第65話 戻る線
戻るための色が、暗い管理路で光っていた。
青い金具。
ガルドの縄。
名のない鉄片。
折れた刃。
ひび割れた黒い歯。
床に落ちた鎖の一節。
どれも、ここに来るまでに使ったものだった。
どれも、使い切れば戻れなくなるものだった。
伊織は主縄を握った。
左手の中に、湿った繊維が沈む。
「戻るぞ」
誰も返事をしなかった。
返事はいらない。
それぞれが縄に触れた。
アリアは左手で。
リナはアリアの胴輪を確認しながら。
ヴォルフは骨刃を下げたまま。
クロは胴輪の金具を鳴らしながら。
その音は、まだ返ってきた。
伊織は穴の方を見る。
上は遠い。
水音はない。
だが、縄はある。
戻る線は、まだ切れていない。
「順番を変える」
伊織が言った。
ヴォルフが顔を上げる。
「どう変える」
「アリア、リナ、クロ、ヴォルフ、俺」
「犬は三番か」
「犬ではありません」
アリアが即答した。
声は細い。
だが、折れていない。
クロは尻尾を一度だけ振った。
ヴォルフが少し笑う。
「じゃあ三番はクロだ」
リナがアリアの右手を見る。
「登れますか」
「登ります」
「答えになっていません」
リナは言いかけて、止めた。
同じ言葉を飲み込んだ顔だった。
代わりに、胴輪の金具を締め直す。
「途中で止まったら、私が引きます」
「はい」
「返事ではなく、足で合わせてください」
「はい」
アリアは頷いた。
伊織は青い金具を穴の上へ向けた。
主縄は上に伸びている。
降りる時に通した古い鉄輪。
そこへ戻る。
だが、さっき撃った銃声で、管理路の形が変わった。
石の溝が砕けた。
水の流れが変わった。
黒い歯車の歯は止まったが、完全には死んでいない。
ひびの奥で、まだ黒い水が脈を打っている。
リナの名のない鉄片は、ほとんど音を残していない。
ヴォルフの鉄片も、一度使った。
伊織の鉄片も鳴らした。
もう、何度もは使えない。
伊織は黒い歯を見た。
追わない。
今は戻る。
その判断を、手の中の縄へ移す。
「行け」
伊織が言った。
アリアが穴に手をかけた。
左手。
左足。
リナが下から支える。
ヴォルフが主縄を持つ。
クロがアリアの足元で上を見ている。
アリアは一歩ずつ上がった。
金具が鳴る。
音は返る。
まだ、返る。
十歩。
十二歩。
穴の中ほどへ近づいた時だった。
管理路の奥で、水が笑った。
笑ったように、聞こえた。
伊織は振り返らない。
ヴォルフが骨刃を上げる。
リナが息を詰める。
クロが低く唸る。
アリアの足が止まった。
穴の上からではない。
下からでもない。
水の中から、声がした。
「東」
伊織の名前だった。
南条の声ではない。
ゼクトの声でもない。
それは、伊織自身の声に似ていた。
少し若い。
少し硬い。
命令を待っていた頃の声。
「置いていくのか」
アリアの肩が揺れた。
リナが叫ぶ。
「見ないで!」
アリアは見なかった。
けれど、足が止まっている。
声は続いた。
「上がるのは、彼女だけでいいのか」
黒い水が床の溝から染み出した。
ひび割れた歯車の歯へ集まる。
歯が、また震え始める。
今度の声は、父の声ではない。
南条の声でもない。
伊織の声。
伊織の中にある、命令の声。
誰を先に出す。
誰を残す。
誰を切る。
誰を捨てる。
そういう声だった。
伊織は鉄片に触れた。
鳴らさない。
これは声に返す音では足りない。
リナがアリアへ叫ぶ。
「足を!」
アリアは動かない。
声が、アリアにも届いている。
内容は違うのだろう。
アリアの顔が、白くなる。
左手が縄を握ったまま、動かない。
水が言った。
「父は、一人で降りた」
アルドの声になった。
「お前も、一人で来い」
リナが鉄片を鳴らした。
カン。
音はかすれた。
アルドの声は少し歪む。
だが、消えない。
鉄片が、リナの指の中で割れた。
薄い鉄片が二つに折れ、床に落ちる。
乾いた音。
今度は返ってこなかった。
「リナ」
アリアが下を見た。
「上を見てください!」
リナが叫ぶ。
「私じゃない。上です!」
その声で、アリアの目が上へ戻った。
足が一段、上がる。
もう一段。
だが、黒い水は速かった。
