第64話 返事はいらない
暗がりの奥で、鎖が鳴った。
水の音ではない。
鉄が石を擦る音だった。
伊織は腰の鉄片に触れたまま、動かなかった。
名のない鉄片。
さっき鳴らした時、音は返らなかった。
効いたのか。
鈍ったのか。
分からない。
分からないものに命を預ける時は、二つ目の手を用意する。
だが、右手は使えない。
左手だけで、やるしかない。
ヴォルフが一歩前に出た。
骨刃の切っ先が、低く構えられる。
「久しぶりだな、鎖野郎」
暗がりが少しだけ笑った。
「まだ立っていたか」
「折られた覚えはねえ」
「鎖は残した」
「だから返しに来た」
ヴォルフの声が、低く沈む。
熱がある。
怒りではない。
もっと古いものだ。
背中で覚えた傷。
骨で覚えた屈辱。
それを、今ここで抜いている。
伊織は止めなかった。
ヴォルフが前に立つ理由がある。
今は、その理由を使う。
リナはアリアの前に立った。
手には名のない鉄片。
鳴らすために、指先で挟んでいる。
アリアはその後ろ。
顔色は白い。
けれど、目は暗がりから逸れていない。
クロは低く、床すれすれに構えている。
尻尾は動かない。
ゼクトが闇から出てきた。
黒い外套。
腕に絡む鎖。
肌の色は、以前より薄い。
血の気がないのではない。
水に晒された鉄のように、色が抜けている。
顔の半分に、黒い筋が走っていた。
傷ではない。
名を削る線。
伊織にはそう見えた。
ゼクトの背後で、黒い歯車の歯が震えている。
腕ほどの長さの、欠け落ちた一枚。
それだけで声を呼んだ。
本体は、もっと奥にある。
この男は、その手前に立っている。
「下まで来た」
ゼクトは言った。
「なら、見たはずだ。戻る線。楔。古い管理路。あの男の失敗」
アリアの指が、わずかに動いた。
父のことだ。
伊織はアリアを見ない。
ゼクトを見る。
「失敗を見せたいのか」
「違う」
ゼクトの鎖が床を撫でた。
黒い水が、鎖に触れて避ける。
「失敗した者を、まだ父と呼べるかを見たい」
リナの鉄片が鳴った。
カン。
短い音だった。
ゼクトの声が、ほんの少し乱れる。
リナはすぐに鉄片を握り込んだ。
今の一回で、音が薄くなった。
伊織には分かった。
何度も使えない。
ゼクトがリナを見る。
「いい音だ。名がない」
「あなたに渡す音ではありません」
リナの声は震えていなかった。
「この人を戻すための音です」
ゼクトの目が、アリアへ向く。
「戻す?」
笑った。
「戻る場所など、最初からない者もいる」
その言葉で、黒い歯車の歯が震えた。
奥から声が上がる。
知らない声。
誰かの名前を呼ぶ声。
重なり、擦れ、剥がれていく。
アリアの肩が震えた。
父の声ではない。
だが、父の声へ似ていく。
穴は、知っている声へ近づいてくる。
「アリア」
呼んだ。
今度は、アルドの声だった。
リナが鉄片を鳴らそうとする。
伊織が左手で止めた。
リナが見る。
伊織は首を振る。
今ではない。
何度も鳴らせない。
アリアは目を閉じなかった。
「返事はしません」
小さく言った。
ゼクトが口元を歪める。
「それは返事だ」
鎖が跳ねた。
ヴォルフが前に出る。
骨刃が鎖を受けた。
火花が散る。
音は返らない。
狭い管理路で、鉄と骨が噛み合う。
ヴォルフの足が石を削る。
ゼクトの鎖は軽い。
だが、重い。
打撃ではない。
絡みつく重さだ。
骨刃を縛る。
腕を縛る。
踏み込む場所を奪う。
ヴォルフが笑った。
「それだ」
骨刃を引かない。
逆に踏み込む。
鎖が骨刃に巻きつく。
ゼクトの目が細くなる。
ヴォルフは肩で鎖を受けた。
黒い線が、皮膚を走る。
リナが息を呑む。
ヴォルフは止まらない。
「前と同じ手だと思ったか」
骨刃が軋む。
