第63話 声に噛ませるもの
翌朝、老人は黒い鉄片を三つ持ってきた。
薄く、曲がった鉄片だった。
硬貨より少し大きい。
表面に文字はない。
印もない。
ただ、穴が一つ開いている。
縄を通すための穴だ。
老人はそれを卓の上に置いた。
乾いた音がした。
アリアがその音を聞く。
リナも聞く。
ヴォルフは腕を組んでいた。
クロは卓の下から鼻だけ出している。
「声に噛ませるものだ」
老人が言った。
伊織は鉄片を左手で持った。
軽い。
だが、鳴らすと音が返る。
「名前は」
「ない」
「印は」
「入れてない」
「誰のものでもないのか」
「誰のものでもない」
老人は短く答えた。
「声に声を返すな。名前にも名前を返すな。穴が呼んだら、これを鳴らせ」
リナが鉄片を見る。
「鳴らすだけで、効くんですか」
「分からん」
老人は即答した。
「だが、何も返さないよりはましだ」
ヴォルフが笑った。
「ずいぶん頼りないな」
「確かなものがあるなら、とっくに使っている」
老人はヴォルフを睨んだ。
「山の穴は、そういう場所だ」
アリアは鉄片に触れない。
見ているだけだった。
「父も、これを使ったのですか」
「知らん」
老人の声は硬かった。
「だが、あの人は音を残した」
「音?」
「下から戻ってきた時、腰の金具が鳴っていた。水の音じゃない。鉄の音だ」
アリアは目を伏せた。
読もうとはしない。
記憶を探っている顔だった。
「覚えています」
小さく言った。
「父が帰ってきた日の夜、廊下で金属の音がしました」
誰もすぐには答えなかった。
伊織は鉄片を卓に置く。
もう一度、乾いた音がした。
名前のない音。
それで、声を逸らす。
理屈としては粗い。
だが、現場では粗いものほど役に立つことがある。
伊織は鉄片を一つ、自分の腰に結んだ。
もう一つをリナに渡す。
最後の一つをヴォルフへ。
「アリアは」
リナが聞いた。
「鳴らす役にはしない」
伊織は答えた。
アリアが顔を上げる。
「私にもできます」
「できる」
「なら」
「できることと、やることは違う」
リナが少しだけ伊織を見た。
いつもなら言いそうな言葉を、飲み込んだ顔だった。
アリアは反論しなかった。
左手を膝の上で握る。
伊織は続ける。
「父親の声が来る。お前が鳴らすと、遅れる」
「……はい」
アリアは認めた。
悔しそうだった。
だが、目は逸らさない。
「私は、降ります」
「ああ」
「見ます」
「見ろ」
「読みません」
「そうしろ」
短い会話だった。
それで足りた。
クロが卓の下から出てきた。
胴輪を見て、耳を伏せる。
リナがしゃがむ。
「今日は文句なしです」
クロは伊織を見た。
「行くなら、つける」
クロはしばらく伊織を睨んでいた。
それから、前足を出した。
老人が小さく鼻を鳴らす。
「犬の方が聞き分けがいい」
「犬じゃない」
アリアが言った。
自分でも少し驚いた顔をした。
クロが尻尾を一度だけ動かす。
伊織は見なかったことにした。
◆
山水路の入口は、さらに濡れていた。
ドレイスの印から、細い水が垂れている。
昨日より濃い。
石門の下に小さな水溜まりができていた。
空は晴れている。
雨はない。
誰も触れない。
伊織は印を見て、それから通路を見る。
今日で三度目だ。
足は道を覚えている。
だが、油断はしない。
覚えた道ほど、見落としが増える。
ヴォルフが先に入る。
リナがアリアの横。
クロは伊織の前を低く進む。
胴輪の金具が、歩くたびに小さく鳴った。
その音は返ってくる。
まだ、普通の音だった。
合流点までの道は短く感じた。
昨日より短いわけではない。
ただ、話さなかったからだ。
水音が一つ減る。
もう一つ減る。
黒い水が見える。
銀色の線は、かすかに光っていた。
父の印は、壁の奥に残っている。
アリアは見た。
触れない。
声も出さない。
それでいい。
伊織は青い金具を確認する。
戻るための金具。
黒い金具は、今日は少ない。
囮縄は新しく作ったが、数は二本だけ。
水に噛ませるもの。
声に噛ませるもの。
人を戻すもの。
似ているが、違う。
混ぜれば死ぬ。
伊織は左手で結び目を締めた。
右手は固定具の中。
薬指はまだ動かない。
中指は静かだった。
それでいい。
痛みは、口にしなかった。
言えば、そこに意識が寄る。
今は、縄だけを見ていればいい。
縦穴の縁に着く。
水が落ちている。
音はない。
昨日と同じだった。
いや、違う。
今日は、そこへ降りる。
伊織は膝をつき、穴の縁を見た。