ひび割れた歯車の歯から、黒い鎖のような水が伸びる。
穴の壁を這う。
アリアの足首へ向かう。
ヴォルフが骨刃を振った。
届かない。
伊織は主縄を引く。
アリアの体が少し上がる。
水の鎖が、足のすぐ下を舐めた。
クロが吠えた。
今度は、長い。
穴の中で音が跳ねる。
黒い水が、一瞬だけ逸れる。
ヴォルフが笑った。
「いい声だ」
「クロ!」
アリアが叫ぶ。
クロは返事をしない。
代わりに、穴の縁へ走った。
胴輪の金具を鳴らしながら、壁際へ飛ぶ。
小さな体で、黒い水の伸びる先へ入り込む。
噛まない。
踏む。
前足で、水の鎖の根を押さえる。
水がクロの足元で跳ねた。
リナが叫ぶ。
「戻って!」
クロは動かない。
水が足に絡む。
黒い毛が濡れる。
クロの体が、少し引かれた。
伊織は判断する。
一拍。
遅れれば、クロが持っていかれる。
早すぎれば、アリアが落ちる。
伊織は主縄をヴォルフへ投げた。
「持て」
「持った!」
ヴォルフが両腕で縄を受ける。
骨刃は床へ落とした。
両手で、アリアの重さを受ける。
伊織は左腰へ手をやった。
拳銃ではない。
青い金具。
戻るための金具。
それを外す。
補助縄を通す。
クロの胴輪へ投げる。
狙いは小さい。
左手。
金具。
揺れる胴輪。
動く水。
外せば、クロは沈む。
伊織は息を止めた。
投げた。
金具が宙で一度鳴る。
クロの胴輪に引っかかった。
「引け!」
リナが補助縄を掴む。
伊織も引く。
クロの体が床を滑る。
黒い水が足を離さない。
ヴォルフが叫んだ。
「アリア、上がれ!」
アリアが歯を食いしばった。
父の声がする。
一人で来い。
こちらへ来い。
置いていけ。
アリアは息を吸う。
「行きません」
声は震えていた。
だが、穴の中でまっすぐ落ちた。
「私は、一人では行きません」
金具が鳴った。
青い音。
戻るための音。
黒い水が一瞬、止まる。
伊織はクロを引いた。
リナも引く。
クロの足が水から抜けた。
黒い毛から、煙のような水気が立つ。
クロは転がり、すぐに起き上がった。
足を引きずっている。
だが、立っている。
アリアが穴の上へ手を伸ばす。
ヴォルフが主縄を引く。
リナが叫ぶ。
「あと二つ!」
アリアが足を上げる。
あと一つ。
黒い水が再び伸びる。
伊織はヴォルフの鉄片を見た。
「鳴らせ」
ヴォルフは腰の鉄片を掴んだ。
カン。
音は割れた。
鉄片にひびが入る。
だが、黒い水が止まった。
その半拍で、アリアが穴の縁へ届いた。
リナが下から押す。
ヴォルフが上へ引く。
アリアの体が、上の足場へ乗った。
アリアは振り返らなかった。
両手ではない。
左手だけで、縄を握りしめている。
右手の固定具から、薄い煙のような熱が出ていた。
リナが顔をしかめる。
だが、今は見ない。
まだ下にいる。
クロ。
リナ。
ヴォルフ。
伊織。
そして黒い水。
◆
次はクロだった。
クロは足を引きずっていた。
それでも胴輪を嫌がらない。
リナが金具を確認する。
手が震えている。
リナ自身の手だ。
アリアが上から声を出した。
「クロ」
クロが上を見る。
「ここです」
それだけだった。
クロは動いた。
左前足が少し遅れる。
伊織はそれを見た。
見ただけで、言わない。
言えば、アリアが下りようとする。
ヴォルフが補助縄を支える。
リナがクロの胴輪を押す。
伊織が上へ送る。
黒い水が床を這う。
ひび割れた歯車の歯から、また声が出る。
今度は、犬笛のような音だった。
クロの耳が伏せる。
体が止まる。
水が、クロを呼んでいる。
名前ではない。
音で呼んでいる。
伊織は奥歯を噛んだ。
名のない鉄片は、もう薄い。
リナのものは折れた。
ヴォルフのものはひびが入った。
自分のものは、一回残っているかどうか。
ここで鳴らせば、あとがない。
クロの体が、水の音へ傾く。
アリアが上から叫ぶ。
「クロ!」
その声で、クロが戻った。
耳が立つ。
牙が見える。
水の音へではない。
アリアの声へ。
クロは自分で壁を蹴った。
リナが押す。
伊織が引く。
ヴォルフが補助縄を上げる。
クロが穴の上へ滑り出た。
上でアリアが受け止める。
体重でよろめいた。
それでも離さなかった。