鎖が鳴る。
ヴォルフは一歩、さらに前へ出た。
「残ってるって言っただろうが」
鎖を巻かれたまま、骨刃をねじる。
刃ではなく、骨で押す。
斬るのではない。
外す。
鎖の角度をずらす。
ゼクトの腕がわずかに開いた。
その半歩。
クロが走った。
黒い影が床を滑る。
ゼクトの足元へ飛び込む。
噛まない。
鎖の端を踏んだ。
小さな体で、鉄を床に縫い止める。
ゼクトの鎖が一瞬止まった。
リナが叫ぶ。
「今です!」
ヴォルフの骨刃が、鎖を弾き上げた。
伊織は動いた。
左手で腰の小さな刃を抜く。
縄切り用の刃。
人を斬るものではない。
鎖の節と節の間。
黒い水が滲むところ。
そこへ刃を入れる。
切れない。
刃が欠ける。
だが、目的は切断ではない。
噛ませる。
小さな刃を、鎖の節に噛ませた。
鎖が一瞬、動きを失う。
ゼクトの顔から笑みが消えた。
「お前」
「返さない」
伊織は言った。
「声も、名前も、借りも」
左手に力を込める。
刃が折れる。
折れた刃先が鎖の節に残る。
鎖が跳ねた。
伊織の肩を掠める。
痛みが走った。
右腕ではない。
左肩。
使える方だ。
まだ動く。
ヴォルフが踏み込む。
骨刃がゼクトの胸元をかすめた。
黒い外套が裂ける。
ゼクトは後ろへ跳んだ。
その背後で、黒い歯車の歯が震えた。
声が増える。
アリアの父の声。
南条の声。
知らない女の声。
子どもの声。
水路の底から、呼ぶ。
返事を待っている。
アリアが両足を踏みしめた。
リナが振り返る。
「アリアさん」
「大丈夫とは言いません」
アリアは言った。
その声は弱くない。
「でも、立っています」
リナは一瞬だけ黙った。
そして、アリアの前から半歩ずれた。
完全には空けない。
だが、見えるようにした。
アリアは黒い歯車の歯を見た。
布越しではない。
真正面から。
父の声がする。
「アリア」
優しい声。
戻っておいで、と言いそうな声。
アリアは唇を開いた。
リナの手が、すぐ動ける位置で止まる。
伊織も見ている。
ゼクトも見ている。
アリアは言った。
「父は、そんな呼び方をしません」
黒い歯車の歯が震えた。
声が乱れる。
「父は、私を呼ぶ時、先に足音を止めました」
アリアは一歩前に出た。
「廊下の角で、金具を鳴らしてから、名前を呼びました」
声が割れる。
アルドの声に混じって、別の声が漏れた。
老人の言った音。
廊下で鳴った金属音。
それが、アリアの中に残っていた。
「あなたは、声だけです」
アリアの左手が震えている。
右手は固定具の中で熱を持っている。
それでも、声は落ちない。
「父ではありません」
黒い歯車の歯が、大きく鳴った。
今度は音が返った。
ひび割れた音だった。
ゼクトの鎖が暴れる。
ヴォルフが受ける。
クロが飛び退く。
リナがアリアを引こうとする。
アリアは下がらない。
伊織は前に出た。
左手を上げる。
銃を出すべきか。
拳銃なら、出せる。
だが、ここで撃てば、音が穴に食われる。
弾ではなく、発砲音に反応する。
それでも必要なら撃つ。
伊織は呼吸を止めた。
鋼鉄の冷えが、左掌に集まる。
形になる寸前。
ゼクトが笑った。
「その鉄を鳴らすのか」
伊織は止まる。
「音をくれてやるのか」
ゼクトの目は、暗い水の色をしていた。
「それが欲しいんだろう」
挑発ではない。
誘導だ。
発砲音。
強い音。
名のない鉄片より、ずっと強い。
穴はそれを待っている。
伊織は鋼鉄を消した。
拳銃は出さない。
ゼクトの笑みがわずかに歪む。
「臆したか」
「違う」
伊織は左手を下ろした。
「お前に撃つ弾が惜しい」
ヴォルフが笑った。
短く、熱い笑いだった。
「いいな、それ」
ゼクトの鎖が一斉に伸びた。
伊織ではない。
