏庭にいた。
古い水路石の前に、土が小さく盛られている。
名のない鉄片を埋めた場所だった。
墓ではない。
だが、誰も踏まない場所だった。
老人は手についた土を払った。
「読んだか」
「少しだけ」
アリアが答えた。
「全部は」
「読んでいません」
「そうか」
老人はそれ以上聞かなかった。
それがありがたかった。
クロが土の匂いを嗅ごうとして、リナに止められる。
「掘らないでください」
クロは不満そうに鼻を鳴らした。
老人がクロを見る。
「足は」
「走らせません」
リナが答えた。
「聞いてない」
「走らせません」
「分かった」
老人は肩をすくめた。
ヴォルフが骨刃を見せる。
「こいつは」
「鍛冶屋へ行け。骨だろうが背は欠ける」
「骨は鍛冶屋で直るのか」
「知らん。だが、あの店主なら文句を言いながら何かする」
「便利だな」
ヴォルフが言った。
伊織は口を開きかけて、やめた。
その言葉は、今日はヴォルフのものだった。
自分が拾う必要はない。
店主が宿の入口から顔を出す。
「聞こえてるぞ」
「頼む」
「先に飯だ」
「また飯か」
「生きてる奴は食うんだよ」
店主はそう言って、奥へ戻った。
昨日、似た言葉を老人も言った。
この町では、生きて戻った者にまず飯を出すらしい。
悪くない。
伊織はそう思ったが、言わなかった。
昼前、出発の支度を始めた。
長居をすれば、また山を見に行きたくなる。
今の身体で行けば、戻れない。
それは全員が分かっていた。
音具はない。
囮もない。
アリアの手も、クロの足も、伊織の肩も、ヴォルフの腕も、まだ途中だった。
戻るには、ちょうどよかった。
追うには、足りなかった。
南宿の店主は、包みをいくつか用意してくれた。
パン。
干し肉。
布に包んだ焼き菓子。
クロ用の小さな干し肉もあった。
クロがすぐに鼻を近づける。
アリアが左手で止めた。
「帰ってからです」
クロは伊織を見た。
「俺を見るな」
クロは尻尾で床を打った。
ヴォルフが笑う。
リナも少し笑った。
店主は照れたように咳払いする。
「また来るなら、怪我してない時にしろ」
「難しい注文だな」
ヴォルフが言う。
「お前には言ってない」
「俺だけかと思った」
「お前は最初から怪我を持ち込む顔をしてる」
ヴォルフは反論しなかった。
できなかったのかもしれない。
ミルダは番所から来ていた。
紙束は持っていない。
帳面だけを脇に抱えている。
「報告書は預かる」
「お願いします」
アリアが頭を下げた。
「読みたくなったら来い。急ぐな」
「はい」
「急いで読む字は、だいたい間違える」
アリアは少し笑った。
「父にも、同じことを言われました」
ミルダの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「なら、たまには正しいことも言う男だったんだな」
アリアは俯かなかった。
「はい」
その返事に、影はなかった。
悲しみはある。
悔しさもある。
けれど、声は落ちなかった。
ドレイスは見送りには来なかった。
その代わり、宿の入口の柱に小さな封が差してあった。
伊織が取る。
宛名はない。
中には、薄い紙が一枚。
そこに短く書かれていた。
旧管理路の水位、昨夜より低下。
黒歯片沈黙。
東側観測印、継続して濡れあり。
署名はなかった。
だが、誰が書いたかは分かった。
ヴォルフが覗き込む。
「律儀だな」
「怖いとも言う」
伊織は紙を畳んだ。
リナが見る。
「持って帰りますか」
「ああ」
アリアが紙を見た。
「ドレイス様は、来ませんでしたね」
「来なかったな」
「その方がいいです」
アリアは言った。
「今会えば、私は父のことを聞いてしまいます」
「聞きたいのか」
「はい」
迷いのない返事だった。
「でも、今は聞きません」
それ以上は、誰も聞かなかった。
聞かないことも、選ぶことだった。
◆
南宿を出るころ、霧は消えていた。
山は遠くに見えた。
黒い山ではない。
昼の光を受けた、ただの山だった。
それでも、アリアは足を止めた。
伊織も止まる。
リナも。
ヴォルフも。
クロも、足を少し引きずりながら止まった。
山の中には、父の印がある。
縦穴がある。
黒い歯車の本体がある。
ゼクトが残した言葉がある。
音を失った鉄片が、宿の裏の土の下にある。
全部、置いていく。
捨てるのではない。
持って帰れないものとして、そこに残す。
アリアは山を見ていた。
長い時間ではなかった。
けれど、逃げるような短さでもなかった。
左手が、右手の固定具に触れる。
それから、ゆっくり離れた。
「父は、一人で降りました」
誰も答えない。
アリアは続けた。
「父は、止めきれませんでした」
風が吹いた。
水の匂いが少しだけ混じる。
だが、声はしない。
「でも、私に同じ道を歩けとは、書いていませんでした」
アリアは山から目を離した。
前を見る。
ダストヘイブンへ戻る道がある。
砂。
低い草。
遠くに続く車輪の跡。
クロがその道へ一歩出た。
少し足を引きずる。
けれど、前へ出た。
アリアがその後に続く。
リナが横につく。
ヴォルフが後ろから骨刃を肩に担ごうとして、痛みでやめた。
伊織は最後に歩き出した。
左肩の糸が少し引いた。
右手は重い。
左手は空いている。
空いているから、縄を持てる。
空いているから、誰かを掴める。
そう思った。
口にはしなかった。
道の途中で、伊織は聞いた。
「戻るのか」
アリアは少しだけ考えた。
南宿の方角には、山がある。
父の印があり、父の声ではなかったものがあり、まだ見ていない黒い歯車の本体がある。
父の文字も、番所に残っている。
けれど、アリアはそちらを見なかった。
「違います」
静かな声だった。
「私は、戻ったのではありません」
クロが隣を歩く。
包帯を巻いた足で、少しだけ遅れて。
リナがその横を見ている。
ヴォルフの骨刃が、朝の光を受けて鈍く光った。
伊織はアリアを見た。
アリアは前を向いていた。
「ここから来ました」
風が吹いた。
水の匂いは、もう遠かった。
伊織は答えなかった。
ただ、歩いた。
帰る場所へ向かう道ではない。
帰る場所を背にして、それでも前へ進む道だった。
アリアの足音が、砂の上に残る。
クロの足音が、その横に残る。
リナの足音。
ヴォルフの足音。
伊織の足音。
五つの音が、同じ道に並んだ。
誰も、振り返らなかった。