クロはアリアの胸元に頭を押しつけた。
胴輪の金具が、かすかに鳴った。
音は返ってきた。
伊織は息を吐く。
次はリナ。
だが、リナは穴を見上げず、伊織を見た。
「私は最後の前です」
「順番は俺が決める」
「医療者の判断です」
「ここは戦場だ」
「だからです」
リナは鉄片の割れた欠片を拾った。
もう鳴らない。
それでも、捨てない。
「あなたが最後に残るなら、私はその前に上がります。下で倒れられても処置できません」
「倒れない」
「その返事は使い切りました」
伊織はリナを見た。
リナも見返す。
怖がっている。
だが、引かない。
伊織は一瞬だけ目を伏せた。
「分かった」
「今のは持って上がります」
リナはそう言って、縄に手をかけた。
登り始める。
動きは速くない。
だが、無駄がない。
半分ほど上がった時、黒い水が声を出した。
「リナ」
知らない女の声だった。
リナの動きが止まった。
伊織は見た。
リナの顔。
初めて見る顔だった。
医療者ではない。
誰かの娘の顔。
誰かを置いてきた者の顔。
声は続く。
「もう、手は届かないよ」
リナの指が縄から少し離れた。
伊織は鉄片を掴む。
だが、鳴らすより先に、上からアリアの声が落ちた。
「リナさん」
リナは動かない。
アリアは続けた。
「私の手を、上で見てください」
リナの目が上を向く。
「まだ、見終わっていません」
リナの指が、縄を掴み直した。
声が歪む。
女の声が、黒い水の奥で剥がれる。
リナは登った。
一段。
もう一段。
上に着く。
アリアがリナの袖を掴む。
リナはすぐにアリアの右手を見る。
その顔は、もう医療者だった。
伊織は少しだけ口元を緩めた。
すぐに消した。
次はヴォルフ。
◆
ヴォルフは骨刃を拾った。
肩に担がない。
片手で持つ。
もう片方で縄を掴む。
「先に上がれ」
伊織が言った。
「俺が最後かと思ったがな」
「お前が残ると穴が狭い」
「ひでえ理由だ」
「事実だ」
ヴォルフは笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
床に落ちたゼクトの鎖一節を見る。
持って帰らない。
触らない。
だが、視線は残った。
「借りは、まだ半分だな」
「ああ」
「次は全部返す」
「生きて戻ってから言え」
「戻るさ」
ヴォルフは縄に体重をかけた。
上がる。
大きな体で、穴は狭い。
肩が石に擦れる。
骨刃が鳴る。
黒い水が、そこへ反応した。
声は来ない。
代わりに、鎖が来た。
水でできた鎖。
ゼクトの鎖に似ている。
ヴォルフの足首へ絡む。
伊織が叫ぶ。
「切るな!」
「分かってる!」
ヴォルフは骨刃を振らない。
切れば、黒い水が散る。
散れば、上にいるアリアたちに届く。
ヴォルフは足を動かさず、腰をひねった。
鎖を足首に巻かせたまま、壁へ押しつける。
骨刃の背を使い、黒い水を石に挟む。
力で止める。
雑だ。
だが、強い。
伊織は主縄を引く。
ヴォルフの体が上がる。
黒い鎖が伸びる。
ひび割れた歯が鳴る。
ゼクトの声がした。
「骨だけで戻れると思うな」
ヴォルフが歯を見せた。
「骨で足りる」
自分の鉄片を鳴らす。
カン。
音が割れる。
鉄片が砕けた。
黒い鎖の形が崩れる。
ヴォルフはそのまま壁を蹴った。
穴の上へ片腕をかける。
アリアとリナが縄を引く。
クロが胴輪を鳴らしながら吠える。
ヴォルフの体が上へ出た。
骨刃が最後に石を擦る。
乾いた音。
返った。
ヴォルフが上から伊織を見る。
「お前だけだ」
「ああ」
「上がれ」
「分かってる」
「その返事、軽いぞ」
「重く言えば上がれるのか」
「知らん。だが早くしろ」
伊織は主縄を握った。
下に残ったのは、自分だけ。
ひび割れた黒い歯。
床の鎖一節。
黒い水。
奥へ続く細い水路。
本体は、まだ奥にある。
ゼクトは逃げた。
だが、終わっていない。
それでも、今は上がる。
伊織は穴に手をかけた。
左手。
足。
縄。
一段ずつ上がる。
右腕の痛みは、肘の上で止まっている。
左肩はさっきの鎖で裂けている。
血が流れている。
ぬるい。
縄が滑る。
伊織は握り直した。
半分まで上がる。
そこで、下から声が来た。