アリアへ。
父の声で折れないなら、直接奪う。
そういう動きだった。
リナが鉄片を鳴らした。
カン。
音は短い。
さっきより、さらに細い。
鎖の動きが一瞬鈍る。
その隙に、ヴォルフが前へ出る。
骨刃を横に払う。
鎖を斬れない。
弾く。
伊織は青い金具を外した。
戻るための金具。
それを、床の鉄輪に引っかける。
主縄を通す。
左手だけで締める。
目的は脱出ではない。
引くためだ。
「ヴォルフ」
「分かってる」
ヴォルフが鎖を骨刃に巻かせる。
ゼクトの鎖。
黒い水を吸った鎖。
まともに引けば持っていかれる。
だから、引くのはゼクトではない。
鎖が触れている、黒い歯車の歯。
伊織は主縄を青い金具に噛ませる。
その先を、黒い歯車の歯に回した。
アリアが気づく。
「東さん」
「触るな」
「はい」
リナがアリアを下げる。
クロが歯車の歯の向こうへ回り込む。
小さな体で、縄の先を咥えた。
伊織は一瞬だけ目を見開く。
クロは引いた。
歯車の歯の裏を、縄が回る。
ヴォルフが鎖を受けたまま笑う。
「犬じゃねえな」
「犬ではありません」
アリアが即答した。
その声に、少しだけ力が戻った。
ゼクトの顔が険しくなる。
「何をしている」
「戻す準備だ」
伊織は縄を握る。
左手だけでは足りない。
だが、ヴォルフがいる。
リナがいる。
クロがいる。
アリアがいる。
「引け」
伊織が言った。
ヴォルフが鎖ごと引く。
リナが補助縄を引く。
クロがさらに噛んで下がる。
アリアは動かない。
かわりに、黒い歯車の歯を見る。
見すぎない。
読まない。
ただ、ずれた瞬間を見つける。
「今」
アリアが言った。
伊織は縄を引いた。
青い金具が鳴る。
戻るための音。
黒い歯車の歯が、石床から剥がれた。
水が吹き出す。
声が一斉に上がる。
名前が崩れる。
ゼクトの鎖が乱れた。
ヴォルフがその瞬間を逃さなかった。
「借りを返す」
骨刃を振る。
今度は鎖ではない。
ゼクトの足元。
黒い水が集まる節。
そこを、骨刃の背で叩き割った。
乾いた音。
黒い水が跳ねる。
ゼクトの片膝が沈む。
伊織が踏み込む。
拳ではない。
刃でもない。
肩で押す。
SATの制圧。
武器ではなく、身体の角度。
相手の膝。
足首。
呼吸。
鎖が絡む前に、中心をずらす。
ゼクトの体が壁に当たった。
伊織は左前腕で喉元を押さえた。
右手に頼る距離ではない。
体の角度と、左前腕だけで足りる。
ゼクトの目が、伊織の顔を見た。
近い。
黒い水の匂い。
鉄の匂い。
「お前も、呼ばれているだろう」
ゼクトが囁く。
「死んだ男に」
伊織は力を緩めない。
「呼ばれていない」
「聞いただろう」
「聞いた」
「なら」
「呼ばれていない」
伊織はゼクトの目を見る。
「約束を思い出しただけだ」
ゼクトの顔が歪む。
初めて、怒りが見えた。
伊織は左腕で押し込む。
「南条は、穴の底で人を呼ぶ男じゃない」
ゼクトの鎖が伊織の背後で跳ねる。
クロが吠えた。
リナが鉄片を鳴らす。
カン。
音はほとんど残らない。
だが、間に合った。
鎖がわずかに逸れる。
ヴォルフが叩き落とす。
アリアが叫ぶ。
「東さん、歯が戻ります!」
黒い歯車の歯が震えながら、元の位置へ戻ろうとしていた。
石床の溝へ。
黒い水の中へ。
戻れば、また声が強くなる。
伊織はゼクトを押さえたまま、横目で見る。
距離。
角度。
縄。
青い金具。
ヴォルフの位置。
リナの残り。
鉄片はもう細い。
拳銃。
撃つなら今。
だが、発砲音は食われる。
なら、音を食わせる場所を変える。
伊織はゼクトを壁へ叩きつけ、離れた。
左手を上げる。
鋼鉄が冷える。
右手で作る時より、遅い。
重さが、手の中で半拍遅れて沈む。