古い鉄輪は使わない。
縄は通すだけ。
重さは、持ち込んだ青い金具と新しい留め具に預ける。
ヴォルフが補助縄を張る。
リナがアリアの胴輪を確認する。
アリアは黙っている。
クロは穴を見ない。
鼻を伏せ、床の匂いを嗅いでいる。
怖がっているわけではない。
上を見ている。
逃げ道を見ている。
伊織はそれでいいと思った。
「順番は昨日の通りだ」
伊織が言った。
「荷、クロ、アリア、リナ、ヴォルフ、俺」
「最後は変えないんだな」
ヴォルフが言う。
「ああ」
「上で何か来たら」
「片づける」
「右手なしでか」
「左手がある」
ヴォルフは少しだけ笑った。
「本当に、いい仕事じゃなかったんだな」
「ああ」
伊織は荷を下ろした。
小さな袋。
補助縄。
替えの金具。
灯り。
下から音は返らない。
縄だけが、手の中を滑っていく。
やがて、軽くなった。
底についた。
伊織は一度、縄を引く。
返りはない。
荷物は答えない。
次にクロ。
胴輪に青い金具を通す。
クロは固まった。
「暴れるな」
伊織が言う。
クロは目だけで抗議した。
アリアがしゃがもうとして、リナに袖を押さえられた。
「下で待っています」
アリアが言った。
クロはアリアを見た。
それから、諦めたように体を低くした。
ヴォルフが縄を支える。
リナが補助縄を持つ。
伊織が送り出す。
黒い体が穴の中へ降りていく。
胴輪の金具が一度、鳴った。
音は返らなかった。
しばらくして、下から縄が二度引かれた。
クロが着いた。
次はアリアだった。
◆
アリアは穴の縁に立った。
顔色は白い。
だが、足は引いていない。
リナが胴輪と金具を確認する。
「息だけ合わせてください」
「はい」
「返事はいりません。息でいいです」
アリアは頷いた。
伊織は青い金具を見た。
戻るもの。
そこにアリアの体重を預ける。
左手だけで縄を支える。
ヴォルフが横から主縄を取る。
「俺が持つ」
「落とすな」
「落とさん」
ヴォルフの声は低かった。
冗談はなかった。
アリアが穴の中へ足を下ろす。
水の匂いが濃くなる。
灯りが下へ沈んでいく。
一歩。
もう一歩。
壁の石に足を置く。
リナが上から声をかける。
「左足、少し外です」
アリアは言葉を返さない。
言われた通りに動く。
金具が鳴る。
音は返らない。
半分ほど降りたところで、声が来た。
「アリア」
昨日より近い。
穴の底ではなく、壁の内側から出たような声だった。
アリアの足が止まる。
縄がわずかに揺れた。
リナがすぐに鉄片を鳴らした。
カン、と乾いた音。
音は穴の中で、まっすぐ落ちた。
父の声が歪む。
「アリ――」
途切れた。
アリアが息を吐く。
次の足場へ移る。
伊織は縄を見ている。
顔は見ない。
顔を見れば、手が遅れる。
声がもう一度来た。
「帰っておいで」
アリアの肩が揺れた。
リナが今度は鳴らさない。
アリアが自分で息を整えた。
言葉は返さない。
足を下ろす。
金具が鳴る。
声は消えた。
下から二度、縄が引かれた。
アリアが着いた。
リナが目を閉じて、小さく息を吐く。
次はリナ。
彼女は降りる前に、伊織を見た。
「上で無理をしたら、下で処置できません」
「分かった」
「その返事だけ持って降ります」
リナはそう言って、穴へ足を下ろした。
途中で声は来なかった。
下に着く。
二度、縄が返る。
次にヴォルフ。
大柄な体は、穴には向いていない。
本人も分かっている。
「狭いな」
「削るな」
「腹は削れん」
「骨刃も引っかけるな」
「注文が多い」
それでも、ヴォルフは器用に降りた。
半分を過ぎた時、穴の奥から知らない声がした。
男の声。
泣いているような声。
名前を呼んでいる。
誰の名前か、伊織には分からない。
ヴォルフは止まらなかった。
腰の鉄片を自分で鳴らす。
乾いた音。
声が穴の壁に擦れて消える。
下から二度。
ヴォルフが着いた。
上に残ったのは、伊織だけだった。
◆
水音が消えた。
上には、伊織と石門まで続く暗い通路だけがある。
穴の中に、仲間がいる。
下には、まだ見えない場所がある。
伊織は主縄を確認する。
青い金具。
補助縄。
左腰の小さな刃。
拳銃は出さない。
今、必要なのは銃ではない。
降りることだ。
伊織は穴に足を下ろした。
右手は使えない。
左手で縄を握る。
壁の凹みに足をかける。
一歩。
体重を移す。
金具が鳴る。
音は返らない。
もう一歩。
壁は濡れている。
滑る。
焦らない。
焦った時ほど、手は滑る。