「あの店、また行こうな」
南条の声だった。
今度は近い。
すぐ下にいるようだった。
煙草の匂いまで、ある気がした。
伊織は止まった。
左手の古傷が冷える。
縄がきしむ。
上からヴォルフが叫ぶ。
「伊織!」
伊織は動かない。
声が続いた。
「今度は、ちゃんと行こうな」
南条の声。
約束の続き。
あの日、途切れたままの言葉。
伊織は下を見た。
黒い水。
ひび割れた歯。
床の鎖。
そこに、南条はいない。
分かっている。
分かっているのに、足が止まる。
穴は、父の声では済まなかった。
南条の声でもない。
今度は、後悔そのものを呼んでいる。
伊織は鉄片を掴んだ。
最後の一つ。
まだ鳴るか分からない。
鳴らせば、音は消える。
残すものはなくなる。
上から、アリアの声がした。
「東さん」
伊織は上を見ない。
見れば、縄が滑る。
アリアは続けた。
「南条さんは、そこにいません」
伊織の奥歯が鳴った。
なぜ分かる、と言いかけてやめる。
アリアは読んでいない。
伊織の顔も、声も、今は見ていない。
それでも言った。
「そこにいるなら、あなたを呼びません」
伊織の左手が震える。
アリアの声が、もう一段落ちてくる。
「待っている人なら、上で待ちます」
穴の底で、南条の声が歪んだ。
伊織は息を吐いた。
名のない鉄片を鳴らす。
カン。
音は小さかった。
それでも、穴の中へ落ちた。
南条の声が消える。
消えたのではない。
離れた。
伊織は縄を掴み直す。
「そうだな」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
足を上げる。
一段。
もう一段。
上まで、あと少し。
その時、ひび割れた黒い歯が最後に鳴った。
下から黒い水が噴き上がる。
縄へ向かって。
青い金具へ向かって。
戻る線を切るために。
伊織は左手を上げた。
拳銃。
出せるか。
さっき撃った。
左手はまだ冷えている。
重さは半拍遅れる。
人を撃つ精度ではない。
だが、今狙うのは水でも歯でもない。
自分の足元の石。
黒い水が通る溝。
そこを塞ぐ。
伊織は鋼鉄を呼んだ。
左掌が冷える。
形が遅い。
それでも、黒鋼の拳銃が出た。
上からリナが叫ぶ。
「耳を!」
ヴォルフがアリアとクロを押さえる。
伊織は撃った。
銃声が穴を満たす。
黒い水が、その音へ食いつく。
弾丸は石の縁を砕いた。
水の通り道が潰れる。
噴き上がった黒い水が、横へ逸れた。
主縄のすぐ横を、黒い水が抜ける。
熱いような冷たいような匂い。
伊織は拳銃を消した。
左手が痺れる。
縄を掴む。
滑る。
上からヴォルフの腕が伸びた。
「掴まれ!」
伊織は左手を伸ばさない。
伸ばせば縄を離す。
代わりに、主縄を引いた。
「引け!」
ヴォルフが縄を掴む。
リナも掴む。
アリアも左手で掴む。
クロが胴輪ごと縄に噛みつく。
全員で引いた。
伊織の体が上へ跳ねる。
穴の縁に肩が当たる。
痛みが白く弾ける。
ヴォルフの腕が伊織の外套を掴んだ。
リナが補助縄を引く。
アリアが左手で縄を握りしめる。
クロが唸る。
伊織は穴の縁を越えた。
床に転がる。
息が止まる。
音がした。
自分の体が石に落ちる音。
返ってきた。
全員が、上にいた。
今度は、誰も確認の言葉を言わなかった。
ただ、そこにいた。
アリアが膝をついている。
リナがその右手を押さえている。
ヴォルフは肩で息をしている。
クロは片足を浮かせたまま、伊織の顔を舐めた。
「やめろ」
声がかすれた。
クロはもう一度舐めた。
ヴォルフが笑った。
リナは笑わなかった。
アリアも笑わなかった。
だが、誰も落ちていない。
誰も返事をしていない。
誰も置いてきていない。
穴の下で、黒い歯が砕ける音がした。
今度は、水音だった。
ただの水音。
伊織は仰向けのまま、天井を見た。
青い金具が、まだ縄に残っている。
傷だらけだった。
だが、切れていない。
戻る線は、残った。
アリアが息を整えながら言った。
「戻れました」
伊織は答えなかった。
答える代わりに、左手で縄を握った。
縄の向こうに、全員の手があった。
その重さだけで、十分だった。