人を撃つ精度ではない。
だが、石の支点なら足りる。
今度はためらわない。
黒鋼の拳銃が、左手に現れた。
重い。
右手用の重さではない。
左で握るには、少しだけ遅い。
それでも、照準は合う。
ゼクトではない。
黒い歯車の歯でもない。
歯を支えている、石床の溝。
水が流れ込む細い支点。
そこを撃つ。
リナがアリアの耳を塞ぐ。
ヴォルフがクロを引き寄せる。
アリアは目を閉じなかった。
伊織は引き金を引いた。
銃声。
それは、管理路を満たした。
穴が、その音に食いつく。
同時に、弾丸が石の支点を砕いた。
音を食わせる。
弾で壊す。
二つを同じ瞬間に重ねる。
黒い歯車の歯が、跳ねた。
声が割れる。
父の声も。
南条の声も。
知らない声も。
ただの水音に戻っていく。
水が噴き上がる。
ゼクトが叫んだ。
怒声ではない。
何かを失った声だった。
「貴様――」
ヴォルフが前へ出た。
「まだだ」
骨刃の背で、ゼクトの鎖を叩く。
鎖の節に残っていた折れた刃が、さらに深く食い込む。
鎖がばらけた。
全部ではない。
一節。
だが、十分だった。
ゼクトの腕から黒い鎖が外れ、床へ落ちる。
乾いた音がした。
今度は、返ってきた。
ヴォルフは骨刃を肩に担がない。
構えたまま、低く言う。
「一本返したぞ」
ゼクトは落ちた鎖を見た。
そして笑った。
苦い笑いだった。
「いい。やはり、下まで来た意味はあった」
「負け惜しみか」
「違う」
ゼクトは後ろへ下がる。
黒い水が壁から染み出す。
その足元を隠していく。
「本体は、まだ奥だ」
アリアが息を止める。
ゼクトの目が、アリアへ向く。
「アルドは止められなかった。お前はどうする」
アリアは答えない。
ゼクトは笑う。
「それでいい。返事はいらない。見に来い」
黒い水が膨らむ。
伊織が拳銃を向ける。
撃つ。
だが、ゼクトの体は水の奥へ沈んだ。
弾は石壁を砕いた。
水の中から、声だけが残る。
「次は、父の声では済まない」
水が落ちる。
音が返る。
ゼクトはいなかった。
床には、外れた鎖が一節。
黒い歯車の歯は、ひび割れている。
完全には壊れていない。
だが、震えは止まっていた。
アリアはその歯を見ていた。
リナが横に立つ。
「見すぎないでください」
「はい」
アリアはすぐに目を伏せた。
だが、逃げた顔ではなかった。
「父ではありませんでした」
誰も否定しなかった。
アリアは続ける。
「でも、父がここにいたことは、本当です」
「ああ」
伊織は拳銃を消した。
左手に冷えが残る。
右腕の痛みは、肘の上で止まっている。
止まっているだけで、消えてはいない。
ヴォルフが落ちた鎖を見下ろす。
「持って帰るか」
「触らないでください」
リナが即答した。
ヴォルフは肩をすくめる。
「分かってる」
「本当に分かっている顔ではありません」
「今日は分かってる」
クロが鎖に近づき、すぐに鼻を背けた。
嫌なものを見る顔だった。
伊織は黒い歯車の歯を見る。
ひび。
歪み。
その奥へ続く細い水路。
本体は、まだ奥にある。
だが、今は追わない。
ここで追えば、ゼクトの言葉に乗る。
アリアが顔を上げた。
「戻りましょう」
伊織はアリアを見る。
「いいのか」
「はい」
アリアの声は、静かだった。
「父の声ではありませんでした。父の跡は、残っています。でも、今ここで全部を見る必要はありません」
リナが少しだけ目を伏せた。
ヴォルフは何も言わなかった。
クロがアリアの足元に戻る。
胴輪の金具が鳴った。
今度は、ちゃんと返ってきた。
伊織は主縄を取った。
「戻るぞ」
誰も返事をしなかった。
代わりに、それぞれが縄に触れた。
青い金具が、暗い管理路で小さく光った。
戻るための色だった。