下から灯りが見えた。
遠い。
だが、ある。
声が来た。
「あの店、また行こうな」
伊織は止まらない。
次の足場に移る。
南条の声は、軽い。
昔と同じだった。
同じだから、違う。
南条はこんな場所で呼ばない。
あいつは、煙草を吸いながら待つ男だった。
穴の底で名前を呼ぶ男ではない。
伊織は腰の鉄片を左手で弾いた。
カン、と鳴る。
音が落ちる。
南条の声が、一瞬だけ遠ざかった。
「伊織」
名前を呼ばれた。
足が止まりかける。
左手の古傷が冷えた。
伊織は目を閉じない。
穴の壁を見る。
濡れた石。
擦れた縄。
青い金具。
それだけを見る。
声に顔を与えない。
下からクロが吠えた。
一度だけ。
短い。
その音は、返ってこなかった。
だが、届いた。
伊織は足を下ろす。
あと三歩。
あと二歩。
最後の一歩で、壁の石が崩れた。
右手が動きかける。
使えない手だ。
伊織は左手で縄を巻き込み、肩で壁を受けた。
痛みが走る。
肘の上。
そのまま、足場を探る。
ない。
下からヴォルフの声。
「落ちろ。受ける」
伊織は一瞬だけ計算した。
高さ。
縄の残り。
ヴォルフの位置。
リナ。
アリア。
クロ。
落ちるのではない。
降りる。
伊織は左手の縄を緩めた。
体が落ちる。
半拍。
ヴォルフが肩で受けた。
リナが補助縄を引く。
クロが足元に突っ込む。
伊織は膝をついた。
音がした。
今度は、床の音だった。
返ってきた。
「着いたな」
ヴォルフが言った。
「ああ」
伊織は息を整えた。
右手の中指が震えている。
薬指はまだ動かない。
言葉にはしなかった。
リナは見ていた。
だが、何も言わなかった。
今は、処置より先に、場所を見る時だった。
◆
底の管理路は、低かった。
人が二人並べば肩が触れる。
天井は丸く、古い石で組まれている。
壁に細い溝が走っていた。
そこを黒い水が音もなく流れている。
床には、鉄の輪が落ちていた。
古いものだ。
割れている。
アリアがそれを見る。
「父のものではありません」
「分かるのか」
「形が違います」
アリアは言った。
声は落ち着いていた。
だが、顔色は白い。
リナが横にいる。
支える手は出していない。
すぐ出せる位置にある。
クロが先へ進んだ。
鼻を低くする。
胴輪の金具が小さく鳴る。
音は少しだけ返った。
完全に死んだ場所ではない。
伊織はそう思った。
管理路の奥に、黒いものがあった。
最初は石に見えた。
近づくと、違った。
歯車だった。
ただし、本体ではない。
大きな歯車から欠け落ちた、一枚の歯。
人の腕ほどの長さがある。
黒く、濡れている。
表面に細い文字のような傷が走っていた。
アリアが息を止める。
「見すぎるな」
伊織が言った。
「はい」
アリアはすぐ答えた。
だが、目は離せていない。
リナが布を出して、アリアの視線を半分遮る。
「形だけ」
「はい」
アリアは布越しに見た。
「これは、歯です」
「本体は」
ヴォルフが聞く。
「もっと奥です」
アリアは小さく言った。
「これだけで、声が出ていたのか」
伊織は黒い歯を見る。
歯車の歯は、わずかに震えていた。
水ではない。
空気でもない。
何かを呼ぶための震え。
伊織は鉄片を鳴らした。
カン。
黒い歯の震えが、一瞬だけ止まる。
また始まる。
声が聞こえた。
知らない声だった。
古い声。
名前を呼んでいる。
アリアが左手で胸元を押さえた。
「ここで、事故が起きたのだと思います」
「読んだのか」
「いいえ」
アリアは首を横に振る。
「覚えている音と、同じです」
「父のか」
「はい」
その時、管理路の奥で水が鳴った。
初めての音だった。
水が何かに当たる音。
続いて、拍手のような音。
一度。
二度。
ゆっくりと。
ヴォルフが骨刃を抜いた。
リナがアリアの前に出る。
クロが唸る。
伊織は左手を腰にやった。
拳銃ではない。
小さな刃。
縄を切るための刃。
奥から声がした。
「下まで来たか」
その声は、穴の底からではなかった。
背後の水からでもなかった。
管理路の奥の暗がりからだった。
灯りの届かない場所に、誰かがいる。
アリアが名を呼びかけて、止めた。
伊織が先に言う。
「ゼクト」
暗がりの中で、鎖の擦れる音がした。
「まだ、返事をしないでいられるんだな」
声が笑った。
だが、笑いではなかった。
黒い歯車の歯が、また震え始める。
名のない鉄片が、伊織の腰で小さく鳴った。
乾いた音だった。
今度は、返ってこなかった。




